別の女性と結婚するから諦めろと言った婚約者が、モフモフわんこ姿で飛び出してきた
「俺は愛するセラフィーナと結婚する。アストリア、お前との婚約は破棄となった」
「え?」
三ヶ月の遠征に出ていたユーベルトが帰還したと聞いてから、すでに数週間。
何の音沙汰もなかった婚約者から突然連絡があり、彼は訪ねてきた。美しい女性の肩を抱きながら。
アストリアは彼の好物の芋タルトをさりげなく準備していたが、彼はそんなものには目もくれず、婚約解消証明書を突きつけてきた。
「婚約破棄……?」
「お前の父親にも話は通してある。あっさり承認してくれたよ」
「でも……け、結婚したいって言ってくれたのはユーベルトで」
「それは気の迷いに決まっているだろう。俺はお前のことなど好きでもなんでもない。お前のような混血女と結婚して家人に白い目で見られたくもない。それに何より、俺にはこのセラフィーナがいる」
ユーベルトに腕を絡ませたセラフィーナは、甘えるように眉を下げた。
「もう。彼女は仮にもあなたの元婚約者なんだから、そんなに酷いことは言わないであげて」
「しかし、彼女に優しい言葉をかけて君に誤解されたくない」
ユーベルトは再びアストリアに厳しい視線を向ける。
「で、でも、前に聞いた時は、ユーベルトはセラフィーナ様のことはなんとも思ってないって……」
「そんなことは一言も言ってない」
唖然としていると、セラフィーナが同情するように眉を寄せた。
「アストリアさん、辛いかもしれないけれど本当のことよ。信じられないかもしれないと思って、私が今日同行したの。彼は本当は私のことがずっと好きだったと教えてくれたわ。今は毎日愛していると言ってくれるの」
「……し、信じられない」
「本当なのよ。あなたは毎日言われていた?」
「……」
アストリアが黙ると、セラフィーナが小さく鼻で笑った。
「慰謝料は払う。だから俺のことはもう諦めてくれ」
ユーベルトは身内には甘いが、敵だと認定すると、すっと線を引いて容赦しなくなる時がある。
愛する女性との障害になるアストリアは、もう彼の敵になってしまったらしかった。
何も言えなくなってしまったアストリアの耳の奥で、バタンと冷たく閉まった扉の音が響く。
俯いたアストリアは、窓のすぐ脇にある茂みがガサガサと揺れたのには気が付かなかった。
(……婚約破棄)
混乱していた。
彼はアストリアのことが好きだと言ってくれたのに。セラフィーナのことはちゃんと断ったと言ってたのに。なんで。
疑問ばかりを繰り返しながら、アストリアは天井を仰ぐ。そして一年前のあの時を思い返していた。
ことの発端は、親友が結婚して、アストリアが結婚はいいものだと思ったことだ。
そしてどんな話の流れだったかは忘れたが、遊びに来ていた幼馴染のユーベルトに、ついその感想を溢してしまった。
「アストリアは結婚したいの?」
「そうみたい。今までそういうのには全然興味なかったのにね」
「そっか。結婚相手に希望はあるの?」
「私でもいいって言ってくれる人なら誰でもいいかなあ。私、庶子だし混血なので」
そう言うと、ユーベルトは隣で小さく息を吸ったようだった。
「じゃあ、ちょうどいいのがいるんだけど」
「ちょうどいいのがいるの?誰?」
「……俺」
そう言われて、混乱したアストリアはしばらく視線を泳がせたのちに、あえてゆっくりと首を傾げた。
「オレさん?家名はなに?」
「ベルディア」
「オレ・ベルディアさん?ユーベルトと家名が同じだね。遠い親戚だったりして」
「……それで通すつもり?」
ユーベルトは困ったように眉を寄せた。
「まあ、嫌だったら忘れて」
ユーベルトが席を立つ素振りを見せたので、アストリアは慌てて返した。
「まあ、私は大丈夫なので、ユーベルトがいいなら」
そうしたら、ユーベルトは後日改めて申し込みをしてくれた。正式に、片膝をついて。
(……せめて、『よろしくお願いします!』ってちゃんと姿勢を正して言えばよかった。そうしたら、婚約破棄まではなかったかもしれないのに)
