私はあの子ではないけれど
「どうして、こんなことを。君は変わったと信じていたのに」
「私は私の筋を通したまでです。では、ごきげんよう」
メイベルは、呆然としていた元婚約者へ背を向けた。
残されたのは、水を頭から掛けられたメイベルの自称親友。それから、前後の流れをよく知らない聴衆。
ひそひそ声は次第に興奮の色を帯びて、尾ひれや脚色をつけて出回るだろう。
メイベルがいたのは学生向けの食堂に当たる場所であったから目撃者は多い。構うものかと大股で食堂から外に出る。そこに淑女らしさはなくともさっさと出ていきたかった。
「あーあ。評判がた落ちだよ」
メイベルは食堂の扉の陰から声をかけられた。視線を向けた先には一人の男がいた。全身黒づくめなうえに、フード付きマントという装備はひどく目立つ。フードもしっかりかぶって、口元くらいしか見えないともなれば不審者である。
メイベルは驚いた様子もなく、彼の前に仁王立ちした。
「なによ、文句あんの?」
メイベルはございませんよと気圧されたように言う黒いローブの男の背を叩いた。小柄で華奢な彼はそれだけでよろける。
「優しくしてほしい」
「んまぁ、このわたくしが、誰かにやさしくですって?」
「そこは、僕にだけ、でいいんだけどな」
「同士パーシヴァル。これはわたくしの親しみですのよ?」
「暴力反対」
「なにかおっしゃって?」
「いいえ、なにも」
馬鹿力女とぼそっと言ったことをメイベルは聞きとがめた。
軟弱男と返すとわかっていると返事があり、メイベルは眉をひそめた。彼が体質や体格を気にしていたことを思い出した。いつもは気にしている風でもないが、見せないだけだということも。
メイベルはその失言を取り返そうとあの、そのとごにょごにょと言葉を探したが、その前にパーシヴァルのほうが歩き出した。
メイベルはついていくかしばし迷う。来ないの? と言わんばかりに立ち止まったパーシヴァルの姿にほっとしたようにぱたぱたと近づいた。
「ごめんなさい」
「謝られることはなにもないよ。
で、なんで喧嘩したってわけ?」
「前々から気に入らなかったの。清々したわ」
ふんと鼻息荒いメイベルにパーシヴァルはため息をついた。彼にとってはバカだなぁという表現だ。表情はフードの奥に隠れているために言葉か身振りで示すしかない。大げさになるのは元々表現するのが苦手だったせいだ。これでも良くなったほうなのだが、結果的にパーシヴァルの評判が悪化したのは、メイベルも少し悪かったと思っている。
メイベルはこの件についてはこれ以上話すつもりはなかった。パーシヴァルはそれを察しているのかそれ以上は聞いてこない。メイベルに噛みつかれるのはお断りなのだろう。
彼のいつもよりも頼りない足取りに余裕はないのかもしれなかった。指摘することも支えることも許されないメイベルには出来ることがない。それがもどかしいというのもきっと伝わらないだろう。
あるいは、気がついても、伝えても、それでもだめだとやんわりと断られるのが関の山だ。それでもメイベルは聞かずにはいられなかった。
「それにしても昼間から出てきて大丈夫なの?」
「読みたいって言っていた本、持ってきたのに全然来ないから来ちゃったよ。あんなの目撃するとも思ってなかったけどね」
「ごめんなさい」
「ん。許す。なにもない隠れ家だけど、しばらく休んでいきなよ。僕は寝てくるけど」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
柔らかな声は先ほどの失言を引きずっているようではない。それにメイベルはほっとして、気に入らないように眉を寄せた。
どうしてこんなことになったのだろうか。
その回答はある。あれは三年ほど前のことだった。
目の前に、知らない天井があった。ふかふかのベッドは自宅のものとは全く違う。彼女は身を起こそうとして体に力が入らないことに気がついた。
事故に巻き込まれて、最後に見たのは。
そこまで思い出して、彼女は胸の痛みを覚える。まるでそれ以上、思い出してはならないというように。
「メイベル様?」
