表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

門前の書状

作者: 天海波平

歴史に詳しい訳ではないです、フィクションをあまり交えずに書いたつもりです。

見苦しい部分があるかと思いますが、そこはご了承ください。


p・s 誤字や間違い、アドバイス等があればお願いします〜

 静寂の朝霧のなか、身なりの整った武士が小さな寺の門前に立つ。

 よく見ると男は(わず)かに肩を上下に揺らしており、疲弊(ひへい)した様子が(うかが)える。

 (はかま)(すそ)草鞋(わらじ)が酷く汚れており、何処(どこ)からか離れた場所より来たように見うけられた。

 だが男の目はギラリと輝き、少しの怯みも見せてはいない。

 いきなり男の口が大きく開かれ門を叩きだした。

 (こぶし)が砕けはしないかと思わずにいられないくらいの激しさで打ち続けていたが、何かの気配に気づくと一歩後退し姿勢を正す。


 男は大きく吸った息を今度は逆にゆっくりと吐き出すと、背筋を伸ばして(りん)とした声を上げた様子だ。

 だが、門は開く様子はなく、門扉(もんぴ)(わず)かな隙間から(のぞ)く人影がゆらりと揺れただけ。

 いや、その影は男に何かを伝えたのか……

 急に男の顔は段々と蒼白になり、先ほどとはうって変わった力無き手で門に手を付くと、その場で立ち崩れた。

 彼の懐から覗かせていた書状(てがみ)が石畳の上に音も無く落ちる。

 時は慶応(けいおう)元年(1865年)十月二十五日を過ぎた日の出来事であった。



 時は少し遡る。


 元治(げんじ)元年(1864年)七月末。

 月明かりはほのかに屋敷の姿を浮かび上がらせていた。

 蛙が鳴いている他は、柳の枝が(わず)かに風に揺れる程度の静かな夜。

 その屋敷の縁側(えんがわ)行燈(あんどん)を挟んで二つの人影が見える。

 どうやら若い侍が碁を打っているようだ。


 パチリ


 碁石を置く音と共に片方の男の顔が歪む。

「それは具合が悪いのう」

 かたやもう石を差した一方の男は涼しげな面立ちで口を開いく。

「別に大したこと無かろう、まだ序盤(じょばん)だ」

 野暮な印象を受ける先の男はチラリと涼しげな男の顔を覗くと、碁盤に目を戻し石を置いた。

 パチリ

 

「具合が悪いといえば……」

 パチリ


 涼しげな男の言葉出しに、もう一方の野暮な男は、碁盤に目を向けたまま簡素な言葉を返す。

「何んや」

 パチリ


「貴公は幕府が諸外国に太刀打ち出来ると思いか?」

 パチリ


 野暮ったい男の表情が一瞬にして変わる。

 だが視線はあくまでも碁盤上にあった。

 表情の変化の意味は相手の質問にあるのか、碁盤上にあるのか。

「難しかことば聞くのぅ…… わしはお上の命に従うだけじゃけん」

 パチリ 


「私とてそれは同じよ…… だが、黒船からの幕府のありようには納得がいくものではない……」

 パチリ


 二人の雰囲気は互いに少しばかり先程とは異なっていた。

「ほんにいまの幕府の態度は相手の言いなりぞ。やけんどもウチの藩主さまも出島に人を送るなどして蘭学ば学ばせておるけん。何も手をこまねいているだけでは()か」

 パチリ


 涼しげに碁を差していた男の肩がブルリと震えると、やや声を荒げながら碁石を強く置いた。

「日の本の国を手に入れんとする(やから)と近し者から何を学ぶと言うのか! 得体が知れぬ!」

 バチッ!


 ひときわ大きな碁石の弾く音と、男の気迫に押されてか近くの蛙の鳴き声がピタリと止んだ。

 対面の男は微動だにせず、ただ真っ直ぐに前の男を無言で見据えていた。

 

