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2-7

 しばらくそうしていると、部屋の奥から近づく気配を感じ、クラウスはそちらに意識を向けた。


『おかえり』

 少し得意げなフィスティテスが、とてとてと鳥の足でゆっくりと歩いてきた。

「フィス、これが魔法の特訓ですか?」

 苦笑するしかないクラウスに対して、フィスティテスの声の調子は笑っているそれだ。

『下手くその割には、まあ頑張ったよ。まだそう長く保てないけど』

 そう言って、フィスティテスは翼でクラウスの肩に留まるナルーシャを指さす。

「……っと」

「わ」


 ナルーシャが瞬きの内に人の形へと戻り、クラウスは慌ててその体を抱きとめた。

 どういう原理か、出かける前に着せた服は幸い身にまとったままだった。


『ほらな』

「なるほど」

 フィスティテスはクラウスの周りをぐるりと回りながら、しげしげとナルーシャを見て回る。

『全力で集中して十分ぐらいだな』

「要練習、ってやつだね」

 変化の成功で気を良くしたのか、ナルーシャは自信のある顔で握りこぶしを振り上げた。


 クラウスに抱きかかえられてのその姿に、フィスティテスはあきれた様子で首を振る。

『なぜそこで自信満々になれるのかがわからない』

「クラウスにそういうのないから、わたしがそういう感じで頑張る」

『実力つけてからにしな』


 いつも通り騒ぐ二人の様子を、クラウスはぼんやりと眺めていた。

 ここのところ、周りに起きるのは非日常な出来事ばかりでクラウスは流されるままだ。そんな中でも、時折垣間見える日常にクラウスは心休まらせる。


 消極的な考え方をするクラウスだが、人生を悲観しているわけではない。

 人心地を得たこともあり、彼は出来ることから始めることにした。


「先生はすぐ戻られますか?」

『わからない。伝言なら伝える』

 それはクラウスもある程度は予想していた答えだった。


 教会の実質の指導者である枢機卿ともなれば、当然のように忙しい。特に今は三人の内の一人が国外に出ていて、ヘルムートとオルヴァンにその分のしわ寄せが行っている。


 ヘルムートに身支度をして館に戻るよう指示されている為、オルヴァンの帰りを待つことは出来そうになかった。


「おそらく後でヘルムート猊下から話が来るとは思いますが……先ほど聖女様が悪霊に襲われまして、しばらく聖女の館に住み込みで護衛につくことになりました」


 隠す必要もないと、クラウスはありのままを簡潔に話す。

 人間に話せば笑い飛ばされるかもしれないが、彼らは人間ではなく精霊である。また、クラウスの目から見た悪霊は異質ながらも、精霊と根本の在り方が同じだった。

 ニブルムの口ぶりからすると、お伽噺と思っているのは人間だけなのかもしれないとすら感じていた。


 しかし、フィスティテスたちの反応は、クラウスが思っていたものとは違うものだった。


『あくりょう』

 フィスティテスは鳥でありながら、誰もが見て取れるようなきょとんとした顔をした。

 その反応に呆けたクラウスの頬を、フィスティテスと同じく意を得ないという顔をしたナルーシャが指でこわごわとつつく。

「なにそれ」


 二人の反応は、悪霊の存在自体を認識していないものだった。

 フィスティテスが何かを思い出そうと頭を巡らせる。


『なんか昔見たな……そうそう、オルヴァンがクラウスの小さいときに買ってきたバカ高い絵本にいた』

「……言われてみれば、そんなのもあったね」


 真新しい技術である印刷物はもちろん、それを何枚も綴じた本は高価なものだ。クラウスを引き取った当時のオルヴァンは、なんとかクラウスの関心を引こうと様々な物や手段をとっており、絵本はそのうちの一つだった。


 クラウスも悪霊という存在を知ったのは、フィスティテスのいう悪霊の出てくる絵本だ。その内容は子どもへの教訓のもので、悪霊は人を襲う魔法のような力を使う化け物として描かれていた。