「だれ?」
かすれた声が自分のものではないように感じた。彼女の困惑を知らず、声の主は音を立てて去っていった。
「なにあれ」
せめて説明して欲しいと彼女は身を起こした。次はちゃんと起き上がれた。
「なにこれ」
視界に入った部屋は、薄暗かった。それでも、自宅はもとより、知り合いの誰の家でもない。もちろん病院でもないだろう。
彼女の感想で言えば、観光地で公開している昔の洋風邸宅や老舗のホテルの一室のようだった。
もちろん彼女にはそんなところに行ったつもりもなかった。
そう、月曜がだるいと坂道を自転車を押して上がっていった。それから。
「……あれは死んだ。絶対死んだ」
彼女は布団に突っ伏した。車同士の衝突事故にもらい事故をした。生身と車では勝負にならない。自転車だって戦えない。むしろ刺さったのではないだろうかと思うと彼女はげんなりした。幸いなことにその記憶はふわふわしていて、具体的な痛みや惨状などはもやがかかったように遠い。いっそそんな夢をみましたと思えればよいのだが、思い出したことに対しての拒否反応なのか体が震えていた。
彼女はそのまま震えが止まるまでまっていた。
「よし、大丈夫」
そう声を出して、違和感を覚える。彼女はもう少し声が低かった。やはり以前の自分とは違うと思えた。
そう思って彼女は自分の手を見た。骨ばった女性の手。うん? と首をかしげる。痩せているという程度を超えている気がした。
がばりと掛布をめくると違和感が増えた。柔らかいパジャマがかなり余っている。思わず彼女は胸元から下を覗き込んだ。
「は?」
肋骨が見えた。鏡と思って室内を見渡せば、布のかかった鏡台が見える。いつもならば豪勢だなと思うものも今の彼女にとっては必要なものでしかない。
よろけながらもどうにかその前に。
「うわぁ」
鏡は見事に割れていた。
その割れた鏡に映るのは痩せすぎた少女だった。ひび割れてうつるのでより怖い。
そのとき、扉が乱暴にあけ放たれた。
壮年の男は部屋に入ってくることもなく、メイベルを一瞥すると踵を返した。
「慌ててやってきたからなんだと思えば、目が覚めたのか。その程度で呼ぶ必要はないといったであろう」
「申し訳ございません」
その男はメイドを叱責し、そのまま彼女へ言葉を放る。
「人の気を引きたいがために、家門に泥を塗るような真似をせぬことだ」
そして、すぐにいなくなった。残されたのは、彼女の目覚めのときにいたメイドのみ。メイドというのも服装からの推測でしかない。
少なくとも様付けで呼ばれていたのだから、こちらが上なのだろうと彼女はあたりをつけた。
「ねぇ、貴方」
「は、はい」
「あれは誰なの?」
「旦那様、ですか」
「旦那様、ね」
残念ながら、彼女には記憶が残っていない。以前の自分のほうが鮮明なほどで、生まれてから今に至るまでのなにかがない。
怪訝そうな表情でこちらを見るメイドとの関係もさっぱりわからなかった。怯えたようで、それでも逃げ出すわけではない。
「悪いけど、全部忘れてしまったようなの。私が誰かから話してくれない?」
「お医者様ーっ!」
一瞬の沈黙のあとメイドが再び部屋の外へ駆けていった。
「あ、まって」
という間もなかった。呆然と見送ったあとに、半泣きでお医者様を引きずってきたのはそれから軽く一時間は経過していた。
彼女はメイベルになった一日目の出来事である。
悪役令嬢に憑依しちゃったので善人のふるまいをするけど、すればするほど以前の彼女を否定されていくのにイラっとして、いいもん、メイベル(前)のかわいいとか努力とか頑張ったのは私が知ってるんだからそれが分からないやつらに媚びるもんかと塩対応する話。を書きたかった……。短くしたかったけど、あ、これ長いわーと供養。たぶん、ストレスかかるパートが長い。パーシヴァルは安定の人外設定。メイベル(前)嫌われ者同士嫌味を言い合う仲だった。その前提があるので、恋愛にならないか、なるにも長くかかりそうだな君たちな感じ。むしろ、女の子になっちゃう? 最強バディとかしちゃう? とか別の性癖に忠実になりそうな……。
 