 そんな二人に、柱の陰から男の声がかかる。

「おう、なんぞ! お主らまだ残っていたのか」

 声と共に暗い廊下より現れたのは、三十路を過ぎたばかりかの爽やかな偉丈夫だった。

 肩幅は広く力強さを内に秘め、双眸(そうぼう)に宿る曇りなき瞳はその叡智(えいち)を物語っている。

 二人の若い武士は姿勢を正し、(こうべ)を下げる。

「司書どのに仕える身において、仕えるべき主人(あるじ)より先に休むのもいかがなものかと思い」

「お勤めも共にあるべきと思いお待ちしておりました」

 かしこまる二人を前に、司書は視線を碁盤へと移す。

 そしてそれを覗き込み、口の()を少し上に歪めた。

「ほぉ、お主ら。わしの勤めを碁とみなしたか」

 二人の若い武士は、いきなりの主人(あるじ)の言葉に狼狽(うろた)える。

 再び蛙がまた鳴きはじめた。

「い、いえ! とんでもない! それがしはこの者に薦められたゆえ」」

「何を言うか! 誘ったのは貴公はではないか!」

 蛙が鳴くなか言い争いを始めた二人を横に、司書は碁石を手に取ると一考のあと碁石を置いた。

 ピシッ


 その音に誘われて、二人の若い武士は同時に碁盤へと目を向ける。

 しばしの「間」のあと、食い入るように碁盤を見つめ直す二人。

 どうやら碁盤の石に何かを読み取ったようだ。

「大局を見据えねば、蛙にも笑われよう。後は己に持っておるものを出し切る事こそ武士の勤めよ。わしはそう思うておる。さあ、片付けよ明日も勤めじゃ、夜も更けておる」

「はっ!」「はっ!」


 二人は碁盤上の石を集めて碁笥(ごけ)に入れ、それを碁盤の上に置くと二人で碁盤を抱えようとした。

 それを見て何を思ったのか司書は急に声をかけ、それを止める。

「待て待て、このような暗がりの中、そのような運びでは危のうていかん。各々のごけ碁笥(ごけ)だけを持つが良い」

 主人(あるじ)の言葉に二人の若い侍は、今まさに持ち上げようとした碁盤を下げ、碁笥(ごけ)を手に取った。

 二人は手間ではあるが碁盤は後で片付けさせるのかと思っていたのだが、そうでは無かった。

 司書は提灯(ちょうちん)で使う蝋燭(ろうそく)行燈(あんどん)の火を移すと、その火のついた蝋燭(ろうそく)を左手で持ち、右手でガバリと厚くて重い碁盤を掴んだ。

 そして、なんとそのまま碁盤をまるで団扇(うちわ)を扱うかのように(あお)ぎ、行燈(あんどん)の火を消してしまった。

 それを見た若い武士は共に呆気に取られた表情を浮かべる。

「灯りと碁盤はわしが持つ故、後をついて参れ」

 そんな二人の若い侍に笑みを浮かべると、司書は碁盤をぶら下げたまま、スタスタと歩き出して行く。

 呆けた表情のまま付いていく二人だが、一人がボソリと呟く。

「まことであったか……」

「何んがや?」

 碁石の入った碁笥(ごけ)を両手で大事そうに持ち、ボソボソと二人は喋り始めた。

「随分と前の集まりのことだが……」

「あん?」

 さらに顔を近づけて(ささや)くように話す二人。

「昔に碁盤をあおいで蝋燭(ろうそく)の火を消す事はできるのか、などと話ていた者がおってな。(ごう)を誇る司書殿でもそれは出来まいなどの話となったそうじゃ。それを聞いたのか、数日後にその者たちは司書殿の屋敷に呼ばれて、目の前で碁盤を(あお)蝋燭(ろうそく)の火を消すさまを見せつけられたそうじゃ……」

「そりゃまた…… 随分と負けず嫌いなお方ばい……投網の話もあるしのぅ」

 投網の話とは、以前に船の上で釣りをしている時に出た話なのだが、投網を扱えぬ司書の横で自慢げに投網をする家老の者がいたそうだ。

 司書は夜な夜な庭で投網を打つ練習をした。

 そしてある時、その者の目の前で何気ない様子で投網を持ち、広げ打って見せて見事に獲物を捕らえたらしい。

 負けず嫌いであるという噂は本当だろう。

 そうして二人はまた前を進む侍の背中をじっと見つめた。


 二人が見据えるこの侍、名を加藤司書徳成(ししょのりしげ)という。

 ここ筑前国福岡藩主である黒田長溥(ながひろ)に仕える名門で、その信任も篤い家柄の出だった。

 聞けば戦国の時代、当時の黒田家の頭領であった黒田孝高(よしたか)は、織田信長に仕える武将の荒木村重に客人として仕えていた。

 だが、ある時にこの荒木村重は織田信長に対して謀反を起こしてしまう。

 黒田孝高(よしたか)は荒木村重にその不義を説き、信長公に対して詫びねばならない事を進言するも、逆に捕えられ牢に入れられてしまう。

 後に織田信長により荒木村重は城を焼かれることになるのだが、その合間にその牢より黒田孝高(よしたか)を救い出したのが加藤司書徳成(のりしげ)の先祖となる加藤重徳(しげのり)という人物である。

