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やさしい距離感

作者: lie8000

 午前2時。

 凶暴、としか表現できないようなやり方でもって玄関のドアノブを数十回に渡りがちゃがちゃやる暴力的な音が聞こえ、それが一瞬止んだな、と思ったら今度は金属同士の擦れる耳障りな音。恐らく鍵を鍵穴に挿し込もうとしているのだろうが、その方法も尋常ではないらしく、部屋の内側から様子を窺っている分には、鍵穴に鍵を挿し込むというよりむしろ「鍵穴に向かって全力パンチをする」「鍵を握った拳でドアを突き破ろうとする」といった趣きだ。

 漸くそれが成功すると、扉に全体重を浴びせ掛けるようにして彼女が転がり込んで来た。アルコール臭い風が、ぬるん、とした質感を伴って俺の顔を撫でた。相当泥酔しているに違いないが、いつものことなので気にしない。

 ささやかな玄関にべったりと尻をつけて座る彼女は、ロレツの回らない口調で洋楽だか演歌だかわからない歌を口ずさみながら、履いていたハイヒールを脱いでは床に叩きつけた。おいおい、そうやって先週も10センチはあるピンヒールを折ってダメにしたばかりじゃないか。ファンデーションは剥げ落ち、代わりに皮脂が顔面をコーティングしている。テカテカ光る頬にまで赤すぎる口紅がのびていた。元・マスカラと元・アイライナーがそれぞれの役割から脱落し、目の周りを黒く汚している様は、月並みな言い方だが、ヒステリーを起こしたパンダに見えた。もちろんこれもいつものことだ。

 俺は彼女の鼻歌が嗚咽に変わるまで、身じろぎもせず窓(に映る彼女の姿)を見ていた。「また騙されたんだな」喉元まで出かかった言葉をグッと飲み込む。彼女がそんな言葉を欲しがってはいないことなど、もう解っているから。

 今の彼女が求めるものは、ただ、沈黙。

 下手な慰めの言葉や暑苦しい叱咤激励は、悪戯に彼女を刺激する。例えて言うなら彼女の心はいたる所擦傷だらけで、空気の振動すら苦痛をもたらすような状態なのだ。痛いでしょう可哀想ね大丈夫すぐ治る気合だ頑張れ。うっかりそんな声をかけようものなら、逆に首のひとつも締められるに違いない。歯を食いしばって痛みに耐えている人間に対して、その途方もない覚悟に対して、明らかに礼を欠いた行為だと思う。

 彼女は耐える。俺は黙ってる。俺は彼女を愛するが故に、彼女との距離を縮めない。彼女もそれを解っていて、だからこそ俺を選んでくれたのだ。


  彼女は小一時間程すすり泣くと、やがてゆらりと立ち上がり、バスルームに向かった。俺もゆっくり振り返り、彼女の後姿を視線で追う。さっきまでは気付かなかったが、彼女のストッキングは足首から太腿までが無惨にも伝線。って云うか、伝線通り越して肌色の海草みたいなことになっていた。一体どういう穿き方をしたら、あんな風にストッキングが破れるのだろう。

 ここ1ヵ月、彼女の帰りが異様に遅い。それも決まって、ボロボロの姿で帰宅する。今日などはまだましな方だ。昨日は雨も降っていないのに全身ズブ濡れだったし、一昨日はジャケットもスカートも裏返しの上ポケットいっぱいにパチンコの玉を詰めて帰って来た。髪に有刺鉄線が絡まっていたのは、両手がグローブのように腫れ上がっていたのはいつだったっけ。その日によってバリエーションは違えど、とにかく常軌を逸した姿で(しかも決まって泥酔して)帰り、そして必ず、小一時間すすり泣く。

 俺だって、彼女が毎日どんな目に遭っているのか、気にならないわけではない。いや、気にするのが当然だと思う。しかしそれを詮索するわけにはいかない。できないのだ。

 ヒモ。それが俺の、唯一与えられた立場だから。

 バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。彼女のシャワーは長い。時には3時間を優に越える。以前に一度だけ、ドアの隙間から彼女の入浴姿を覗き見たことがある。彼女は再び涙を流しながら、しかし怒りの形相で目を見開きながら身体を洗っていた。軽石で。瞬間的に「鬼だ」と思った。白い皮膚は血を滲ませ、そのせいかボディーソープの泡は薄っすらピンクがかっているようだった。

