再婚しませんか?
長いです。途中でブツ切れです。
「早速ですが、結婚しましょう。訳アリ同士、都合がよいではありませんか」
ディアはその男を見上げた。
柔らかなハニーブロンドは今はなでつけられているが、風に踊っていることが多い事を知っている。
新緑を思わせる鮮やかな瞳は優しげで、きちんと整えられた口ひげが落ち着きをもたらしていた。
ラーズ・ジェニス。現在は騎士の称号を持っているはずだ。
箱入りだったディアも美男子として、王太子のお気に入りとして知っている男性である。主に友人経由の情報ではあるが。
生まれは伯爵家で、長男なのだが勘当され一人軍の門を叩いたという異例の経歴の持ち主だ。その上、噂によると未婚で子持ちらしい。それがなければ未だに独身ということもないであろうとも言われていた、らしい。
無礼とは聞いたことがないなとディアはぼんやりと思った。先ほど、挨拶を交わしたばかりで初対面に等しい。それでいわれる言葉ではないだろう。
ディアは傷ついたというよりは、びっくりした。彼の言葉には悪意は全くなかったのだから。
それだとしても夜会には相応しくない態度だろう。表面上は和やかだった場がざわつくほどには。明日に、と言わず、夜が明ける前にはこの話は広まっているだろう。
貴賤結婚の末に出戻った娘に求婚したもの好きがいるということが。
「妹に難癖つけにきたのですか?」
表面上は固まってしまったディアを守るように義兄が割って入ってくる。後ろに下げられそうなところを彼女はそっと離れた。昔のようにその背に隠れていればよいわけではないと彼女は知っている。
ラーズはそれに驚いたようだが、すぐに人好きのする笑みを浮かべた。
「至極真っ当に求婚を。保護者というのは、未婚の女性には必要ですが、出戻った娘には必要ないでしょう? 自分の判断で婚姻出来るくらいには立派なんですから」
言葉は嫌味や当てこすりとも言えるが、明るくあっさりといわれると全くそう聞こえないことをディアは初めて知った。むしろなぜか賞賛されているような雰囲気すら感じる。
戸惑う彼女の顔をラーズはのぞき込んできた。
のぞき込まねばいけないくらい背が違う。生来病弱なため、小柄で華奢と言われがちなディアとは正反対と言っていい。
太陽のようなまぶしさは嫌な事を思い出させた。
「おことわりします。知らない方なので」
反射的にディアは答えていた。あっと口を押えたときにはもう遅い。
ラーズのきょとんとしたような表情に罪悪感が募る。つり合いが取れない、しばらく静養したい、修道院に行く予定だ、などと他にも断り文句があるはずなのに、知らないから無理だと子供のようなことを言ってしまった。
相手が悪いのではない。ディアが悪いのだと言わねばならなかった。
「おや、貴族の結婚とは知らぬ相手とも利害があって沿うもの。ご理解して戻られたのでは?」
「貴殿とは害しかない。いこう、ディア」
「釣書はお送りしましたよ。ねぇ、ディア嬢。ちゃんと見てくださいましたよね? お断りすら来ないなんてつれないじゃありませんか」
「義兄さま?」
求婚があったなどとディアは聞いたことがない。それどころか友人からも手紙一つ来ていなかった。
苦々しい表情を隠しもしない義兄にディアは驚いた。内心はともかく表面上は穏やかな態度を崩さない人とは思えない。
「当主権限でお断りしたはずですが」
「既に結婚もした大人の女性ですよ? 兄が出てくる場面ではないでしょう?」
「傷ついた妹にすぐに縁談など考えられないですよ」
「ふぅん? それなら夜会に連れてくるのもどうかと思いますけどね。まるで、恋人みたいにエスコートして」
ディアはぎゅっと目をつぶる。お願いだからそれ以上、言わないでと懇願する前に立ち去ってほしい。
やはり義兄の態度はおかしいのだ。ささやかな違和感も積もれば気がつく。
それでも、ディアには行く場所がない。
「気晴らしは必要だと思いましてね。ただ、こんな扱いをされるために連れてきたわけではありませんよ」
「気晴らしね。
では、一曲お願いいたします。誘いは断れない、というのは憶えてらっしゃいますよね?」
それに戸惑いながらディアは肯いた。
夜会のファーストダンスは強制だ。何代か前の王がどうしてもダンスに誘いたい女性がいて断れないようにするために作った規則だという。その女性は結局他の男性に嫁いだということだが、規則だけは残った。
断れない誘いに義兄は露骨に嫌そうな顔をしていた。ディアは仕方ないというようにラーズへ手を差し出した。
楽し気にエスコートするラーズをディアは見上げた。こうしてダンスに誘ってくれた男性はほとんどいない。ほとんど壁の花をしていた。もし、元夫と出会う前であればときめいたかもしれないと思う。