 黒田孝高(よしたか)は加藤重徳(しげのり)にいたく恩を感じ、重徳(しげのり)の次男を黒田家の養子にするほどであった。

 この加藤家は実に困難かつ不遇な運命を続けるのだが、ここでは割愛する。

 いずれにせよ今の大阪の伊丹市付近を祖先に持つ加藤家が、福岡の藩主である黒田家と共に筑前の地にたどり着くまでいくつかの数奇な物語あった。


 そしてもまた時代の荒波と共に、運命に揉まれることとなる。



 屋敷を出て帰路までの月明かりの下、蛙が鳴くなかでは共をする若い侍に一つ問うた。

「お主ら『よなべ』を知っておるか」

 いきなりの質問に二人は少しばかり動転する。

 その気持ちを提灯(ちょうちん)が汲み取ったのか灯火がゆらりと揺れた。

 だがの落ち着いた口調で、両名はさほど間をあけることなく口を開いた。

「それは主人どの……」

「まさに先程までお勤めされていたそのことなのでは」

 辿々(たどたど)しい二人の言葉には「ウム」と(うなず)くと言葉を続ける。

「昼に片付ける事の出来なかった勤めを夜にするので、本当は『よのべ』と言うのが正しい」

 二人は「はぁ、そうですか」と言わんばかりの表情だったが、そうこうした話をした所で家の前に辿り着いた。

 玄関横の灯籠(とうろう)には火が(とも)っており。

 家からも(わず)かに灯火が漏れている。

「はやく休めば良いものを」

 それを見たは、そう口にすると少しだけ不満そうにその口の()を曲げた。

「では、わたしらはこれで」

 若い二人の侍は並んで頭を下げる。

「明日の勤めも頼むぞ」

 その二人には声をかけると同時に家の玄関の扉が開いた。

 顔は暗くてよく分からないが、女性が二人に向かい頭を下げているのがわかる。

 二人は軽く会釈すると、元来た道を戻って行った。


「お勤めご苦労様でございます」

 そう言って羽織を受け取る女性、名を安子と言った。

 心配そうな視線の妻の姿に声を投げかける。

 「遅くなった」

 疲れを微塵(みじん)も感じさせない重く太い口調は、それでも何処か慈愛を含ませていた。

 だが、それに続く言葉は優しさとは離れたものになる。

「近く、留守になるであろう」

 安子の手が止まる。

「それは……」

「先日の禁門のことよ。長州藩の意向、分からぬ訳では無いがいささか性急すぎる」

 そこまでの話で安子の表情には心配以上のものを目に滲ませていた。

「そんな顔をするでない。わしがまだ二十歳を過ぎた二十三、四の頃に長崎に赴き、ロシア艦隊に水だけ渡して追い返した時に比べれば、なんの事もない。京に行き天子さまのお住まいを警護するだけじゃ」

 そう言って優しく微笑む司書であったが、安子の顔色は優れることは無い。

 司書(ししょ)の「子供たちは?」の言葉に対して「はい、先程まで起きていましたよ。今はもうよく眠っております」と答える時に、無理に浮かべた笑みだけが、彼女が出来る唯一の行いだった。


 文久(ぶんきゅう)三年(1863年)八月。

 文久(ぶんきゅう)の政変と呼ばれる今で言うところのクーデターにより、それまで主流だった勤王派である長州藩と公家の七卿が京を追われることになる。

 孝明天皇と中川宮(朝彦親王)の働きにより起こされたこの政変は、会津と薩摩の会盟により京から長州を押し出す形となり、これによる両者の確執は、根深いものとなったのだ。


 翌年となる元治元年(1864年)六月。

 池田屋事件が起こり長州藩や土佐藩などの尊皇攘夷(そんのうじょうい)派の志士たちが新撰組の襲撃により討死・刑死させられる事になる。

 そして同年七月、この事件に猛る長州藩は京において会津藩に襲撃を加えることになるが、これが『禁門の変』である。

 それにより司書は、天子の住まう宮中の護衛、つまるところ禁裏守護(きんりしゅご)の為に京に向かう命を受けていた。


 司書は安政(あんせい)三年(1856年)からすでに尊皇攘夷(そんのうじょうい)派の中心人物とされているが、勤王派と佐幕派が大きく争うこの時期に、佐幕派が力をふるう当時の京へと向かう心境はどのようなものであっただろうか。

