D-1 勇者少女よ、世界を救え
世界に災厄の危機が訪れようとしていてた。
魔王の覚醒、それに伴う魔族の侵攻――――人類と魔族による世界大戦。
その最悪の未来が示されたのは、およそ四年前。
神聖教会が保有する大神殿に、神の啓示が降りた、その瞬間だった。
「…………ナ……」
しかし、神が示し給うたのは凶報だけではなかった。
魔王の覚醒と同時、その絶大なる"魔"に対抗すべく特別な力を有した人間も開示されたのだ。
その者こそが、『勇者』。
世界の混沌を破壊し、魔を切り裂き、人々に安寧と平和をもたらす存在。
それこそが、『勇者』に選ばれた者の使命である。
「……お……、聞い…………レ……!」
だから勇者に選ばれた者は自らの身を粉にし、献身と自己犠牲の精神で民を守らなくてはならない。
――――と、勇者学院で教わった鉄則をぼんやりと思い出していたところで。
「おい! 聞いてんのかよエレナ!!」
「ふひゃあ!?」
突如耳元で叫ばれた大声に、少女――エレナは全身を震わせた。
エレナは少しふんわりとした綺麗な金髪を靡かせて、背後を振り返る。
そこには筋肉質な薄着の女性が立っており、片眉を曲げながら無骨な剣を肩で担いだ。
「何だよ。もう昼間だってのに、まだ寝ぼけてんのか?」
燃えるような赤髪を無造作なポニーテールでくくり、右目は黒い眼帯で隠されている。
肌はほのかに日焼けしているが、薄地の服から覗く美しい腹筋には同姓でありながらエレナも見惚れてしまう。
それでいて女性らしい体のラインも兼ね備えているのだから、いまだ起伏の少ない子供っぽい体型の自分では勝ち目がないなと常々思っていた。
しかし、現れたのが見知った仲間で安堵する。
エレナは彼女に向き直った。
「ご、ごめんラスキア。ちょっと考え事しちゃってて」
「ったく、しっかりしてくれよ。エレナはこのアタシを仲間に引き入れた『勇者』様なんだからよ!」
「……うん。そう、だね」
彼女の名は、エレナ=シャーロット。
神が選定し、人々を平和に導きし一〇一人の勇者の一人である。
が、『勇者』という肩書きで呼ばれる度、エレナの心中には重りのような暗い後ろめたさが渦巻いてしまう。
が、勇者エレナの仲間であり、最強の前衛を自称する剣士ラスキアは、愛剣を自身の肩でバウンドさせながら訊ねた。
「で、こんな誰もいねぇ寂れた漁港でなにしてんだ? 今日の漁はもう朝方で全部終わったろ?」
エレナとラスキアの目の前には、地平線まで覆い尽くす広大な海が広がっていた。
ただし、青く美しいオーシャンビューは不気味な雰囲気を放っていた。
まるで海の底に怪物が眠っていてじっとこちらを睨みつけているような、おぞましさすら覚える絶望の海洋が静かに波を揺らしている。
エレナは静かに海を眺めながら、神妙な面持ちを浮かべた。
「魔界へ続く三大魔境の一角、『滅びの呪海』。その最前線の漁村に滞在させてもらってるんだから、一瞬だって気は抜けないよ」
「たしかに警戒は必須だが、そんな四六時中見張っておく必要もないんじゃないか? 二十四時間体制で海を見張ってる村民もいるし、何か異変があったら櫓の鐘が鳴らされるからすぐに気付けるだろ」
「そうなんだけど……でも、今の私にはこれくらいしかできることがないから」
そう言って目を伏せるエレナに、ラスキアは自らの頭を無造作に掻いた。
時折、エレナはこういう顔をする。
――――【失格勇者】。
その蔑称が、ラスキアの脳裏を掠める。
「外野のバカ共なんて気にすんなよ。エレナは十分この村の力になってる」
「……うん。でも、私には回復しか取り柄がないから。今も攻撃魔法の練習はしてるんだけど、いまいち上手くいかなくて」
「逸るなよ。まだ勇者学院を卒業して数ヶ月だろ? てか、言っちまえばアタシよりも年下だし。肩肘張りすぎるのも良くないぜ」
エレナはまだ齢十六の少女である。
対してラスキアは十八。
二歳しか変わらないが、ラスキアはエレナを危なっかしい妹のような目線で見ていた。