今は放っておいてほしかった。それでも義兄と踊るよりはましだと思えた。以前は当たり前のように踊っていたのに。
「さて、傷心のお嬢様。悪い男が寄ってくる前に俺で手を打っといた方がいいと思うよ」
曲が始まるとそうラーズは切り出した。
「考えておりません」
「やっぱり、男を探しに来たってわけじゃないんだ」
「なっ」
ディアは思わず大きな声を上げてしまいそうになる。出戻りについては何か言われる覚悟はしていたが、男を探すなどと言われるとは想像もしていなかった。
彼女にはそんなつもりはない。大きく息を吐いて少し落ち着きを取り戻す。優雅とは言えないが、笑みらしきものを貼り付けてラーズを見上げた。
「そのつもりはありません。義兄様に同行者がいないからと言われて来たのですけど」
釘を刺したつもりだったが、ラーズは苦笑する。
「そういう建前で、再婚相手を探してると思われているよ。そうじゃなければ醜聞の種になる娘は早く処理したいと連れ出したとかね」
目を見開いたディアを気の毒そうに見られた。ディアはそれに気が付いて情けないような気持ちになる。
いつもならばその程度はすぐに理解していたはずだ。
出戻り娘の行先など、後妻、修道院、格下の家に押し付けるくらいだ。他は勘当されて庶民になるのだが、ディアはそちらは既に済ませた。本来はこの場に立つのも不相応で、もし来るなら彼が指摘したように再婚相手を探すくらいしか理由はない。
おそらくは義兄にはそのつもりはない。しかし、ラーズが指摘したようにディアが再婚相手を探しているとみられると気が付いていないとは思えなかった。
あの義兄がなにを考えているかディアにはわからない。
「男を探しに来たってわけじゃないなら悪い噂流される前にさっさと帰った方がいい。なんなら俺に無礼なことされて怒った、みたいなのでもさ」
「先ほどのことで、すでに噂は流れると思うのですけど」
「出戻ってすぐに男漁りと言われるのと、失礼な求婚者を断ったと言われるのどっちがましかな」
「……そうですね」
そういうディアにラーズは柔らかく笑った。彼女はどきりとして視線を落とした。
「どうして、忠告してくれるんですか?」
「ん? これで絆されて訳アリの俺のところにお嫁さん来てくれないかなぁって」
「以前、お会いしたことありましたか?」
「正式に紹介してもらったことはないかな。
俺は普通の貴族のお嬢さんをもらえないんだ。でも、周りが結婚しろってうるさいし、それなら出戻りならありかなと」
断られたけどねとラーズは軽く言う。
「それから、母が、ディア嬢と同じように貴賤結婚のち出戻ってるんだよ。だから他人事とも思えなくてね」
ついでのように言われた言葉にディアは戸惑う。そんな噂、聞いたことがない。ディアの時でもそれなりに醜聞として流れたと聞いている。
今もこそこそと話をされているのは理解していた。話が消えるのはこの先もないだろうと思ってもいた。
底意地の悪いというべきか、それをしないように若い娘を牽制しているのか。目先の恋で取返しのつかないことになるぞと脅すために使われるようなものだ。
「さて、俺、今から不埒なまねするからちゃんと怒ってくれよ?」
「はい?」
ダンスの手順とは違って、ラーズにぐいと引き寄せられた。
至近距離で見る緑の目は面白がるように見えた。ディアは突然のことにただ見上げるだけだった。
「キスしようかなぁ。そんなに、無防備な顔してるんだからさ」
「なっ、なにをっ!」
「そう、そんなかんじ」
ラーズは思い出したようなディアの抵抗を簡単に押さえてしまう。
柔らかくて少しかさついたような感触が彼女の唇に押し付けられた。触れるだけのキスは甘いバラのような匂いが残る。
「ほんと、無防備過ぎ。男にはちゃんと気をつけないと。
箱入りもこうなると困るよな。無垢ななにも知らないのがいいって幼女趣味かよ」
「ふざけないでっ!」
ちょうど曲の切れ目だったのかディアが叩いたぱちんという音はひどく響いた。
ラーズがわざと差し出されたとしか思えない頬に腹が立つ。彼女が睨めば余裕そうに笑うのがひどく心をざわめかせた。
「うーん。手首痛めそう。次は避けることにする」
「二度とお会いしませんっ!」
かわいそうとディアの手首をさすってくる男が本気でわからない。
「本気で、困ったらおいで。
俺も悪い男だけど、約束したことを守ることと閉じ込めないことは保証するよ」
ディアがその手を振り払って睨めば降参と言いたげに離れる。
「じゃあね」
ひらひらと手を振って去って行く姿は悪びれもない。途中で友人であろう男性にこづかれてなにか言い返している。
