序 暗闇から光へ
そこは、小さな少女のための、小さな世界だった。
真っ暗で、端から五歩も歩けば向かいの壁にぶつかるくらいの狭い場所だったけれど、少女にとっては物心ついた時から今まで、そこが世界の全てだった。
天井に小さな扉が見えたけれど、小さな彼女の背丈では届かなかったし、何よりこの場所には、暖かいベッドも可愛らしい玩具もあったので、少女はそれで十分満足していたのだ。
少女の名は、ミリア。五つ六つほどに見える幼い身体を柔らかな紅い長髪が覆っている。真っ暗な部屋で、真紅の薔薇を思わせる彼女の髪だけが煌めいていた。
その日も、ミリアは部屋の中でひとり、玩具や隅に積まれた本を適当に漁っていた。部屋には古めかしい本も沢山あった。ミリアは綺麗な挿絵を指でなぞったり、書かれた文字を声に出して読んだりした。意味は分からないものの、文字自体は不思議と読めたから。
そうして、数冊の本を開いたり閉じたりしていた時、一冊の一際綺麗な装丁の本を見つけた。真っ黒で、表紙全体に金色の精緻な文様が刻まれているが、題名はない。ミリアは、精妙に描かれた模様に心惹かれたようにそっと本に手を伸ばした。
「きれいなほん……」
ページを捲ると、彫って刻み込んだような黒い文字が、紙全体を埋め尽くしていた。
「これ、まだよんでない」
ミリアは、いつものように文字を指でなぞりながらゆっくりと囁いた。
「あなたは……いとうつくしきもの。……よるのまもりて。……ふるき、めいゆう。けだかくおおしき……くらやみのはしゃ。もし……|ちいさなわたしのことばが《tyller__Wt_K__B》……とどくのならば、ながきゆめはおわり……わたしに、そのすがたあらわさんことを……っ?!」
読み終えたその時、黒かったはずの文字が金色に輝いた。ミリアが驚く間もなく、彼女と本を中心に複雑な文様が円状に描かれる。
「なにがおこったの……?」
そして、真っ黒な塊が獣の形を成した。
「お前は……マデリンと同じ匂いがするな」
狼のような姿をした黒い獣が低く呟く。ミリアはその言葉に驚いた。
「マデリン……?マデリンはわたしのおかあさまよ」
「お前の母親……?」
首をかしげる黒い獣に、ミリアは大きく頷いた。
「ええ。わたしがおきたとき、かみにかいてあったわ。『貴女の名前はミリア。私は貴女のお母様のマデリンよ』って」
かつてミリアがこの場所で目を覚ました時、見つけた手紙。「お母様」というのはよく分からなかったけれど、手紙の文字はどこか暖かで、ミリアはその手紙をとても大事にしていた。
ふと、無表情で聞いていた黒い獣が少し目を細めた。
「そうか、お前があの時の……」
「あのとき?」
ミリアが問い返すと、獣は首を振った。
「いや、何でもない。ところでお前、ずっとここにいたのか?」
(このひと、なにかかくしているみたい)
獣の言葉が気になったものの、ミリアはそれ以上問いかけなかった。代わりに小さく頷く。
「ええ。わたしではうえのちいさなとびらをあけられないもの。それに、ここにはいろんなものがあるわ」
「いろんなもの、か……」
ふわっと、足元の風が動いた。黒い獣がミリアに近づいたのだ。獣は身体よりも更に黒く吸い込まれそうな瞳でミリアを見上げた。
「お前、名前はミリアだったか」
「そうよ? そうかいてあったわ」
突然聞かれて、ミリアは驚きながらも答えた。黒い獣は、真剣な瞳でミリアを見つめながら、静かに告げた。
「じゃあミリア、お前は外に出たいと思うか?」
「おそとに……?」
ミリアは小さな声で呟いた。獣がああ、と頷く。
「外にはもっと色々なものがある。ここに無いものも沢山だ。俺なら、あの扉を開けてミリアを外に連れ出すことができる。どうだ、お前は外に出たいと思うか?」
ミリアは目を丸くした。ずっと、考えたこともなかった。ずっと、この小さな世界がミリアの全てで、それで十分だと思っていた。けれど……。
「もっと、いろいろなもの……」