いや、そんな些細な努力だけでは何も変わらないか。
ユーベルトは騎士として一目置かれるくらい強くて、セラフィーナは聖女候補。二人とも名家出身の美男美女で、誰に聞いてもお似合いだ。
ぽろり。
突然何かが溢れてきて、目の前がぼやけて見えなくなった。
あれは、恋愛経験もないアストリアに起こった、大きな大きな奇跡だった。
結婚したいなんて言ってもらえて、本当はめちゃくちゃ嬉しかったのに。
一緒に観劇に行ったのだって、つい食べ物に夢中なフリをしてしまったけど、恋人用の席をとってくれていて嬉しかった。
舞踏会の時だって、アストリアは恥ずかしすぎて、ユーベルトの瞳と同じ色のリボンを付けられずにいたけれど、ユーベルトはちゃんとアストリアの瞳と同じ色のポケットチーフを身につけてくれていた。
何気ない日に貰った花束も、アストリアがいい匂いと言った花ばかりで幸せだった。
文句を言う時もあったけど、彼がいつも一番に気を遣ってくれていたのは分かっていた。
だけどそれにどう報いればいいのか分からなくて、アストリアが恋とか愛とかに戸惑っていたら、あっけなく他の女性にとられて終わっていた。
アストリアは婚約解消証明書をテーブルの上に放り出し、ソファに座っていた。長い時間が過ぎたような気がしたが、実際はユーベルトたちが去ってからまだ数分も経っていない。
鼻水を啜りながら、アストリアがぼんやりと自分の頬をつねった時。
「わんわんわんわん!」
突然、犬の鳴き声が聞こえた。
アストリアが暮らすこの小さな家にご近所さんはいないし、野犬被害というのもそうそう聞かない。
しかし声のする方を見れば、泥水がびちゃびちゃしたたり、小枝や藻が張り付いてボロボロな子犬がいて、無我夢中で部屋の大きな窓ガラスを引っかいていた。
「……どうしたの?」
お腹が空いて死にそうなのか、なんだかとても鬼気迫る様子の子犬だ。しかし怖いと思う前に、可哀想だと思ったアストリアは、ユーベルトに渡せなかったお菓子を二、三個手のひらに載せて窓を開けた。
「これ、食べていいよ」
屈んでお菓子を差し出したが、子犬はアストリアの脇を疾風の如く駆け抜け、テーブルの上に飛び乗った。
汚い子犬は低く唸り声を上げて、婚約解消証明書に襲いかかる。そして小さな体をいっぱいに使って紙を引き裂き、ガジガジと噛みついていた。
「あ、待って。それは食べ物じゃなくて大事な書……」
言いかけて、アストリアは動きを止めた。
別に、大事な書類なんかではないか。無駄な抵抗だとは思いつつ、アストリアは子犬を止めはしなかった。
しばらくして書類がみるも無惨な姿になり、子犬が紙片の上で肩で息をしていた。
遊び疲れたのかとも思ったが、ドロドロになってしまったテーブルの上に真っ赤に滲むものを見つけ、アストリアは子犬を抱き上げた。
「ひゃん!」
「……血が出てるよ」
いきなりアストリアに覗き込まれた子犬は驚いてしまったのか、石のようにおとなしくなった。
ひっついている藻や葉をどかして観察してみると、脇腹と足に怪我をしている。
アストリアは浴室で湯を用意し、子犬を洗ってから怪我の手当てをすることにした。
なぜ子犬がここにやって来たのか、ということを考えるのは後だ。
「こらこら逃げないで」
「うー」
「ほら目瞑って。頭洗うからね」
「ひゅーん」
子犬は最初こそ嫌々をしていたが、捕まえて頭や腹を撫でて洗ってやると気持ちよさに抗えなかったのか、尻尾を振って喉を鳴らしていた。
タオルで優しく拭いて怪我の手当てをしてやると、子犬はとてもフワフワになった。
小さいけれど、捨て犬というにはみすぼらしさがない。しかし首輪はないのでやはり野良なのだろうか。
「なんで泥だらけだったの?」
「わふ」
「どうしてここに迷い込んだの?」
「わふ」
「ご飯食べる?」
「わふ!」
尻尾を振って、子犬は浴室から飛び出した。
