旅の目的
「……っつつ。おま、え」
読書日和の顔色がみるみるうちに赤く変わっていく。
「わ、わたしのパンツを見た罪は」
「うん」
「どんな谷よりも深い」
「そうか?」
「コロス」
すさまじい不の殺戮オーラが読書日和の全身を包んでいく。
これはやばい。
パンで殴られて死ぬ。
リクオは直観的にそれを感じとった。
「仕方ない。僕はよくやったよ。美少女のパンツも最期に見られたし悔いはない。でもさ、できることならもう少し延命したかったぜ」
彼はそのような言葉を残して、胸ポケットからおもちゃの白い旗を取り出した。
白旗には、当然ながら完全降伏の意味がある。
ずいぶん前に、白旗ランチ(この国では歴史的な記念日にまれに食べることがある食事)を食べたときにオムライスに突き刺さっていただけのものだが、このご時世だ。来るべき日に備えて、このところ肌身離さず持ち歩いていたのだ。
しかし、まさか活用する日が本当にこようとは。
予感は正しかったらしい。
大の字で倒れている青年は、あおむけのままそっとそれを地面に刺した。
「ふ、降伏しますか。いさぎ良いですねー。ははは大勝利」
頭上から少女が無邪気な瞳で、大の字の青年を覗き込む。
「では、最後に聞いておきましょう」
「む? 何を?」
「わたしに殺される、おまえの名前と職業くらいは知っておきたいですからね」
「なるほど」
「では、言い残せです」
「名はリクオだ。新聞社の元おかかえ校閲。以上」
あまりにも、短くあっけない言葉が口から出ただけだった。
そして彼の人生は終わった。
巨大なフランスパンが、彼の頭蓋に打ち下ろされ……てはこない。
「なん、だ? なぜ、落ちてこない」
「…………」
すると少女は何故か黙って、フランスパンを背中にくくりつけられた専用の鞘にスルリと収めていくではないか。
そして、ずーっと腕組みしている。
見たところでは、何かを思うような神妙な顔つきだ。
「…………」
「ど、どうしたんだ? 僕を殺すとか、言ってなかったか?」
「……ええ」
「じゃ、じゃあ、どうして」
「おまえがいま言ったばかりの言葉のせいです。……本当なのですか?」
「は?」
「元おかかえ校閲だと、いいましたよね?」
「ん、ああ」
「つまり、小説の誤字訂正および内容修正の魔法を使えるということです?」
「そうだが?」
「ふむ。……面白い」
「へっ?」
「いいでしょう」
「はいっ?」
「気が変わりました。生かしておきます」
「ほ、ほんと?」
「ええ、その代わり」
「うむ」
「今日から捕虜としてわたしと一緒に旅をしてもらいましょう」
「なんだってえええええええええええーっ!」
思いもよらぬ少女の提案。
森中に、驚愕と困惑が混ざった、青年の声が一瞬だけ響いて消えた。
「無礼を働いたにもかかわらず、生かしてもらえることはありがたい」
「うむ」
「だ、だけど、どうして!?」
「じゃあ、死にますか? このマジカルロングソードは打撃がメイン。頭蓋くらいは数秒で砕けますから特に苦痛らしい苦痛はなく昇天できるはず」
「いや、怖いよ。それに、僕が言ったのはそういう意味ではなくてさ」
「ほう、元おかかえ校閲の自分が、わたしに生かされた理由が知りたいと? もしや、そういうことでしょうか?」
「そりゃ、当然だよ。元おかかえ校閲って述べただけで。他に大したことは言ってないはずだし」
リクオの問いかけに、少女は眉根を寄せて目を閉じる。
だが、そのうちに、ふっと苦笑して語り始めた。
「時代に救われましたね。いまはその校閲とやらが希少価値なのですよ。かつては世界中に散らばっていた校閲は現在、殆どが、財界人などのパトロン専属になっています。フリーの校閲も一昔前に比べてずいぶん減りました」
「ふむ。それは聞いたことある……かも」
「これから先に、政府の財政政策失敗で恐慌が蔓延、延長でもすればますます校閲は貴重になるでしょう。それに、フリーの校閲を個人で雇うことなんて、よほど財に余裕がある者しかできませんよ。だけれど魔法食料の供給には、都合の悪いことですね。校閲を雇わずに本を食べることは、時に急激な体調悪化や魔法エネルギーの減少などを招きますし、あまりにリスクが高すぎます。それこそ、わたしのような種族なんかは魔法食欲を満たすためには文豪だけでなく、素人の書く小説も食べる必要がありますからね。そのときには校閲なしは考えられません。文豪のそれとは違い、当たり外れが多く、ものによってクオリティーが違いますし危険が伴います」
