第二話「Sentimental Journey」
連鎖する規則的な振動は、心地よい安らぎを与える。
そこにどのような原理があるかは定かではない。
ソアーは暗闇の中に居た。
双眸の蓋が閉じられている故の闇。
まどろみに身も心も預けていた。
体重を寄せている腰から下が、受け止めている物の硬さ故に痛みを感じるが、それでも安楽が上だ。
現在、自身が何処でこの心安さを享受しているかは不明だ。
振動のリズムが、それを考えさせることを遮る。
今は昼か夜か。
この振動の理由は。
自身は。
「わ、私は・・・!」
疑問でソアーの意識が覚醒するのと、これまでとは違う大きく不快な揺れが生じたのはほぼ同時だった。
開かれた眼前で繰り広げられていた光景。
それは、下半身の衣服を半ば脱いだ小汚く若い男が、己の下腹部を晒して自分へと迫っていた。
男の口から吐息が漏れている。
その仕草に、人間的な理性など察することは到底出来ない。
「!!」
驚愕の状況を目の当たりにしても、ソアーの行動は迅速だった。
まるで小慣れているかのように。
「この!ケダモノ!」
伸ばしていた右足を一度屈して自身の身体へ寄せると、間髪置かずに踵を先にして男の腹部へと突進させる。
鮮やかな赤のブーツの底の全てが、目標である男の腹を捕える。
その威はソアーが背を壁に預けていたことも加わり、男を反対側の壁へと押しのけるには十分だった。
目を見開いた暴漢がよろめきながら遠ざかり、後頭部が鈍い音を立てて壁へと激突した。
「っ!!っ!!」
声にならない叫びを上げながら、男は頭を抱えて床をのたうち回る。
はだけた衣服から覗く一物を隠さずに行われているその行為は、惨め以外の何物でもない。
ソアー自身、そこに同情を感じていなかった。
「もう!油断の隙もあったものじゃありません!」
ソアーはその伸びた鼻口部から荒い鼻息を漏らした。
彼女自身では確認できないが、傍から眺めていたら目の上の体毛に描かれた化粧眉も、僅かに谷の形へとなっていることが見て取れただろう。
ソアーは自身の横に置かれた尖帽を手に取った。
帽子自体は真紅、顎紐は黒。
付け加えるなら、彼女が身を包む外套やその下の衣服も全て、真紅と黒を基調としたもので揃えられている。
ソアーは深々と尖帽を被ると、伸びた紐をその用途に従って顎の下で結んだ。
帽の鍔と自身の鼻口の狭間から見える光景。
痛みが納まってきた男は羞恥心からか、こちらに背を向けて寝そべった状態で、下半身の衣服を再び腰へと持ち上げている。
さっさとその汚らしい臀部を隠して欲しいのが本音だ。
「まったく。こんなオオカミのオバチャン魔女を襲うくらいなら、身なりを整えて彼女でも作ったらいいものでしょう」
立ち上がったソアーが、勝ち誇るように言い放つ。
そう、若いのだから幾らでも機会はあるだろう。
ソアーは今年で、38と4分の1。
この歳になると、自分でも機会というものから縁が遠ざかるのを実感してしまう。
自分。
自分とは。
「え・・・!?私・・・!?『ソアー』!?『ソラ』!?オオカミの魔女!?人間!?え!?え!?」
ソアーは自身の身体をまさぐる。
体毛に覆われた顔。
そこで伸びる鼻口部。
髪は肩に届くくらい、軽い癖毛だ。
身体を包むのは真紅の外套。
「・・・!!」
その上でも触れれば解る、それほど大きくはないが存在感は凛としている二つのふくらみ。
その動作に付随して思い出される記憶。
『ソラ』には無い、『ソアー』の記憶。
姿鏡に映る自身の全身。
外套を羽織っているもの、新古典派の魔女が好む胸と腰の部位に装飾をあしらった上下一体のつなぎ服とブーツ、下着だけ。
その全てが年齢が顔つきに表れた有毛人種のオオカミ族、一般的な妙齢という期間を過ぎたの女性。
灰色ががった茶毛のそれを彼女は自身だと認識している、記憶している。
「わ、私・・・!オオカミ女になっちゃったんですか・・・!しかもオバチャンの・・・!」
ソアーの言葉は全て真実である。
それが『ソラ』には、全てがにわかには信じがたい。
だが、真実は真実であり、厳然と存在している現状である。
「・・・」
そんな彼女の行動に対して、いつの間にか顔をこちらに向けていた、自身が撃退した暴漢が怪訝な視線を送っていた。
ソアーは咄嗟に身構える。
「そんなに見ないでください、ケダモノ!・・・どちらかと言えば、ケダモノは私の方ですが」