短い廊下をとてとてと歩き、少し進むと後ろを向いてアストリアがちゃんとついてきていることを確かめる。
「わん」
アストリアに扉を開けさせて、子犬は部屋の中に入った。そしてソファに置かれている籠に頭を突っ込み、芋タルトを食べ始めた。
ガツガツと食べる様子を見るに、相当お腹が減っていたようだ。
「美味しい?」
「わふ」
「それね、私が作ったの。そのお菓子だけは、なかなか上手に作れるんだ」
「はむはむ」
アストリアは子犬の隣に座り、芋タルトを一つ齧った。
料理が下手なアストリアがこのお菓子を上手に作れるようになったのは、ユーベルトが食べたいと言ったからだ。彼が飽きることなく長年にわたって同じ菓子をねだってくるものだから、何度も作り続けたアストリアは芋タルトを極めてしまった。
子犬は籠にあった全てのタルトを平らげ、ぺろぺろと顔や足を舐めていた。
「お腹いっぱい?」
「わん」
「じゃあたくさん食べたんだから働いてもらおうかな。こっちにおいで」
アストリアは子犬を抱き上げ、膝の上に乗せる。しかし頭を撫でようとすると、子犬はピョンと跳んでソファの上に戻ってしまった。
「こっちおいでよ。犬の仕事は撫でられることだよ」
「うー」
「ほらほら、スカート汚しても大丈夫だよ。なでなでさせなさいよ」
おいでおいでを繰り返すと、渋々といった様子の子犬が膝の上に乗ってきた。
「いい子いい子」
子犬は耳をピンと立ててものすごく良い姿勢で座っているが、わしゃわしゃと撫でてあげると、だんだんと伏せの姿勢になり、最終的には顎を足につけて寝息を立て始めた。
怪我もしていたし、お腹も空かせて疲れていたのかもしれない。
柔らかいお腹が上下するのを撫でながら、小さく揺れる尻尾に目を細めた。
規則正しい柔らかさに、少しだけ気分が紛れる。
落ち込んでいる時にモフモフを触るといい、というのは本当のようだ。
今日はこのまま何もしたくない。子犬の飼い主を探すのは数日後でもいいだろう。
その夜遅く、アストリアはようやくベッドに入った。
無理やりに目を瞑っていたが、やはり夜はよくない。少し寝返りを打つたびにまた涙が出てきた。
「情けないなあ……」
アストリアがズビッと鼻水を啜ると、クッションで作った寝床で寝ていた子犬が首をもたげた。
窓から入ってくる月あかりに照らされて、とたとたと歩いてくる姿が目に入る。
「くーん」
子犬はベッド脇でおすわりをしていた。
たまらなくなって抱き上げると、子犬は涙をぺろぺろと舐めてくれた。
「鼻水だけ綺麗に避けてるね」
「わふ」
「ふふ。私ね、婚約者に振られちゃったんだ。あんな風に冷たくされた事、今までなかったから驚いちゃったな。好きな人ができたんだって。でもセラフィーナ様って侯爵令嬢なんだけど、あんな女性に好きだって言われたら、そりゃ勝てないよね」
「うー、わんわん!」
子犬が毛を逆立てたので、静かに頭を撫でてやった。
「大丈夫だよ。時間が経てばきっと忘れられるよ」
「わんわん!」
「どれくらいかかるか分からないけどね。私、あの人のことすごい好きだったから。ふふ。言ったことなかったけど、それくらい言えば良かったね」
子犬をぎゅっと抱きしめるとぬいぐるみのように動かなかったので、好き勝手して温かい背中に頬を押し付けた。
「わ、わふ!」
「ごめんねえ、今、背中の毛でめちゃくちゃ鼻水拭いてる」
「わふ……」
…
次の日。朝起きると、アストリアの隣で子犬がコロコロと丸くなって、すぴすぴ寝ていた。
よくみると、背中の毛がカピカピになっている。アストリアの鼻水のせいだと思う。
子犬が起きたら拭いてあげようと思いつつ、朝の支度をはじめた。
「あ、おはよう」
「うー、わんわん!」
アストリアが挨拶をすると、子犬は恐ろしいものでも見たように布団の中に隠れた。
朝日が眩しすぎたのだろうか。
脱ぎ着しやすい半袖に下着姿で歯を磨きながら、アストリアはカーテンを閉める。