 いずれにせよ加藤司書(ししょ)は兵五百を引き連れ、京へと向かう予定であった。

 ところがそれを止める事となる通達が来る。

 それは長州征討の知らせだった。


 同年十一月。

「せからしか事になったもんよ」

 吐き捨てるように言い放ったその人物は名を高杉晋作(しんさく)と言う。

 言わずと知れた明治維新の立役者、稀代の風雲児といわれる彼は下関戦争における外国勢力との調停の後で、彼が立ち上げた奇兵隊が起こした問題により役職を追われ、いまは長州から逃れて福岡に潜伏していた。

 その隣りで彼の言葉を寡黙に耳を傾けている人物がいる、名は早川養敬(ようけい)

 後に高杉晋作と西郷隆盛(さいごうたかもり)との仲介役をとげる事になるが、彼の生まれは武士家では無く庄屋であった。

 当時として裕福な家庭に生まれ、学業に励む過程で尊攘(そんじょう)思想に染まる事となった。

 そして別の男が声を上げる。

「年の暮にも征討軍が結成され長州に向かうようだ、お主はどう動くつもりだ」

 晋作に向かって発言したのは中村円太(えんた)

 彼はここ筑前の出身の武士であるが、せっかちな気性を持ち合わせているらしく、長州出身の晋作が動くのであれば、それに乗じようとしているのが(うかが)える。

 だが晋作は普段らしからぬ慎重な姿勢をとっているように見える。

 彼の盟友であった久坂玄瑞(くさかげんすい) をはじめ、池田屋事件と禁門の変で散った攘夷(じょうい)の志士たちの仇を取ろうとする思いはある。

 だが、彼の「(こころざし)」は決して「仇打ち」などでは無いのである。


「どちらにせよ、終わった時に攻め込んでこような」

 司書は静かに告げる。

 「どこが」とか「何が」など言わなくても分かる連中だ。

 我々がなぜ尊皇攘夷(そんのうじょうい)を唱えるか、その理由と目的が明確にあるからだ。

 今の幕府では外国勢力を退けるだけの力は無く、このままでは飲み込まれ植民地とされてしまうだろう。

 我々は天子のもとに一つとなり、西洋諸外国の脅威に対抗せねばならぬ。

 その声に触発されてか、高杉晋作は再び口を開く。

「わしの願いはこの国を守ることじゃけぇ。支那(しな)でわしが見た光景を、この日本国(ひのもとのくに)で見ることはさせん。それが松陰(しょういん)先生や久坂(くさか)への()()()よ」

 晋作の声は己に向けて発せられたものなのか、顔を誰かに向けるわけでも無く微動だにせずに異様な雰囲気を纏っていた。

 それまで黙っていた早川養敬が静かに言う。

「では、この国難。いかに対処するべきかを考えると、事の発端である禁門の変から考える事がよろしいかと……」

 その声に一同が無言で頷く。

 長い話になりそうだ、だが司書は苦痛を微塵にも感じていない。

 いや、感じぬほどに高揚してると言えよう。

「ところで……」

 司書に向かって中村円太がそう切り出す。

「殿はこのたびの件、どの様に考えておいででしょうか」

 ここで言う「殿」とは福岡藩主に黒田長溥(ながひろ)のことである。

「揺れておろう、黒田家は幕府の重鎮だが、仮に下関に来た艦隊の砲塔が長州ではなく、我が藩に向けられたとしても幕府は動くまい。それほどまで力の差があるのだ。今の幕府には鎖国を貫くまでの力は無い」

 続いて晋作が言葉を繋げる。

「連中は油断ならん。とても払えぬ賠償金と一緒に彦島の租借(そしゃく)なんぞも求めてきた。わしは彦島の租借(そしゃく)は突っぱね賠償金は幕府に請求せいと振ったが、その彦島の要求を飲んでおれば今頃その島は軍港にでもされておったじゃろう」

 それはつまるところ、日本侵略の足がかりとなる事を意味していた。

「時間はありませぬな」

 早川養敬の言葉は一同を再び無言にさせる。

 