最後の真剣そのものの声など嘘であったように軽薄だ。
手のひらに押し込まれたなにかをぎゅっと握りしめる。
「大丈夫かい? もう、あのような男は近づけないよ」
その様子を見ていた義兄は慌てたようにディアのそばに寄ってきた。
彼女を抱き寄せようとするのをそっと退けた。一瞬、怪訝そうな表情をされたが追及はされそうにない。ディアはそれにほっとした。
「平気です。でも、今日は申しわけありませんが、先に帰ります」
「うん。送っていこう」
「先ほど来たばかりですよ」
「可愛い妹のほうが大事だ」
当たり前のように言う義兄の言葉が嬉しくなくなったのはいつからだろうか。家に戻ったころはそうでもなかったのだ。変わらない優しさが嬉しいくらいで。
優しい兄は、兄ではない。遠縁から養子としてやってきたのだ。小さな頃は兄様と結婚するのと言っていた。それは当然の未来のように思っていた。
それが、恋をして、両親との大げんかの末に駆け落ち同然に家を出た。
一年足らずで失敗して、戻ってきても兄はいつもディアの味方だった。両親を説得し、しばし家にとどまるようにしてくれたのも兄で。
優しい兄は変わらない。
変わってしまったのはディアのほうなのだろう。
「……本当に大丈夫かい? もう、夜会は連れて来ないことにしよう。明るい場ならば、気が晴れると思ったのだけど。
友人たちには今度紹介するよ」
「ええ。でも、しばらくは静かに過ごすことにするわ。殿方に会うのは少し怖い」
「そうか」
義兄は心配そうに視線を向けたが、どこか嬉しげに見えてディアはぞわりとした。
今、怖いのは義兄のほうだとは知られてはならない。すこしばかり震えているのは、先ほどの行為のせいだと勘違いしてほしいと切実に願う。
エスコートをされて去り行く会場を少し振り返れば、友人たちの姿が見えた。心配そうな視線にディアは大丈夫と微笑む。彼女たちは表立ってはディアと関わることはもうできない。
帰りの馬車で隣に座る義兄に微笑みながら、ディアは手の内側のものをぎゅっと握った。
それから三か月後、ディアはある決意をしていた。夜会で一度あっただけの相手を信用できるかと思い悩んだが他に方法を考えられないほど追い詰められてもいた。
夜会の日にディアの手に残されたものは住所が書かれた紙だった。今までディアが足を踏み入れたことのない下町だ。
一代限りとは言え騎士の称号を持つラーズが住む場所としては意外だった。それもでも意を決して、たどり着いた家にいたのは子供だった。
色々な想定してみたが、彼女にとって予想外もいいところだった。
確か、子供がいると噂で聞いたことがあった気がした。
「おねーちゃん、だれ?」
「だぁれ?」
ディアが門をくぐってびっくりして固まってい間に発見されてしまった。
男の子が2人。
犯行現場といったところだろうか。ディアは泥にまみれている子供に怯んだ。彼女は病弱で外で遊んだこともあまり記憶にない。
女の子同士で遊ぶことはあっても、そこに男の子が混じっていることもなかった。
「あ、あのね。ジェニスさんにお会いしたいのだけど」
笑顔が引きつっていないだろうかと心配しながらもディアは子供に話しかける。
年上に見える男の子のほうが肩にくっつくほどに首を傾げた。年下の子も真似をしたのか難しい顔で首をかしげている。
「わかったーっ! おじさんねっ!」
「おじさん?」
「そうだよ。おしごとおわって、ねてるからね、しずかにしてねっておそとだされたの」
「そう」
ディアはかろうじてそう返せた。
知り合いの子でも引き取っているのだろうか。それならば、確かに訳アリだ。ディアは少し後悔しはじめた。
男の子たちは玄関まで走ってはやくはやくーっとはしゃいでいる。人見知りとか警戒心などないのだろうか。
ディアがたどり着く前に玄関の扉をどんどんと元気よく叩いている。少々心の準備をさせてほしいと懇願する間もなかった。
「まあ、坊ちゃんたち、どうしたんですか? おやつはまだ……」
玄関から出てきたのは上品そうな女性だった。エプロンをつけているところを見れば使用人だろう。眉間にしわを寄せて腰にてをあてているところは貫禄があった。
「ユエ! おきゃくさんっ! きれーなおねーさん!」
「え。また、どこで引っかけてきた……。おやまあ」
ユエと呼ばれた女性が胡散臭そうに向けられた視線が、驚きに変わるのは一瞬だった。
「お約束もなしに訪問してしまい申しわけありません」
ディアは非礼をわびた。
その女性はなにかを言いかけて、玄関から進入しようとしていた汚れた生き物を見つけた。家の中に入り込む前に襟を捕まれている。
「坊ちゃんたちは、そのままではお部屋へ入れません。裏で綺麗にしてからです。ナニーを呼んでおきます」