それから子犬を綺麗にしたり、子犬のご飯を用意したり、洗濯物を干したりしてから、使い古された作業着に身を包んだ。
「行きたくない……。行きたくないけど、休めないもんね……」
アストリアの父親は伯爵だ。しかし母親は妾ですらなかった。子供の頃にはユーベルトと知り合う機会もあったが、今は小さな家で一人暮らしをしている。面倒は見ないが、家長としての権限だけは手放さない父親に隠れて、街の小さな武器工房で働いている。母から受け継いだ血のおかげで怪我をしてもすぐ治るし、この細腕でも鉄材くらいならば持ち上げられる。
「子犬くん子犬くん。あそこの小窓は開けておくからいつでも出ていっていいからね」
「くーん」
ご飯を食べていた子犬の頭を撫で、時計を見た。もうそろそろ家を出なければいけない時間だ。
屈んでいたアストリアが立ちあがろうとした時、子犬が急に低く唸り出した。
コンコン。玄関の扉が叩かれる。
アストリアの袖を、子犬が引いた。
嫌々をするように、ブンブンと頭を振っている。
「出なきゃ」
「うー」
子犬は唸り続けたまま、ジリジリと後ずさる。
「アストリア。開けてくれるか」
「ユーベルト」
弾かれるようにして立ち上がったアストリアは、扉を開けた。
「昨日はセラフィーナがいて聞けなかったが、ここに犬はいないな?」
挨拶もなしに、彼は玄関口でそれだけ言った。
昨日はキツい言い方をしてごめんとか、幼馴染として仲良くしたいと思ってるとか言ってくれるのではないかと一瞬だけ期待してしまったが、そんなことはなかった。
「……なんで犬なんて探してるの?ユーベルトは犬なんて飼ってなかったよね?」
「まず俺の質問に答えろ」
別人のように冷たくなったユーベルトの声に、アストリアは少しだけ後ずさる。知らずのうちにごくりと唾を飲んでいた。
「…………いないよ」
「そうか。いないのならいい。だがもし万が一、犬が来たら俺に知らせてくれ。……いや、大したことではない」
大したことではないのなら、わざわざ訪ねては来ないのではないだろうか。
ユーベルトはほんの少しだけ家の奥に目をやったが、アストリアが怪訝そうに顔を顰めたのでそれ以上踏み込んではこなかった。
ユーベルトがいなくなり、ベッドの下から這い出てきた子犬は、吠えたり唸ったり落ち着かない様子だった。
そんな子犬が心配ではあったが、どうすることもできないアストリアは仕事へ行った。
これから一人で生きていくのだから、仕事まで失うわけにはいかない。
なんとか一日を終わらせて帰ってきたアストリアは、家の中がしんと静かなことに気がついた。
子犬は逃げていったらしい。
(あれだけ吠えてたもんね……)
あまり空腹は感じないので、ぼんやりしたままソファに座った。
天井を眺めていたらいつの間にか眠ってしまったらしく、「わんわん!」という声で目が覚めた。
見れば、あの子犬がいた。
子犬は何かをアストリアの手のひらに載せた。
ボタンだ。
どこかで見たことがあるような気もするが、騎士の制服か、衛兵の外套か、はたまた商人の帽子飾りか。思い出せない。なんにせよ、道に落ちていたものを拾ってきたのだろう。
ぶんぶんと尻尾を振っている子犬は、どうやらそれをアストリアにくれるつもりらしい。
「餌代のつもりかな」
「わふ?!」
「そんなの気にしなくてもいいのに、律儀だねえ」
「くーん」
子犬はなんとなく困ったような声で鳴いた。ご飯くらいお姉さんに任せておきなさい、とよしよし頭を撫でると、子犬はすぐに目を細めて舌を出し始める。
「それより、怪我の調子はどうかな?」
「わん!」
子犬は元気に返事をした。しかし確認すると怪我が増えている。しかも昨日よりも泥だらけで、銀色だった毛並みがまっ茶色だ。
「……それから、くさいね。なんかニンニクの匂いがする。私も油がついて汚いので一緒にお風呂でも入ろうか」
「わふ?!」
「ふふふ。お風呂入ったら手当もしてあげるね」
アストリアは、全力でテーブルの下に隠れようとする子犬を引っ張り出し、浴室へ向かった。