 福岡藩主である黒田長溥(ながひろ)はどちらかと言えば佐幕派と言われている。

 その様な人物が勤王派である司書を取り入れているのは、世代を超えた互いに信頼できる間柄・家柄であったからだ。

 長溥は蘭学と西洋の兵用術を取り入れて軍の強化を行なっているが、司書は自分たちに攻め入らんとする西洋の学問を取り入れることは忌避(きひ)していたようだ。

 長年培って来た日本の文化が、西洋の学問によって塗り替えられると思ったのかも知れない。

 その様な部分において意見の相違があり、それぞれの立場があった訳だが、決して不仲と言うわけではなかったと思われる。

 何故なら、司書はこの年の七月に犬鳴谷に犬鳴御別館の建設に着手している。

 これは福岡藩が西洋諸国と衝突したと仮定した際、現在の戦力では太刀打ち出来ぬと判断し、もしもという時の為に司書が計画した藩主を逃がし退避させる場所である。

 この時期において勤王派のリーダー的存在であった司書は、藩として尊皇攘夷(そんのうじょうい)(かか)げる長州の窮地にどのような心情を持っていただろうか。


「私はやはり薩摩と手を組むべきと思われます」

 そう口にしたのは早川|養敬だった。

 それを聞いた中村円太はチラリと晋作を見た後、視線を戻して言った。

「しかし、薩摩も長州も互いに争うとぅけん。難しいっちゃなかと?」

 そして言い終わるともう一度晋作の顔をチラリと見る。

 だが、晋作の表情は先程と全く変わらず、心の内は読み取れそうに無かった。

 代わりに円太の声に応えたのは司書であった。

「確かに互いがいがみ合う理由も分かる。だが、それが原因で国を失うとなれば本末転倒ぞ。わしらは大局を見らねばならん。晋作よ。先程の言葉に偽りはあるまい」

 口調こそ穏やかだが、どこかに威圧を含む司書の言葉に円太の喉がゴクリと鳴る。

「わしは言ったことは曲げんよ。国の為になるんじゃったら相違ない、じゃがわしはあくまでも尊皇攘夷(そんのうじょうい)の正義派よ」

 晋作の帰ってきた言葉に司書は口の端を僅かに上にする。

「あいわかった。では七卿の事を含めてこれからの事を吟味するとしよう……」

 

 このような会話があったのかも知れない、いずれにせよ歌人である野村望東尼((ぼう)とうに)の生家である平尾山荘で四人が集まり、薩長融和と七卿の九州下りの会合を行ったと記されている。 


 そして同年十二月、広島。

「これが藩主、黒田長溥(ながひろ)公の意向である」

 そう言って|司書は己の主人である黒田|長溥から(たまわ)った信書を長州征討軍総督の徳川慶勝(よしかつ)に差し出す。

 その場の空気というものは、何も知らない者が立ち入れば、冬の最中というのに毛穴から冷や汗が吹き出るほどに殺伐としていた。

 その殺伐とした中で視線を受ける人物がいる。

 その人物の名は西郷吉之助、後の西郷隆盛である。


 西郷の理念とその立場はややこしいのであるが、彼が類する公武合体派と言われるものは、朝廷の歴史的権威と幕府及び諸藩を結びつけて再編強化をうたうものである。

 だが彼の理想は天皇を中心とした中央集権主義であり、幕府のかかげる将軍を中心とした中央集権主義ではなかった。

 それらの差異により、勤王派からも佐幕派からも非難の目を向けられていた。

 だがそれらの視線に(おび)えも見せず、ドカリと座していた。


 その様ななかで、総督である徳川慶勝は苛立ちを抑えながら信書に目を通した。


 慶勝は渡した文の内容は大方聞いていたであろう。

 何故なら広島に入った段階で司書と共に来た建部武彦(たてべたけひこ)月形洗蔵(つきがたせんぞう)、早川養敬らと長州征討軍の参謀である成瀬正肥(なるせまさみつ)田宮如雲(たみやじょうん)と面会し長溥公の意向は既に伝えているからだ。