「はぁい」
「やだぁ、ぼくまだあそぶの」
抵抗する男の子たちをナニーに預けてようやく、彼女はディアへ向き合った。
「お見苦しいところをお見せしました」
ばいばいと手を振っている男の子たちにディアは気を取られていてぼんやりとしていた。あれはまるで別種の生き物のようだ。
こほんと咳ばらいをされてディアは我に返る。
「こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
取り繕うように澄まして言うが色々衝撃を受けているのはバレているだろう。ディアは頭を抱えたくなった。淑女として動揺せずにいつでも微笑みを浮かべるのは最低限必要なことだ。
義兄に甘やかされていただけで、ディアはやはり不出来なのだろう。
落ち込みそうになるところをディアはなんとか踏みとどまり、女性のあとをついていく。
一人で暮らすには大きな家だと外から見てもわかったのだが、中に男の子ふたりが追加されればちょうどよいくらいかもしれない。
ディアは応接室へと通された。
お互いに何となく気まずい雰囲気が流れる。
彼女はディアの扱いをどうすべきか迷っていたようだった。貴族の娘が男の家に押しかけるなど普通ではありえない。婚約者であっても先に約束をしているものだ。
「失礼ですが、お名前をお聞きしても」
「ディアです。それでわかっていただけると思いますが、これも」
ディアは家名は名乗らなかった。それでわかってくれればよいのだが、念のため以前もらった紙を渡す。
「承知しました。申し訳ございませんが、主は夜の勤務のあとで今は眠っています。寝起きが悪いので少々お待たせするかもしれません」
「いえ、急に訪ねたのは私です。お待ちします」
本来は出直すほうが良いのだろうとディアも察している。しかし、今は帰るわけにはいかない。このような機会はもうない。
しばしの沈黙のあと女性は一礼して部屋を出ていった。彼女はすぐに戻ってきて、ディアの前に飲み物を置く。
「お口に合うとよいのですが。もうしばらくお待ちください」
再び彼女は一礼して、部屋を出ていった。
これからラーズを起こしに行くのだろう。身支度にはそれなりに時間がかかるだろうとディアは飲み物を手に取った。
コーヒーが出てくることが意外に思えた。香ばしく苦いそれは男性に好まれる。女性にはハーブティなどが好まれる傾向にあった。それが出てこなかったということは来客用のものを家に置いてないのではないのかもしれない。
きちんと整えられた室内を見れば買い忘れていたということはなさそうに思える。
ディアは飲みなれないコーヒーを一口含み、顔をしかめる。用意されていた砂糖とミルクを投入しぐるぐるとかきまぜた。
そうしているうちに遠くからばたばたとした音が聞こえてくる。ディアは先ほどの男の子たちが室内に戻ってきたのかと思った。この家を取り仕切っているであろう女性に怒られなければよいがとのんびり考えていた。
ばたんと急に開いた扉を見てディアは絶句した。
「な、なんで、ここにいるの!?」
なぜって、本当に困ったら、おいでと言っておきながら。メモに住所も書いておきながらそれはないだろう。
ディアはそう思ったが口を出てくることはなかった。
数か月ぶりにあったラーズは確かに寝起きだった。それも上半身がほぼ裸であった。シャツをひっかけているだけというのは服を着ているとはみなせない。せめてボタンの一つ二つしめておいて欲しい。
既婚であったこともあったディアではあるが、元夫以外で見たことはない。正直に言えば刺激が強すぎる。
「……お邪魔しています。お待ちしておりますので、どうぞ身支度を調えください」
「あ、うん。え、あれ?」
首をかしげて。ようやく自分の恰好に気が付いたらしい。
ディアはそろそろ夏だから、暑かったのだろうということにした。冷たい視線を向けてはいたものの多少顔は赤かっただろう。
「ちょっ、ちょっと坊ちゃまっ!」
遅れて女性がやってきたが、制止するのが遅すぎた。ただ、彼女も頑張ったのか息も絶え絶えだった。それでも、きっとラーズを睨んでいた。
「うら若き乙女の前になんて格好ででてくるんですかっ!」
「あ、ご、ごめんね。見苦しいところを」
女性に叱られラーズはそそくさと部屋から出て行った。心なしか背中が丸まっている。
「申しわけございません」
「いえ、身内でもああいうのは見たことがないのですけど……」
「大変申しわけございません。よく、言い聞かせておきます」
「そうしてください……。ものすごく、びっくりしました」
「この家に若い女性がいたことがないので油断していたのでしょう……」