実はお風呂に入るのも億劫だったが、子犬を洗うという別の目的があれば頑張れる。
ちなみに子犬は、終始死んだように目を瞑って体を洗われていた。
少しだけ食欲が出たので夕食を食べた。しかしそれ以降の時間の流れはゆっくりで、今日を早く終わらせたかったアストリアは、もう寝ることにした。
……が、眠れなくて、何度も瞬きを繰り返す。
いくら羊を数えても、三びきから先に進まない。
アストリアは、子犬がベッドの脇で丸くなっていたので、ヒョイっと抱き上げてベッドの中に入れた。
子犬は暴れていたが、ぎゅっと抱きしめると次第に大人しくなった。
「頭も撫でていい?」
「わん!」
「肉球触ってもいい?」
「わ、わん!」
「じゃあお腹やお尻も触っていい……?」
「うー」
お腹やお尻は断固拒否されたが、ふわふわの背中に顔を埋めるだけで楽になれた。
アストリアは次の日も一心不乱に働いた。誰よりも朝早く出勤し、誰よりも遅く帰る。
そして子犬も、アストリアと同じ時刻に外に出て、アストリアが帰るころに家にいるようになった。
子犬が昼間にどこへいっているのかは分からない。不思議な子犬だ。
しかし家の中に小さくても温かい体温があるだけで、婚約破棄をされた現実が少しだけ和らぐ気がする。
(未亡人が猫を飼うことが多いって、こういう理由なんだろうな……)
「君、お家はあるの?」
「わふ」
「お家にはいつ帰るの?」
「わふ」
「もしなかったら、ここに住んじゃう?」
「わ、わふわふわふ!」
「君の特製ベッドも作ってあげる。毎日撫でてあげるし、ご飯も毎日作ってあげる。もしご希望なら、お風呂も一緒に入ってあげてもいいよ」
「うー」
「ふふふ。じゃあ、そろそろ名前も決めていいかな」
アストリアはしばし悩んで、ポンと手を打った。
「大船に乗ったつもりで『もふもふ丸』とかどう?」
「わふ?!」
「じゃあ『ふかしいも』?」
「うー」
「もっとかっこいい方がいい?男の子だもんね。じゃあ、『タルト二世』」
「ううー」
「成り上がり感が少ない?それなら思い切って『泥将軍』」
「うううー」
どれもなかなかいい名前だと思うのに、子犬は全部気に入らないようだ。なのでアストリアの独断と偏見で『おいも』になった。今までの名前よりはマシだと思ったのか、子犬もフンと鼻を鳴らしていた。
おいもは数日姿を消すこともあったし、泥だらけで戻ることも多々あった。しかし必ず帰ってきてくれるので、一緒に暮らす日々が続いていた。
…
今日は青空が気持ちいい。
婚約破棄をされてから、仕事と最低限の買い物以外で外には出なかったアストリアでも、久々に街に出てもいいかなと思えた日だった。
おいもはどこかにいってしまっていないけれど、犬用のおもちゃでも買ってきてあげたら喜ぶのではないだろうか。
尻尾を振るおいもを想像していい気分で出発したアストリアは、動物用品店でおもちゃやおやつを買い込んで外に出る。
少しだけ市場で買い物をしてから、高級菓子屋の窓硝子を覗いてみる。美味しそうと思って顔を上げたその時、アストリアはセラフィーナと仲良く歩いているユーベルトと遭遇した。
「あら、アストリアさん」
真っ先に声を上げたのはセラフィーナだった。
「元気そうで何よりだわ。ねえ、それより私たち、東の国に引っ越すことにしたの。ユーベルトが以前から勧誘を受けていた騎士団があるんですって。私も聖女選抜は辞退したから、二人で新しい生活を築いていこうって話してるの。ユーベルトってば、早く早くってとても楽しみにしてくれてるのよ」
彼女は見せつけるようにユーベルトに手を絡めていた。
アストリアが小さく後ずさった拍子に、犬用のおもちゃのボールがてんてんと地面に転がる。
なんとか拾い上げようと追いかけたが、その前にユーベルトがそれを拾い上げていた。
「なんだこれは……」
ボールをまじまじと見て、彼はアストリアの腕の中の紙袋の中身にも目をやった。
