2-8
二人が館の中に入ると、玄関のど真ん中に両腕を組んだアスランが待ち構えていた。さすがに予想していなかった早速の出迎えに、クラウスは目を丸くする。
「アスラン?」
「先に部屋に行って荷ほどきをしろとのことだ。場所をお前に伝えろと」
言うが早いか、踵を返し歩き出すアスランの後にクラウスも続く。
しばらく二人は静かに廊下を歩いていたが、唐突にアスランはクラウスを振り返り、胡乱な目を肩にいるナルーシャに向けた。
視線の先には、アスランも久しいながら見慣れた青い蝶がいる。
「お前の精霊、やけに大人しいな」
「先日から調子が悪いので」
アスランの口ぶりにナルーシャがむっとしたのを感じたクラウスは、あわてて言い繕う。
クラウスがナルーシャにしたお願いは、世話になる部屋に辿り着くまで蝶の姿になって沈黙を保つという、それだけのことだった。
ヘルムートにあらましを伝える決心はしたものの、アスランにまでそれを伝える気は今のところクラウスにはない。
とは言えアスランは魔法使いであり、クラウスの魔法に気づく可能性がある。先ほど蝶に変化して見せたナルーシャに、もう一度それを頼んだ。
ナルーシャが張り切ってすぐに蝶になったことで、フィスティテスの言っていた約十分程度という言葉を覚えていたクラウスは慌てて館の中へ急ぐことになったが。
両者は会話も出来ないというのに、昔から仲が悪い。
ナルーシャがアスランのクラウスへの態度が気にくわないことは知っていても、アスランがナルーシャに対して悪感情を抱く理由はクラウスにはついぞわからないでいる。
クラウスの答えに納得がいかないのか、なおもアスランはじっとナルーシャを見つめる。
そうしていてもナルーシャがうんともすんとも言わないことで、アスランはそれ以上の反応を諦め前を向いた。
「まあ静かな分には構わないが」
「ええ、まあ……それよりも、マリ様に甲斐甲斐しいですね」
少し強引だと思いながらも、クラウスは話題を変えようと話を切り出した。
思いついた話題はデリケートなものだと思いつつも、これ以上ナルーシャについて話されてナルーシャが集中力を切らして突然人の姿に戻ることへの危惧が大きかった。
「うちの連中のせいで勝手に連れてこられているんだ、当たり前だろう」
話に乗ったアスランだったが、案の定不機嫌な声音だった。
うちというのがアスランが所属する王宮付き魔法使いのことだと理解したクラウスは、アスランのこの言い様に首を傾げた。
「貴方は関わっていないのですか?」
聖女の後見人にまでなっていながら、アスランのそれは関与していない人間のそれだった。
アスランは大きく嘆息した。その表情はやるせないというものだった。
「大方、大きくなってきた教会の発言力を危惧したんだろう。思いついたのが王か、どこぞの辺境伯だかは知らんが」
政治に疎いクラウスでも、アスランの言葉の意図は察せた。
250年前の大火災でいくつかの分派が生まれ、且つては王権を授ける側だった教会は国主に追随する程度の力しか残されていなかった。
その教会が力を徐々に取り戻してきたのは、二十年前にヘルムートが枢機卿の席についてからだ。その手腕によって、現在では国教としている他国にまで発言力を持つほどに至る。
この国の王家の手で聖女が現れ、教会内に王家の発言力が生まれれば首都に総本山を擁する立地と相まって政治的に優位に立てるのは容易に想像がつく。
「……そんなことのために」
思わずクラウスが呟けば、アスランはそれに首肯した。
「そうだ、そんなことのために無関係な人間の人生を台無しにしてやれるか? おまけに命を狙う悪霊だぞ、ふざけるな」
心底憤慨しているという風な男の様子は、クラウスの見知っていたものだ。
正義感に突き動かされ実際に行動に現れる性分は、彼の身分ではあまり歓迎されないものではあったが、クラウスには眩しく羨ましいものだった。
「帰還の陣は?」
「今作っているし、殿下や枢機卿方にも話は通している」
クラウスの思っていた通り、アスランは既に行動を起こしていた。
アスランが言う殿下は、現王の孫で寄宿校における二人の学友だった青年ヘンドリックのことだ。
高齢な現王の後継者として王家にいる男子は、二人の息子と一人の孫だ。嫡男であるヘンドリックの父は病床に伏しており、次男は政治に疎く長く軍人として過ごしてきていた。
そのため、現在執政も行っているヘンドリックが次の王と目されている。
王家と枢機卿に話が通っているならば、聖女を元いた世界へ帰すのは既定路線といっていい。