この時になってようやく、『ソラ』は、姿形と共に自身の口調が変化している事に気がついた。
「どうしたらいいでしょう・・・。これから・・・」
ソアーは一定間隔で揺れる床にへたり込むように座っていた。
どうやらここは列車の中だろう。
かつて自らが現在の自らになる前の世界で見知ったような、長椅子が設けられた客室ではない。
椅子はおろか、装飾さえ見受けられない剥き出しの木材と鉄材。
灯だけは点されている。
貨物車と大差ない此処は、等級としては最底辺の部類だろう。
観察すれば、先ほど自らを襲った暴漢も、衣服こそ着ているものの、薄汚れている上に所々破けている。
件の男は、ソアーとは反対の壁に背を預けて腰を下ろし、自らを眺めていた。
「さっきのことは許してあげますから、そんなにジロジロと見ないでください」
不機嫌な顔を顕わにしたソアーの言葉に対して、男は何も返さない。
視線もまた同様だ。
言葉が通じないのだろうか。
男は頭髪こそ黒だが、人種的な顔つきはかつての自分と大きく異なっている。
何処かの外国に、ではない。
異世界に飛ばされたのだろうか。
そうでなければ自身の変化に説明がつかない。
『ソラ』の世界では、獣人は創作の中だけの存在。
だが、現在は最も身近な現実だ。
「言葉が通じないのは困ります・・・」
泣き言に近い独言を吐き出したソアーの中に、ある欲求が生まれる。
それは香りとそこに含まれる微粒子によって気分を落ち着ける行為。
喫煙だ。
かつての自分は嫌悪していたものを、今はこよなく欲している。
その望みから連動して、記憶が引き出される。
自らの所有物にして、それを手に入れた経緯が一切の不明の記憶が。
「たしかポケットに煙草が・・・」
ソアーは外套の右ポケットをまさぐる。
そこには見慣れた小箱と小筒の感触。
嗅ぎ煙草入れと有毛人種向けの喫煙パイプだ。
「ん?」
もう一つ、手袋を纏ったソアーの右手に見知らぬ感覚を生む物体。
薄く折りたたまれている、紙だ。
ソアーは右手でポケットの中を全て取り出す。
そして、それらを床に広げた。
飾り気のない煙草入れとパイプは、かつて安価で買い求めた自身の私物。
具体的に何処で誰からという記憶は持ち合わせていないが。
その隣には、件の詳細不明の紙片。
綺麗に折りたたまれているので、中に記されている文字は定かではない。
煙草を嗜みながら調べるとしよう。
ソアーは慣れた手つきで、煙草入れを開け、そこに詰まった茶色の粉末を予め二つに分割していたパイプの中に少量ほど注ぐ。
そして、再びパイプを組み立てると、それを隠すようにしながら、両手を以ってパイプを自身の鼻口部の先、その鼻孔に優しく押し当てる。
パイプを見せないのは、有毛人種の婦人にとっての喫煙マナーだからだ。
無意識の記憶に疑問を感じないソアーの表情が、僅かに蕩けた。
初めてなのに、日常に感じるこの香りと安らぎが、たまらなく愛おしい。
しばらくその快楽に浸ったソアーは、ひとまず気分を落ち着くと、謎の紙片を両手で広げた。
そして、眼前まで持ち上げる。
それは電子機械で印刷されたであろう整った文字列が刻まれた手紙だった。
冒頭には彼の、ホシコの名が記されている。
内容はこうだ。
『ソアーちゃんへ。ホシコです。きっとこれを読んでいるということは、煙草が恋しくなったんだと思います。迷わず吸ってみてください。それも経験です。かつてソアーちゃんがいた世界よりは、その世界は喫煙に寛容です。それはともかく、今は夜行列車の中かと思われます。停車するまで乗り続けてください。降りた駅の街が出発点です。前に話した通り、ソアーちゃんの行動には一切の目標はありません。自分で探してみください。また、ソアーちゃ』
「―――――」
「・・・」
ソアーは読文を中断した。
男が手の甲を自身に向けながら、自身に向かって何やら話しかけている。
その言葉の意味は理解できないが、おろらくその仕草から煙草を恵んでほしいのだろう。
図々しいのも程がある。
「―――――」
「・・・もう二度と、あんなことしないって約束するなら、少し分けてあげます」
「―――――!」
「分かっているのでしょうか・・・?分かっていないでいないようけど・・・」
ソアーは立ち上げり、男の先まで歩み寄る。
そして、向けられた手の甲上で煙草入れの蓋を開けると、軽く何度か叩く。
中の粉末が甲の端に落ちた。
男はすぐさまそれを自身の鼻へ押し当てた。
「駄目ですからね?ああいうことをしては?」
