幸海中学校文芸部の過ち
中学二年生の僕、春川凛太と菖蒲千草は幸海中学校のたった二人の文芸部員である。この文芸部に部員が一人もいなくて廃部になりかけていた頃、当時中学一年生だった僕達が、読者が好きという理由だけで入部して存続が許可されたのは、僕と彼女の共通の思い出だ。
僕らは友達である。ただの友達というほど薄い仲ではないけれど、家族というには大袈裟な仲。九〇パーセント気の置けない関係、とでも言おうか。
今からするのは、そんな僕達の『過ち』が引き起こしてしまった事件についての話である。
幸海中学校の十月は一年の中で最も忙しい。
中旬に文化祭、その後の前期終業式と後期始業式を挟んで下旬には合唱祭が控えるというスケジュール。ちなみに、来月の中旬には体育祭がある。冬の寒さがやってくるというのに、少々うんざりする。
この時期はどの生徒も行事に向けたクラスごとの準備と部活動を行ったり来たりするから、校内が騒がしくならない日は無い。
確か、最近手に入れた全ての部活動の十月中の計画がまとめられたプリントは、それはもう酷い事になっていた。運動部・文化部問わず、どこも朝練の予定がびっしりと入っていたのである。細かいところまで表を見ると、今月の文化祭が終わるまでに朝練が一度も無いのは、男子水泳部と我らが文芸部だけなのが確認できた。
おそらく、文化部は文化祭に向けたそれぞれの準備の時間をできる限り確保するという狙いがあるのだろう。一方で、文化祭の準備と並行して地区大会に向けたハードな練習を毎日のようにこなす運動部だが、果たして文化祭当日を楽しむだけの元気が彼らに余っているだろうか。
そういった背景から、この学校の文化祭は体育祭よりも体力勝負になると言われている。しかし、文芸部の僕達にとっては決してそうではない。それは他の部と違って、長いスパンで少しずつ準備ができるから。文集というやつはそういうものだ。
今年、僕達の文芸部は新たな試みに着手していた。
毎年この時期に文芸部が制作する文集に、文芸部員以外の生徒が書いた作品を募集して掲載する。つまり、幸海中学校の文集を盛り上げてくれる生徒を探そうという魂胆だ。
この試みは、幸海中学校八〇年の歴史を振り返ってみても初めての事らしい。だから、僕達がこの学校の『文芸作品の募集』という括りにおける先駆者となるわけである。
僕達は宣伝のためのポスターを作成して、教員に許可を得て校内のあちこちに貼り、生徒の興味を引こうと二人で意気込んでいた。
しかし、うまくはいかなかった。作品の募集期間が始まっても部室の扉を叩く者は一人も現れなかった。
思えば、僕達はもっと早く気付くべきだったのだ。仮に誰かが興味を持ったとして、人数が少なくネームバリューもないこの部活の文集に、載せる意味を見つけてもらえないという事に。実際に、昨年僕らがつくった文集は十部も手に取ってもらえなかった。
人に読んでもらえないものなら、載せる意味などない。それなら、全国的に開かれるコンテストにでも応募した方がずっと有意義だ。僕達のポスターを見て、そう思った生徒がいたかもしれない。
だから、悲しい気持ちはしない。僕も菖蒲も、ただ仕方がないと思っていた。
十月七日。作品募集の締切を明日の夕方に控えた日の放課後のこと。
三年生の教室の側を通ると、壁越しに熱のこもった誰かの声が聞こえてくる。たぶん、文化祭で披露する劇の練習だ。
毎年、三年生はクラス単位でチームを作り、文化祭最終日に体育館を使って劇を発表することになっている。一年生と二年生もクラスごとで何かを催すのは同じだが、ホームルームを使って何かしらのテーマを掲げた展示を行う。
やはり中学校の文化祭だからか、催しものを考える際、生徒と学校・生徒と生徒の間でお金が移動しない事を前提としたものになる。文化部についても同じだ。
