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  序


 真夏の日差しの中、船べりから身を乗り出して、十六歳の県犬養宿禰(あがたいぬかいのすくね)氏忠(うじただ)はどこまでも青い大海原を見渡していた。

「この青い海の色が突然黄色に変わるそうですよ」

 彼の隣にいた四十歳くらいと思われる貴人が、不意に話しかけてきた。遣唐使船に乗ってから知り合った人だ。少録という記録係の名目で遣唐使に参加したというが、実は名前もまだ知らない。

「青い海と黄色い海の境目が一直線に横たわっていて、近づいてくるそうです。二つの色は決して混ざることなくきっちりと分かれていて、船がその線の上を過ぎて黄色い海に入るともうすぐ陸地だということらしいです」

 まあ、頭の良さそうな人が言うことなのだから、そうなんだろうと氏忠は思った。氏忠は十六歳でも四年前に加冠の儀を終えているから、社会的にはれっきとした大人だ。

「ただ、ごく稀に海が黄色くならずに、青い海のまま陸地に着くこともあるようです。もっともその場合は、そこがどこか見当もつかない未知の世界で、その世界から戻ってきた人は一人もいない」

「でも、誰も帰ってきた人がいないのなら、なぜその船が青い海のまま陸地に着いたって分かったのですかね?」

「あ、たしかに」

 男は笑った。船の周囲はどこにも陸地は全く見えず、大海の真っただ中だ。少し離れた所に他の三隻の遣唐使船が、その白地に赤い柱の船体を見せているだけだった。

「ま、四十年ぶりの遣唐使ですから、いろんな人がいろんなことを言いますよ」 

 男はまた笑った。氏忠も愛想笑いを返しておいた。


 だが、大津浦を出航してからまだ七日。ここまでは順調だったがまだまだ先は長い。

 案の定、その夕方から風も強くなって船が大幅に揺れだした。甲板の下は大部屋で、大使や副使以外は身分に関係なくこの大部屋の荷物の合間に雑魚寝なのだ。船に乗っている総勢は四十人くらいなのでそうひしめき合っているほどでもない。

 そのままどんどん波は高くなったようで、船の揺れも激しくなっていった。船室の中からは見えないが、おそらくは山のような波に乗りあげ、波の谷間への急降下をしているのだろう。船は斜めどころか垂直に傾き、一気に反対へと傾斜を変える。そのたびに船内の荷物は勝手に移動し、人間も転がりまわる。

 もはや生きた心地はしなかった。船内は人々の叫び声で充満し、その叫び声もかき消すほどの封と波の音が響いてくる。

 いわゆる留学僧(るがくそう)と思われる僧侶たちが経文の一節を声高だかに唱えたりしているが、その声も波の音でよく聞こえないし、じっと座っていることもできないので経文すら途絶えがちだ。

 氏忠は、もはや自然の猛威に逆らうことをやめ、体があっちにこっちに勝手に転がるのに任せていた。

 人間同士がお互いにぶつかりあうこともしばしばだけど、他の人のことなど気遣っている暇はない。ほんの少し落ち着いたかなと思って座り直しても、すぐにまた船は船首を高く上げて、その体は傾いた床の傾斜の下に放り出される。

 もうどれくらいそんなことが続いていたか、もはや時間の感覚というものすらなくなっていた。とにかく怖いのは、何も見えないということだ。こんな状況だから当然船内の灯りは消えてしまっている。船が垂直に船首をもたげ、今度は垂直に下降し、船内の物も人もすべてがそれに合わせて転がりまわる……そんな状況が漆黒の闇の中で展開されている。

もはや、尋常な精神ではいられなかった。恐怖などという生易しい言葉で言い表せるものではない。もうだめだろうという思いが、心の中をよぎった。今日が自分の命日になるのか……。結局は唐土には行かれず、海の藻屑となる。

 そんなことを考えつつも氏忠は船内を転がり、そのうち意識が遠のいていくのを感じていた。


「待って!」

 氏忠は彼女の手をしっかりと握っていた。

 夜も更けて、暗い宮中の御殿で二人きり。微かに風が吹き、冬の月が庭の前栽(うえこみ)を程よく照らしている。

 帝とその伯母君である上皇も出御しての九月九日の菊の宴で、氏忠は彼女と再会した。それは幻想の中のひと時のようでもあった。 夜になってかがり火がたかれ、先ほどからずっと女性たちによる(こと)の合奏が流れている。元服と同時になんとか貴族のはしくれともいえる直広参(じきこうさん)の位を授かっていた氏忠も、この日は宴の片隅に席を与えられていた。

そして彼はこの宴で、夢にまで見ていたある女性との再会を果たした。昔から想いを寄せてきた幼馴染みの女性……神奈備皇女(かんなびのひめみこ)である。昔は共に遊んだりもした。だが、元服とともにそれは許されなくなってしまった。

 もう一度彼女に会いたい……いや、それだけでは済まない情熱が、ずっと彼の中にあった。そして今夜の菊の宴でやっと会えた。

 だから宴も果てて、彼女が最後に退出するのを待って、氏忠は想いのたけをぶつけることにした。彼は、奥へ入ろうとする彼女をつかまえ、その手をつかんだ。

「ずっとずっと前から、幼馴染みとして遊んでいる時から好きだった」

 返事はなかった。沈黙が流れた。

「まずは手を放して」

 もっともだ。氏忠は慌てて彼女の手を放した。また沈黙があった。暗くてよく見えないが、彼女は眼を伏せているようだった。

「無理」

 蚊の鳴くような、細い声だった。氏忠はしばらくどう反応していいか分からなかった。

「…………えっと、……」

「ごめんなさい」

「あ、あの、僕のこと、嫌い?」

「いいえ」

「じゃあ身分が違うから? 確かに君は皇家(おうけ)皇女(ひめみこ)で僕は臣下。でも、僕は身分はいやしいけれど母が皇女だ」

「それは知ってる。そんなことじゃなくて」

 声が涙声だ。彼女の目には涙があふれているのだろう。

「もうちょっと、この菊の宴が早ければ……」

「え? どういうこと?」

「私…………、入内(じゅだい)するの」

 すべてが終わった。


 畝傍山が神奈備皇女、香久山が自分だとすると……耳成山は帝……勝ち目はない。

 氏忠が遣唐使に選ばれたのは、その翌年だった。

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