言葉が通じないことを承知で、ソアーは念を押す。
歳を重ねると、物言いがくどくなってしまうようだ。
男の元から去ったソアーは先ほど座っていた場所でもう一度腰を落ち着かせると、再度手紙へと向き合う。
『切の目標はありません。自分で探してみください。また、ソアーちゃんをこの世界の住人として入り込ませるため、少しだけ整合性を図りました。ソアーちゃんが知ってるソアーちゃんの姿や煙草などの記憶や嗜好がそれです。ですが実際にそれらをソアーちゃんが経験したわけではありません。飽くまでもソアーちゃんは、その夜汽車の中でその世界に生まれた存在です。他にもその世界を生きるための最低限度の知識や習慣などは記憶として贈りました。きっと何かをしたいと言うときに連想すると思われます、ですが、言葉を主とした大部分の知識はあえて省きました。それは意地悪ではなく、知ることと経験することの楽しさを感じてほしいと考えたことです。まずは、好きに生きてみてください。きっと全てが色鮮やかな感動に溢れていると思います。最後に、天元星子はあなたの新たな誕生に対し、心よりの喜びと祝福を申し上げます。追伸:ソアーちゃんがオオカミ獣人(その世界ではセオロ人種と言います)になったのは、『ソラ』君の心の奥にあった願望に、私が少しだけ手を加えたからです。年齢と性別は私が独断で決めました。』
「・・・ホシコさん、なんで私を自分より年上にしたのでしょうか・・・?」
手紙に際して、まず浮かんできた言葉は自分でも論点が外れていると感じたものだった。
そもそも彼は何者なのだろうか。
一人の人間を異世界に飛ばし、その姿を変えて転生させることが出来る。
高位の魔術士か何かだろうか。
しかし、彼は自身の容貌をあの世界での科学の力で手に入れたと述べていた。
その意味は。
この意図は。
やめよう、今は『答え』が出ない。
そもそも、これに『問い』と『答え』が存在するのかも疑問だ。
それよりも、自身の生く末を考えるべきだろう。
手紙では停車した駅で降りろとあった。
そこに着いてから、はたしてまずは何処に行けばいいのだろうか。
「―――――!」
同席している男が、もう一度言葉を発する。
再度、手の甲を差し伸べて。
「・・・」
ソアーの心境は複雑だ。
自らが今此処で生れ落ちたら、その目覚めを促したこの者はさながら助産婦だ。
例えその心積もりが無くても、あれは誕生の祝福に当たるのだろう。
あのようなことでも。
赤子ではそれに報いることは出来ないが、自分は四十路を数年後に控えた身。
「これも・・・ホシコさんの計らいなのでしょうか・・・?」
ソアーは立ち上がり、先ほどと同様の行為を行う。
「これで最後ですからね!」
ソアーが長い口元を曲げて念を押す。
男は今まで見せなかった笑顔で、それに答えた。
「年ごろの男性なら、もっとそれ相応の身だしなみや振る舞いがあるんですよ・・・」
その仕草に不本意ながらも僅かな愛嬌を覚えた自分を癪に感じながら、ソアーは転がすように漏らした。
そこは壮言という言葉が相応しい場所だった。
貨物車同然の低等車から下車し、ホームに降り立ったソアーは思わず帽子の鍔を持ち上げて、その終着駅の高い天井を見上げた。
一面ステンドグラスの硝子張り。
それが並べられたホームを覆うように横長に連なっている。
硝子に描かれている草花や人物にどのような謂れが秘められているのかは定かではないが、美術品としての価値は十二分に感覚へと語りかけてくる。
その奥には並んだ二つの満月。
いやに幻想的だ。
そもそも、柱を用いらずともこのような巨大な天井を支えることが可能な技術とは、どのようなものだろうか。
魔術の類だろうか。
ソアーは視線を落とし、先ほどまで乗車していた列車の先頭を覗く。
そこにはかつて彼女がいた世界とそれ程違わぬ形をした、蒸気機関車と思われる動力車がその身体から白煙を吐いていた。
これらについては、追々学んでいけばいいだろう。
「そういえば・・・ここからどうしましょうか・・・?」
ホームを行き交う者達を眺めながら、ソアーは思わず呟いた。
この世界にたった独りで放り出された自身には、身を寄せることが出来る人物や場所など皆無だ。
今日は何処かの宿にでも赴こうか。
「お金・・・は持っているのでしょうか・・・?」
ソアーは自身の衣服に設けられたポケットの中を探る。
外套には喫煙道具。
その下のつなぎ服には、何もない。