 その信書の内容は以下のようなものだ。

「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」

 黒田長溥は佐幕派と言われているが、状況を冷静に分析して判断できる名君と言える。

 そうだからこそ、勤王派の党首とも言える司書を遣わすことも出来たのであろう。


 信書を読み終えた徳川慶勝を前に司書は口を開く。

「今は挙国一致(きょこくいっち)(もっ)て外敵の襲来に(そな)えるべし」

 決して騒がしい声でもなく、それでいて城内に響く司書の声は、猛りに猛る征討軍の総督である慶勝にはどの様に聞こえたであろうか。

 いずれにせよこの日において征討軍は解散され、戦闘は回避されることとなる。

 犠牲と呼べるものは、長州藩の大老である国司親相(くにしちかすけ)益田親施(ますだちかのぶ)福原元僴(ふくはらもとたけ)の三名の切腹であった。


 この少ない犠牲で戦争を回避して場を収めたという事は、この時代においては奇跡と言える事だったのではないだろうか。

 後の「江戸無血開城」も、司書のこの働きが「事例」としてあった故に出来たことかもしれない。

 ()(かく)、この頃が加藤司書徳成の生涯において得意絶頂の時であった。


 会合を終え司書は目論見通り、いやそれ以上の話を終えたことに至極感激し、宿舎においておそらく酒の席であっただろう、有名な今様(いまよう)(うた)う。


《 皇御国(すめらみくに)武士(もののふ)は いかなる事をか 勤むべき 只身にもてる 赤心(まごごろ)を 君と親とに(つく)すまで 》


 

 この時代は勤王派と佐幕派に大きく分かれた上で、それぞれがまた細かな思想に分かれ、色んな衝突が起こっていた。

 そのような中で司書は「国の危機」つまりは「国防」においては、そんな各々の思想にとらわれず一致団結できると感じたのではないだろうか。


 そして京を追われた七卿が長州藩に落ちのびていたのだが、この内の五卿を太宰府に移す事となった。

 これにより太宰府は尊皇攘夷をうたう勤王派の聖地(メッカ)とも呼べるものになり、ここには西郷吉之助(西郷隆盛)に高杉晋作、土佐藩より中岡慎太郎や坂本龍馬などが訪れるようになる。

 司書もこれらの人物を交え、未来の日本を模索していたであろう。

 

 征討軍の解散の後、勤王派の家老である黒田播磨(はりま)の勧めもあり司書は時間をおかず大老へ出世する事になる。

 だがこの出世により佐幕派からの反感を買うことになるのである。


「もう一本つけてくれ!」

 一人の侍が花宿で声を荒げる。

「お侍さん明日もお勤めなんでしょ?あまり飲みすぎたらお身体にさわりますよ」

 その店の遊女が優しげに声をかけるも、その侍は苛立ちげに声を上げる。

「酔えんのだ!勤王派の連中め()にのりおって! 殿も司書などという(やから)を持ち上げすぎる!」

 どうもこの男は佐幕派のようである。

 最近の勤王派の勢いは目に見えて増強しており、それに反し佐幕派の発言は縮小していた。

「勤王の輩など!何を企んでいるのか全く忌々(いまいま)しい!」

 男はそう言いながら、持った徳利(とっくり)の酒を自らの手で盃に入れ一気に飲み干した。

 その様子を遊女は呆れた目で見ていたが、何かに気が付いた様子で思い出したように話をした。

「そういや最近の客で『お殿様のお屋敷を作っているんだ』とか言う大工が来てたね」

 侍はそれを聞くと勢いよく立ち上がり(まく)し立てた。

「なに!それはどこの何奴じゃ!」

 あまりの変貌ぶりに遊女はやや慌てる。

「く、詳しくは知らないよ。犬鳴き谷の方とか言ってた気がする」

 それを聞くと侍は立った勢いのまま部屋から出ていった。

「ちょっ!ちょいとお侍さん!」

 遊女は慌てて声をかけ後ろを追いかけるも、男はそのまま店を出ていく。

「ツケにしとくからね〜!」

 遊女はそう叫ぶと、非常に不満げな顔で舌打ちすると店の中に戻っていった。

 


「遺憾であるな……」

 そう、司書は呟いた。

 彼の目の前には平伏する若い侍の姿がある。

 ここ福岡において尊皇攘夷の機運が、日が経つにつれ高まっていた。

 それは良い傾向だ。

 だがその思想を実現するのに一つの大きな壁があった。

 それはやはり幕府である、諸外国に対して弱腰であり、このままでは国そのものが植民地として支配されてしまう。

 その思いから幕府を廃止して、天皇を中心とした新しい体制を作ろうとする派閥と、あくまで幕府を中心とした保守的な派閥との対立が激化している。


 前者を『勤王派』、後者を『佐幕派』とよんでいるが、高杉晋作などはそれらをそれぞれ『正義派』と『俗論派』ともよんでいる。

 