言いわけにしては苦しい。だが、確かにこの女性は母親と年代が一緒のように見えたし、ナニーも少なくとも十は上に見えた。
「申し遅れました。私はユエと申します。夫が執事で家のことを取り仕切っております。他に料理人とナニーがいますが、両方とも通いで」
ラーズの対応から知らない仲ではないらしいと判断したのか女性は、先ほどはしなかった自己紹介を始めた。
「あ、あの?」
「子供たちのことは坊ちゃんから聞いていますか?」
「聞いていませんが、あの」
「隠していたということではなく、言う機会がなかったのでしょう。悪気はないと思うのですが」
なにか、ものすごく、勘違いされている。ディアは焦りを覚えた。
「相談がありまして、急ですがお邪魔してしまったのですけど」
「え」
沈黙が重かった。
「も、申し訳ございません。そうですよね。坊ちゃんが可愛らしいお嬢さんをひっかけるなんてありえませんでした」
「いえ、気にしていませんので」
そういえばさらにがっくりとされてディアも気まずい。
なんとなく、コーヒーを飲んでるふりでごまかしてみるもののやはり空気が重い気がする。ディアは帰りたくなってきた。帰るわけにもいかないが、それでも気まずすぎる。
それからしばらくして、ラーズは部屋に戻ってきた。
「……お待たせ。ってどうかした?」
ラーズは部屋に漂う微妙な空気に気がついたようだ。室内の二人を見比べて不思議そうな顔をしている。
「ま、いいか。じゃあ、ユエ、俺のコーヒーも用意してきて。新しいやつね」
「坊ちゃん?」
「坊ちゃんはやめて。誓って変なことはしないよ」
じっとユエはラーズを見てため息をついた。彼女は次にディアへ視線を向けた。そう言ってますけど、大丈夫ですかと気遣うようなものにディアは軽く頷いた。
「なにかあったら奥様に言いつけますよ」
「わかったから」
ディアはぱたりと閉じた扉をじっと見てしまった。ラーズは無言で扉を少し開けにいった。
人払いを要求したのはラーズだが、密室にしたかったわけではないようだ。ディアにとってはそれほど差がない気もしたが指摘はしなかった。
ラーズはディアの向かいに座り落ちつかないように視線をさまよわせた。
「もしかして家出?」
「はい。それで少し相談したいことがありまして」
「ふぅん?
まず、話を聞こうか」
ラーズは顔をしかめて、でも、どこか面白がるようにディアに話を促した。
夜会を境に違和感は、少しずつ強くなっていった。あるいはディアが見ないようにしていたことに気が付くようになった。
家を出る前に親しくしていた侍女はもういなかった。それだけでなく、小さいころから知っていた使用人は一人も残っていない。
一年ほど前に隠居生活に入った両親についていったと言われていたが、それもおかしな話だった。すべていなくなるのは、とても変だ。しかし、指摘してはいけない気がした。
ディアに新しくつけられた侍女は優しかったが、どこか怯えているように見えた。話しかけても、微笑んでも一瞬びくりとするのはなぜだったのだろうか。
最初は腫物を触るように遠巻きにされているのかと思った。時間をかければ少し話もできるようになるだろうと。しかし、時間が経過するごとにそれは悪化していった。嫌われているならまだ納得できる。ディアはそれほどのことをしたのだから。
そうではなく、関わりあうことを避けるようにしていたのが奇妙で。時折気の毒そうに視線を向けられるのは落ち着かなかった。
どこか、なにかがおかしくて、でも、話をする相手もいない。耐えがたく寂しくなり、かつての友人に手紙を出したりもした。しかし、返事はなかった。嫌味の一つでも戻ってきてほしかったのに、何もなかったのだ。
そうして、二か月も過ぎてしまった。義兄は優しかったが、ディアだけでの外出は決して許さなかった。なにも一人で出かけるわけではない。侍女も従僕も連れていくときちんと約束しても困ったようにはぐらかされた。
それを無視して出かけようとすれば慌てたような執事が、皆が罰せられると止めるに至ってディアは諦めてしまった。
ぼんやりと同じ一日を過ごす日々が続いていくのだろう。塞ぎ込むディアを義兄は気にしていたようだが何かを言われたことはなかった。
しかし、転機は突然訪れた。
「ディア、約束していた手袋が届いたよ」
義兄は変わらず優しい。今までと変わりない微笑みは、ディアにとってはぞくりとするものだった。
「ありがとう。兄さま」
変わらぬようにディアは微笑んでその箱を受け取った。夏用の手袋が欲しいとおねだりはしたのだ。外出する口実として用意したものが、贈り物として届いてしまった。
自分の部屋へと戻り、侍女を部屋から出るように命じる。涙ぐんだディアを見て彼女はお茶を用意してまいりますと静かに部屋を出た。
