リクオ・ワグナー
◆◇◆
ベルナンダールの国境沿い。
いつかの深い森にて。
「ああーっ、あてが外れたよ」
そこにいる青年の名はリクオ・ワグナー(現在、無職)。
彼は、相変わらず空腹で鳴るお腹を押さえて街のはずれ、国境付近にある深い森をさ迷っているのだ。
森へ入って、いくら時が流れたのだろうか。
青年は生きるため必死だった。
一週間前に新聞社のおかかえ校閲者(主に、その小説がちゃんと読めるかどうかを事前に確認する仕事。誤字脱字や文中の不自然を訂正する魔法の使用が許可されている)を恐慌による新聞社の経営悪化により、首になった彼は、どうせ街にいたって雇用者が見つかるまではお金がないし、小説自体も滅多に買えない人間に落ちぶれた。
それならば、いっそのこと森で自然小説(まれに拾える破棄された未校閲小説)や自然食料(捨てられて腐ってはいるが食べられるバケットなど)を調達した方が早いと考えたのである。
時代は、国内経済が悪化して恐慌に差し掛かろうかというところである。
その最中、政府系銀行は金融政策を実行したものの、失敗し、結果として多くの人々が経済的に行き詰った雇用者から解雇されて職を失うことになった。
その悪循環はリクオの暮らす街でも例外ではなく、非常に優秀な校閲だった彼は新聞連載小説の校閲者としての職はもちろんのこと、不況によって財産も殆ど失ってしまっていたのである。
森に入る前こそ、自信に満ち溢れていたものの、手持ちの『小説』を全て消費しつくしてからは、現在に至るまで困難が続いている。
「ああ、もうどうすりゃいいんだ! ちくしょう」
そんな彼がふ、と遠くの大木に目をやると。
そこの根元には、なんとフランスパンが落ちていた。
「おおおおおおおお、フランスパンだ!」
その場でリクオは歓喜の声をあげる。
「神様も、まだまだ俺を見捨ててはいないな」
そんなこんなで、大木の根元までやってきた彼は、捨てられたとみえるフランスパンを手に入れた。
さっそくそれにかじりつく。
しかし。
「あがっ!」
そのフランスパンは異常なほどに硬い。
フランスパンにかじりついたはずが、カルシウム不足の彼の奥歯が逆に欠けてしまうはめになった。
「な、なんだこりゃ」
リクオは思わず、フランスパンから口を離す。
まるで、鋼のような硬さを持つそれはピクリともしない。
それどころか、むしろ大事な奥歯を奪っていった。
「く、くそったれ!」
ぺっ、とその場に粘ついた血の混じった奥歯を吐き捨てるリクオ。
彼の中で言い様のない怒りが満ちてきた。
「フランスパンまで、俺をバカにしやるのか」
彼はこの時、なんとしてもこのフランスパンを完食してやろうときめた。というか、食べなければ、いずれは自分も栄養不足で死んでしまう。
何故、そのような行動に出たかは分からない。
しいて言うならば、柔らかくするためか。
「おりゃあああああ!」
リクオは、拾ったばかりの、そのフランスパンを手にすると、それをそのまま渾身の力で大木に叩き付けた。
もちろん、フランスパンは欠けてしまうだろうと思ったが、……そうではなかった。欠けるどころか、ピンピンして相変わらずの硬度をほこっている。
そして、代わりに。
「え、え、え」
リクオは我が目を疑った。
「嘘でしょ」
フランスパンを打ちつけた大木のほうが、その部分からミシミシと音をたてて軋みはじめたのだ。
「まずい」
咄嗟につぶやくとリクオは、大木のそばからすばやく避難した。
おかげで、五秒後の大木のど派手な倒壊に彼は巻き込まれずにすんだ。
「な、なんじゃこりゃぁあああああ」
ショックのあまり両膝を地面について、まるで、有名なあの光景のごとく叫び声をあげるリクオ。
そんな彼の両手には相変わらず一本のフランスパンが握られていた。
一体、この食料のどこにこれほどまでの破壊力が秘められているかは謎だったが、彼はいまとんでもない代物を手にしているのかもしれない。
それだけはゆるぎのない事実だ。
「……ひょっとして、これって」
Q9(ぶれっだーっていう言葉を聞いたんだけど。なにそれおいしいの?)