 それ以来二度とバスルームは覗くまい、と心に誓った俺は、おとなしくリビングに座って彼女が出て来るのを待つことにしている。気が済むまで身体を洗い清めて、幾分気持ちの落ち着いた彼女が出て来るのを、待つことにしている。世の中には見てはいけないもの、見るべきではないもの、見ない方がいいものがあるのだ。

 ふと玄関に目をやると、帰宅直後に彼女がブン投げた際にバッグからこぼれ出た中身が散乱していた。

 定期入れ、口紅、煙草とライター、T字剃刀、飴玉、長財布、生理用品、手帳、と、手帳に挟まった1枚の写真。見ない方がいいものがある、と言いつつも、やはり気になって見てしまう俺ってちょっとかわいい。それはともかくとして写真には、どうやら1人の男が写っているらしかった。男だと解ったのは、その人物が高級そうな男性用スーツに身を固めているからだ。肝心の顔の部分は何か鋭利なものでズタズタにされており判別不能。写真の表面に散っている赤い粉は、多分彼女のマニキュアだろう。

 時計は既に4時を回ろうとしている。そろそろ夜明けだ。


 バスルームの水音が止み、身体のあちこちにミミズ腫れと擦傷を作った彼女が全裸のままで姿を現した。疲労、酔い、他にもなにか原因があるのか、足取りは重くそれでいてフラフラと危うい。一昨昨日からテーブルの上に放置してあったグラスを取り、彼女は僅かに残っていたウィスキーを一息に空けた。水分ならば何でもいいのだろう。

 今にも全てを放棄してしまいそうな雰囲気を漂わせながら、彼女はベッドに倒れ込む。戦場で心臓を打ち抜かれた兵士は、こんな風に崩れ落ちるのだろうか。もしそうだとしたら、彼女は何に心臓を貫かれたのだろうか。彼女は、再び目を覚ますだろうか。死んだ兵士は二度とその目を開く事はない。いや、瞼を閉じるのも忘れて死んで行くのか。彼女の目はどうだ。

 ここからは、見えない。


 午前6時。

 もう何日も閉めていないカーテン。窓の外は朝日に満ちている。ジョギングに精を出す人や、犬を連れてのんびりと散歩を楽しむ老夫婦、朝練にでも向かうのか制服姿の若者の行き来する姿が眼下に見える。偉いもんだ。代わり映えはしないが、朝は毎日やって来る。

 と、起きるまでまだ間があると思っていた彼女が、突然上半身を起こした。

 じっと、俺を、見ている。

 数秒間そのままでいた彼女は、口を開くでも表情を変えるでもなく、ドサリと倒れて寝息を立て始めた。思えば彼女は、帰宅してから初めて俺を見たのだった。虚ろな瞳。生気を感じさせない瞳。死人の眼。彼女の眼球は確かにそこに存在していながら、2つの空洞に見詰められたようだった。その行動にすら何の意味も込められていないことを、俺は知っている。

 こんな彼女を、人はどう思うだろうか。

 バカな女だと思うかもしれない。侮蔑するかもしれない。関わり合いになりたくない、と怖れるかもしれない。或いは、もしかしたら、憐れむかもしれない。そして俺のことも、同じような目で見るかもしれない。いや、そんな事はどうでもいいな。

 彼女は今夜も遅くに帰宅して、泣くだろう。そして血が出るまで身体を洗って、死体のように眠るだろう。たまには俺を見るかもしれない。見ないかもしれない。彼女の頭の中からは、俺の存在そのものが抜け落ちている可能性だってある。しかし、それでも俺は疲れきった彼女を沈黙で包んでやるのだ。俺にはそれしかできないし、また、それこそが俺の唯一無二の存在価値なのだ。つかず離れず、でも確実にここにいる、俺。

 俺は今、間違いなく幸福だ。他人が俺を笑ってもいい。嘲ってもいい。しかし俺は胸を張って言う。幸福なのだ。彼女はどうか? それは俺には解らない。夜毎の涙を見る限りでは、手放しの幸福を享受しているとは思えないが、俺は「彼女の幸せが自分の幸せ、彼女の不幸せは自分の不幸せ」と断言してしまえるほどロマンチストではない。彼女の幸福と俺の幸福は全くの別物だ。

 彼女の眠るベッドを横目で見ながら、俺は回し車に向かった。


 だって俺、ハムスターだから。

最後までお付き合いくださいまして、まことにありがとうございます。

技術向上のためにも、皆様からのアドバイス、酷評を賜りたく存じます。

今後ますます精進を重ねて参りますので、「lie8000」をお見かけの際にはまたお読みいただけると幸いです。


本当に、ありがとうございました。


筆者/lie8000

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