「ま、攻撃魔法の特訓も暇潰しの魔境監視もほどほどにな。アタシが安心して海から這い出てくるクソ海魔をぶった斬れるのも、エレナが後ろで控えていつでも回復してくれるからなんだぜ? それに、付与魔法だって強力だしな! アタシの剣技にさらに磨きがかかるってもんだ!」
「はは、そっか。それなら、ラスキアにはもっと頑張ってもらわなきゃね!」
そう言って、笑い合う。
絶望が渦巻く魔の海洋を背景に、二人の相棒の眩しい絆が垣間見えた――瞬間。
遠くから、かすかな叫び声が両者の耳を撫でた。
「ゆ、勇者様ー! どなたか勇者様はいらっしゃいませんかー!!」
「っ!?」
「ッ!」
エレナとラスキアは同時に顔を向ける。
『滅びの呪海』に隣接する海岸線に沿うように作られた木造の足場。
年月が経過し大量の湿気を含んだその足場は上空から俯瞰すれば緩やかに湾曲した構造になっている。
付近には一定間隔で旧式の魔法船が停留しており、その船の隙間を必死に走り抜ける男の姿が見えた。
格好からして、この漁村の村民の一人だ。
エレナとラスキアは無言で走り出す。
その男性に向けて走り、エレナは慣れない大声を出した。
「ど、どうかしましたかー! 何があったんですかー!!」
「勇者様ですか!? ……あっ」
男は運良く勇者と出会えた喜びと、その勇者がエレナであった落胆が同時に心中を埋め尽くしたような微妙な顔つきをしていた。
その表情にエレナは針で突かれるような痛みを覚えるが、今は緊急事態だと意識を切り替える。
村民と相対したラスキアは、荒々しい口調で続けた。
「おい、何があったんだよ! まさか、海魔が出没したのか!?」
「あ、い、いえ違います! ただ……」
「なんだ! はっきり言いやがれ!」
恐喝するようなラスキアの圧に押され、男は縋るような瞳で口を開いた。
「お、俺の息子がいないんです! まだ七歳だからそう遠くには行ってないはずだと思って探してみたら、『滅びの呪海』を走る小型の魔法ボートの姿を遠目に見た! もしかしたら息子はそのボートに乗ってるのかもしれない!!」
「そんな……」
「な、なんだと!?」
男の言葉に、エレナとラスキアは息を呑んだ。
もし本当なら最悪の状況だ。
七歳の子供が魔境に一人で置かれたら、どのように魔物に食い荒らされるか想像もしたくない。
「それが本当なら一刻も早く助けに行かないと不味い! おいアンタ、魔法船を運転できるか!?」
「あ、ああ。俺も漁師だから魔法船は操縦できるが、もし海魔と戦闘になったら……」
男は無言でエレナに視線を移した。
言葉にこそしないものの、その胸中にどのような懸念が渦巻いているかは一目瞭然だ。
ラスキアが苛立たしげに答える。
「戦力ならアタシで十分だ! 『滅びの呪海』の近海に蔓延ってる海魔くらいならぶっ倒してやる! それよりも、アンタの息子がさらに奥の海域に突っ込んでいったらそれこそ手遅れになるぞ!!」
「……分かった! 頼む、息子を助けてください!」
「ああ、アタシに任せとけ!」
「……それじゃあ、行きましょうか」
「今すぐ船を出します。こちらです!」
男は近くに停留してあった魔法船に乗り込んだ。
ラスキアもその後に続く。
エレナは唇を噛み締めて密かに拳を握り、ラスキアの背中を追って船に乗り込んだ。
「……今は余計なことは考えちゃダメ。子供の命が最優先なんだから」
『勇者』であるにも関わらず戦力の面でラスキアに頼りきりの現状にどうしようもない歯痒さを感じながらも、エレナは自分にできることをやり遂げることだけに集中する。
きっとこの男も漁村に滞在するエレナ以外の他の勇者の助けを借りたかっただろうが、今から探してもすぐに見つかるとは限らず、苦渋の決断だったのだろう。
たとえ不本意な形で乞われた助けであったとしても、エレナは全力で人々を救う。
『勇者』は、いついかなる時も王国の民を守らなければならない。
たとえエレナにその力がなくとも、その宿命は変わらない。
「絶対に助け出すから、待っててね――」
エレナの決意の言葉を後押しするように、魔力で駆動する魔法船のエンジンが響き、『滅びの呪海』に船跡を刻んでいくのだった。