それは、魔法の言葉だった。本当に外には色々なものがあるのだろうか。ベッド、玩具、本……それ以外のものが。もっと、もっと、沢山。
それを知るのは、少し怖いような気がした。けれども気がついたら、ミリアは黒い獣に向かって大きく頷いていた。
「でたいわ!わたし、もっといろんなものがみたい!だからおねがい、つれだして!」
「そうか」
獣はどこか嬉しそうに言うと、更にミリアに近づき、その頬をひとなめした。
「それじゃあ俺と契約してくれ、小さな魔女よ」
「けいやく?まじょ?」
どちらも本で読んだような気がするが、意味は知らない。獣はため息をついた。
「魔女っていうのは後で話す。契約は……まあ、俺がミリアに協力するっていう約束みたいなものだ」
「やくそく?けものさんと?」
「俺は魔物だ!」
急に獣――魔物が怒った。ミリアは慌てて謝る。
魔物はもう一度ため息をついた。
「まあいい。とりあえず俺と契約しろ。何、難しいことは言わない。ミリアは、俺に名前をつけてくれればいい。俺に似合う名前を、お前が考えてくれ」
「なまえ……」
ミリアは首をかしげた。似合う名前と言われても……。
その時ふと、先日読んだ本を思い出した。この場所にある本にしては珍しく、それは物語だった。もちろん意味はよく分からないのだが、その文章は暖かで優しい感じがして、少し「お母様」からの手紙によく似ていた。その物語には男の子と女の子が出てきて、その男の子の名前は……。
「……リアム」
物語に出てきた、魔物と同じ黒い男の子の名前。魔物はちょっと怖いけれど、微笑んだ時、ミリアは手紙や物語と同じ暖かさを感じた。だから、この名前がきっと似合うと思ったのだ。
魔物はにやりと笑った。
「良い名前じゃないか」
そしてぶわりとその黒い身体を揺らすと、狼から黒髪黒瞳の男の姿に変わった。
「契約成立だ。俺はミリアの使い魔、リアムだ。お前が外に出たいというのなら、俺がその願いを叶えてやる」
リアムは腕を伸ばし、扉をいとも簡単に押し開けた。扉の先から溢れんばかりの光がミリアを照らした。
「おお? この扉は建物じゃなくて外に繋がっているのか」
ミリアは上を見上げて目を細めた。
「まぶしいわ。おそとってこんなにまぶしいの?」
リアムがひょいっとミリアを持ち上げながら言う。
「今はちょうど夜明けみたいだからな。ほら、上ばっかり見上げてないでもっと周りを見てみろ」
そして、ミリアは扉の外に出た。
「わあ……!」
思わず声を上げる。だが、それ以上は何も言葉が出てこなかった。
扉の先は森の中だった。木々は風に揺れ、下草は朝露に煌く。名前も知らない鳥たちが朝を歌い、喜びに舞う。その空はどこまでも青く広かった。
「きれい……」
独り言のような囁きに、答える声があった。
「外へ出て良かっただろう?」
振り返ると、リアムがこちらを見ていた。ミリアが見つめるとふ、と微笑む。
「ここはまだ始まりに過ぎない。外にはまだまだ、ミリアが知らないものが沢山ある。お前はもう、その全てを見ることができるんだ」
「わたしが、しらないもの」
ミリアの薔薇色の髪が風で舞い上がった。もう一度森の景色を見る。
(なんて、きれいなんだろう)
この素晴らしい景色の他にも、ミリアが知らないものがある。そう思うだけで期待に胸が膨らんだ。
ミリアはリアムに向き直り、にっこりと微笑んだ。
「そとへだしてくれてありがとう、リアム」
リアムも微笑み、その大きな腕でミリアの頭を撫でてくれた。
「俺は使い魔として主人の願いを叶えただけだ。……これからよろしくな、ミリア」
「ええ。よろしくね、リアム!」
明るい朝日が、二人をいつまでも照らしていた。
*
“【始まりは、願いとも呼べない小さな自我の爆発だった。】
【けれどそれは、心を知り、願いを知り、ついにはひとつの世界を作り上げた。】
【「それ」はヒトを愛している。心を教えてくれた小さな存在を守り、見守りたいと思っている。】
【また、「それ」は今も求めている。更なる心を。より魔力を反応させる、強い願いを。】“
――『×××の言葉 始まりの唄』