 精霊は契約者がいなければ人へ干渉できる力はなく、そもそも絶対的に人への害意持たない。


 クラウスからすれば、二者の共通点は魔法を使うという一点だけだった――この日、悪霊の実物を見るまでは。


『え、ほんとにいるの?』

「先ほど目の前に現れました」

『生まれてこの方見たことないぞ』

「たしか、悪い子のところにお仕置に来るんだよね」


 ニブルムの話に間違いがなければ、普通の精霊が悪霊に遭遇することはない。悪霊を知らないことは自然なことなのかもしれないとクラウスは思い至る。

 そして実物を見ていないが為に、精霊たちの想像は絵本にあったものの粋を出ない。


 悪霊の存在に驚きはしたものの、フィスティテスはそれ以上興味を惹かれた様子はない。

 それはナルーシャも同じようで、また別のことに反応した。

「聖女は悪い子?」

「いえ、そういうわけではないと思います。寧ろ、善い人だと」

 答えながら、館での長くもないやり取りを思い返す。

 人の好き嫌いの激しいアスランが世話を焼いている時点で、クラウスはマリを悪い人間とは思っていない。

 実際ほんの短い間であったが直接接したマリは、どちらかといえば周りの様子を伺い過ぎるほどに気を回す、素直な少女だった。


 クラウスがヘルムートに言われるがまま退席したあとも、あの状態のアスランとヘルムートに挟まれているのかと思えば、同情心すら沸く。


「え、じゃあなんで襲われたの? クラウスが襲われたら困る」

『クラウスより今の自分の心配しろ』

「見た目これだもんね……やっぱり襲われちゃうのかな?」


 見当違いなことを話す二人へ、悪霊が精霊と同じような存在だと言うべきかクラウスは悩んだ。

 精霊を避けるという悪霊を二人が見る機会があるかもわからないうえ、実物を見ていない彼らへうまく説明できる気がしなかった。


(……伝えるにしても、私自身よくわかっていない)

 話し込むような時間もないため、今は言及することを避けた。ニブルムやヘルムートから、改めて説明があることを期待している部分もある。


『あ、それでナルーシャどうする? まあしばらくならここに居ても大丈夫だと思うけど、なんなら私もここにいてやってもいいし』

 昼までならありがたかっただろうフィスティテスの申し出に、クラウスは首を横に振る。


「いえ、一緒に連れて行きます。ヘルムート猊下とニブルムによると、悪霊は精霊には近寄らないそうなので、私が聖女の館に住み込むということはナルーシャの存在を込みにしてでしょう」

『なんで避けるんだ? そう言われると気になるな』

 精霊に関係があるのではという点でフィスティテスは興味を引かれたのか、クラウスの言葉に被せ気味に尋ねた。


「私も気になりましたが、あまり訊ける雰囲気ではなかったので」

 クラウスの押しの弱いことをわかっているフィスティテスは、そうかと頷く。

『あとでニブルムに聞いてみる』


 精霊に関係すると言えば、ヘルムートが話の締めに語った言葉も気にかかるものの一つだった。


「……そういえば、猊下が精霊王なら悪霊を滅せるとも言われていました」

『精霊王? まあ、精霊王なら出来るだろ』

「出来るんですか」

 あっさりと答えたフィスティテスにクラウスが驚くと、フィスティテスは半眼で少し馬鹿にしたような顔でクラウスを見つめた。

『自分が信仰してるのが何かわかってるか?』

「……わかっている、つもりですが」

 クラウスがちらりとナルーシャを見ると、ぽけっとした顔で「そうなんだ」と呟いた。


 今日一番戸惑うクラウスへ、フィスティテスは出来の悪い生徒に対するような調子で続ける。

『精霊王がどういうものか、教義にどう書かれてた?』

「……精霊を総べ、世界を保つために魔力を調和する存在です」

 人々が普段見る魔力は調和し安定した魔力で、これは精霊王によって安定した状態になっていると言い伝えられている。

『魔力を調和させるってことは、偏らせることもやろうとすれば出来る』

「なるほど」

 フィスティテスの言葉はクラウスを頷かせるものだった。能動的に安定させているのなら、それを止めてしまえば不安定な魔力が生じる。精霊王にしか出来ないという、ヘルムートの言葉にも合致する。