今の話だけでは聖女召喚を主導したのが誰で、その理由が何だったのかクラウスには見えてこなかったが、それを知ることに今のところ必要性を感じない。
ただ、この世界に無関係な少女が無事に戻ることが出来ればいいと思う。
「おいおい話すつもりだったが、ついでだ。協力して貰いたい。呼び出しには王宮の十人の魔力が必要だったが、お前なら一人でもどうとでもなるだろう」
「そういうことなら、吝かではありません」
少しでもそれに貢献できるというなら、断るべくもないことだった。
魔法陣についても力になりたかったが、クラウスの書く魔法陣は他人とは些か趣きが異なる。作りかけの物に対して、有効なことが言えるのかもわからない。
召喚の魔法陣についての知見のあるアスランが優秀な魔法使いであり、クラウスの口出しを必要とするとも思えず、そのことについては心にとどめた。
それから二人は黙ってしまったが、そう間を置かずにアスランが一つの扉の前で足を止めた。そのままクラウスの方へ向き直ると、腰のポーチから鍵を取り出して差し出す。
「ここだ」
「ありがとうございます」
場所はクラウスが見たところ、二階にある聖女の部屋のちょうど下のあたりだった。階段も近くにあり、駆け付けるのにもそう悪くはない。
「……」
案内の終わったアスランは聖女の部屋に戻るのだろうとクラウスは思っていたが、なぜか彼は動く気配を見せない。どころか、腕を組んで不機嫌そうな顔も隠さずにずっとクラウスを見ていた。
「まだ何か?」
クラウスが思わず尋ねると、視線がそらされる。
「猊下が二人で話すことがあるからと、お前と一緒に戻って来いと言われている」
つまり、アスランはクラウスが荷物を置いてくるのを待っていた。
廊下で待たせるのも悪いと思いつつ、ナルーシャのことがあるため部屋に入って待ってもらうのも都合が悪い。
「……すぐに荷物を置いてくるので、少し待っていてください」
返事を待たず、クラウスは扉を鍵であけて中へ入った。
部屋に入ってすぐに、クラウスは目を丸くした。
普段クラウスが暮らしている寮とは比べ物にならないほど、立派な家具の並んだ来賓用の部屋だった。
大理石の床には教会ぐらいでしか見ることのない外来物のカーペットが、聖女の部屋と同じく敷かれている。
家具こそ使い古されていた物だったが、それでも名のある職人によって作られた事がありありとわかる意匠が凝らされていた。すぐ近くにあったドレッサーの引き出しに手をかければなんのつっかかりもなくするりと引き抜ける。
扉の部分にガラスを使った中の見えるカップボードなど、クラウスは生まれて初めて見るものだった。
部屋の豪奢さに戸惑いつつも、カーペットを避けむき出しの床に持ってきた荷物を置くと、天幕のついたベッドへ歩み寄る。
ベッド傍に膝をついてそっとナルーシャを下ろせば、次の瞬間には人の姿に戻っていた。
「ナルーシャ、大丈夫ですか?」
「頑張ったから褒められたい」
ナルーシャは見るからに疲れたという顔をしてはいるが、そんな軽口が出来る程度にはまだ元気は残っているようだった。
「ええ、頑張りました……ありがとう」
クラウスが褒めて心からの感謝を口にすれば、ナルーシャは嬉しそうに笑った。
部屋までアスランが傍に居続けるという予想外のこともあり、クラウスも生きた心地がしなかった。
「先ほども言いましたが、ヘルムート猊下に全てを話そうと思います」
口にして、改めてそのことに直面していることを自ら思い出す。
厳格なヘルムートだが、クラウスに対しては特にそうだ。
他の相手になら指摘しないような小さなミスを、ヘルムートは一つ一つクラウスに指摘する。声を荒らげる人物でなかったのが幸いではあるものの、クラウスに苦手意識を植え付けるのには十分なものだった。
緊張で冷えた指先でベッドのシーツを握りしめれば、ナルーシャの温かい手が重ねられた。
「うん、待ってるね」
「……はい」
その言葉の温かさに後ろ髪を引かれるが、話すと決めたのはクラウス自身だ。おまけに、廊下にはアスランも待っている。
クラウスは息を吐きながら握りしめたシーツを離し、ナルーシャの手の中からそっと自らの手を引き抜いた。
引きずられる思いを振り払うように、急ぎ足で部屋を出た。
「ナルーシャは?」
廊下の壁によりかかりクラウスを待っていたアスランは、開口一番精霊の不在について問うた。
「部屋で待っています」
「いつも連れているのに、最近どうしたんだ」
訝しむアスランは疑問を口にしたものの、クラウスが答えるのに期待している様子はなく、早々に歩き出す。