ぽろりと涙が零れ落ちる。
どうしても、ディアを外に出したくないのだ。誰ともかかわることを許さないように。それにも関わらず、監視されていた。
使用人とも話すらできず、屋敷の中を歩くときさえ誰かが常についている。新しい執事と紹介された男はひどく冷たい目でディアを見ていた。ただのモノであると言いたげで。
家を出たあとですら大丈夫かと手紙を送ってきた友人たちとも全く連絡がとれない。
異常なのだとディアは思い知る。
義務のように箱に手をかけて。するりとリボンをほどく。中身はレースの手袋だった。繊細でこのような時でなければうっとりと眺めたいほどのもの。
ものに当たるのは良くないとディアもわかっていた。しかし、外出の機会を奪われたことがひどくつらかった。
手袋ごと箱を放り投げる。
中身がすべて床に落ちた。バラバラになった箱からなにかが零れ落ちていた。
「……え?」
箱は上げ底になっていた。その下に入っていたのは手紙だった。信じられないものを見たようにディアは目を見開いて、淑女にあるまじき速度でそれを拾い上げた。
「シリル様、クリス様、ニーナ様も」
小さく折りたたまれた手紙は三枚。それぞれ一枚の紙に手紙を書いてきてくれた。びっしりと書かれた文字を貪るように読みほっと息をついた。
夜会を境に姿を消したディアを心配する文面は変わらぬ友情の証のように思える。
彼女たちは手紙を何度も送り、お茶会の誘いや気晴らしの観劇、遠乗りなど様々な手段で接触を図ろうとしてくれたようだ。そのどれもが断られたことで疑惑をもったらしい。
ディアの意思ではなく、家の意向として監禁されているのではないかと。
正当な手段では連絡を取ることも難しいと思いこのような手段になったようだ。この手紙を入れた箱はディアがよく買いに行った店のものだ。それは彼女たちも知っている。
店主に注文が入ったら連絡をくれるように頼み込んだ結果、この手紙を入れることができたとあった。
選ばれた手袋は今年の流行の装いとシリルからディア宛ての手紙にわざわざ書いたものと同じだったそうだ。なお、ディアはその手紙をもらっていない。
ディアは読み間違いではないかと何度も確認した。
届かない手紙は、読まれたのだろうか。その答えをディアは知りたくなかった。
今まで心地よかったものが、何か薄気味悪いものに化けていくようだった。
彼女たちの手紙にはこう提案されていた。この状況を望まないのであれば修道院に逃げ込むか、ほかの男を見つけるか、あるいは庶民になるかしかないのではないだろうか、と。
私たちの友情は変わらないわよ。ただし、婚家の都合により変動あり。
そう綴られてディアは笑った。久しぶりに作り笑い以外を浮かべた気がした。
「それで、どうやって出てきたわけ?」
「女性専用の店に行かねばいけない買い物があると」
ディアは顔が赤くなるのを自覚した。それは要するに下着で、どれほど高貴な女性でも店の者を呼びつけるようなことはしない。
必要があるとは言え、男性にそれを告げるのは恥ずかしい。
ラーズはきょとんとした顔で、口を開きかけてまた閉じた。ほんのり頬が赤いように見えたので理解はしたらしい。
「……ま、まあ、確かにその買い物は付き合うとか言えないな。
それでここに?」
「店の裏を通してもらって」
「付き添いとか罰を受けるんじゃないのか?」
「御者代わりに執事をつけてもらいましたの。侍女は断りました。
店は友人がひいきにしているところで少々脅されたところでびくともしませんわ」
「そう。それで相談って?」
「お金を貸していただきたいのです」
「お金?」
「ご存じないかもしれませんが、修道院にかくまってもらうにも寄付が必要なのです。私には処分できる財産が今はありません」
ディアはラーズをじっと見つめた。
これを断られれば、次は行方不明になるしかない。街中で暮らしたことはあるがほとんど外には出ずにいたのだからうまくやれる自信はなかった。
ラーズは思案するように顎に手をおいている。
「今は、ってことは、もしかして、まだ相続年齢に達してないから?」
「はい。祖父母からの贈与があるのですが、21歳の誕生日からとなっています」
「あと何か月?」
「二か月ほど。弁護士にも相談したいのですが、私から送った手紙も届いていないと思います」
「その弁護士、信用できる人?」
「法の下に平等ですね」
「なるほど。贈与内容は投資信託とか?」
「はい。年に金貨6枚ほど。支給は半年に一度、半分ずつの予定です」
それは貴婦人がある程度の社交に必要な金額だ。夫の顔色を窺わずともドレスを仕立て、茶会や贈り物を用意するには十分。しかし、生活をするには足りない。