――回答者(ブレッダーは魔道騎士の一族です。特殊な修練を積み、書物の探求に特化している魔道騎士たちは、硬度や殺傷能力がともに高いという理由から、先に述べた「バケット」を独自のレシピで配合した素材と組み合わせ、強度を極限まで高めた、カチカチのフランスパンを主に戦闘用の武器として用い、非常時には、それを食し魔法エネルギーを得て攻撃魔法を使用するといいます)
青年の脳裏には、先ほど読んだ『この世界の概要』の一文が浮かんでいた。
「先ほど読んだ本に記されていた魔道騎士の……武器? でも、まさかな」
と、その時。
「それは素人には食えないです、青年」
突然、背後から涼しげな少女の声がした。
リクオがふ、と声のするほう。
倒木の近くにある別の大木、その根元に目をやると。
そこには一人の少女がゆったりと巨木に背中をもたれて休んでいた。金属プレートをエプロンドレスに組み合わせた奇抜な装束に身を包み、さらさらの銀髪に、ブロンズ装飾のカチューシャを付けた色白の少女。
座っているので断定は難しいが、座高からして身長は160センチにようやく届くかといったところだろうか。
やや釣り気味ではあるものの、透き通った泉の水のような色を湛えて美しい、非常に魅力的な目をしている。
そして、その身体からは不思議な引力を兼ね備えているかのような妖しげな芳香が漂っていた。
「きみは!?」
それまで全く気配を感じなかったために、驚いてリクオは尋ねる。
すると、少女は若干うっとおしそうに眉根を寄せて。
「わたしの本当の名は言う必要ないです。通名は、読書日和と書いて、リーディングデイズといいます」
「読書日和? 変な通名だな」
「うるさい。そんなことより」
少女はやはり不機嫌そうな声音を響かせる。
「あ、これか」
ここでようやく、リクオは気がつく。自分の手にしているフランスパンが彼女の所持品かもしれないということに。
「そう。それ、わたしの大事な武器です。食うな。汚れる」
「わ、わるい。やはりそうか」
少女を怒らせるのもよくないと思って、リクオはフランスパンをその場においた。
「で、でも。こんなところに置いとくなよな。誰だって勘違いしちゃうだろ。捨ててあると思ったんだよ、これ」
弁明のつもりだった。
しかし、その言葉は少女には癪に障ったらしく。
「貴様、ちょっとこっちきやがれです。わたしは捨てたんじゃなくて、川に落としたそれを大木の根元で乾かしていたに過ぎないのです。てめえ、喧嘩売ってるのですか?」
「いや、そういうつもりは」
「とにかく、そばまで来やがれです! それともなんですか、わたしが直々に立ち上がって貴様ごとき雑魚をしばきにいかないといけないんですか?」
「ま、待って。落ち着けよ。成長期にストレスを溜めると余計に背が縮んで、胸が小さくなるぞ」
「貴様、わたしを貧乳チビといいたいのですね。殺すーーーっ」
「そ、そんなこと言ってない!」
「うるさいです。そこで待ってろです」
売り言葉に買い言葉だった。
リクオは空気を読まない言葉で、読書日和の逆鱗にふれてしまったようだ。
この分だと、しばらくは収まらないだろう。
と、思いきや。
「ふぁーあ。では、むくりしますか。ふぁー」
「ん? なんだ、こいつ急に」
今度はなぜか、両手を天にかざして気持ちよさそうに伸びをする少女。
少女の目はこれ以上ないくらいに細められた。よだれすら垂れかけているだらしない口元には自然と目がいってしまう。
やがて彼女はガシャリと音を立て、薄い金属プレートに覆われた腰を浮かした。
少女が立ち上がると、甲冑のような装束とはどこか不釣り合いなフリルドレスと、漆黒のニーソックスに覆われたしなやかな脚があらわになった。
「ふぁーあ」
で、未だにあくびは止まらないらしい。
あまりにもほのぼのとした態度は逆に不自然だが、リクオの一瞬の油断を誘うのにはこれで十分だった。
「すきあり!」
「うおおっ」
読書日和は、疾風のごときスピードでリクオに近づいて、すでに殺戮者としての間合いをとっていた。
そして青年が傍らに置いていたフランスパンを素早く拾えば、次には恐ろしいほど高速の突きを繰り出していた。
「な、な、な、なにすんだーーーーー」
間一髪、というかまぐれでこの攻撃をかわしたリクオだったが、出遅れるのがあと半歩ほどおくれていれば命があったのかどうかすら分からない。
「わたしをバカにするやつは許さんです。あとロングソードを汚した罰でもありますよ、これは!」
「ちょっ、バカいうな、おまえっ、やめ」
刹那のうちに次の攻撃が始まっていた。
今度は、石頭による強烈な頭突きだった。
「とえいっ!」
「いってええええええ」
そう、奇抜なドレス装束の少女はリクオの脇腹に思いきり頭突きを食らわせたのだ。
「ふふふ。こうなればもはや、終わりですねー。この愚か者がせめて安らかに死にゆくよう神のご慈悲を」
「おまえはジュラ期にいた例の恐竜の血筋かなんかなのか! ったく、なんつー石頭してやがんだっ!」
「わたしをチビ貧乳とののしった罪は……どんな山より重いのです。くらえ、とどめの一撃を!」
頭突きでバランスを崩したリクオに対して、少女がフランスパンにしか見えない鉄槌をあげる。
その姿はまさしく、華麗な殺戮の花。
少女の冷たいまなざしがリクオをとらえ、青年の怯えた視線が読書日和をとらえて交差した。
「ふふん」
殺戮の少女、読書日和は一瞬、口の端を邪悪な微笑でつりあげさえした気がする。
「このやろうううっ」
だが、リクオの生存本能もなかなか高いようだ。
ドグォッ、という鈍い鉄槌が地面をえぐる前に、青年は素早く身を回転させて、それをぎりぎりで回避した。
「なぬっ」
それどころか、ニーソックスに包まれた少女の華奢な足元にそのまま潜りこむことに成功したではないか。
「ほうほう、水玉模様か」
リクオは少女のスカートの中を凝視しながら冷静につぶやいた。