二
エディス市の若者が集う街、六番街の通りに面したファストフード店で、件の行き倒れ――十六歳の新米司祭、アラステア・マクニールは、ポカンと口を開けていた。
目の前に積み上げられているのは、凄まじい量のハンバーガーの山だ。メニューの上から下まで一種類ずつ、シェイクだのポテトだのまでご丁寧に揃えてある。生まれてこの方こういった物を口にしたことのない……というか、お湯に若干のオートミールが浮いた、粥と呼んだら罰の当たりそうな代物で食い繋いできた貧乏修道院出のステアにとって、「嫌いなのあったら残していいから」という少女の言葉はあまりにも衝撃的だった。
さて、その命の恩人たる少女と言えば、彼の向かいに座って自分もハンバーガーを貪っている。艶のある金髪を二つに分けて結った、どことなく生活感のない小奇麗な少女が、豪快に口を開けてパンと肉を噛み千切る姿もまた、いろんな意味で信じがたい光景だ。
キャミソールの紐以外何も見当たらない剥き出しの肩には、日焼け止めの浮いた汗の粒が玉になっている。ツンと尖った鼻の頭にも、下まぶたの辺りにも同様に滲んだ、白っぽい汗を乱暴に手の甲で拭い、少女は気だるげにこちらを向いた。
「何? 食べないの? ……もしかして宗教的に食べられない物あるとか?」
「いっ……いえ、そういうわけでは。すみません、有り難く頂きます」
口の中で食前の祈りを捧げ、ステアは挑むように机の上を睨み、唾をごくりと飲んだ。
色とりどりの包み紙の中身は、何がどれだか分からない。とりあえず一番近くにあった包みに手を伸ばし、ステアは恐る恐る一口齧った。
(……おいしい)
ボリュームのあるミンチ肉の塊に、程よく溶けたチーズが馴染み、濃いめのケチャップとマスタードの味がステアの食欲を刺激する。空腹は最高の調味料、とはよく言ったものだ。あっという間に平らげてしまったのが惜しいほど。
人前でがっついてしまった気まずさに、ステアは視線を泳がせる。ふと、笑みの気配を感じて目を上げると、少女がほんの少し口の端を持ち上げてステアを見ていた。意外にも柔らかい表情に、ステアはどぎまぎしながら首を傾げる。
「あの……?」
「ああ、ごめん。いい食べっぷりだったから。……ヘーゼルアイなんだね。うちの姉さんと同じだ」
急にそんなことを言い、少女は頬杖をついてステアの目をじっと覗き込んだ。他意はないのだろうが、同じ年頃の女の子と接した経験など片手で足りるほどのステアである。間近に向き合ってじっくり見つめられるなんてもちろん初めてで、どうにも落ち着かない。
たじたじになってちょっと身体を反らしたステアは、ぼそりと答えた。
「そ、そうなんですか? まあでも……はい、さして珍しくもないですし。そちらに比べれば。俺、紫の目って初めて見ましたよ」
億劫そうに瞬く少女の瞳は、滅多にないと言われる菫色である。おまけに光の具合のせいか、左右で色味が違って見えた。向かって右目は青紫、左目は赤味の強い葡萄酒色だ。
珍しい色だとは言われ慣れているのか、そう、と気のない風に相槌を打って、少女はハンバーガーの山を顎でしゃくってみせる。「食べれば?」と促されているらしかった。
慌ててステアは首を横に振る。
「い、いえ! 助けて頂いた上、こんなにたくさんご馳走になるわけには……お恥ずかしい話ですが持ち合わせもないので、何もお返しできませんし」
「いいよ。行き倒れの田舎者になんて最初から何も期待してない」
さりげなく馬鹿にされたような気がするけれど、少女は実に淡々としたものである。嘲るような笑みすらない無表情から鑑みるに、単に歯に衣着せない性分なのかもしれない。
そう言われても、とまごつくステアに構わず、少女はさっさと話題を変えてしまった。
「で、何であんなとこで行き倒れ?」
「はっ? え、あ、はい、それがその、道に迷ってしまって……」
ステアがこのエディス市にやってきたのは、観光の為ではない。仕事でとある富豪の家に向かう途中、まあいろいろと――具体的に言うならば、路上生活の子供を憐んでなけなしの路銀でパンを買い与えていたところ、財布がいつの間にか鞄ごと掏られていたという事情があって今に至るわけなのだが、事の次第を説明しながらステアは眉を寄せた。
「まあ、掏られたのは俺の不注意のせいだからいいんですが……道を尋ねても誰も答えてくれないのには困りましたよ。聞いてから言葉を濁すってことは知らないわけじゃなさそうなのに」
「……。ねえ、それ」
「なあミリアム、少年が言ってるのってアーヴィング家のことじゃないのか?」
不意に降って湧いた男の声に、ステアはぎょっとして顔を上げる。いつの間に現れたのか、少女――ミリアムと呼ばれた彼女の斜め後ろには、背の高い男性が立っていた。
淡い金髪を後ろに流して額を露わにし、眠そうに半ば閉じられた目はミリアムと同じヴァイオレット。左右の色味の違いは、ちょうどミリアムと逆になっている。ステアも人のことをとやかく言える格好ではないが、真夏に長袖のシャツとグレーのベストを合わせ、灰紫のタイ、黒いズボンにロングブーツという古風な出で立ちの男性は、ラフな格好の少年少女が集う店内で些か浮いていた。
年の頃は二十代の後半か、もしかすると三十代か。どちらにしろ三十半ば以上ということはあるまい。ミリアムの年の離れた兄だろうかとあたりを付けて、ステアは問うた。
「お連れの方ですか? ……あ、すみません。申し遅れました。聖サリエロ修道院から参りました、アラステア・マクニールと申します。友人は皆ステアと呼ぶので、よかっ」
「ぎゃあ!」
……ぎゃあ?
