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昨日と同じように、教室の皆がいなくなるのを待つ。溜まっている課題を今日のうちに精算しておきたかったからだ。
帰りのホームルームが長かったのもあってか、部活組は目で追っていても気付けば居なくなっていた。時間割的にも内職が出来ないので、早く終わらせたい身としては中々にありがたい。
誰もいなくなったのを確認して、課題を出す。恥じらうのが嫌ならさっさとやっておけという話だ。
次からは絶対課題を貯めない。という何度目かの願掛けをした。
別に貯めたくて貯めているわけじゃない。単純に僕の頭と要領が悪いからこうなっている。
「あ、いたいた」
廊下側の窓に目を向けると、職務室から帰ってきたのか久野が廊下の窓から顔を出していた。
「あ、どうも先生…」
「あーやってんのね、ソレ」
上から被せるように言うと、久野は机に目を向ける。まだやっていない課題を見られたという羞恥心と、絶妙に息苦しい空気感に抑圧される。
「あ、はい…」
「あー今ちょっと時間ある?それともこのあとなんかあったりする?」
「いや…何もないので大丈夫です」
「ああ良かった良かった」
顔は全く良さそうな顔をしていない。
「んでさぁちょっと話があるんだけども、果達君」
「…はい、なんでしょうか?」
当たり障りのない返事をする。
こういう時、大体悪い方に物事は転換していくのを僕は知っていた。と、いうか今の状況には既視感があった。
それは16年に生きてきた"こっち"の世界のことではない。
一瞬呆れたような顔をした久野は教室に入ってきて僕に向かって1冊のノートを見せた。
「何これ?」
昨日の朝の様に突き放す言い草で一言。それは昨日僕が帰り際に出した課題だった。
今その課題がどういう訳だか、久野がぶら下げながら持っている。
「……課題、です」
「うん、そんな事は分かってる」
鋭い言葉は僕の喉元に突き刺さる。
返事を、したい。というか、しなければならない。
弁明の余地を発するタイミングはきっとこれ以降貰えないだろうから。
重い重い空気を退けながら言葉を口にする。
「あの、昨日の朝のときに出せなくて本当にすみません…次からは課題が遅れないように…」
「そこじゃねぇよ」
久野はまたも被せるように言い放つ。先程残っていたかもしれない一滴ほどの優しさは完全に失せていた。
ノートをペラペラと捲り暫く眺めたあと、開き癖をつけると、僕の目の前に乱雑に投げつけた。
先ほどまでやっていた課題のプリントが隠れる。
「そのページ、今回の課題範囲だったよな?そんで最終問、模範回答と解き方そっくりなんだけど、どういう事?」
「……その…」
"分からなかったからそこだけ答え参考にしました"
「まぁこうやって所々間違えてるけどさぁ、どうせ答え写していい感じに不正解にしといたんんだろ?」
「………あの…」
"最後だけは記述式だったので見ました、それ以外は全部しっかり自力でやりました"
「お前さ、遅れるのはまだしもさぁ…答え写してやるって…」
「…………すみ…」
「舐めてんの?」
間髪入れずに久野は僕に言葉を突き刺す。
「授業も寝てるみたいだしさぁ」
「一応言っておくけど、お前以外にも他に寝てるやつは部活動でスケジュール大変だったり、バイトがあったりとか個人的な事情があったりするんだよ。前もってそういうのは俺も相談とか乗ってるから。」
「勿論ソイツらは課題はしっかり出してる」、と付け足す。
立て続けに久野は言葉を並べる。
「別に授業中に寝るのを正当化してる訳じゃねぇんだよ。ただ、頑張ってるっていうのが分かった上で、最低限のタスクをアイツらはこなしてる。この間の小テストの成績も良かったしな。」
「で、お前は何?」と
吐き捨てる様に言った。
「………すみませ…」
掠れ過ぎて搾りかすのようになった謝罪らしき言葉をなんとか口にする。
他に、何を言うべきか分からない。
心のどこかで過失を盾にしている節は少しだけあった。それでも僕は本当に頑張っているという事を伝えたかった。
だが、そんな"頑張っている"なんていう長所は沢山あって1つの過ちとようやく釣り合う。
僕はどれくらい間違えた?