『ま、普通に考えて、それやると悪霊どころかその一帯が危ないんだけどな。どうやって倒すんだよ悪霊』

「……」


 一瞬納得したことを反故にされ、クラウスは何とも言えない顔をした。

『人は知らないだろうけど、あれほんと危ないから』

 張本人のはずのナルーシャは、なぜか初めて知りましたと言う顔で話を聴いていた。

 ナルーシャに基本的に甘いクラウスだが、一度きちんと話をしなければならないと思わせるほどの我関せず振りだった。


 あっ、とナルーシャが突然声をあげたため、クラウスとフィスティテスはナルーシャを見た。

「泊まり込みなら、着替えとか取りに行くの?」


 精霊王どこ吹く風の疑問に、クラウスは一瞬で気が抜ける。

 しかし、いい加減ここを出なければ日が暮れてしまうのではと思い、そのまま話に乗ることにした。

「これから軽く支度しに帰ります。ナルーシャも何か必要なものはありますか?」

 聞いたはいいものの、元が蝶のナルーシャの日用品なんていつも一緒にいるクラウスでさえ思いつかなかった。

「ないかなぁ」

 ナルーシャも同じで、首を横に振る。


 先ほどからずっとナルーシャを抱えたままだったクラウスは、そのまま魔法陣を取り出すと目くらませの魔法を使った。

 魔法がかかってるのを確認して、クラウスは踵を返す。

「では、行ってきます」

『気を付けてな』

 部屋でオルヴァンを待つようで、軽く羽ばたいたかと思えば応接用のソファに降り立ち、そのまま体を丸くする。


「フィスまたねー」

 手を振るナルーシャに、フィスティテスはただ片羽をあげて応じた。



 町の中心から遠ざかる道で、夜も近いとなれば人通りは少ない。

 段々と暗くなる道を普段通り歩き、なんの滞りもなくクラウスとナルーシャは寮へとたどり着いた。


 寮長へしばらく部屋を留守にすることを伝えて、自室へ物を取りに行く。

 クラウスはこじんまりとした部屋から、数日分の着替えと必要な日用品を大きな袋に詰め始める。

 その間ナルーシャはベッドに座り、落ち着きなく足や手をぱたぱたさせながら、クラウスが用意するのを眺めていた。


「クラウスー、枕は?」

 そうしていた手がちょうど枕があたると、それをつまみあげナルーシャは尋ねる。

「客間を間借りするので、そういうものはあると思います」

「そうなんだ、じゃあ終わり?」

「そうですね」

 割れ物が割れないように寝るときの簡素な服でくるみ、袋の口を縛る。

 クラウスは袋を右肩で背負うと、左腕でナルーシャを抱き上げた。

「では、いきましょうか」

「うん」

 鍵を締め、念の為に意識を反らす魔法をかけて部屋を後にする。


 フィスティテスと話し込んだことも重なってか、部屋から出たときには教会での仕事が落ち着く時間だった。

 寮へ帰ってくる人々とすれ違いながら、寮の出口を目指す。


「あれ、クラウス様。こんな時間からどこに?」

 声をかけてきたのは、隣の部屋に住んでいる男だった。

 聖庁に事務として勤めていて、クラウスと同じ年の頃の若者だ。


 枢機卿に次ぐ魔法使いという地位でありながら、平民向けの寮に住むクラウスは目立つ。

 しかし、クラウスが偉ぶりもしないことは、彼が寮に住み始めて四年も経てば大半の人間の知るところとなる。

 住人が全て教会内に勤めている人間ということもあり、多くはクラウスを邪険にすることもなく、彼の地位にしては気安く接していた。


 この隣人も、そう言った気安く話しかけてくる者の一人だった。

「しばらく聖女様の護衛をすることになりました」

 クラウスが答えれば、事務員は目を丸くした。

「護衛……まあ、クラウス様はそのへんの人より強いし、適任なのかな? 魔法使いって本当大変そうですね、リヒャルト様も、僕が帰るときでも戻られていなかったし」

「リヒャルト殿が……?」

 事務員の口にした名に、クラウスは思わず厳しい顔になる。


 ヘルムートはリヒャルトに話を聞くと言ってはいたが、今の話ではそれも叶わないだろう。

 あからさまに怪しい行動の目立つリヒャルトにクラウスが俯き思い悩んでいると、クラウスにしては珍しいその様子に事務員は訝しんだ。

「どうかしました?」

 声をかけられ、クラウスは慌てて顔を上げた。なんでもないと事務員に首を振る。

「いえ……ヘルムート猊下を待たせていますので、すみませんが行きますね」

「ええ、はい。お気をつけて」

 見送り手を振る事務員の視線を感じながら、クラウスは聖女の館へ急ぐことにした。


「リヒャルトって?」

 寮を出てしばらくすると、クラウスの様子がおかしいことを察しているナルーシャが小声で尋ねた。

「教会の魔法使いですよ。あまり話したことはありませんが」

「うーん……なるほどね?」

 誰のことか全くわかっていないというナルーシャに、クラウスは小さく笑った。


 教会の敷地を挟むとはいえ、小走りで最短距離を行けば館はすぐだった。

 急いでいるクラウスに気を使ったのか、ナルーシャは話しかけることはせず、普段あまり来ることのない場所を珍しそうに眺めていた。


 門番から見えないよう、館の塀に隠れて立つとクラウスはナルーシャを見た。


「ナルーシャ、館に入る前に出来ればお願いしたいことがあります」

「ん?」

 あまりお願いをされたことのないナルーシャは、こてんと首を傾げた。

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