目を丸くしたステアに構わず、男性はぐしゃぐしゃと自分の頭を掻き回し、大げさな悲嘆の声を上げる。
「サリエロ! ああ絶望だもう駄目だミリアム! こんなとこでまで讃美歌持ち歩いて聴きたがる変態だからそうじゃないかとは薄々思ってたけどまさかそんなへぶっ」
「うるさい黙って暑苦しい。……ええと、ステア? お連れの方って? 見えてるの?」
流れるような罵倒と共に男性の顔面に裏拳を叩きつけ、何事もなかったかのような顔でミリアムはステアに向き直った。いまいち疑問の意味が分からず困惑しつつ、ステアは頷く。
「はあ、まあ……お兄さんですか? 親戚の方ですよね。ちょっと顔似てますし」
「!? に……っ、似てない、似てないから! やめて!!」
青ざめて我が身を掻き抱いたミリアムとは対照的に、今までステアを威嚇しながらミリアムの背後に隠れていた男性は、感激したように両手を広げ、眦を緩めた。
「おお……なんだ少年、見直したぞ。意外に話の分かる神父様じゃないか。似てるか、そうかそうか……ふふふ、そうだろうそうだろう! 何を隠そう、こちらの美少女ミリアムのひいお祖父ちゃんこそこの僕、ヒューバートだからね!」
「あ、なるほど、ひいお祖父さん……。……えっ?」
誇らしげなヒューの言葉に頷きかけたステアは、耳を疑った。血の繋がった曾祖父と曾孫というにはどう見ても計算が合わない。合わないどころではない。もはや事件だ。
事態が呑み込めず、目を白黒させるステアに同情の目を向け、ミリアムは眉を寄せた。
「ヒュー、黙れって言ったでしょ。……ステア、探してる家ってアーヴィングの幽霊屋敷? それならこの通りを真っ直ぐ行った先。行くだけ無駄だと思うけど」
「は、はい? 無駄って?」
「あそこの次女は正気だから、悪魔祓い専門の司祭の手は必要ないの。……不良娘の深夜徘徊くらい、よくあることでしょ。時間の無駄だから、報酬だけ貰って、適当な嘘でもついて帰った方がいいよ」
滔々と淀みなく語るミリアムの言葉は、驚くべきことに、概ね「正解」だった。
ステアのいた聖サリエロ修道院は、表向きただの貧乏修道院だが、悪魔祓いの精鋭が集う派遣所としての側面を持っている。幼い頃に適性を買われて余所からサリエロに移ったステアは、同世代の誰よりも早く司祭の叙階を受けた、サリエロ期待の新人だ。そんなステアの初任務が、「アーヴィングの幽霊屋敷」での悪霊退治だった。
エディス随一の名家・アーヴィング家には、三人の娘がいる。末っ子は霊感すらないものの、上の娘は所謂「憑かれ体質」で月に一度はよからぬものを呼び寄せてしまい、それにつられてか、二番目の娘も数年前から奇行に走るようになってしまったそうだ。ステアに白羽の矢が立ったのは、難儀な性格だという次女と年が近く、多少は話も合うだろうという安易な理由からだった。
しかしミリアムは、次女を「正気」だと言う。もしかしたら友人なのだろうか? 見てきたような言い方を怪訝に思いながらも、ステアは苦笑して眉を垂れた。
「お金や名誉が欲しくて来たわけじゃありません。悪魔の仕業じゃないならそれに越したことはないし……もし他に悩みがあるのなら、それを聞くのも俺の仕事ですから」
「……。ド善人なんだね、ステアって」
褒めるような言葉とは裏腹に、げんなりとした顔で溜息を吐くと、ミリアムはステアに軽く手を振って立ち上がった。二度目の「黙れ」宣告以降、律儀に黙り込んでいたヒューが後に続いた。遠ざかる二人の背中に、ステアは慌てて椅子を立って声をかける。
「え、あの、ミリアムさん? これ!」
「食べていいってば。そろそろ面倒臭いよ、君。司祭って他人にハンバーガーおごってもらっちゃいけない決まりでもあるの?」
振り向いてそう答えたミリアムの顔が本当にうんざりした様子だったので、ステアは思わずたじろいだ。身内には謙虚過ぎると苦笑いされるだけのこの性分も、都会っ子の手にかかれば「面倒臭い」と表現されてしまうものらしい。
思いもしなかった評価が胸に刺さり、それでも納得いかない顔のステアに、ミリアムは息を吐いてひらひらと片手を振った。
「見返りとか感謝が欲しくて助けるわけじゃないんでしょ、君。今回は私も君と同じってこと。じゃあね」
妙に男らしい台詞を吐いて、それきりミリアムは振り向きもせずに去って行った。
ハンバーガーの山の前に一人取り残され、ステアはぽつんと呟く。
「……。……変わった子だったな……」
雑踏に紛れて消えて行くヒールの音を見送った後、ステアの胸を満たしていたのは、不思議な高揚感だった。華奢に見えた少女の背中が、やたらと頼もしく脳裏に蘇る。
コンクリートの砂漠のような大都会で、見ず知らずの行き倒れを保護し、食事をごちそうしてくれた上「ありがとう」の言葉も求めずに去っていくなんて。
「……かっこいい」
口をついて出た言葉は少なくともミリアムの外見とかけ離れた賛辞で、乙女のように頬を染めるステアも聖職者として問題だらけだったが、幸か不幸かここは大都会のど真ん中だ。
ステアにそれを指摘する者は、結局、誰一人として現れなかった。