暫く何も言えない僕を見て痺れを切らしたのか、ハァ…と大きな大きなため息を久野は吐いた。
それはすぐに重苦しい空気へと変わる。
「俺もさ、こうやっていちいち言いたくないんだわ。お前だって聞きたくないだろこんな事」
先程よりもどこか大人しい感じやの口調で久野は言う。だが、それはどこか諦めというか、勘弁してくれといった感じだ。
「じゃあさ…その課題の最終問ぐらいはせめて自力でやれよ。他の問題は今回だけ目瞑ってやるからさ」
「もっとしっかりしろよ」と、言い久野は教室を出ていった。
再び静まり返った教室には、重苦しい空気と課題をやらない愚鈍一人だけが残されていた。
反論は特にない。他に言うこともない。
この2ヶ月で担任との信頼関係を作ることが出来なかった自分に問題がある。
自分の頭と要領が悪いのが元凶なのだから。
だからそう落ち込むことは無い。
課題をやらない自分が悪い。
バイトの面接続きで睡眠が取れないのも、スケジュール管理が上手く出来ない自分が悪い。
せめて今くらいは目を瞑っていたい。
いつもの現実逃避をしたい。
それに、課題のノートが濡れるのは嫌だから。
長い長い問題の羅列をみて吐き気を覚えるくらいにはやっているが、課題は一向に終わらなった。疲労で指にはペンの握った痕が赤く残り、プリントは何度も字を間違えたせいでくしゃくしゃになっている。
頭を空っぽにして、身体だけ動かしていると言ったほうが状況的には的確だ。
マリオネットの人形劇の如く、課題がマリオネッターで人形は僕。
いやこんなバカな事考えてないでやれ。
10分ほどそれから続けたが、限界のような感じがした。このまま続けてもどうせ集中力が保たないのでリフレッシュと参考書のために図書室に行くことにしよう。
あそこは視覚的にも癒されるからこんな脳カラにはうってつけな場所だ。
それに授業後に図書室に行く人も少ない。本があると言っても、所詮は学校なので拘束されているといった感じは否めない。
ふと教室を出るとき、久野の言葉を思い出した。
「もっとしっかりしろよ」
決して逃げじゃない。多分。
木製の両扉を開く。
ガチャリという音とギリギリと木が擦れた様な音が広い部屋に響き渡った。
この学校の図書室は1,2階に別れており、吹き抜けのようになっている場所もあって外観は中々綺麗だ。本の取り寄せの対応も早く係員は必要以上に生徒には干渉して来ない。そして個人的な意見ではあるが、王国の図書堂館を想起させる。あの場所は、向こうの世界の僕にとって安寧の地の1つだった。図書室…というのはやはり暇を潰すにはうってつけの場所であり、癒される場所でもある。
夕暮れ時というのもあってか今は誰も人がいないようだ。ガラス窓の光が差し込む場所に置いてある長机には誰も座っていない。
残って勉強をしている人もごくたまにいるが、この調子だと2階にも誰も人はいないだろう。
新刊と書かれた棚の場所に着くと、一冊の本を手に取る。
度山 史瞑"無変の花"
ありきたりな日常話と非日常的な話が上手く織り交ぜられたストーリーだ。
王道とは少し違うからこそ、他の本よりも際立っていると個人的には思っている。この本の感想を語り合うくらい親しい者はいないが。
心の奥にある「課題をやらない」という罪悪感を押し除ける為に参考書も借りていく事にした。
参考書の棚に向かう途中、外から僅かに声が聞こえた。
まるで自分の孤独を後押ししているように。
友達がいれば、誰かと一緒にこうして本を借りて面白さを共感できたかもしれない。
友達がいれば、こうして参考書を借りなくても、教え合う事が出来たかも…いや、多分一方的に教えてもらうだけかもしれないけど。
もしかしたら僕自身が友人を作る事に拒絶しているのかもしれない。
正直、ここ最近友人関係というのが自分を縛る鎖の様な何かと考えてしまっている。
参考書の棚に着き、目線を上から下に動かす。
ずらりと並んだ参考書の中から徐にを1冊取り出し、捲る。
課題よりも何が書いてある理解できないが、読んでいるだけで頭が良くなったかのような錯覚を感じる。
もういっそ久野に聞いて解いた方が早いと思うが、先の事(…と昨日の事)もあって会いに行く気が削がれてる。
となると結局自力で解くしかないのだろう。
でも、参考書の内容がここまで理解できないのなら正直なところお手上げだ。
「あの、すみません」
文字通り、手を上げて半分諦めたという事で、深呼吸をしていると後ろから声が聞こえた。
誰もいないはずだと思ったが。
「そこ、少しどいてくれませんか?」
立て続けに聞こえた透き通るように美しい綺麗な声の主は、すぐ後ろで訝しげに此方を見ていた。思わず仰け反る。
そこには女子生徒が1人立っていた。
「え、あ…すみません」
たじたじの返事を返す。
"いかにも会話を普段からした事がないような人間の会話"という国語のテストがあれば間違いなく赤点は回避できるだろう。
「ん…?君は…」
僕を見るなり、彼女は訝しげな顔をしそう呟くと、数秒考える素振りをした。
「あぁー…同じクラスの…」
そして、何かを思い出した表情へと切り替わる。どちらかというと「あぁアレか」といったような"何かどうでもいいモノ"を思い出したかのような表情に近い。
「果達君?だっけ」
彼女は問いかける様に言った。
「あぁ…うん、そう。」
果達 命生だよ、と急いで付け足す。
「なおは…なんだっけ…命に…」
と、確かめるように空中で指を動かす。
「命に生きるの生、そう…そうだよ。うん合ってる」
歯切れが悪い返事になってしまったので、ジェスチャーを付け加えて、僕も指を動かしてどうにか伝える。
一応理解はしてくれたようで、彼女はなるほどね、と言いと棚に手を伸ばし、僕の持っている参考書より倍の厚さはあるであろう本を3冊ほど手に取った。
「そこ、まだやってないと思ったんだけど。君って結構勤勉なんだね」
「え」
手元には"数3-応用問題集"とポップな文字で書かれた参考書がある。
「私たちが今やってるのは…」
彼女は少し背伸びをすると、上の方にあった埃を僅かに被った本を僕に渡した。
「ここの公式解説から…ここの例題ぐらいまでかな。あ、でもこの下の部分と後ろの方の総合問題とかは出来るかもしれない。」
キビキビと端的な説明をしていく彼女の姿はガラス窓から差し込む光に照らされて神々しく、そして凛としていた。
肩まで伸びた長く、黒い髪。
夕陽に照らされても分かるくらい白い肌。
一才の曇りもない。
ただ、それだけじゃなかった。
こんな人間に普通何がしようとするだろうか?
