麦茶と襲撃とハンドブック
幼い女の子は出現するなり、デイズをじっと見つめた。
そして右手を掲げてこう言った。
「みゃんみゃんぱすぱすー」
「はい?」
デイズは当然、首をひねる。
彼女の目は完全に点になっていた。
すると、リクオはそんなデイズに羨望の眼差しを向けた。
そして。
「よかったな、デイズ。きみって、本当にグリモワルスに気に入られているんだな。最初の戦闘前から、ずーっときみを見ていたんだってさ。羨ましいことだよ」
「えっ」
デイズは相変わらず、きょとんとして、目の前の幼女とリクオの顔を見回した。
「この子がグリモワルス……だというんですか」
「そうだよ」
リクオは笑う。
「僕のグリモワルスはオリジナルの配合書でね。彼女のルーツの半分は共同文学通信のハンドブックなのだけれど、もう半分は意思を持つカバラの預言書であり、知識を供給する魔術書なんだ。それは、それは貴重な本なんだよ。原典はもう殆どない。だから、高等魔術の擬人化により、グリモワルス自体を少女に変化させてカモフラージュしたりもしている。悪意ある者たちに奪われたりすることがないようにね」
「ほう」
デイズは半信半疑の表情で顎に手をやった。
「グリモワルス。もう一度、変化をといてみて」
リクオは、まるでデイズが信じないのを予期していたかのように、パチンと指をならす。
彼女の前から、魔法使いの幼女は消えた。
代わりに頭上には再び、一冊のハンドブックが出現し、浮遊していた。
「あらら、表紙の文字列は確かに共同文学通信のそれらしいですね。ついでに、本の素材は羊皮紙に近いものと見えます。これは完全に参りましたです」
パチン。
リクオがもう一度、指をならすと、トーストを口にくわえた先ほどの幼女が眠たそうな目をして、再び現れた。
「グリ、まだ……眠い。トースト……は美味しい」
幼女はマイペースにトーストをかじる。
「はは、こんな感じの子さ」
「まるで周りを気にしない、愛玩動物のようなやつですね」
「まぁ、場合によってはすごい能力を発揮することもあるけれどね」
「ふむ。なるべくなら、早く見てみたいものですね。このマイペース幼女がどれほど、旅の中で役に立つのかを」
デイズがグリモワルスのほうを面白そうに見てつぶやく。
「ふっ。まぁ、それは。お楽しみだよ。意外とデイズ以上の能力者だったりして」
「はっ、なははは」
二人は同時に笑いあった。
さて、つかの間の平和が訪れ。
それぞれが一息をついて、顔にも穏やかさが戻った。
「軽く休みますか」
やがて、デイズは近くの巨木に背をもたれて座る。
リクオは座っている彼女のそばに行き、持参していた水筒から麦茶を紙コップに注いで差し出した。
「おまえ、喉が乾いているだろ。飲めよ。食い物はないが、この森にくる前に麦茶をたくさん沸かして水筒に入れてきていたんだよ」
「ふ、用意がいいですね。リクオ」
彼女はもらった紙コップに口をつけて麦茶を飲む。
ごくっ、ごくと細い喉が上下して。
「ぷはぁ」
すぐに麦茶はなくなった。
それなりに喉が渇いていたらしい。
「……リクオ」
次に彼の名を呼ぶのは、眠たそうなルビー色の瞳の持ち主だ。
「……トースト食べた。……グリのぶんも」
「いるのかい?」
グリモワルスはこくこく、と頷き、マントに包まれた華奢な身体を彼にすり寄せた。
「うむ。……すり……すり」
「どーぞ」
青年は、この幼女にも麦茶の入った紙コップを手渡す。
「……ありがと」
くぴっ、くぴと麦茶が喉を通る音。
「……にゃーふ」
いまでは貴重な一杯をすぐさま飲み干すと、グリモワルスは目を閉じて奇妙なため息をついた。
「さて、僕もいただくとする」
グリモワルスたちの満足そうな表情を確認したリクオは、自分のぶんの麦茶を紙コップへと注いでいく。
そんな矢先。
ガシャッ。
ジャキッ。
茂みから突如として、まるで何かを手入れするかのような不自然な音がした。
「むっ!」
得体のしれぬ気配。
状況は一変した。
訓練された騎士のように俊敏な動きで、デイズは即座に立ち上がると、険しい表情で樹木と樹木の間、完全な闇をにらんだ。
「…………」
すると不自然な音は、ぴたりと鳴り止んだではないか。
明らかに自然や動物が発生させた音ではない。
「…………」
静寂が場を支配する。
相も変わらず、デイズは淡い瞳でじっと闇をにらみ続けている。
「お、おい」
リクオは彼女に声をかけようとするが。
「あとにしてくださいませ」
片手で制されてしまった。
「とりあえず。奥に一人、ですか。ふむ」
彼女は短く言うと、背中の鞘からマジカルロングソードを素早い動作で抜いて前方に構えた。
「え……」
張りつめた空気を感じて、固まるリクオ。
デイズにもう一度話しかけて状況を把握したいが、武器を手にした彼女から放たれる禍々しいほどの殺気にもはや言葉は出ない。
先ほどまでと比べれば、ガラリと一変した状況に、青年は喉の渇きを覚えた。
手にしているコップの中の麦茶を少しだけ口に含んで、残りはその場に捨てる。
ついでに横目でグリモワルスを一瞥。
「………かり………かり」
彼女は眠たそうな顔で自分の親指の爪をしゃぶっていた。
おそらく、状況が変化しつつあることにすら気づいていない。
だめだ、こいつ。
万が一、プロの暗殺者が潜んでいたら恰好の餌食だ。書物に変化させるか、最悪の場合はここに置いていくしかない。
森にひそむ暗殺者や盗賊の間で、校閲ハンドブックが高値で裏取引されているという話を、リクオは街にいるときに何度も聞いたことがあった。
おそらく、正体不明の潜伏相手は、彼がグリモワルスを使用していた場面を偶然にも目撃したに違いないのだ。
だとすれば。
敵の狙いがこのグリモワルスならば。
悪いが背に腹は……代えられないかもしれない。それこそ旅に出た以上、迷惑はかけられない。
青年の頭に、最悪の場合における脱出シナリオが先を見越して浮かんでいた。
その時。
「えいやああああああっ!」
ザシュッ、ザシュッ!
短く、藪を切り裂く音とともに、デイズがマジカルロングソードを振りぬいた。
傍の素人目には、それは適当な素振りにしか見えなかった。
だが、それは確実に相手の居所をとらえていたらしい。
「いぎゃああああああああああああっ!」
人間の声。
それも、男のものと思われる絶叫が響いた。
「あっ、あああああ。どうしてわかったんだああああああああ」
樹木の間が激しく動き、暗闇だった場所から一人の男がごろごろと転がってきた。
安物の防護チョッキを着て、頭に傭兵が使うメットを被った中肉中背で薄い顔の男だった。離れたところには、男のものと見られる近距離用の魔道式リヴォルバーが一丁落ちている。
さすがに危ない。間一髪だ。
どうやら、敵はこちらを狙撃する前に、マジカルロングソードの連続打撃で手痛くやられたらしく、おかしな方向に折れた右腕を抑えてのたうちまわっている。
デイズは自分の足元近くに転がってきた男に対して、人間ではなく異物を見るような、ぞっとするほど冷たい視線を落としていた。