突然、ユーベルトがアストリアの腕をぎゅっと掴んだ。
紙袋が下に落ち、犬用おやつの瓶やホネを模ったおもちゃがバラバラと地面に転がる。
人気のない路地裏に力尽くで引き込まれたアストリアは、壁にぎゅっと押し付けられた。
「犬がいるのか?」
「っ……」
「言え!犬がいるんだな!どこだ!」
ユーベルトの噛み付かんばかりの剣幕に、アストリアはもがいた。
「ユ、ユーベルト、痛い……」
「言え!犬はどこにいる!」
ユーベルトに、こんな乱暴をされたことなんてなかった。
子供の頃にアストリアが大きい方のクッキーをとった時だって、卒業パーティで一緒に踊って足を十回踏んだ時だって、彼はこんなふうに怒鳴ったり暴力に訴えたりしなかったのに。
「アストリア!さっさと……ぎゃあ!!」
「わんわんわん!!!」
アストリアがぎゅっと目を瞑った時、突然腕が解放された。
へたり込んでしまいそうになる体を支えて、見ればユーベルトの腕に子犬が噛みついていた。
「おいも!!」
しかし大の男と小さな子犬では、勝負にならない。
「クソ犬、やはり生きていたか!!」
ユーベルトの腕の一振りでおいもは地面に叩きつけられ、キャンと悲鳴を上げたまま動かなくなった。そして、ユーベルトはその小さな犬に容赦無く足を振り下ろす。
「な、何してるのおお!!!!」
アストリアは後ろからユーベルトに突進し、地面についている方の足にしがみついて転倒させた。
そしてすかさず、横倒しになった彼に抱きつくようにして必死に動きを封じる。
何が彼を駆り立てるのか。バケモノのような形相でおいもに危害を加えようとするユーベルトは、邪魔をしてくるアストリアにも容赦無く抵抗を始めた。
(痛ああああ)
脇腹に拳が当たり、涙目になった。
しかしアストリアは、ユーベルトを逃すまいと必死にくらいつく。
アストリアは殴られれば痛いが、致命傷になることは少ない。今は母の血に感謝である。
「あ、アストリアさん!いくらユーベルトが振り向いてくれないからって暴力に訴えるなんて野蛮ですわっ……!」
アストリアとユーベルトの取っ組み合いに目を丸くしつつ、路地の入り口にいたセラフィーナが声を上げた。
「あなた一部始終見てましたよね!ユーベルトが子犬を殺そうとするから止めてるんです!何食べたらこれが痴情のもつれに見えるんですか!」
「でもあなた、彼が私と真実の愛を見つけて悔しかったでしょう?!」
「こんなの私が好きになったユーベルトではないので、あなたに差し上げます!……おいも、起きて!早く逃げて!」
おいもの耳がぴくりと反応したので、なんの役にも立たないセラフィーナを無視して、必死においもに呼びかける。
が、アストリアが油断したその瞬間に、ユーベルトが唸り声を上げてアストリアをひっくり返した。
アストリアに馬乗りになったユーベルトが、間髪入れずにその顔面に向かって拳を振り上げる。
恐ろしさに悲鳴を上げる余裕もなく、ただぎゅっと目を瞑ることしかできなかった。
「わんわん!」
遠くに必死なおいもの鳴き声が聞こえる。
ユーベルトの拳が落ちてきた瞬間、柔らかい毛がアストリアの鼻先を掠めた。
ぼがっ!
鈍い音がして、何かがぼてっとアストリアの顔の上に落ちた。
ふわふわとした感触に震えながら目を開くと、そこにいたのはアストリアの代わりに殴られたおいもだった。
「……おいも?」
「わざわざ戻ってきて死んだか?……ははははは。動けるようになったのなら逃げればよかったのに、馬鹿め」
ユーベルトは今さっき自分が殴った子犬を見て笑っている。
「…………ありえない」
ユーベルトはアストリアが怒っているのにも、ボロボロと泣いているのにも気づかない。
アストリアは隙だらけのユーベルトの拘束から腕を抜き、胴体を捻り、おいもを抱きかかえ、ユーベルトの頬を思いっきり叩いた。
「グフッ!」
「……え?!」
その一瞬だけ、なぜかユーベルトの顔が見たことのない者の顔に見えた。
バシン!
再び叩いてみる。
バシン!
