午後(前半) 御伽の森と精霊
『魔女の塔』や家は『御伽の森』でも開けた場所に建っているが、一歩その敷地から出れば、そこは昼間でも暗く感じるほどの深い森の中だった。苔むした広葉樹の巨木が秩序無く乱立し、真昼の陽光が淡く感じられるほどに、不規則に突き出した枝から葉が所狭しと生い茂る。
大人でも迷って出られなくなるような森を、ミリアは慣れた足取りで進んでいった。
ミリアにとって、この『御伽の森』は庭のようなものだ。毎日のように歩き回っており、迷うようなことはない。リアムは未だにあれこれ心配するけれど、魔術師も含め王国の人々がほとんど立ち寄らない分、森の外よりもよっぽど安全と言えた。
(精霊さん達も助けてくれるし、心配することなんて何もないのに)
後ろをついてくるリアムの心配性に心の中で文句を言っていたら、木々の間を踊るように駆け抜ける春風に小さな光が見えた気がした。精霊が新たな宿主を探しているのだろうか。
精霊は、魔力と共に世界を巡る存在だ。知能を持つが身体を有さないため、高濃度の魔力を持つものに宿りながらあちこちを渡る。精霊について、塔の本にも幾つか資料があったが、「世界を巡る力が得た自意識」や「世界を統べる神の分身」など幾つかの説が提示されているだけで、その正体について詳しくは記されていない。彼ら自身に聞いても話してくれないので、ミリアもどういった存在なのかほとんど分からないが、ただ、彼らが森の植物を好んで宿主にすることと、植物に宿った精霊が時々その不思議な力を貸してくれることは知っていた。
魔力の巡りが良いシャルムラーメ王国の中でも、森は特に魔力が潤沢な場所だ。植物が水分や土壌中の養分とともに魔力を吸い、貯める性質があるからである。特に魔力を多く貯めている植物には精霊が好んで宿り、それらの植物が霊草と呼ばれる。ミリアが今日探しに来たのも、そんな精霊を宿した植物だ。
歩きながらきょろきょろと辺りを見回していたミリアは、一本の大樹の前で立ち止まった。両腕で抱えきれないほど太い幹を持つ楢の古木だ。思わず感嘆の溜め息が漏れる。
「なんて古い木なんだろう。楢は元々長寿だけれど、こんなに古いものは見たことがないわ。きっと、何度も精霊が住み着いてその分生命力も増していったのね」
精霊は宿った植物に不思議な力を与えるが、その多くは宿主を守るためのものだ。そのおかげで精霊が宿った植物はちょっとやそっとでは病気にならないし、他の植物よりもずっと長寿になる。
青々とした葉の海鳴りのような深いざわめきを聞いていると、リアムがぼやいた。
「毎度思うが、どうして『霊草』って名前にしたんだろうな。これもそうだけど、どっちかというと草本より樹木のほうが多いだろうに」
彼のぼやきはもっともで、草本より樹木のほうが多く魔力を貯蓄する分精霊もよく宿る。それでも『霊草』というのには、一応理由があった。つい先日、ユマにその理由を教えてもらったミリアは、少し得意げにリアムに言う。
「昔、森で見つけた薬草に精霊が宿っているのを魔女が見つけて名付けたのが始まりだからなんだって。今でも樹木よりも薬草の霊草の方が多く使うしね」
精霊は植物を守護するとともに、その効果を高めることもある。薬草に精霊が宿ると、少し採取に手間がかかるが、元の植物よりもはるかに高い効能が得られるので、魔法薬の作成に大変役立つのだ。
ミリアの説明に、リアムがなるほどと頷いた。
「じゃあ、今日も薬草の方を探すのか?」
ミリアはちょっと考えた。当初はそのつもりだったのだが……。
「どうせだから、この木の精霊さんにもご挨拶していこうかな。こんなに古くて大きな木、『御伽の森』でも中々見かけないもの」
ミリアは、そっと両手で楢の幹に触れた。大樹を巡る魔力を感じ、自分の魔力を繋ぐ。樹木全体が淡く薔薇色に輝いた。
(こんにちは。挨拶をしに来たの。大きくて立派な木ね)
間もなく、幹の奥深くから染み出るように低く厳かな声が響いた。
「【ヒトに希望を。その礎たる者に祝福を】」