僕のクラスは童話の世界にまつわる展示をすることになった。
洋風の小さなオブジェをいくつか手作りして飾るのが僕の役割で、他にも数人、友人を含む同士がいる。今はその仕事を終えて、部室に向かっている最中だ。
文芸部の部室は、ホームルームの存在しない本部棟の二階にある。三年生の教室の前を通って三階から二階へ下り、渡り廊下を歩いて本部棟へ行く。その東端にあるのが第三学習室、僕らの部室である。
活気で満ちた校内を足早に進む。同級生で僕とはクラスの違う菖蒲は、今朝メールにて先に部室で待っているような事を予見していたから、鍵のことはひとまず置いておく。
ほどなく着いて、軽くノックすると小さな返事が聞こえたので、扉をスライドさせると彼女の姿が見えた。
「菖蒲、遅くなった」
古びた事務机が部室の中央を陣取っていて、菖蒲は机の一角に居場所を構えている。彼女はパイプ椅子に座ったまま、困ったような表情でこちらを振り向いた。
「凛太君……」
しかし、その顔はどこか嬉しさを含んでいるようにも見える。僕は戸惑いながら訊いた。
「どうしたの?」
「とっても嬉しいニュース……だけど、困ったニュースなの」
僕は、ゆったりとした性格の菖蒲から、そのニュースを聞かされた。
奇跡といっても過言ではない。むしろ、奇跡よりも度合いが上で相応しい言葉が存在するならば、それを用いたい。
僕達にとってはそれほどの事だった。遂に応募者が現れたのだ。
彼女から手渡された原稿を、僕は食い入るように見つめる。文体からして、これは詩だ。二枚の原稿用紙は筆圧の強い字で書かれている。
喜びに浸る僕だったが、すぐにおかしいところに気がついた。
「その作品は未完成なのよ」
「ページが欠けている。詩は途切れているし……学年もクラスも、名前も分からない」
原稿用紙の左下にページ番号が振ってあるが、二ページ目と三ページ目はあって一ページ目は抜けている。よく見ると、三ページ目に書いてあるのは詩ではなく、僕達文芸部に向けられたメッセージだった。
そのメッセージは次の通りである。
文芸部の皆さんへ
私がこの作品を応募しようという決意に至ったのは、昨年の文化祭で先輩方の作った文集を読んだ事がきっかけです。読んで、私はなぜだか嬉しい気持ちでいっぱいになったんです。私もこの輪の中に入りたいなって、文集を支える一員になりたいなって、色んな事を思いながらこれを書きました。
クラスの皆で選んだ合唱祭で歌う課題曲について、気に入った歌詞と私が感じた事を混ぜて書きました。創作は経験あるけど、今まで書いてきたものとは何かが違う、そんな気がします。
実は、私はまだ部活動に所属していません。色々と迷いがありまして。気持ちが完全に固まった時、もう一度文芸部の皆さんの元へ伺います。
それはともかく、この詩が不出来なものだとは重々分かっています。でも、どうか最後まで目を通して頂きたい。
よろしくお願いします。
文末には差出人、言い換えると応募者の名前はなかった。
また、欠けた詩の内容の一部はこうなっている。
なつかしいあの日に 会いにはゆけない
風になっても 何者になっても
決して会いにはゆけない
全ては温かさの中に その中に浸かること
それだけだから それならば
会いにゆくべきは 未来
「お手紙まで付いてて、とっても嬉しいけれど。これだと載せられないわね」
いつの間にか菖蒲は、僕が手に持っている原稿を覗き込んでいる。確かに、詩が完成していないのでは折角の作品も文集に掲載する事はできない。
おそらく、応募者が原稿の一ページ目を間違って所持しているのだろう。何としてもコンタクトをとる必要がある。
「この原稿って菖蒲さんが応募者から直接受け取ったの?」
色白の綺麗な横顔に問う。すると、菖蒲は僕を見て苦笑する。