さらに叩いてみる。
ユーベルトの顔が、やはり一瞬だけ別の者の顔に見える。
なぜかと考えるよりも先に、アストリアはユーベルトが怯んだ隙に身を起こして、おいもを背後に庇った。そして再びユーベルトにしがみつき、腕も足も使って全身でがむしゃらに締め上げた。
「う、ぐ!なにを……」
「誰か、衛兵を呼んでください!裁判官も魔導士も怪しい術に詳しい人も!それから獣医も治癒師も薬草師もみんな呼んでください!!おいもを絶対に助けて!!!」
アストリアは大通りにまで響くように声を張り上げる。
「や、やめ……」
たとえ自分の腕が骨折しようとユーベルトを逃さないとアストリアが決意した矢先、ユーベルトからガクンと力が抜けた。どうやら、意識を失ってしまったらしい。
…
王都の留置所に呼ばれたアストリアたちが対面していたのは、拘束された、浮浪者のような風体の見知らぬ男だった。
「事件はこの呪族の男によるものでした。騎士団の遠征中、ベルディア卿の隙を突いて姿形を奪う呪いを使用し、さらにベルディア卿の殺害を図った疑いがあります。動機はセラフィーナ嬢との婚姻を望んだことにあるとみられ、一方的な恋愛感情を募らせた末の凶行と考えて、余罪の追及をしています」
同席している監視官が、淡々と手に持った羊皮紙を読み上げた。
ヒュッと息を呑んだアストリアの一方で、男が叫んだ。
「一方的じゃない!セラフィーナも俺のことを愛していた。彼女は俺の全てを愛していると言ってくれた!」
アストリアの横にいたセラフィーナが、震える口を押さえながら後ずさる。
「……待って。姿形を奪う?ねえ、どういうこと?私が好きだと言ったのも、私のことを好きだと言ってくれたのもユーベルトでしょ?」
「セラフィーナ!君は『あの男は顔以外価値がない。私に惚れないなら死ね』と神に祈っていたじゃないか。だから俺が神に代わってあの男に罰を与えてやった。そして俺があの男の姿を奪って君を愛することにしたんだ。これは、俺が君に捧げる究極の愛だ!」
頬を染めた男が、セラフィーナに向かって訴えた。しかしセラフィーナの動揺は激しくなっていくばかりだ。
「何を言ってるの……?そもそも、あんた誰なの?」
「セラフィーナは路地にいた俺に言ってくれただろ。『あなたは素敵な人だ』って。あんな風に言われたの、俺初めてで……」
「嘘でしょ?」
「嘘じゃない。俺が君の言葉を違えるわけ……」
「だから何それ本気!?きっもちわる!!!そんなの聖女に選ばれるために浮浪者全員に言ったわよ!あんたはその点数稼ぎを真に受けて私に執着したってこと?!それで呪いを使って私を騙したの?!最悪!うええええええ最悪!!!!」
セラフィーナが堰を切ったように犯人の男を詰り出したので、小さな部屋は一時騒然となった。
男は半泣きになり、暴れるセラフィーナは衛兵に抑えられ、アストリアは騎士団の男に部屋を連れ出された。
「今日は事情説明の場とさせていただくつもりだったのに、すみません」
ぺこりと謝った騎士団の男は、以前ユーベルトに一番信頼できる、と紹介されたことのある人物だった。
「あの、解呪はどうやってしたのですか?呪いって術者が死なないと解けないと聞いたことがありますけれど」
アストリアの質問に、騎士の男は「その通りです」と頷いた。
しかし殺す以外にも、同じ呪いを術者にかけて全てを相殺するという方法があるらしい。しかしそれは、少しでも違う呪いをかけてしまうと失敗するので簡単ではない、と説明してくれた。
「何かおかしいと思っても、私たちは犬を信じていきなり人の方のユーベルトを殺すわけにもいきませんでしたからね。とても面倒でした」
「そ、そうですか……でも、最後には全く同じ呪いをかけることに成功したのですよね?」
「ええ。精神や認識もちょっと犬化するらしくて、ユーベルトとの複雑な意思疎通は簡単ではなかったのですが、使用例があった呪いだったので目星はつけられました。しかし、最後の最後で重要な一欠片をあなたが見つけてくれました」
「私ですか?」
「あの呪いには、全力ビンタのような衝撃があると、一瞬だけ元の顔に戻る綻びがありました。男の呪いが不完全だったんです。でもあなたのおかげで、そこまで完璧に模倣して呪いをかけ返すことができたので解呪は成功したんですよ。ありがとうございました」
「あ……いえ。なんか、こちらこそありがとうございました」
ペコペコと頭を下げあってから、改めてアストリアは騎士の顔を見た。
「……それで、その呪いでユーベルトはおいもになって逃げ回っていたんですよね?」
「芋?」
「あ、子犬でした」
