澪を覆う影 10
「……わがったよ。町の幹部さんにまでご足労かげで、これ以上ごんぼは掘れねえべさ」
肩をすくめながら老人が笑う。
なるほど、と、内心に呟き、若者が頷いた。
この人は上から押しつけられるのが嫌だっただけか、と。
たぶん、転居するしかないことも判っていたし、その重要性も理解していた。頭では。
それでも拒否を続けた。
頑なに。
若者には、たぶん判らない理由で。
もしかしたら本人にも判らないかもしれない。
理屈ではないから。
「うんうん。よかったよかった。ぼこぼこにしないといけないかと思ったよー へむじいー」
にへらーとニキサチが笑う。
「こただ小娘にぼごられるはんでおいぼれでね」
よっと白石老人が立ちあがった。
釣り竿をしまい始める。
「引っ越しの支度でもするが」
「お手伝い部隊まわすね。へむじい」
「助がるよ」
ひらひらと手を振ったりして。
「あ、白石さん。お忘れ物ですよ」
若者が声をかけた。
ホッケが五匹ほども入ったバケツがそのままだったのだ。
「あんだだちにやる」
素っ気なく言い残して去ってゆく。
いらないなら、そもそも釣るなって話だ。
なんで釣りしてたんだ? あのじーさん。
くすりと笑うニキサチ。
「素直じゃないんだから」
「というと?」
「おにーさんがいたから、へむじいは私の話を聞く気になったんですよー」
「そうなんですか?」
ギャラリーがいたから、あまり無様な姿は見せたくなかった。
そういうことだろうか。
首をかしげる若者。
どうも判らない。
「たぶんですけどねー へむじいも落としどころを探してたんですよー」
意地を張り続けても良いことなどなにもない。
最終的には選ばなくてはならないのだ。
澪の人間として生きるか、出てゆくか。
前者を選択した場合は、町の決定には従わなくてはいけない。少なくとも、この澪では魔王たる暁貴の決定は絶対なのだから。
「わかっちゃいるけどってやつですねー」
「ははあ。なるほど」
頷きはしたものの、若者の表情は不分明だ。
そもそも、ニキサチの説明で理解できる人間など、すっかり飼い慣らされちゃってる魔王ハシビロコウくらいのものだろう。
「んじゃ、私たちもいきますかー」
「たち?」
なんで複数形にしたし。
という趣旨の視線をニキサチに向ける若者。
「お魚たべるでしょー? 良い料理人知ってますよー」
「ああ……食べるんですね……」
リリースしてあげるって話にはならないらしい。
まあ、若者としてもせっかく釣りたてのホッケだ。美味しい料理に化けてくれるなら、べつに否やはなかった。
「バケツもってくださいねー 私チャリおしていかないといけないんでー」
「はいはい……」
「はいは一回!」
「はい! すみません!」
理不尽に怒られ、直立不動の姿勢を取る若者であった。
なんだこの絵図。
「ところで、おにーさんの名前、まだ聞いてないよーなー」
「気だけじゃないですよ。名乗る機会すらなかったんで」
ただの通りすがりである。
ぽりぽりと頬を掻く。
それから、ゆっくりとニキサチに向き直った。
噴火湾を背景に。
刻まれる笑みは、海よりもなお深く、昏く。
深淵のように。
「私は、Hasturだよ。お嬢さん」
渡る海風が髪を逆巻かせる。
黄色いTシャツが、やたらと視界に入る。
「蓮田さんですかー よろしくお願いしますねー」
ふにゃっと笑うニキサチ。
「あれ?」
若者が首をかしげた。
いま、すごく認識に齟齬があった気がする。
もっとこう、すごい警戒されるとか、泣き喚かれるとか、いろいろ反応があるんじゃないかと思うんだ。
「なにぼーっとしてるんですかー? いきますよー」
ぶんぶんとニキサチが手を振る。
「あ、はい」
首をかしげたまま、蓮田と呼ばれた若者が続いた。
さて、秋のグルメイベントに向けて準備を進めているのは、澪や北斗ばかりではない。
秀峰駒ヶ岳をぐるりと囲んだ自治体がすべて参加するのだ。
鹿部町や七飯町なども当然のように参戦するし、名古屋コーチンを引っ提げた八雲町もメニュー開発に余念がない。
中心となるのは商工会議所や観光協会だが、八雲の場合には他にも強力な協力団体がある。
自衛隊だ。
その名も、対澪特殊部隊。
澪のメディア対策室長補佐である田中二等陸尉や、子供チームとも仲が良い紀舟陸曹長の古巣である。
対澪、という繋がりのためかどうか判らないが、対澪包囲網の一角たる八雲を、自衛隊もバックアップする。
