004-ミーツの夜
三日後の土曜日、私は再び松田壮磨からの電話を受けた。
朝の光が斜めに部屋へ差し込み、私は裸足のままベッドに立って、クローゼットの上に置いてあるクラフト紙の箱を取ろうとしていた。
「……松田警部、どうかしましたか?」
肩と頬でスマホを挟みながら、少し息を切らせた声でそう答えた。
「解剖報告が出た。来署してもらえるか。」
いつもより少し冷たく感じられる声。
電波越しなのに、彼の声は妙に硬質で、金属音のような響きを帯びていた。
私は余計なことは訊かず、すぐにベッドから飛び降りて着替え、警察署へ向かった。
――私たち納棺師がいちばん恐れるのは、遺体の状態が酷いことじゃない。
警察からの電話だ。
遺体が法医に引き渡された後、少しでも異常な薬物の痕跡が見つかれば、真っ先に呼び出されるのは、最初に遺体を扱った私たちだからだ。
しかも――今回解剖されたのは、「坂本美绘」。
私と同じ名前の女性。
緊張するなというほうが無理だった。
警察署に着くと、松田壮磨が入口の階段に立っていた。
まるで誰かを待っているようだった。
「松田警部。」私は小走りで駆け寄る。
彼は軽く頷いただけで、中へ同行する気配はなく、こう言った。
「左側、二番目の部屋。法医が待っている。……俺は彼女の両親を待たなきゃいけない。」
「坂本美绘さんの……ご両親、ですか?」
「……ああ。」
それ以上は何も言わず、私は頷いて署内へ。
ハイヒールのかかとが静かな廊下に乾いた音を響かせる。
開け放たれたドアの奥、北島润がすでに席についていた。
前に会ったときより少し柔らかい雰囲気になっていた彼は、私を見るとすっと立ち上がって微笑んだ。
「前回は名乗る暇もありませんでしたね。」
彼は手を差し出した。
「北島润です。今回の解剖を担当しました。」
軽く挨拶を交わすと、彼は机の上に置かれた分厚い報告書を私の方へ押して寄越した。
「今日はですね……あなたがご遺体を引き受けた際、何か気になる点はありませんでしたか?」
少し考え込む。
「……とても穏やかでした。
眉間に皺もなく、口角も自然に下がっていて、筋肉も緊張していない。
――苦しまずに亡くなった、そんな印象でした。
それ以外は、特に記憶に残る点は……」
北島は頷き、次の質問を投げかけた。
「では、遺体に何か不自然な痕跡は? 針跡、切り傷、火傷など……」
私はわずかに表情を曇らせ、記憶をたぐる。
「搬送された時点で、すでに腐敗が始まっていたので……
私は簡単な清拭しかしていません。
もし傷があっても、死斑や腐敗に紛れて見落としたかもしれません。」
北島はため息をついた。
その顔には、微かに失望の色が浮かんでいた。
「私たちも完全な解剖を行いましたが、明確な外傷は見つからず、毒物の痕跡も検出できませんでした。」
少し間を置き、声を低くして続ける。
「……報告書上では、自然死としか言えません。」
私は眉をひそめた。
自然死? あの若さで、健康体だった彼女が、突然自宅で?
そんな馬鹿な――。
「この報告……」
指でその分厚い紙束を示し、松田警部に説明してもらおうと思った、そのときだった。
松田壮磨が会議室のドアをノックして、北島に何かを告げた。
どうやら坂本美绘の両親への説明のために呼びに来たらしい。
私は残されたまま、仕方なく報告書を開いたが――
そこに並ぶ専門用語は、どれも私の仕事とは無縁の言葉ばかり。
“ベンゾジアゼピン類代謝物”、
“高濃度のアドレナリン反応”……
意味が分からず、読む気力すら失せて、私は会議室を出た。
気を紛らわせるため、誰かに声をかけようと廊下を歩くと――
あの、遺体搬送のときに対応してくれた若い警官が立っていた。
彼は急ぎの様子もなく、私はそっと近づいて小声で尋ねた。
「……坂本美绘さんの件、何か進展あったんですか?」
「えっ……ああ、坂本さんのことですね。」
彼は少し照れくさそうに頭をかいた。
「僕も詳細は分からないんですけど、朝の会議で松田警部が言ってたんですよ。
体内からいくつかの処方薬の成分が出たって……
それと、なんか興奮剤っぽいものも……」
彼は肩をすくめて、苦笑いした。
「化学名とかよく分かんないけど、聞いてるだけでちょっと怖かったっすね。」
それから、彼は顔を寄せて小声で続けた。
「聞いた話ですけどね……
彼女、“ミーツ”ってバーで働いてたらしいです。名前はお洒落だけど、実際は結構荒れてる店だって。
松田警部も、今度そこの監視カメラを調べに行くって。」
そして、慌ててこう付け加えた。
「……あ、これ、他言無用でお願いしますよ? まだ正式には決まってないんで。」
そのとき、会議室のドアが開いて、松田壮磨が出てきた。
彼が私に手を振ったのを見て、若い警官は私にウィンクを一つ残し、その場を離れていった。
――彼の言葉が、頭の中で何度も反響する。
“処方薬”
“興奮剤”
そして、“ミーツ”。
不穏な気配は、少しずつ形を成し始めていた。