「そうなのよ……その子、私に原稿を渡したらすぐに帰っちゃって。髪は確かセミロングの女の子だったけど、他は記憶が曖昧だわ」
「そうだな……上履きの色とか覚えてる?」
本校では上履きのスリッパの色でその者の学年が判別できるようになっている。が、それだけで人物を特定できるわけではないのに、僕は考えもなしに訊いてしまった。菖蒲は小さく首を振る。
外見の特徴は情報も少ないし、良い判断材料にはならない。ならば、それに頼らない方法を見出そう。
僕はパイプ椅子に座り込み、腕組みをしながら考える。
「そうだ。とりあえず校内放送をかけてみようか。『今回、文芸部に作品を応募した人は第三学習室まで来てください』って感じで。今のところ応募者はこの詩の作者一人だけだし、正当な理由があって呼び出すわけだから、誰にも迷惑はかからないんじゃないかな?」
その人がまだ校内に残っている事に賭けて匿名で呼び出す。名を伏せるのは意図した事ではないが、なかなか良い手段ではないだろうか。
しかし、菖蒲は首を横に振る。
「放送室は使えないの」
「どういうこと?」
僕が目を丸くしていると、彼女はふふっと笑う。
「あ、えっとね……今日の放課後は業者さんが放送室の機材の修理にあたるから、生徒も先生達も利用できないの」
「何で……ていうか、どうして菖蒲がそんな事を知ってるんだ?」
「前に言わなかった? 私、放送委員会に所属してるの。昨日からマイクの調子とか、いろいろ悪くて。委員会の担当の先生が、三日間は誰も利用できないって言っていたの」
そういえば今朝の一限目の前に、僕のクラスの担任教師が言っていた。しばらくは放送室が使えなくて、職員たちの生徒に対する直接の伝言が増えるから大変だ。クラスメイトの前で、そんな事を少々愚痴っていた。
しかし、放送室の機材を修理するのに三日もかかるものなのか? 大きな行事が近づいているというのに、幸先の悪い話……ともかく校内放送は無理だ。
菖蒲は優しい口調で、しかし真っ直ぐな瞳でこう続ける。
「締切は明日だし、そろそろ文集の印刷にも取り掛からなきゃいけない。あの子が応募の不備に気付いて再びここに来るのを、ただ待っている訳にはいかないわ」
彼女の言う通りだ。
「うん。完成した状態の詩を文集に載せるためにも、今はとにかく、その応募者に会うための方法を考えよう。できる限りを尽くそう」
「ええ」
原稿の三ページ目のメッセージを読むと、その応募者が僕達を支えてくれようとしているのが伝わってくる。それが分かった今、目の前の詩の完成なくして文集の完成はない。
かくして、二人の慣れない推理は始まった。
学年、クラス、名前が不明な生徒に会いに行く。呼び出す事は現実的に不可能に近い。
分かっているのは、その者が女子生徒である事と、部活動に所属していないというメッセージ上の事実。
僕達が定めた募集の締切日は明日。途方に暮れている暇はない。今回の件に関係していそうな事を、一つ一つ取り上げて吟味しなくてはならない。まずは、募集をかけるにあたって貼り出したポスターの内容を見直すことにした。
僕は何部か余ったそのポスターが事務机の中に仕舞ってあった事を思い出して、引き出しの取っ手をつかむ。すぐに目当てのものは見つかった。
「こうして見ると、結構な力作だよね」
少しでも見栄えを良くする為に、絵を描くのが得意だという菖蒲にポスターのイラストを担当してもらったのだが、素人目にも綺麗だと分かるほど描き込みが凄い風景画だ。その下には応募に際してのいくつかの注意事項。これは僕が書いた。
「上手でしょ。会心の出来だと私も思っているわ」
菖蒲は自慢げに語る。以前僕は彼女に美術部に入らなかった理由を訊いたことがあるが、その時は『一人で、趣味で描きたいから』と説明していた。