そして、あの男も。
「まさか……こんな……」
思わず箸を取り落としそうになる三浦陸将補。
対澪特殊部隊の司令官であり、彼自身も霊薬を服用した量産型能力者だ。
食べているのは、名古屋コーチンの手羽ひつまぶし。
ひつまぶしというのは、簡単に言うと鰻の蒲焼きを切り分けて、お櫃に入れたご飯に乗せたもので、漢字で書くと櫃まぶしとなる。
もちろん抜群に美味しい料理だが、名古屋からきた男が提案したのは、鰻の変わりに名古屋コーチンの手羽を用いることだった。
美味しい部位ではあるものの、骨があって可食部分が少ないため、ちょっと食べにくい。
名古屋では手羽先揚げなどが広く食べられているが、あんまり北海道では普及していないのも事実だったりする。
三浦陸将補だって、ちまちま手羽先を食べるより、レッグにかぶりつきたい派閥だ。
「これが澪を唸らす秘密兵器……」
「そりゃそーだがね。どーらええとこばっかりぎょーさん使うて勝ったって、意味にゃーでよー。ええもん使ったで勝てたんだわって言われるにきまっとりゃーすわ!」※1
手間をかけて煮焼きした手羽先。
丁寧に骨をはずしてご飯にまぶす。
味付けは秘中の秘というが、甘辛く香り高いたれがよりいっそう名古屋コーチンの味を引き立てる。
なぜ名古屋からきた男がこのメニューを提案したか。
彼が語ったように、素材としての名古屋コーチンは澪豚を凌駕している。
そもそも値段だって違うのだ。
澪の連中が好んで使うウデ肉。これは百グラム百二十円ほど。
名古屋コーチンは、モモ肉で百グラム六百円くらいだ。
ざっと五倍。
お祭りイベントだから、多少高くとも客は買うだろう。
しかし同時に、高いのだから美味くて当たり前とも思われるのだ。
もちろん名古屋コーチンはブランド鶏なのだから手羽先だって高価だが、それでもモモ肉の半値以下。
販売価格だって、バカみたいに跳ね上がったりはしない。
「とにかく値打ちにうみゃーもんっつーのを極めとらっせる五十鈴さんだもんで、ただ高級ばっかな料理じゃあよーやらんわな。やっぱ何かしらんアイデアがにゃーと」※2
そのアイデアというのが手羽ひつまぶし。
「ぐぬぬぬ……」
唸る陸将補。
なんという連中だ。
なんという次元で戦っているのだ。
名古屋コーチンというブランドに驕ることなく、なお高みを目指そうとするとは。
「ほんでも、こんだけじゃあ五十鈴さんにかなっとらーせんっつーのも事実だでよー」※3
「馬鹿な……まだ足りないというのか……」
頷き、男が取り出すのは卵だ。
名古屋コーチンの真価は、肉にあるのではない。
この、激烈に美味い卵。
「温泉卵……だと……?」
本来、ひつまぶしは四等分にして盛りつけ、一杯ごとに味を変えて違いを楽しむものだ。
しかしイベントで、そんな悠長なことはやってられない。
ゆえに、この手羽ひつまぶしはおにぎりにして提供する。
片手で食べられるように。
ふたつで一セットだ。
ここに工夫がある。
同時に、温泉卵も販売するのだ。
客はひとつ目を普通に食べ、ふたつ目を器に入れ、そこに温泉卵を落として食べる。
むろん、ふたつともそのまま食べたって良い。
選ぶことができる。
これが楽しいのだ。
「さすがだ。名古屋からきた男。否、名古屋メシの伝道師」
右手を差し出す三浦。
男が、しっかりと握り返す。
「……その寸劇、いつまで続くんですか?」
もっのすごい白い目で、副官が見つめていた。
なにわけのわからん盛り上がり方してるんだって話である。
天下国家のことではなく、たかがお祭りイベントで。
対訳
※1「そうです。高級な部位を豪勢に使って勝ったところで意味がありません。素材の差で勝っただけだと言われるのが関の山ですからね」
※2「いかに安く、いかに美味しくというのを極めた五十鈴さんに、高級なだけの料理は通用しません。アイデアがなくては」
※3「そして、これだけでは五十鈴さんに及ばないのも事実」
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名古屋弁監修
Swind(神凪唐州) 先生
https://mypage.syosetu.com/582742/
レシピ参照
ナゴレコ
https://nagoya-meshi.com/recipe/hitsumabushi