慎ましく生活をすれば間に合うのかもしれないが、その技術が足りないだろう。あっという間に使い切り、困窮するのが目に見えている。
ディアは一人で買い物すらしたことがない。一人で歩いたのも今回が初めてだった。辻馬車を止めて、住所を伝えてここにきたことすら大冒険といえる。
「修道院にどうしても行きたい?」
ディアは思わず息を止めてしまった。困ったようなラーズの表情に少しだけがっかりする。
「あの家にいるのは難しいので他に行ける場所があればと思います。
わがままでひどい話なのでしょうけど」
貴族の娘としては失敗作であるとディアも自覚している。当主が命じれば、再婚でも修道院でも行くのに彼の望みはそれではない。
外聞が悪くともディアを手元に置いておきたいようだ。
義兄が婚約者あるいは、妻がいれば少々事情は変わるのだろう。しかし、恋人の一人もいないような現状では妙な噂にもなりかねない。
ディアが一番恐れているのは……。
「わかった。
ちょうどよく、母が話し相手になる若い娘を探していた。誕生日が来るまで、母の相手をしてもらえないだろうか」
「え?」
「そうだな。母がたまたま教会に行ったときに思いつめた娘さんを見かけて、保護して説得中とでも言えば無理に戻されることもないだろう」
ディアの返事を聞かずにラーズは立ち上がっていた。扉を開けて、大きなため息をついた理由は全くわからない。
「ユエ、誰か母さんに使いを頼む。至急来てほしい」
「承知しました」
戻ってきたラーズの手にはコーヒーカップがあった。一口含んで、冷めていると眉間にしわを寄せて呟いてカップをテーブルの上に置いた。
「私は、お金を貸していただけないかといったのですけど」
ようやくディアはそう口を挟めた。断られるか、お金を貸してもらえるか、このどちらかだと思っていたのだ。それ以外の選択を突然されてついていけない。
「貸すのはいいんだけど、ディア嬢の兄がとてもめんどくさいこと言い出しそうだ。
乗り込まれるのも困る。それなら修道院に行きそうなのを止めたとでも恩を売っといたほうがいい」
その言葉にディアは青ざめた。
やはり、寄付は後回しとして教会に駆けこんだほうがよかっただろうか。それも分の悪い賭けではあったけれど。
「お話を聞いていただいてありがとうございました」
ディアは礼儀を捨てて立ち上がる。にこりと笑ったのはせめてもの矜持だ。
勝手に期待して、勝手に裏切られたような気分になるとは最悪と言ってもいい。彼にはディアを助ける義理もない。
ただ、あの困ったらと言われた言葉を信じてしまったディアが悪かったのだろう。
「もちろん、弁護士との仲介とかは手伝うよ。お嬢さんには手続きを行う立場にたつのも難しいからね。だから、修道院に行くのは少し待ってほしい」
「もう結構です」
慌てたような言葉をさえぎってディアは扉に向かった。案内もなく勝手に帰るなど無作法もいいところだが、八つ当たりを始めるよりはよっぽどいい。
彼女が数歩も歩かないうちに手首を捕まれた。
「放してください」
苛立ちを隠しもせずにディアは振り返る。その視界に入ったラーズの表情に彼女は困惑した。彼は困り果てたように眉を下げている。
そんなしょげたと言ってもいいような情けない表情をする男性をディアは見たことがない。いや、父が母を怒らせたときに何度か見たことがあるかと思い直した。
「仕方ないだろ。妻にしたい女性が修道院行くってのは止めたい」
「……は?」
ぽかんと口を開いてしまったのは淑女らしくはない。ディアははっと気がついて表情を取り繕った。
求婚は確かにされていていた。しかし、彼女はそれに本気さを感じたことはない。ディアは己の価値というものをわきまえているつもりだ。初婚のそれも王太子のお気に入りと噂される騎士とはつり合いは取れない。遊びで声をかけるならまだわかる。それももちろんお断りだが。
それに子供たちのことは一切説明もされていない。たまたま遊びに来たということではなく、住んでいるように見えた。
「二か月」
ぽつりと言われたことにディアは首を傾げた。
「口説く時間が欲しい。そのあとはご自由にどうぞ」
どんな顔をしていいのか、ディアにはさっぱりわからなかった。
扉をたたく音に我に返り、ラーズは手を離した。やけに顔が赤いようなきがするのはきっと気のせいに違いない。
ディアはどうしようかと迷いソファに座りなおすことにした。無作法をしたいわけではないのだ。
「今度は何?」
うんざりした口調でラーズは部屋の外の対応をしていた。気になり、視線を向ければ廊下にいたのはユエと呼ばれていた女性ではなく、壮年の男性だった。