それはともかく、今は絵より言葉に注目しよう。
えっと、なになに……。
◎応募の注意事項
①応募の際は、手書きの原稿用紙またはワープロのプリントアウトでお願いします。
②応募期間は十月一日(水)から十月八日(水)の平日のみで、時間は午後四時から五時までの間です。受付場所は第三学習室で、必ず文芸部員が立ち会います。
③作品の形式・ジャンルはいかなるものでも構いません。但し、文集に掲載する作品は、文芸部員とその顧問が文集の掲載に適していると判断したものに限ります。
④文字数制限は三〇〇〇字以下程度とします。
ひと通り読んで、僕はやらかしてしまったと思った。何度か見直したのになぜ今まで気付かなかったのか。
応募者自身の情報、つまり、学年やクラスなどの狭義的な個人情報についての注意書きがこのポスターには無いのだ。
隣で覗いている菖蒲も、僕の表情と注意書きを見てそれに気づいたようで、「あちゃあ」と小さく声を漏らしている。
作品を人に見せるというのは、時として、とても勇気がいる事だ。文集を作る身として、それは僕も感じている。僕らの文集を読んでくれる人は少ないけれど。
それで、作品を募集する立場にある今の僕達には、その勇気に対して礼を尽くす義務がある。僕達の元に届いたこの作品だって、応募者の計り知れない勇気が込められているはずである。なのに、僕はそれに背くことをしてしまった。
注意書きを書いたのは僕。これは、僕の過ちだ。
「菖蒲、ごめん」
力のない声で僕が謝ると、彼女はゆっくりとかぶりを振って、優しい口調で言う。
「二人で作ったポスターだもの。完成した後にきちんと見直さなかった私にも責任があるわ。……それに、間違いを悔いている時間は、今は無いでしょ」
「……うん」
それから、二人でポスターを隈無くチェックしたが、ヒントになりそうなことは見つからなかった。
気が付くと、部室の壁掛け時計は夕方の四時五〇分を指していた。いつもは五時で部活を終えているが、こんな状況なので僕と菖蒲はもう少し推理を続けることにする。
次に目をつけたのは応募作品の四ページ目、文芸部に宛てられたメッセージだ。
元々、僕はこっちを先に調べようと考えていたのだが、物事を発生した順に追っていく方が考えやすいと思ったため、あえて後回しにした。『作品・メッセージが届けられた』のは『ポスターが貼り出された』ことよりも後だから、ポスターを先にチェックしたのだ。
ここからは、不明な応募者をAさんと呼ぶことに二人で決めた。
メッセージをよく読んでみると、隠されたヒントが一つだけ浮かび上がってきた。
それは、Aさんが一年生だという事。文中で僕達のことを先輩方と呼んでいたのが決め手だ。たった二人の文芸部員、僕と菖蒲は二年生だから。
一年生の女子で帰宅部。特定することを諦めていた僕だが、かなり絞り込めた。しかし、残念ながら肝心のその先が分からない。
欠けた詩を何度か黙読したところで下校時刻になったので、僕達は学校から出る。
『原稿は凛太君に預けておくわ。私も考えてみるから、何か分かったらメールで連絡を取ろうね』
そんな感じで、校門の前で簡単に確認を取ってから別れた。僕の家と菖蒲の家は幸海中学校を基準にすると反対方向に位置するため、自然な形で一緒に登下校することはない。
沈みかけの夕日を背に自転車をこぐ僕は、頭の中でAさんを特定するヒントを模索していた。
一つだけ、まだヒントになりそうな事がある。それは、あの欠けた詩に合唱祭の課題曲が関係しているという事だ。しかし、僕はどこのクラスが何の曲を歌うかをあまり知らない。知っている範囲なら、二年生は『空駆ける天馬』とか『モルダウ』。一年生は『時の旅人』や『野生の馬』、『カリブ夢の旅』。ただ、僕の中で曲とクラスは一致しないが。