「はい。遠征地で殺されかけたものの、犬の足でこちらまで帰ってきたらしいですね。私のところにも来ましたよ。しかし私は犬が嫌いでして。最初はニンニクを投げて追い払っていました」
「ニンニク……」
「でも、何度やっても戻ってきましてね。更衣室にまで忍び込まれましたよ。なぜかユーベルト自身の制服をボロボロにしていたんですけどね。まあ、今振り返ってみれば、あいつも必死だったのでしょう。何せ勝手に婚約が破棄されて、あなたには声をかけることすらできないのですから」
騎士はそう言って、アストリアの知らないおいもの行動を、かいつまんで教えてくれた。
…
数日前。
アストリアはおいもの解呪の知らせを受け、すぐに騎士団の治療施設へ駆けつけた。
おいもは瀕死の重傷だったが、治癒師の懸命な処置で一命を取り留め、解呪されてからはすっかり元気になっているという。
「……早く言ってよ、本人だって」
「何回も言おうとしたけど……」
部屋の中で、殴られたおいもの背中を恐る恐る撫でると、大きくて温かった。
「なに泣いてるの」
「……おいもが、もふもふじゃなくなっちゃって悲しいから」
おいもが指で拭ってくれるせいで、余計に目から水が溢れてきた。
「こっちが本物でよかった」
「……ごめんな」
「肉球触らせてくれたら許してもいいよ」
「手じゃだめ?」
「……いいよ」
おいもは後遺症がないか調べるために、今もしばらく治療施設に留め置かれている。本人は外に出たくて仕方がないようだ。
呪いをかけられて姿を奪われたということに関しては、アストリアの心配をして送り迎えをつけたり、男の罪状を出来るだけ重くすると息巻いていたが、彼は自分の被害に関しては無頓着だった。
今日もアストリアが芋タルトを持ってお見舞いに行くと、おいもは鏡の前で背中を見ているところだった。
「あの男の拳のあざ薄くなってきた」
「まだ痛そう」
「人の姿に戻った時から全然痛くなかったよ」
小さな子犬の体では命に関わるほどの傷も、大きな人の体に戻ったら相対的に軽い傷になったらしい。
「おいもさん、それより服を着てくださいませ、お淑女の前でございますわよ」
「お淑女は朝、破廉恥な格好で歯磨きながらウロウロしたりなんてしませんけど」
アストリアはベッド脇の椅子に腰掛けながら、ため息をついた。
そして、服を被ってから正面に座ったおいもを見る。いや、やっぱりおいもを直視できず、両手で顔を隠した。
「そういえば、パンツ見たよね……?」
「見せつけられたんです」
「お風呂も一緒に入っちゃった……」
「俺はちゃんと嫌がったからね。あとずっと目瞑ってたから」
「もうお嫁に行けない……」
「それは別に心配しなくてもいいと思うけど。まあ責任持ちますので」
「でも私、ユーベルトからは婚約破棄されちゃってますけれど」
「じゃあもう一回申し込んでおくよ」
状況が状況なので、改めて婚約を申し込んでもすんなり認めてもらえる見通しなのだろう。
軽い口調で言ったおいもの横顔を、アストリアは指の間からチラリと見た。
「……それじゃあ一つお願いが」
「なに?」
「膝つくやつも、もう一回できる?」
「そこからやり直すの?恥ずかしいから嫌なんだけど」
「そこをなんとか一生のお願いします」
「アストリアの一生のお願い、これで五十九回め」
「ユーベルトも、使いたい時にいつでも一生のお願い使えばいいのに」
「そんな気軽なものじゃないし……それに俺の一生のお願いは、多分もう叶ってるからいいや」
おいもはテーブルの上の芋タルトを齧ってから、小さく息をついた。
「はい、じゃあ膝つくやつは、いつすればいい?場所はどこがいいの?」
「……ここで、準備ができたらいつでもどうぞ」
準備と言っても何もない、と花瓶の花さえない実用的なだけの部屋を見渡したおいもは、諦めたようにアストリアの手を取って立たせると、自分は片膝をついた。
「神の御名にかけて、幸せにします。……結婚してください」
アストリアはぎゅっと目を瞑り、「すーはー」と大きく深呼吸をした。
「とっても嬉しいです!どうぞ末長くよろしくお願いします!芋タルトもたくさん作ります!頑張ります!好きです!」
息継ぎをせずに言い切ってから恐る恐る目を開けると、おいもはニンニクでもぶつけられたようにびっくりした顔をしていた。
「……本物?」
「本物ですけど。誰かが化けてるわけじゃないよ」
「そっか。こんなの、またおいもにならないと聞けないと思ってたのに」
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。 楽しんでいただけましたら作品評価で応援していただけると嬉しいです!
@Yukurakinomiyam




