澪を覆う影 9
若者が腕を組む。
この老人の言うことは、たしかに一理はあるだろう。
家は建ててやった。費用は負担してやる。だからさっさと引っ越せ。
これはいかにも上から目線だ。
金の問題ではない。
あるいは現在の住居に、なにかしらの思い入れがあるかもしれないし、どうしても移りたくない理由があるかもしれない。
否、それ以前に、高圧的にこられたら、さして反骨の精神をもっていなくても、首肯しがたいものがあるだろう。
「説明会とかはなかったんですかね?」
「行っでねえよ。んだらもん」
「いやいや。それは行きましょうよ」
苦笑する若者。
不満があるなら、ちゃんと言わないと。
「行っだって、煙に巻かれるだけだべ。あの人だちは頭が良いからのせ」
学のない自分が不満をぶつけても、のらりくらりとかわされるだけ。
ふんと鼻を鳴らす老人。
これは難しい。
金銭とかの問題でなく、感情論であるだけに、対話によってしか解決の方法がない。
にもかかわらず、少なくとも当事者の一方が折衝を拒否している。
「あー! こんなところにいたー!!」
そのとき、大声が岸壁にひびく。
視線を巡らすと、すごいスピードで自転車が接近中だ。
漕いでいるのは若い女性。
白いブラウスと黒っぽいスカート。あまり美人ではないが愛嬌のある顔には少しそばかすがある。
若者は知る由もないが、ニキサチだ。
「へむじいっ! 家にいてっていったのにー!」
「だれがへむじいだ。べつに待っででやるなんていってねえべ」
めんどくさそうに、しっしと手を振る老人だったが、目が微妙に優しい。
それにしても、と、若者は思う。
へむじいとはなんだろう、と。
どうでもいい話だが、この老人の名は白石というらしい。
本人の名乗りではスライスだったが、役場職員だという女性が意訳してくれた。
ますますへむじいから遠ざかった気がしないこともないが、若者は気にしないことにした。
なんというか、たぶんこの女性とまともに会話をしたら疲れるんじゃないかな、と、本能が告げたのだ。
「なんどきても一緒だ。俺は引っ越さね」
「だから理由を教えてっていってるでしょ。へむじい」
岸壁に座り、白石老人の説得を始めるニキサチ。
若者の存在とかはべつに気にしないらしい。
こういうのってギャラリーはいない方が良いんじゃないかって気がするんだけど、これもきっと気にしたら負けなのだろう。
「…………」
「またそうやって黙り込むー」
「……あんだに言ってもどもならんべ」
老人の態度は頑なだった。
ニキサチに言ってもどうにもならないから言わない。説明会に行っても丸め込まれるだけだから行かない。
だったらどうしろというのだ、という話である。
「引っ越し先に不満があるとかさー もっとでっかい家をよこせとかさー 要望があるなら言ってくんないとわかんないんだよー?」
「……そういう話じゃねえ」
「だからー じゃあどういう話だってきいてるじゃんー」
粘り強く聞き出そうとするニキサチ。
これは老人の方が悪いな、と、若者は思った。
ただひたすら嫌だ嫌だ。
子供の駄々と一緒。
少なくとも耳順(六十歳)を過ぎた人間のやることではない。
ちなみに耳順というのは孔子の論語が出典で、何を聞いてもまずは素直に受け入れる、くらいの意味だ。
まあ、若いうちはとかく他人の意見に従えないものだけど、六十歳をすぎると、まずは聞くってことくらいはできるようになったよーん、みたいな解釈で問題ない。
「うちの総務カチョーが言ってたよー? 意見を述べる機会が与えられていないなら意見を言えなくて当然だって。でもでも、そういう場があるのに意見を言わない人は、意見なしって扱われても文句は言えないんだってー」
それは当然のことである。
意見を述べる機会がないなら仕方がない。
たとえば言ったら殺されるとか、地位を失うとか、家族に危害を加えられるとか。
そんな状況で意見が言えるのなんて、それこそ人面鬼くらいのもんだろう。
しかし、このケースは機会が与えられている。
説明会でも、直接役場に行って話すでも。
それによって白石老人の立場が悪くなることは絶対にない。
にもかかわらず、ただ頑なに拒否を続けるだけ。
ニキサチが本人のもとに出向いているのに、なーんにも語らない。
これはどう考えても、老人の側が誠意を欠いているだろう。
「ゆーて、えらい人のまえで喋れったって、なかなかできないよねー」
ふにゃっとした笑顔。
面食らう白石老人。
「…………」
「だからー 私にだけ言ってくれればいいのよー 間違いなく上に通しちゃるからー」
どんと右手で胸を叩いたりして。
頼り甲斐は、まったくなさそうだ。
「……あんだみでぇな小娘になにがでぎる……」
「できるよー 私けっこーえらいんだよー」
ものすごく嘘くさい。
嘘くさいけど、事実だったりする。
ニキサチの地位職責はメディア対策室長の秘書。
澪に三人しかいない秘書職のひとりだ。つまり、暁貴の秘書たる沙樹や、鉄心の秘書たるこころと同格なのである。
当然のように幹部会議にだって席があったりするのだ。
「信じられね……」
「名刺あげようとしたら、いらんって断ったでしょ」
ふんすと鼻息を荒くし、スカートのポケットから名刺入れを取り出す。
ハンドバッグくらい持ち歩けって話だが、ニキサチだから。
ぬっと差し出される名刺。
「だから俺は……」
何か言いかけた白石老人の目が、名刺に釘付けになった。
肩書きではなく、名前に。
「おめ……仁木さんの……」
「やっと思い出したー? もーろくしてんじゃないのー? へむじい」
にぱっと笑うニキサチ。
「へむ……そうか……」
それはかつて、老人が飼っていた犬の名前。
もうずっとずっと前の話だ。当時やっていたアニメのキャラクターから名前を取った。
近所に住んでいた子供も可愛がってくれた。
老いて亡くなったときも、一緒に泣いてくれた。
まだ小学生にもならない少女だった。
「あんどきの子供がこっだらでかくなって……」
「あらためて。ひさしぶりだね。へむんちのおじちゃん。澪役場の仁木幸だよ」
住民生活課ではなくメディア対策室のニキサチがどうして白石老人との折衝にきていたのか。
志願したからだ。
偏屈な老人が転居に応じないため、一部の工事が滞っている。
けっこう深刻な問題になっていた。
たとえば総務課長あたりが、武断もやむを得ないという結論に傾きかかっていたほどに。
住民との対話をなによりも大切にする人面鬼が、である。
そのくらい、老人の行為は発展の足を引っ張っていたのだ。
防衛構想という一点においても。
幹部会議において強制転居の裁決が為されようとした、まさにそのとき、普段は発言なんかしないニキサチが挙手した。
「そのじっちゃんなら知ってますよー 昔から偏屈でー 他人がAっていえば絶対にBっていうよーな人でしたねー」
「ニキサチ。いまはその老人のパーソナルデータは必要ない」
「そんなの知ってますってー ハシビロコウさまー だから私が説得してくるって言ってるんですー」
「説得ぅっ!?」
思わず変な声を出してしまう第六天の魔王だった。
彼女と近しい依田ですらこのありさまである。
他の者など、目が点になっている状態だ。
「まー どうしても言うことを聞かなかったら、ぼこぼこにしてやりますよー」
「それは説得とは言わん……」
という、心温まるいきさつがあり、ニキサチが事に当たることになったのである。
「どこが心温まるのか問いたい。問いつめたい」
心の底から問いかける若者であった。