「た、確かに。誤字脱字やあまりに内容齟齬が多い小説は読書しにくいからね。なるほど、それで僕を生かしたと」
「ザッツライト」
少女はこくりと頷く。
もちろん、リクオも彼女の説明に納得した。
そう。
「文章上の修正魔法」を使える校閲は今や、小説家やバケット職人と並んで非常に貴重な魔法食料の供給者になっていたのだ。
しかしながら、彼らのような教養者をひとり育てるには多くの手間と莫大な資金投資が必要になる。いまこの国にそのような余裕はない。
それに加えて、校閲や小説家の多くは、国内経済の悪化を見越した大物パトロンたちによって少しずつ囲われはじめている。
恐慌が長引けば長引くほど、一般人の飢餓者がますます増えるかもしれない国内状況に、ベルナンダールは染まりつつあるという事実を、読書日和の言葉により改めて実感し、リクオは深くため息をついた。
それからまもなく。
「で、どうするんです? 野良校閲」
「頭を砕かれたくはないなぁ。ははは」
「ふむ。では、捕虜になりますか?」
「まぁ、捕虜という言い方は嫌だけれど。僕も、きみの慈悲で助けてもらった命だ。こんな野良の校閲でよかったら、しばらく旅のお供になってやるかな」
「ふむ。大いに助かります。これからよろしく」
「こちらこそね。では、改めて。僕はリクオ・ワグナー。リクオと呼んでくれたまえ。きみは読書日和だっけ。なんだか長いなー。もう少し短くしたほうが良くないか?」
「うーむ。長いのでしょうか。ならば、リクオ。おまえの好きなように呼ぶがよろしいのですよ」
「じゃあ、デイズで」
「……デイズ!?」
「うん。呼びやすいから」
「単純すぎます! もう少しかっこいい名はないんですか! どうせなら白銀の騎士とかがいいです」
「白銀の騎士は、かけ離れすぎだろ! それに、きみが好きなように呼べって言ったくせに、いまさらそんなに怒られてもなぁ」
「ううっ、それは……。まぁ、そうですね」
「じゃあ、デイズでいいな」
「むう、仕方ないですね、特別に許可を出してやりますか」
「ありがとう。ちなみに、きみの旅の目的は何?」
「それは」
この問いかけに、読書日和ことデイズは、限りなく澄んだ蒼い目をぎゅーっと細くした。
「世界のどこかに実在する全五巻の伝説『ビブリオンの音読聖典』の原書。それらを手に入れることです。長いパンを自由自在なマジカルロングソードとしてあやつり、想像世界を創りだす魔道騎士ブレッダーのわたしにとってそれ以上の目的はありません。入手した者が『ビブリオンの音読聖典』全五巻の校閲済み『原書』を連ねて音読したとき、魔法エネルギーは永久的なものとなり、時代は新たな局面を迎えて変化するとさえいわれているのです」
「ふむ、全五巻のビブリオンの音読聖典ね。……初耳だ。それに、時代に変化をもたらすって……、ある意味恐ろしい力だな」
「いいえ、たとえ恐ろしくとも。わたしはこの退屈な時代を切り拓いて絶対的な変化をもたらしたいです。……貧しきが次々に見捨てられ死にゆく時代など無意味です。さて、おまえの旅の目的も聞いておきましょうか」
「まぁ、僕の目的は大したものでは全然ないけどな。世界中の小説を読んだり、校閲したりしたいのさ。夢なんて、大それたものでもないが、いずれは有名な校閲になりたいんだよ。それこそ世界中から依頼が来るような店を持ちたい」
言い終わると、リクオは少し照れた様子で頬をかく。
「なるほど。十分に立派な夢です」
「そうか? もし、他に質問があったらなんでも聞いてくれていいぞ」
「……ないです。参りましょうです」
「っておい、あんまり興味なさそうだな」
「そうですか? わたしは感情が表にあまり出ないのかもしれません」
「嘘だろ! さっきは感情出まくりだったくせにーっ」
「女心は秋の空なのです」
「その使い方はどうなのやら」
そんな会話の後に、彼らは歩き出した。