一学年につき六クラスある幸海中学校は、合唱祭において、クラスごとで選んだ課題曲が重複しないように教師陣が調整しながら決めている。なので、あの欠けた詩からAさんのクラスの課題曲が判明し、一年生のどのクラスが何を歌うかが判明すれば、ほぼ解決にに至る。
明日の放課後までにAさんのクラスへ出向き、「以前、文芸部に作品を応募した生徒はいますか?」とクラス全員に聞こえるように問いかければ、Aさんを炙り出せるという算段だ。もっとも、タイミング良く彼女が教室内に居ればの話だが。
また、その策を採るならば、最悪、Aさんがどのクラスに属しているかを明らかにする必要はない。時間はかかるが、一年生の全クラスを回って同じ内容を呼びかければ良いのだ。
しかし……しかし、それではAさんの気持ちを全く考えていないのと同じである。
「……ううん」
フレームの汚れた銀チャリのライトは、頼りなく薄暗い帰り道を照らす。それをぼんやりと見つめながら、あれやこれやと思考を巡らせる。
先程の校門の前での会話。また明日、といつもの別れを告げる前に、菖蒲はこう言っていた。
「この詩を私達の元へ届けに来た時、あの子はもしかしたら、とってもドキドキしていたのかもね……だから、あの子に会うなら、彼女の思いを最大限に汲み取らなきゃ」
その時の菖蒲の柔和な眼差しを頭の中で描く。僕が難しい顔をしていると、彼女は時折そうやって助けてくれる。
菖蒲の言う『彼女の思い』とは何か。
今日の放課後、何らかの形で文芸部の企画を知ったAさんは、第三学習室へオリジナルの詩を応募しにやってきた。その時、彼女は菖蒲に対して一言添えて原稿用紙を渡し、早々と出ていった。それはなぜか。
ぱっと思いつく理由ならいくつかある。
一つ、Aさんは他に用事があって急いでいたから。一つ、Aさんは気ぜわしい性格の持ち主だから。一つ……これは菖蒲も考えている事だろうが、Aさんは応募する事に少なからず恥ずかしさを覚えていたから。
他にも僕には思いつかない理由があるだろうが、いずれにしても彼女に会うための方法を編み出す上で留意すべき事は共通している。
それは、Aさんに嫌な思いをさせないこと。具体的に言い表すと、できる限り、関係のない生徒の目や耳に触れないところで彼女と接触をする。
だが、それは正しく『言うは易く行うは難し』というものである。どんな手段が適切なのか、僕にはさっぱり分からない……ダメだ。だんだん頭が回らなくなってきた。
帰り道にある数少ない信号につかまり、僕はゆっくりと自転車の速度を緩める。その時、背後から聞き覚えのある声が微かに耳に届いてきた。
たぶん、この声は僕の知っている後輩のものだ。
「春川せんぱーい」
おもむろに後ろを振り返ると、そいつは片手で自転車のハンドルを握りながら、僕に手を振っていた。小さくて頼もしいライトの光を携えて、ぐんぐんとこちらへ近づいてくる。
きゅっと僕の横でブレーキを効かせると、後輩は屈託無い笑顔でこう言う。
「こんな時間まで部活ですか?」
「まあ……ちょっと事情があってね」
制服を着ている僕とは異なり、後輩は中学校指定の冬用ジャージを着ている。まだ十月だが、今日の夕方は少し冷える。
ショートヘアーだから、ヘルメットを被っていると、大変失礼だがそいつは男子に見えなくもない……後輩は一年生の女子だ。一年四組、名前は安達英子という。
「やっぱ皆忙しそうにしてますねえ。こういうの、夏のお祭りっぽくてワクワクしますよ」
「元気だな。俺はへとへとだよ」
「えへへっ、お疲れ様です。今急いでなかったら、少し歩きませんか?」
英子が歩行者用信号が青になったのを見て快活に提案してきたので、僕は軽く頷いて自転車から降りた。
英子とは委員会活動で仲良くなった。図書委員会に所属する僕達は同じ曜日にたまたま二人一緒に図書当番を任されて、暇な時、本に関する雑談をするうちに良き先輩後輩の関係をきずいた。