「ジュリアン様とクリス様がご挨拶したいと言っていますが、いかがしましょうか?」
「ちゃんと行儀よくするか?」
「するよーっ!」
「よーっ!」
ラーズは信用できないと言いたげな視線を子供たちに向けている。もう一人の男性も同じような表情のため、日ごろの子供たちの行動が透けて見えるようだった。
良い子のようにまじめな顔をしているのはいつもではないのだろう。
ディアはおかしくなって小さく笑った。
「悪いことしたら叩きだすから、いいかな?」
「どうぞ」
二人の子供はディアの両隣りにぽすんと座った。
にぱっと笑う子供たちはなんとなくラーズに似ている。ラーズより淡い金髪はふわふわで思わず触ってみたくなるほどだ。
「姉の息子たちなんだ。姉は一番下の子を産んでから体調が悪くて世話が難しいということで預かってる」
「ジュリアン、六歳ですっ!」
「くーはよんさい!」
「ディアよ。よろしくね」
「お姉さんは、おじさんのお嫁さんなの?」
「……」
きらきらとした目で見上げられて、ディアは言葉が出なかった。先ほど、口説く宣言をされたが、彼女にそのつもりはない。さっさと修道院かどこかに行ってしまいたいのだ。
じろりとラーズを睨みつければ勢いよく首を横に振る。
「い、言ってないっ! そうなったらいいなと思うけど、さすがに言ってない」
「ユエがおばあちゃんにほーこくって言ってたよ?」
「ブラウ?」
「言い聞かせておきます。おや、お客様ですね」
呼び鈴が鳴らされる音が響いてきた。
「……早いな。どの時点で知らせたんだ」
「坊ちゃんが大慌てで起床された時点でしょう。寝起きが悪い坊ちゃんが」
「そういう話いいから、この子達を連れてって」
「えー」
返答は左右からの二重奏。ラーズの苦り切った表情は雷を落とす直前といったところだろう。
ディアはその二人にひしっと抱きついてこられてとても居心地が悪い。おそらく、彼女が出戻りであることも言ってはいないだろう。だから、歓迎されている。あるいはまだ幼くその意味を理解していない。
「おばあ様が来るから、ちゃんと着替えておいで」
「はぁい」
祖母を出されて仕方なしの返事にラーズは眉間のしわを深くする。日ごろから手を焼いているのかもしれない。
「またあとでね。ディア様」
ぽんとソファから降りてジュリアンは弟の手を取って部屋を出ていった。ブラウと呼ばれていた男性も一緒に部屋を出ていく。
ぱたりとわざとらしく閉じられた扉。
ラーズは舌打ちをして再び開けられた扉。少しだけとは言わずに開放しているところが妙におかしかった。
「しめたままのほうが都合が良いのではないのでしょうか」
「なし崩しに進める気はない。
それに母にこれを見られたら何と言われるか」
礼儀には厳しい方なのだろうか。
夜会にもあまり顔を出したことのないディアはラーズの母がどういう人なのかわからない。それよりも気になることがあった。
「勘当されたのでは?」
「そう。そのついでに母も家を出たんだ。おかげで、怒り狂ったあの男の嫌がらせが……」
首を傾げたディアに気が付いたのか、彼は黙った。
「周囲が全力で進めてくるかもしれないけど、本当に嫌だったら断っていいからね?」
「出戻りですよ?」
「近衛騎士の条件って知ってる?」
「いいえ」
「既婚者。王太子付にさせたいらしいんだけど、このままじゃ永劫独身と言われている」
「どうしてですか?」
「王族の女性が護衛対象のときもあるから、独身だと困るらしい」
「期待されているのですね」
それについてはラーズは返答をしなかった。
それなら尚更、ディアを選ぼうとすることに不審を覚える。彼女が口を開く前に扉が叩かれた。既に開いているという状態では取り繕う間もなかった。
この先の続きがないんですな。過去の自分、先をかいておきたまえよと頭を抱えますね。続きは自分で書かないと読めない。誰か自動で出力できる装置を考えてくれないだろうか。
ラーズ氏。
髭あり男。わりとありがちに剃ると童顔。むしろ舐められないようにきつい表情をしがち。王太子に気に入られているが、面倒でいろんな誘いを断っているので余計面白がられている無限ループに入ってる。性別が違うならばおもしれ―女と言われていたに違いない。
ディア嬢。
一年の間にほぼ駆け落ち婚、離婚からの出戻りを果たす。さらに修道院に行くと行動したことで、周囲にあの大人しい子が!? と驚愕された行動力。彼女を知る友人は、あぁ、思い切りは良かったと苦笑いしたという。
義兄
遠縁から養子に来た時からディアと結婚するつもりだった。長い間かけて好みにしたつもりが、さくっと他の男に取られていく。ある意味不憫である意味やり方を間違いすぎた。




