The marriage of Hastur 7
久しぶりの東京。
久しぶりの摩天楼。
じりじりと肌を焼く太陽と、殺人的なまでの湿気。空気そのものがよどんでいるような、そんな感覚。
八月も中盤ともなれば、この街は暑熱にうなされている状態だ。
ビルの群れが作る巨大な影を見ながら、男が唇を歪める。
あいかわらず、たくさんの蔭がある街だ、と。
匂坂嶢。
平均以上の身長と平均以上の容姿をもつ若者である。
眉目は鋭く、短くした黒髪は涼やかで、ごくありふれた洋装も、上手く街に溶け込んでいるような印象だ。
「懐かしい感じですか? 嶢氏」
「いや。懐かしむほど良い思い出なんかないさ。この街には」
かけられた声に、微笑をみせる。
接近に気付いていなかったわけではない。
知っている気配であるがゆえに、近づくに任せていただけだ。
「軍師自ら出迎えとは、恐縮だ。信二くん」
正面に立つ相手。
魚顔軍師、信二。
澪の筆頭軍師にして、最高の頭脳だ。
「いえいえ。勇者様に護衛していただくんですから、このくらいは」
信二もまた笑みを返す。
勇者のひとり、匂坂。
彼を護衛として派遣するという旨の連絡を信二が受け取ったのは、昨夜のことである。
楓に依頼してから、一昼夜しか経過していない。
なかなかのスピード決済だが、時間をかけて良いことなどなにもないので、判断そのものは非常に正しい。
人選も納得できるラインだった。
口にも態度にも出さないが、弟子である第二第三軍師たちの成長に、内心で快哉を叫んだほどである。
「先に食事にしますか? お昼まだでしょう?」
「車内で駅弁でもと思っていたがな。せっかくだし、お前と食おうと思って我慢してきた」
「では、札幌ラーメンの店にでも行きますか」
「北海道から東京にきて札幌ラーメンとか、新機軸すぎる」
笑いながら歩き出す。
同い年の二人だ。
澪時代から気心は知れている。
実剛と御劔みたいにべったべたじゃないけど、けっこう親しい間柄なのだ。
男の友情なんて普通はそんな感じ。
むしろ御劔がおかしいのである。
過保護というか、あるいは恋する乙女というか。
「あんなんだから薄にからかわれるのだと、死ぬまでに気付けばいいがな」
「まあまあ。友情のかたちは人それぞれですよ。嶢氏」
他人事みたいに話しているが、こいつらは知らない。
澪の女性陣たちによって、自分たちが新たにカップリングされてしまっていることを。
どっちが右か左かで、わりと不毛な論争が起きていることを。
まあ、世の中には知らない方が良いことなど、いくらでもあるのである。
「とはいえ、嶢氏がきてくれて助かりました。俺一人では、魔境の秋葉原には足を踏み入れられませんからね」
「秋葉原? なにかあるのか?」
サブカルチャーの聖地だ。
あまり軍師が興味を示すような場所とも思えない。
魔王陛下ならばともかく。
「先日の試合で助けにきてくれた伽羅女史ですがね。秋葉原のメイドカフェで働いているようなんですよ」
顔を出してくれといわれている、と、説明する。
ことは義理の範囲だが、それだけに欠くことはできない。
そもそも、救援に対する謝礼は日本政府に対して支払われるから、迦楼羅王の転生者には一円も届かないのである。
聖の気が利いているなら、そのあたりもひっくるめて、ちゃんと恋人に気を使うだろうけれど、あのへたれ剣士にそこまで求めるのは酷というものだろう。
「秋葉原で、メイドカフェですよ。さすがに二の足を踏んでしまいますて」
肩をすくめる軍師。
勇者も同様のポーズを決める。
匂坂だって、そんな場所に足を踏み入れたくはない。
たくはないが、政略面での重要度は理解できる。
「まったく興味はないが、行かざるを得ないだろうな。護衛としての初任務がメイドカフェ来訪というのは、なんともしまらない話だが」