 先日、勤王派の特に過激な者たちが金銀の相場を乱したとして、ある庄屋に押し入りそこの主人を殺害し門前に首を晒した。

 そして、佐幕派とのいざこざが最近多く、佐幕派の重鎮を殺害せよなどという言葉を耳にすると報告を受けた。

「同じ藩で争うている場合などではないのだが……」

 目を閉じて、(しば)しの間を思考に費やしていたが、やがて司書は平伏している侍に声をかけた。

「決して狼藉(ろうぜき)を働くようなことがあってはならぬ、皆にそう伝えよ。それと播磨(はりま)公に会う、手配を頼む」

 平伏したままその侍は「はっ!」と声を発し、即座に起立して司書に向かい一礼すると(きびす)を返しその場を離れていった。

「このような世の情勢ならばこそ、心中一致で事をなさねばならぬと言うのに……」


 司書は主人である黒田長溥にいま一度伝えるべきと感じたのであろう。

 倒幕の流れは変えられぬと……

 それは司書が尊皇攘夷派の頭領とも言える立場であったことからも、佐幕派の意見を聞けるはずもなく、彼の自然な考えであった。

 司書はことさら国学を重視し、海外からの文化の流入を嫌っていた。

 蘭学をとにかく取り入れようとする長溥公は、藩の内外からも『蘭癖大名』呼ばわりされ、また司書もその言葉に同意してしまう節もあっただろう。

 何故なら司書はこの後、黒田播磨と連名で藩主である黒田長溥に『佐幕派という立場を改めて欲しい』と言った旨の建白書を長溥に出しているのである。


 これが彼の人生における急転換となったのだ。

 

 同じ時のころ、司書とは対なす侍たちが集まり声高に議論を重ねていた。

「司書公は殿を犬鳴谷の奥山へ幽閉するつもりか」

「仏法寺院を廃し神道のみを教義とする動きもあるそうじゃ」

「それに、あ奴らは我らを殺めようともしていると聞く、その後に長溥公を廃し新たに黒田長知(ながとも)公を擁立しようとしておるぞ」

「それは、誠であるのか」

「勤王派の連中が声高に言いまわっているそうじゃ」

「これは間違いなく司書の謀反(むほん)ぞ」

 

 佐幕派の者たちはある意味で追い込まれていたのであろう。

 実際に勤王派と称して身勝手な狼藉を働く者が増えており、治安が悪化していたのだ。

 その様な状況で福岡藩主、黒田長溥は佐幕派の複数の家老から「司書を重く用いるのであれば我々は一斉にいまの職から離れる」という内容の弾劾状を受け取り、おおいに悩んでいた事であろう。

 そこに先の司書の送った建白書である。

 黒田長溥も常にあらゆる情勢においてギリギリの判断をしていたであろう、それが司書には優柔不断で曖昧と受け取っていたところがある。

 いずれいせよ、この時に黒田長溥は大いに怒り、一つの決断をする。

「勤王派を弾圧せよ!」


 これが『乙丑の獄』である。

 百名を越える捕縛者を出し、それぞれが切腹・斬首・流罪の刑に処される事になったこの刑罰は、実に明治維新の(わず)か二年ほど前に起こった出来事である。


 慶応元年十月二十三日

 司書の元に部下の者が息巻いて現れた。

「しっ、司書殿!」

 その様子に司書は、落ち着けと言わんばかりに笑みを浮かべ問うた。

「どうした、何をそんなに慌てて……」

 だが、部下の者は肩で息をしながら、司書の言葉を遮るのもかまわず口を開く。

「ぶっ、奉行の者が来ました!」


 この日、司書は捕らえられ現在の赤坂門の付近にあった座敷牢に幽閉される事となる。

 

 六畳の部屋に木組みの囲いで覆われた座敷牢の中で、座したまま司書は静かに口を開く。

 この邸宅の主人である中老職、隅田清左衛門は無言で司書を見つめる。

 司書は静かに言う。

「よもや御当家にご厄介になるとは夢にも思わなかった。しかし、君命であるならば謹んで受け取るのみ。ただ、気になるは子供たちのこと。玄関に手をついて『おかえりなさいませ』と迎えるのだが、今頃はさぞ帰りが遅いと待っているだろう」