念のために、帽子の中も確認するが同様だ。
「つまり私は・・・無一文の根無し草・・・」
思わずソアーが右手で顔を覆う。
その指の合間から、のぞき込む。
それは、自身に目もくれずに足早にホームを立ち去る疎らな人間達。
「ですよね・・・」
右手を外したソアーが、誰が見ても分かる程に肩を落としてうなだれる。
どこの世界でも、人はそれ程他人には関心が無いようだ。
気が付けば、先ほどまで同じ客車に相席していたあの若者の姿も見えない。
しょせんは短い、一時だけの付き合いだと思っていたのだろう。
薄情とは思わないが、僅かに物悲しさを覚えたは確かだ。
そもそもあの者は、こちらの事情など知る由もないが。
「本当にどうしましょうか・・・?」
この駅に宿泊することは可能だろうか。
言葉は通じないが、誠意を以って接すれば分かってくれるだろう。
この駅がある街の、延いてはこの世界の治安の程度は定かではない。
だが、あの一件から鑑みるに、かつて自身がいた世界と比べれば低いと考えるのが妥当だ。
今の自分は獣人でも女性。
見知らぬ街の夜を歩いて、あの男よりもさらに悪意に満ちた暴漢に出くわして傷一つなく撃退できる自身など何処にもない。
一応は魔術士の格好をしているソアーだが、彼女の意識と記憶にはそれらに関する事柄が一切存在していない。
「困りましへぇぁ!?」
不意に、ソアーの肩に後ろから手が置かれた。
彼女は前方に飛び跳ねながら振り返る。
それは異貌の者だった。
漆黒の生地に金糸の刺繍が施されたローブ。
それが首から足首まで覆っている。
頭部は金属か何かで、何本もの角が生えた兜と仮面で覆われており、人種はおろか性別や年齢さえ判断できない。
腕の付け根に回された横長の紐から察するに、鞄を背負っている。
背は高い。
かつての自身より、握り拳二つ分ほど視線の位置が上昇したソアーだが、眼前の者は自分よりもさらに長身だ。
「あ・・・あの・・・何か・・・?」
ソアーの呼びかけに、異貌は答えない。
身動き一つしない。
そこに悪意や敵意は感じられないが、得体のしれない故の不安は募る。
「あ・・・あの・・・私・・・言葉が分からなくて・・・っ?」
おそらく夜汽車の乗客だろう。
浅黒い肌の短身、初老の男性が異貌の横で一礼した。
胸の前で拳同士を突き合わせる見慣れぬ仕草を伴って。
そして立ち去る。
今度はソアーと似て非なる、馬の顔をした若い男の二人組だった。
彼らも同じ礼をした後、歩き去った。
「あ・・・あの・・・もしかして・・・お坊さんか何かでいらっしゃいますか?」
答えは返ってこない。
だが、十中八九間違いないはず。
この世界の宗教については無知だが、何処の場所でも人々から敬われるのは僧侶などの類だろう。
巡歴の修行僧かそれに準ずるものだとしたら、もしやこの者は自身を案じてくれているのだろうか。
「あの・・・!この辺に教会とか何かとかありますか・・・!?食事とかお風呂なんて贅沢言いませんから!一晩泊めてもらうだけでいいので・・・あの・・・紹介していていただけませんか!?」
しどろもどろな身振り手振りを交えて、ソアーが言葉を紡ぐ。
初対面の人物にこのような願いをぶつけるのは羞恥心が生まれるが、それよりも身と心の安息を求めるのが先だ。
異貌は歩き出した。
ソアーの横を通る際に、今度は前から肩に、小手のような厚手の手袋をはめた手を置くと、その先へと。
彼女は振り返る。
ついてこい、ということだろうか。
ソアーの中にはまだ懸念が残る。
自身の言葉を理解してくれたのだろうか。
そもそも、あの者が本当に僧侶だと確定したわけではない。
この先には現状よりもさらに都合が悪いことが手招いている可能性は十分にある。
だが、ソアーは異貌の後ろに倣った。
頼る者がいない自分に、目を向けてくれたのだ。
もしそこに厚意あったら、それに応えたい。
もし待ち構えているのが悪意だったら、その時全速力で逃げおおせばいい。
幸い自分には身軽に逃走するために惜しむようなものは、まだ外套と喫煙道具くらいしか持ち合わせていない。
「あ、歩くの結構速いですね!でも、大丈夫ですよ!ちゃんと、ついていきますから!」
それほど若くはないソアーが、少々の強がりを込めて前を往く者に話しかける。
もちろん、返事は無い。
それでもソアーは、それがその者の優しさのように感じていた。
二人は、何度か礼を捧げる人々の前を通り過ぎながら、駅の構内を出た。
続く