学校内では結構話すのだが、今まで学外で話したことは無かった。だから、こうして二人、自転車を押しながら歩くのはとても新鮮に思う。
「明日は私達が図書当番ですけど、先輩忙しかったら私が一人でやっておきますよ。こんな時期だから本を借りる生徒も少ないでしょうし」
「今回は悪いな。もし顔を出せたら出すよ」
「そういえば、先輩は文化祭で文集出すんですよね? 私、見に行きますよ」
「そうしてくれると嬉しいな。ウチは人全然来ないだろうから」
今抱えている問題を英子に話す必要はない。何となくだが秘密にしておきたいし、正直、彼女に相談しても仕方のない事だ。
その時の僕の表情をどう読み取ったのかは知る由もないが、英子は僕を元気づけようと少し声を張ってこう言い返す。
「周りの友達にも文芸部よろしく! って宣伝しときますから……そうだ、親友連れて来ますよ! 当日は気張っていきましょ」
華やかな笑顔でそんな言葉をかけてくれた。今はそこまで他生徒の出入りを気にしていたわけではないが、少し元気づけられた。
「ありがとな」
「先輩の文集、どんなのか楽しみです」
約束されたお客さま第一号は英子。しかし、考えてみると知り合いに自分の作品が読まれるというのは照れる。
「そういや、先輩のクラスの合唱曲って何です?」
「あー……合唱祭の話か。僕のとこは『モルダウ』っていう曲だよ」
「うーん、聞いたことがあるような。私のクラスは『時の旅人』です。たぶん先輩なら知ってますよね?」
「僕が一年生の時だったかな、他のクラスが歌ってたような……」
その時ふと、懐かしさのせいなのか、頭の中で妙なものを感じたが気にしないでおく。
今は文化祭の準備期間であるが、合唱祭の準備期間でもあるので、どこのクラスも音楽の授業や長めの放課を利用して歌の練習をしている。
「英子はピアノが弾けるんだよな。もしかして合唱祭は」
何気なく聞くと、彼女は少し照れくさそうに笑った。
「実はそうなんですよ。私、伴奏を任されまして……それで、歌の練習の時はクラスにつきっきりです。さっきも下校時刻ギリギリまで、教室でキーボード弾いてましたよ」
彼女のクラスは文化祭の準備が一段落ついた後は、余った時間で合唱の練習をしているらしい。
「すごいな。ピアノ弾ける人って無条件でかっこいいと思うよ」
「そんな言わないでください。私は先輩の思っているような『ピアノ弾ける人』じゃないです」
英子は部活動には所属せず、外部でピアノを習っているという。彼女は少し話を逸らすようにこう続ける。
「あと、ここ最近は朝早くからも教室で練習してますよ」
「へえ」
「私みたいな朝練がない人だけですけどね。男子三人と女子三人。みんなやる気マンマンなんで、のんびり真面目にやってます」
こうして歩きながら行事に関する話を続け、僕らは別れた。楽しい時間だったが、その間もずっとAさんの事は僕の心のど真ん中で揺れ続けていた。
その日の夜は菖蒲と事件に関するメールのやり取りをすることもなく。
されど、翌日の放課後に、事件は私達に解決へ向かうための光を授けてくれる。
「菖蒲、これ……」
「まあ」
第三学習室の壁掛け時計は三時五〇分を指している。
半開きの部室の扉、その向こうから聞こえてくる校内の喧騒。今は気にならない。
僕達は机上に置かれたそれを食い入るように見つめている。
「合唱祭のパンフレット。帰りの会で先生が配ったんだ」
「凛太君……それがあったら、あの子に会えるの?」
「百パーセントじゃないけどね。これのおかげで自分の推理に自信がついたよ」
しかし、菖蒲は心配げな表情を崩さない。
「疑うわけじゃないけど……凛太君の考えている方法は、大丈夫なの?」