 司書にそう言われた清左衛門は、拳を握りしめただけで何も発せず、司書に一礼しその場を去った。


 二日後、司書は髪を洗ってもらい、その夕食には馳走が並べられていた。

 酒もある。

 それで悟った事であろう。

 司書は静かに目を閉じると祈るようにゆっくりと両手を合わせた。


 時を同じくして太宰府の地に激震が走る。

 五卿にも知らせが届いたからだ。

「司書公が捕らえられたというのか!して処罰の方はいかに!」

「今は牢にて幽閉されておりますが、切腹の沙汰は間違いなしとの事です!」

 五卿は騒然としたであろう。

 彼を失っては勤王派は体をなさない。

 いまある身はまさに司書あっての事なのだ。

 五卿の内の一人、三条実美(さんじょうさねとみ)はただちに動いた。

「急ぎ書状を出す!誰か筆と紙をもて!それと早馬を、伝手を用意せよ!」

「直ちに!伝手は土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん)という者がおります」


 司書は座敷牢の中で静かに目を閉じていた。

 そのとき(わず)かな気配を感じとり小さく呟いた。

「来たか……」

 その声を合図として、隅田清左衛門邸に多数の奉行の者が並び入ってくる。

 物々しく重い空気の中、河村五太夫という上使(じょうし)が書斎に入り隅田家の者に牢の中にいる者を連れてくるように命じた。

 河村五太夫が言い渡す言葉は、藩主である黒田長溥の言葉そのものである。

 それを司書はどの様な想いで聞いたのだろう。

 言い渡された沙汰は『切腹』であった。


 ここに少しのエピソードがある。

 河村五太夫は緊張の為か、司書を刑するその場所を失念し司書から叱責を受ける事となるほか、当初は聖福寺の塔頭で加藤家の菩提寺である節信院での予定であったが、聖福寺山門の後鳥羽上皇の勅額(ちょくがく)に畏れ多いという理由で天福寺に変更する事となる。

 その様な中でも司書は落ち着き払い、無駄に騒ぐこともなく堂々とした態度であったという。


 数刻後、駕籠(かご)に揺られ天福寺に着いたときは、日付も変わろうかとしていた。

 いくつかの松明の火が揺らめく中で司書は介錯人に告げる。

「私が『よろしい』というまで介錯はせぬように」

 そこで司書は辞世の句を読み上げる。


《 君がため 尽くす赤心 今よりは 尚いやまさる 武士の一念 》

 

 そして司書はその後に「よろしい」と言い切腹したのである。

 加藤司書徳成 享年三十六才


 全てが終えたのは日も変わった丑三つ(午前2時〜2時半)を過ぎたころだったという。


 寺に静寂が戻る。

 司書の遺体は直近の者に引き渡され節信院に運ばれた。

 運ぶ者は石畳を涙で濡らしたという。

 寺に残った者もまた悲痛な思いまま、その静寂に包まれていた。

 空は明るみを帯び、雉鳩(きじばと)が朝を告げても、立ち込める霧が光も音もまどろみの中へと誘っているようで、そこにいた誰もが時の流れさえも感じない。

 だが、その様な静寂が打ち破られようとしていた。

 何処(どこ)かの阿呆(あほう)が門扉で騒ぎ立てているのだ。

 死者を尊ぶ事もできぬ愚か者かと思い、寺に残っていた一人が門前に向かう。

 だが、向かう先には更なる悲痛があった。

 門の向こうで男が「開門せよ!」と叫んでいる。

 寺の者が気は進まぬがその叫びに応じて門に歩み寄り庭砂利に足を踏み入れようとした時に、門の外にいる男が声を上げた。

「助命願いである!開門せよ!」

 その言葉を聞いて、寺の者は足元に大きな音を立ててしまう。

 門の向こうの男はこちらが発した音に気付いたのだろうか、門を叩き付けるのを止め、そして凛とした澄んだ声が静かに響いた。

(それがし)は土方楠左衛門と申す。五卿が一人三条実美卿の使いとして参った。加藤司書公の助命願いである。三条卿の文を受けとられよ」

 寺の者はかんぬきに差し伸べ触れた手を何もせず元に戻すと、静かにそして淡々と言葉を並べた。

「司書殿は腹を召された。お帰り願おう」

 冷やりとした霧が立ち込めると、門の向こうで何かが倒れる音がして、そして門の隙間より嗚咽(おえつ)が漏れ流れ込む。

 

 懐からこぼれ落ちた文が石畳に濡れる。


 書状(てがみ)はもうその役割に意味を見出す事は無くなったのだ……


 明治維新の僅か二年ほど前の出来事であった。

令和4年現在 加藤司書の旧宅はマンション建築のため解体され、すでに更地となっている。

歴史的価値を見出すことをせず、マネー主義に走る今の日本の姿は、日本とは別の価値観に取り込まれて得体の知れない何かに変貌している様に感じるのだが、決して杞憂ではないだろう。

マンションやソーラーパネルよりも大事なこと大事なものを残すべきだろう。

そんな想いも少し交え投稿する。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