こんな"僕のような"人間に。
困っている人間に手を差し伸べるのは、自分がよっぽど余裕があるか、自己満足のどちらかだ。
それとも優しさか。
「…それくらいかな、あと、裏の方に公式とか綺麗にまとめてくれてるから。」
「あ…ありがとう」
「いいや?余計な事だったかもしれないね。ごめんなさい、時間取らせて」
「じゃあね」
と彼女は言い、カウンターがある方へ消えていった。
基本的に僕はこの学校の生徒など1人も知らない。クラスメイトとも関わりが皆無に近いので、誰が誰だかほぼ分からない。
それこそ、何かしら有名人とかなら分かる。
何処かで見たことあるな、という何か引っかかる事を空っぽの脳みそで考える。
考え続けたが、分かりそうになかったので諦めた。まだ、課題が残っているのに余計に使える労力は……ほんの少しだけあるが、これは何かあった時の為にとっておこう。例えば僕が久野に課題を出しに行って、また説教と共に再提出をくらって、逆上するのを防ぐ為の理性作成分として。
図書室から出て、教室に帰るまで、僕の足取りは行きより断然軽かった。図書室の作用…というよりかは、明らかにあの女子のおかげだった。
無償にスキップをしたくなる様な感覚。
高揚感が湧いてくるのが伝わる。
友人との会話はああいうものなのだろうか、いや、だけどこれは異性だ。
かと言って僕は別に彼女の事をそういう目で見てる訳ではない。
まだこんな惨めさの最高潮にいるカスみたいな人間に親切にしてくれる人間が存在するという事に1番驚いている。
そして、"親切にしてくれた"というのは
こんなにも嬉しいものなのかと。
そう思った。
最終下校のチャイムが鳴ってから10分ほど、経ってようやく1つの課題と、久野から返されたノートを終える。
課題を出しにいく為に歩く廊下は昨日よりも長く感じられた。
教務室に入り、久野のデスクに向かう。
パソコンをとんでもない至近距離で睨んでいる久野に終わったという趣旨の言葉を伝えた。
「やっとか」という表情と共にノートを受け取ると数ページパラパラと捲った。
「ん、ご苦労さん」
と久野は言いノートを横に積み上げられた書類の上に置き、再びパソコンに目線を戻した。
社交辞令かのように礼をして、教務室を出る。
想像以上にあっさりと終わったためか拍子抜けしてしまった。
暗闇に包まれた道を歩きながら、課題を漸く清算して鎖を外されたかの様な解放感が押し寄せる。
不思議と疲労は大して感じなかったのは、図書室での事が要因になっているのだろうか。
帰り道、その出来事を脳裏に焼き付けるように何度も何度も繰り返し思い返した。
もう一度会ってみたい。そしてもし出来るんだったら---
僕の願望が今まで叶った試しは無い。
だからこそ、僕の願いは次第に小さく萎んでいった。
だが、今回は何故かそこまで身の丈に合っていないとは思わなかった。
淡い期待をぼんやりと望み、帰宅ラッシュ真っ只中の列車に乗り込む。
車内は既に満席で皆やつれた顔で何処か焦燥した様な雰囲気を漂わせていた。
そうだ。自分の事だけで手一杯なのは僕だけじゃない。あの子だけが特別なのだ。
「ここ、どうぞ」
考えを否定するかの如く、声が聞こえた。
中年の男性が別の車両から来た女性に席を譲っていた。その女性の腹部は膨らんでいた。妊婦だろうか。
ふと、昨日のことを思い出す。
車内で譲っていたあの生徒のことを。
「あ」
"よくあそこまで優しく出来る労力が残っているな"
なるほど。いや、もしかするとの事だ。
改めて言っておくが、僕は頭が悪い。そして勉強も出来ない。
だが、記憶力はそこそこ良…いや他と比べ、マシと言える。
昨日の事を思い出す。そして度々噂されていたあの生徒。
彼女は実代木唯華だ。