頭上から降ってきたのは、若葉をつけた小さな枝だった。まるで手折ったばかりのように瑞々しい。ミリアはにこっと微笑んだ。
「ありがとう。綺麗な枝ね」
「……相変わらず好かれてるな」
リアムが呟く。精霊の言う言葉はよく分からないが、どうやら好かれているらしい。霊草化した薬草を採取するときも、挨拶と同じ手順で精霊にお願いする必要があるので好かれているのはいいことだ。
ミリアは持っていた採取用の籠に枝を入れながら、ふふんと自慢げに笑う。
「だから言ってるでしょう? 心配することなんか何もないって」
リアムはいつも神経質に辺りを警戒しているので、安心させたくて言ったのだが、彼は小さくため息をつくだけだ。
「森にいるのが精霊だけってわけじゃないだろ。魔獣や魔物もあちこちにいるんだし、お前もちょっとは警戒しろ」
あくまで固いことを言うリアムに、ミリアは少し口をすぼめた。
「……どちらも滅多に襲ってこないじゃないの」
魔物も魔獣も魔力が濃い森に多く存在する。両者の違いは高度な知能を持つか持たないかといったところで、簡単にいうならば魔獣の高位の存在が魔物といった感じだ。魔物は契約して使い魔になることもあるほど魔女に好意的なので、魔獣も滅多に魔女を襲わない。魔女以外の人々が危ないので滅多に入らない森の中を、ミリアが自由に闊歩できるのには、そこら辺にも理由があった。
たまに魔女に喧嘩を売ってくるような好戦的な魔物もいるらしいが、そもそも魔物自体森の中でもほとんど見かけない。
魔物について、ふと思いついたミリアはリアムに尋ねた。
「そういえば、リアムも魔物でしょう? 森の中では魔物ってほとんど見かけないけど、仲の良いひとっていたの?」
「俺はずっと魔女の塔にいたからなあ……。あ、でも兄弟みたいな奴はいたな」
「兄弟?」
ミリアが首を傾げると、リアムがすっと片手を宙に伸ばした。その腕がぶわっと形を崩し
黒い霧のようなものに形を変える。正確には霧ではなく、闇だ。彼は闇そのものでできている。
「俺が闇の魔物であるように、光でできた魔物がいるんだ。俺らは対だから、まあ人間でいうところの兄弟みたいなもんだろ」
「ふうん……」
ミリアの返事はそっけない。実のところ、その時の彼女は魔物よりも兄弟のことについて思いを馳せていた。
ミリアも、兄弟については多少知識がある。エミリー、ユマ、サリアも魔法人形とはいえ三姉妹だ。だから兄弟については、『お母様』のことのような知らないことに対する疑問というよりも、憧れに近い感情を抱いていた。ミリアには兄弟がいなかったから。
(あ、でもリアムは兄みたいなものなのかも。あれこれ言うときなんか、ユマがサリアに注意している時と似てるし。……だったら、リアムの言う『光の魔物』さんも私にとって兄に当たるのかしら?)
つらつらと考えながら歩いていると、目の前の茂みががさりと動いた。
「魔獣?」
ミリアは呟くが、リアムが首を振った。いつの間にか狼の姿に変わっている。
「いや、この気配は違う! ……これは、どういうことだ?」
魔獣でないならば人間だろうかと思ったが、リアムの様子が変だ。いつも人が近づいたらすぐにミリアに逃げるように言う彼が、今日は驚いたように固まっている。
「この魔力は、まさか」
リアムが何か言い終わる前に、陰から金髪の男の子が顔を出した。ミリアは小さく息を飲んだ。
「あれ? 人がいる?」
男の子は、青玉のような深い色合いの瞳で不思議そうにミリアを見つめた。今まで人の気配がするたびに逃げていたミリアは、初めて真正面から、しかも同年代の少年に出会い戸惑っていた。
暫くお互い無言で見つめ合っていたが、不意に少年が安堵したように大きく息をついた。そして、未だ動けないままのミリアに人懐こい、どこか恥ずかしそうな笑顔を見せた。
「出会ったばかりで悪いんだけどさ、良かったら助けてくれないかな。僕、道に迷っているんだ」
この出会いが、ミリアの平凡な日々を大きく変えるとは、未だその場にいる誰も気づいていなかった。