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未来ある十代の君たちへ

作者: 東質 晃

 「言葉」とは不思議なものだ。

 時に人を優しく抱きしめる腕となり、人を攻撃する剣となり、さらには自らを傷つけるナイフにもなる。


 それが特に人間に影響を与えるのは第二次性徴期―――十代―――の頃だと言われている。

 この頃から子供たちは様々なことを考えはじめ、精神的にも身体的にも大人に向かって成長していく。

 

 しかし私は思うのである。

 ここ最近の子供たちは自ら言ったことに対しての責任感がないのではないか、と。


 ここ最近の子供たちは、簡単に「死ね」だとか「消えろ」だとか言う。

 これはかつて、絶対にありえなかったことである。

 ではいつから、子供たちはこのように言うようになったのだろか。


 このようなことが言われ出したのは大体、平成が始まってから九年後に始まった「ゆとり教育」が背景にあると考えられる。

 いまでは「ゆとり世代」などと言われ批判的な意見が多い「ゆとり教育」だが、その理念はいまだ根強く学校教育に残っている。


 その「ゆとり教育」の理念とはこれだ。


 ① 豊かな人間性や社会性,国際社会に生きる日本人としての自覚の育成を重視すること。

 ② 多くの知識を一方的に教え込む教育を転換し,子どもたちの自ら学び自ら考える力の育成を重視すること。

 ③ ゆとりのある教育活動を展開する中で,基礎・基本の確実な定着を図り,個性を生かす教育の充実を図ること。

 ④ 各学校が創意工夫を生かし特色ある教育,特色ある学校づくりを進めること。

 (引用元:学習指導要領等の改訂の経過|文部科学省)


 これだけ見れば最高な教育理念であると考えられる。

 しかし社会主義と同様に決して完璧な状態になんてできないことを忘れないでほしい。

 

 この教育理念には欠点があった。

 それは上の②にある、自ら考える力の育成である。

 

 これは「生きる力」とも言われ、生徒自らが課題を見つけ、学び、判断し、行動していくことが重要な要素として挙げられていた。


 だが私はこれがまずかったのだと思っている。

 子供というのは大人から「なにがダメなのか自分で考えなさい」と言われても、わからなかったら「ワカリマセン」と言ってなにもしない。


 それで教師は怒るが、それは火に油を注ぐようなもの。

 余計に子供はなにも考えなくなる。


 これがいまでも強く学校教育に根付いているのではないか、と私は思う。

 制度としては撤廃しても、そういう流れや空気は簡単には変えられないものだ。

 また、子供たちが教師になることで、教えた子供に自然と「自分で考えない」という考えが伝染してしまう。

 結果として幼稚なことを口走るようになるのだ。


 もちろんそれは教師が悪いのではない。

 そして「生きる力」が悪いわけでもない。

 これの問題点は完全に子供たちに考えさせてしまったことだ。


 これからの教育はただ押し付けるのではなく、教師も助けの手を差し伸べることで、よりよい教育ができるのではないか、と私は感じた。

 