階段を上れば聖女の、ヘルムートも待つ部屋はすぐそこだった。
いよいよヘルムートに伝えるのだと思えば、喉がからからと渇くのを感じた。
ナルーシャが精霊王――だいそれた話だとクラウスは思う。
フィスティテスもニブルムも精霊王について語りこそすれ、それがナルーシャだと一言も言わない。
それでも信じるしかないのが、精霊が嘘をつかない存在だからだった。
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
クラウスがノックをして声をかければ、思いのほか扉の近くからヘルムートの返事が響いた。
ゆっくりと扉をあければ、クラウスが部屋を退く前から動いていないのか、扉近くにニブルムを従えてヘルムートが立っていた。
マリはソファの傍に立っていることから、ヘルムートの話はもう済んでいるようだった。
「猊下、話しておきたいことがあります」
「聞きましょう」
ヘルムートの視線がまっすぐにクラウスを捉えた。
「ここでは少し……私に与えられた部屋で、話をしたいのですが」
アスランだけでなく、マリまでいる場で話すことは憚られた。ヘルムートは少し考える素振りをみせたが、すぐに首を横に振った。
「この後に事後処理もある、後日時間を作って聞きましょう」
「ですが……」
「今この場で出来ない話となれば、重大なこととは察しましょう。しかし先ほどまで話す気配もなかったそれを、この短時間で卿はきちんと話としてまとめられているのですか?」
語調こそ落ち着いて諭すようなものだったが、ヘルムートに今話を聞く気はないのだと知らしめる言葉だった。
時間を作るというものの、多忙なヘルムートにその時間が作れるのかクラウスには俄かに信じられない。
『今のヘルムートに時間がないのは本当です。時間を作らせますので、今日のところは』
「……わかりました」
ニブルムにまでそんな風に言われてしまえば、クラウスはそれ以上言い募ることも出来ない。
「では、今日のところは失礼します」
ヘルムートが部屋を出ようと踵を返した。
「ヘルムートさん、ありがとうございました色々」
「当然のことです」
マリが頭を下げながら、ヘルムートに礼を言うのをクラウスはぼんやりと眺める。
アスランは特に言葉を交わすつもりもないのか、静かに簡易の礼をとった。クラウスもそれにならって、無言で頭を垂れた。
部屋からヘルムートが出ていき、しばらくして二人は礼を解いた。
「俺も帰るが、大丈夫かお前」
「……大丈夫ですが」
何について聞かれているのかわからず、クラウスは無難な返事をした。
「もう少し顔に出せ」
よくわからない言葉を言い残し、アスランも帰って行ってしまった。クラウスもそのままいるわけにもいかず、マリに向き直る。
と、マリはなぜか面白いものを見たような、笑うのをこらえる顔をしていた。
今のやり取りの中に笑いどころがあっただろうかとクラウスは首を傾げると、マリは笑いながら自身の頬を指さして見せた。
「クラウスさん、ずっと無表情だからですよ」
「……」
言われて、クラウスは無意識に自分の硬い頬を撫でた。
改まってそんな指摘を受けたのは、このときが初めてだった。
ヘルムートが聖庁の自身の執務室につくころには、既に空は暗くなっていた。その手に持つランプと月だけが、部屋を照らす明かりだった。
「ニブルム、今一度尋ねます」
聖女の館を出てから、初めてヘルムートはニブルムを見た。
「王を継いだのはナルーシャか?」
一度、ヘルムートがそれをニブルムに尋ねたのは一週間前だ。
姿を消したナルーシャを探すために、クラウスが無期限の休暇を申請したことはヘルムートも知るところだった。
そして同時期に精霊王が亡くなったことも、前精霊王の知己であったニブルムから伝え聞いていた。
次の精霊王に、ある程度見当をつけていたヘルムートはニブルムに尋ねた。
そしてその時ニブルムは、ヘルムートに『答えられない』と答えた。
『自身で聞くべきだったのでは?』
それが今の答えだった。
『意地が悪い。クラウス殿が何を話そうとしていたかわかっていただろうに』
「私は聖女に仕えているわけではありません」
『知っている』
ヘルムートがクラウスに求めるのは、契約者としての素養だ。
結果的にクラウスに苦手意識を持たれてしまったが、それ以上に関わるつもりもなくヘルムートは現状のぎこちない関係に甘んじている。
『だから契約したのだけれどね。精霊王を思うのなら、それは改めるべきだ』
「……そうなのでしょうね」
信仰に身を費やした男は、その言葉に頷くだけに留めた。