菖蒲自身の考えもきちんと心得ている。それを踏まえた上での実行だ。
「菖蒲、ここは僕に任せてもらえないかな。少しの間だけ留守番頼んだ」
まあ、本当の勝負は明日の朝になるのだが。
今から僕が会いに行くのはAさんではなく、後輩の英子だ。
結論から言うと、僕は『Aさんは一年四組の生徒で、僕の後輩の英子と朝早くに合唱の練習に励んでいる生徒の一人』であると推理した。その理由を説明していこう。
まず、Aさんのあの欠けた詩の内容は『時の旅人』という合唱曲の歌詞に沿ったものになっている。
合唱祭のパンフレットには、どのクラスが何の曲を歌うかが記されているだけではなく、生徒一人一人が他クラスの課題曲の歌詞が全てわかるように編集されていた。そこで、僕はAさんの詩を頭に浮かべながら一年生六クラス全ての曲の歌詞と照らし合わせてみた。一年生の課題曲は『この星に生まれて』、『カリブ夢の旅』、『怪獣のバラード』、『時の旅人』、『野生の馬』、『大地讃頌』。答えは明らかであり、そこでAさんは一年四組の生徒であることがわかった。
次に、昨日の夕方の出来事。
英子は『朝練がない人だけで集まって合唱の練習をしている』という旨の発言をしていた。この時期に朝練がない生徒というのは、男子水泳部と我らが文芸部。そして……帰宅部も含まれる。他ならぬ帰宅部である英子が自分自身を朝練がない生徒としてカウントしているのだから、間違いないだろう。合唱の練習に参加している男子三人は男子水泳部の部員ないしは帰宅部。そして、女子三人のうちの一人は英子で、残った帰宅部二人のうちどちらかがAさん、ということになる。
推理の説明は以上。
それで……肝心のAさんに会う方法についてだが。
「メンバーの中にセミロングの女子生徒がいると思うんだけど……」
「あー、いますよ。いますいます。たぶん赤川さんって子ですね。でも、どうしてそんな事を聞くんですか?」
「えっと、それは……ね」
「というか、どうしてそんな事が分かるんですか? ……珍しく何か変な事考えてませんよねえ、先輩?」
菖蒲と別れた後の、図書室での英子とのやりとり。その後は冷たい目で英子に追及されまくった。だが、そこは頼れる素晴らしい後輩。こちらから事情を説明することなく受け入れてくれて、明日の朝その子に会ってもらえるように英子がセッティングしてくれることになった。すっかり忘れていたが、応募の締切は今日だった。赤川さんに会うのは明日の朝だが、この際仕方がない。
翌朝、無事にAさん……赤川さんに会うことができた。急で申し訳ないと謝って、廊下の端で事情を説明してから校舎裏へと連れていき、僕は単刀直入に尋ねた。
「あの……君が応募してくれた詩なんだけど、ページが抜けてるんだ」
自覚が全くなかったようで、彼女は作品は完璧に応募したつもりだったらしい。
「あー、たぶんその原稿用紙、家にあると思います。今日の放課後に急いで家まで取りに戻るので、部室で待っててもらっても良いですか?」
喋り口調からだと、思ったより今回の応募に関して恥ずかしさを抱いている様子はない。
そして放課後。夕方五時前に赤川さんは部室へやってきた。
「遅くなってすみません」
「あら、いらっしゃい」
待ちに待った来客をあたたかく出迎える菖蒲だったが、赤川さんはその原稿用紙を渡すとすぐに出ていこうとする。
「あの……詩に添えた私のメッセージなんですけど、あまり深く捉えないでくださいね。あれは……なんていうか、勢いみたいなものですから。でも」
少し間があって、彼女はこう言い残して去っていった。
「百パーセントの嘘ではないですから」
部室に取り残された僕達はしばらく、ぽかんと口を開けて閉め切られた扉を眺めていた。
おそらく、同じ時に、僕達二人は同じ事を考えたと思う。
これは、考え過ぎという過ちだったのかな、と。