 さて、しかしながら当時の空気がそのまま続いてしまっているのは紛れもない事実だと考えられる。


 でも、だからと言って、この空気が変えられないわけではない。

 それは生徒たちが自ら変えていくことで可能だ。


 小学生には無理だろうが、中学高校の学生には可能だと確信している。


 しかし、そこにはひとつ壁がある。

 それは先程言った、自ら言ったことに責任感がないということである。


 ここで二つほど具体例を出させてもらおう。

 これはどちらも私と親しい友人の話である。


 まず一つ目だ。


 私の友人はある日、とある女性に告白された。

 ただその友人は慎重派だったので保留という返事をしたという。

 それに対し女性は「いつでも待つ」と返答した。

 そしてしばらく経った頃、彼が承諾しようとしたところ、その女性は「すでに違う男性と付き合っているから無理」と言ったそうだ。


 そして二つ目。


 またもや、その友人だが彼はとあるオンラインゲームで、友達から助言を受けながらそのゲームをやるはずだったそうだ。

 彼と友達はそれぞれの家で連絡を取っていたという。

 しかしいざやり始めるときに、その友達が「違うゲームでやり始めるから」と助言することをドタキャンしたそうだ。

 助言する、と言ったのにも関わらず急に断られた彼はとても焦ったそうだ。


 さて、いま二つの具体例を出したが、その共通点は「約束を破る」という点にある。

 私はこのような行為をするのは人間として論外だと思っているが、そういう行為をする人間は残念ながら大人にもいる。


 この「約束を破る」行為は、とある重大なことに直結する。

 それは犯罪行為だ。

 

 法律というものは言うまでもなく国民としての最低限のルールであり、絶対である。

 基本的に犯罪を犯している人間は目の前のことが我慢できないような人間である。


 上の二つの例を見ても「約束を破る側」の人間は目前のことを我慢できていない。

 それだと、ただ目の前のことを求める、ただの猿だ。

 「レ・ミゼラブル」のジャンバルジャンは空腹のあまりパンを盗んだが、それは仕方ないことだと思っている。

 ジャンバルジャンの例もあって、欲があるのは仕方がないことだと思うが、ギリギリまで我慢することが大事だという意見は揺るがない。


 「嘘は泥棒のはじまり」と言うが、まさしくこの言葉は上をよく表していると感じた。


 このようなことから我々に足りないのは「約束を守ること」と「我慢すること」だと私は考察する。


 だが、いまはまだ変わっていなくていいのだ。これから変えていけばいいのだから。

 では具体的になにをすればよいのだろうか。

 その答えはとても簡単だ。


 「守れない約束はするな」「100%我慢しなくていい」


 一つ目は阿呆でもできるであろう。

 「約束」は「言葉」だ。

 「明日までに宿題を出します」

 「明日は集金だから絶対お金を持ってきます」

 日常会話はこういう「言葉」によって成り立っていると言っても過言ではない。

 私は幼き頃から母から「守れない約束はするな」と嫌なほど言われてきた。

 それを言われ始めてから私は一度も約束を破ったことはない。


 二つ目は完全に我慢しなくていいんだよ、ということである。

 例えばダイエット。

 痩せたいからお菓子を食べるのをやめたい、とあなたは言ったとする。

 しかしずっとやめるのは現実的に不可能だ。

 だから一週間に一度だけ食べるという風に決める。

 そうすることでダイエットは可能だ。

 それを日常生活に取り入れることによって、成長することができる。


 「言葉」というのは実に扱いの難しいものだ。

 人の生活は必ず「言葉」の上に成り立ち、「約束」の上に成り立つ。

 自分の言ったことは自分で責任を取る。

 だけど、そこにきちんと自分が休憩できるような隙をつくってあげよう。

 そうすることで、子供たちは理想的な大人に一歩近づけるのではないかと思う。

※とある一文より、

 「それを言われ始めてから私は一度も約束を破ったことはない」

 というのがあります。

 嘘である!

 そもそもここにいる時点で嘘! (詳しくは活動報告をご覧ください)

 皆さん、偉そうに言ってるくせに自分はできない、こんなやつにならないでくださいね。(てへぺろ)

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 若いと短絡的に簡単な言葉に逃げてしまう傾向がありますよね。それがどんなに相手を傷つけるものだとしても。 まあ若い人に限らず、大人でもいますけどね……。 [気になる点] ゆとり世代から変わ…
[一言] いつからだろうなぁ……今の中高生の親世代はすでにこの状態にあるからもっと前なんだろうけど。 感覚だけで言えばバブル期の成人がいい加減なことばっかりしても儲かってたからこの辺が大きな転換点かも…
2022/05/24 17:47 通りすがり
[一言] どうも、ゆとり世代です(笑) 私が学生時代の頃(約10年ぐらい前)も、「死ね」とか「消えろ」は使われていましたね……。 「言霊」という言葉があるぐらい、「言葉」には様々な力があり、人に影…
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