「オムライスに好きな文字を書いてくれるらしいですよ?」
「その情報必要か? だがまあ、それなら俺は明鏡止水と書いてもらうかな」
好きな言葉である。
荘子が出典で、心にわだかまりをもたないで落ち着いている状態のことだ。
「なら俺は、雷陳膠漆ですかね」
好きな言葉である。
こっちの出典は後漢書。
雷義って人と陳重って人が、すっごい固い友情で結ばれていたことからきている。
たぶん、オムライスの表面にケチャップでそんな画数の多い四字熟語を書いたら、文字かどうか判らない惨状になってしまうだろう。
店に行く前から、この二人は嫌な客確定だ。
「しかたないから、結婚するよ。ハスターさんと」
デートから二日が経過した澪町役場。
副町長室と町長室の前にある前室。
まずここに入らないと、どっちの部屋にもいけない構造になっている。
沙樹などは、たいていここにいるし、彼女と仲の良いこころも一緒にいることが多い。
あと、副町長室は喫煙家のたまり場だから、住環境がよくないって事情もある。
ふと思いついたように、そのこころが言った。
ノリとしては、今夜呑みにいかない? くらいの感じだ。
「OK。こころ。ちょっと落ち着こうか」
ため息をついた蒼銀の魔女。
両手で、落ち着こうぜって感じのジェスチャーをした。
「いや? そのポーズはむしろ、ひげダンスじゃないかな。私も一緒にやったほうが良いかい? 音楽はないけど」
余計な気遣いをする天界一の知恵者であった。
ふたりしてそんな怪しい踊りをおどっても意味がない。
ギャラリーもいない。
「そもそもこころ。結婚って仕方なくするものじゃないでしょーが」
疲れたような魔女の言葉。
「ふむ。そうなのかい? 私がきくのんから聴いたところによると」
魔王の妻たる菊乃のことだ。
彼女は暁貴からプロポーズされ、仕方がないから結婚してやると応えたという。
「なんでおキクにきいたのか……」
心の底から問いたい沙樹であった。
よりにもよって、一番特殊なパターンを指標としなくたってよかろうに。
「え? だって沙樹さんには訊けないじゃないか。大恋愛の末に結婚したくせに、浮気疑惑のせいで離婚して、復縁したってのに相変わらず男の純情をもてあそんでる悪女に、なにを訊けってのさ」
「う゛っ」
胸を抑える沙樹。
正論である。
事実である。
高校生の頃、周囲の反対を押し切って雄三と交際し、長老どもを殴り倒す勢いで結婚した。
にもかかわらず、札幌から呼び戻されて荒れた生活を送っていた暁貴に思いを寄せ、通い妻みたいにかいがいしく世話をした。
そのころに生まれた琴美なんて、じつは暁貴の子供なんじゃないかって噂になったくらいだ。
で、そういうことをしていたせいで、雄三は苦しみ、出ていっちゃった。
紆余曲折を経て、復縁した。
ここまでならいいけど、影豚の佐々木が沙樹に惚れていることを知っていて、一緒に食事をしたり飲みに行ったりしている。
夫が単身赴任で家にいないのをいいことに!
ものすげー悪女である。
「るせーるせー! 一線は越えてないからいいんだい!!」
ムキになったりして。
「まあ、実際問題としてきいても判らないってのが本音なんだけどね」
激昂している恋に生きる女をぽいっと捨てつつ、肩をすくめてみせる。
なんでも知ってる天界一の知恵者だが、人間関係の機微だけは苦手分野なのだ。
「ハスターさんとのキスは気持ちよかった。もう一回してもいいかなって思った。こんなんじゃ理由にもなんにもなんないでしょ」
だから仕方なくさ、と、付け加える。
「こころさんや。この世界じゃそれを、愛してるっていうんじゃよ」
ぽむぽむと年少の友人の頭を叩く沙樹。
「どこのご老体なのさ」
うろんげな目を向ける知恵者であった。




