009-通知書と、偽りの逃亡劇
荷物をまとめるって、本当に大変なことだった。
ただの身の回りの物だけじゃない。坂本美絵の持ち物、特に身分証明書関係は一枚たりとも漏らすわけにはいかない。全部、きっちり確認する必要があった。
だけど……どうしても見つからなかった。
あの、大学の合格書。一度だけ彼女に見せてもらった、あの紙。
私は部屋中をひっくり返して探した。きれいに整えていたはずの室内は、あっという間に紙くずと衣服で足の踏み場もなくなった。それでも、肝心の通知書はどこにもない。
――焦る。焦る。焦る。
そんな時だった。午後五時ちょうど、玄関のチャイムが鳴った。
心臓が止まりそうになるくらい、体が強張る。
……でも、ドアを開けて姿を見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
「やっと来てくれた……!あの合格通知書が、どこにも見つからないの!」
「……合格通知書?」
森太郎は眉をひそめ、ピンと来ていない様子だった。
「大学の!彼女、あれを自慢げに私に見せてきたじゃない……!」
私の声は震えていた。彼の反応があまりに薄かったから。
それを見てか、森太郎の表情も険しくなり、一緒になって探し始めてくれた。
この紙切れ一枚が、全てを壊すかもしれない。
だけど、どれだけ探しても、通知書は見つからなかった。
そして、森太郎のスマホアラームが冷たく鳴り響いた。
「時間切れだ、美絵。行くぞ。」
彼は時計をちらっと見て、落ち着いた声で言った。
「たかが一枚の紙だ。仮に誰かが見つけたところで、大した問題にはならない。」
「だめ。」
私は首を横に振った。強く、拒絶の意志を込めて。
「あれがなきゃ、私は大学に行ったって証明できない。私は――」
「いい加減にしろ!」
森太郎が、とうとう怒鳴った。
「通知書だろうが何だろうが関係ないだろ!?お前は“坂本美絵”なんかじゃないんだよ!」
私は言葉を飲み込まず、森太郎を睨み返した。
「私は、坂本美絵。あれは、私の証明なんだよ。」
「……バカか。誰もそんなもん気にしてねぇよ。誰も、お前に興味なんかねぇんだよ!」
部屋の中には怒鳴り声が反響し、空気が一気に冷え込んだ。
でも、私は一言も返さなかった。黙って、目だけで彼に反抗した。
――結局、私は彼と一緒に空港へ向かった。
顔の左側は、まだ大きく腫れていた。だから、マスクと帽子で顔の半分を隠した。
森太郎は「空港で誰かに見つかるかも」と神経を尖らせていたが、その心配は杞憂だった。
深夜の空港にはほとんど人がいなかった。
手続きもすんなり終わり、保安検査も問題なし。搭乗口に着いた頃には、まだ午後八時を少し過ぎたところだった。
――その時。
「ちょっとトイレ行ってくるね。」
そう言って、私は女子トイレに入り、個室の中でスマホを取り出した。
指先が震えていた。
私は、震える声で電話をかけた。
「……もしもし、松田警部ですか? 坂本美絵です。」
「今夜、22時30分着の成田行きの便があります。」
「その飛行機に乗っている“森太郎”という男。彼が、坂本美絵を殺した犯人です。」
電話を切った。
そして、手にしていたスマートフォンを……女子トイレのゴミ箱に、深く、押し込んだ。