犯人は猫
ここは本当に平和だ。道を歩いても死体どころか乞食にさえ出会わないし、女子供が当たり前のように真夜中に出歩く。ニュース番組ではどこにでもいる一般人が殺された程度で、さも国の要人か殺されたかのように大げさに報道する。はっきり言って異常だ。こんなにも平和な『この世界の日本』。
何の苦労もせず、突然の死と遠くかけ離れた生活を送る人々。羨ましい。そして腹立たしい。しかし俺は八つ当たりをしない。一般人を気の済むまで大虐殺したところで誰も得をしない。そう、俺は俺の任務を遂行するだけ。ここはK県M市真夜中の飲み屋街。時計の針は2時を回り、辺りは静寂に包まれている。
今、俺の目の前には死体がある。水色のシャツは胸の3cm程度の刺創から流れ出る血で赤く染まりつつある。彼は警察官だ。恐らく下っ端中の下っ端。本当はもっと大物が良いのだが、とりあえず今はこれでいい。地道に時間をかけて規模を大きくすれば何も問題ない。
警官はもう一人いた。もう一人の方は銃を抜いて静止をかけてきたのだが、まったくの素人だった。銃を扱う技術的な面ではなく精神的な面で。銃の引き金を引く度胸すらない全くの素人。ナイフ一本で全く問題は無かった。右脇の動脈を切ったらあっさり逃げていった。とは言ってももう出血で死んでいる事だろう。
「宣戦布告だ、血の闘争を知らない愚かな日本人。今のうちに平和の味を噛みしめておけ」
ふと、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。どうやら逃げた一方が増援を呼んだらしい。だがまったく問題はない。いつでも俺は逃げられる。
「顔は……見られていない筈」
俺は頭をすっぽりと覆っているフードをさらに深くかぶった。俺の顔はこの日本ではちょっとばかり特徴的だ。恐らく顔を見られて俺の特徴が広まったとしても問題は無いだろうが、用心に越したことは無い。
この場を去る前に目の前の死体からオモチャのような回転式拳銃を抜き取る。あとはもう用事は無い。はやくここを去って俺の日本に帰るんだ。
第1話 ―犯人は猫―
今の日本人にはあまりにも危機感が無さすぎる。もう日付が変わったというのにキャッキャキャッキャと笑いながらカラオケ店から出てくる推定女子高生二人組。彼女らは怖い男に捕まって乱暴されるかもしれないなど考えたことは無いのだろうか。
「西岡さん、あの二人」
「わかってるわかってる。さっさと仕事にとりかかろうぜ」
こういう場合は俺たちの仕事だ。俺は二人組の元へ近づき、声をかけた。
「君たち、ちょっといいかな」
念のため言っておくと、これはナンパではない。身に着けている青い制服と帽子から察することが出来るように、俺たちは警察官だ。俺は巡査の荒木裕二。四年前に大学を卒業し、そのまま警察学校を経て警察官になった。だが大した実績を上げられずに中々昇進できずにいる。そして隣でニヤニヤと気色悪い笑みを浮かべているのが巡査長の西岡明。何を考えているのか分からない気味の悪い上司だが、一年半もの間コンビを組んでいるのですっかり慣れた。
さて話が逸れてしまったが、話しかけられた二人組は驚いたようにお互い目を合わせた。
「君たち高校生? こんな時間にカラオケなんて――」
言いかけたところで、突然少女たちは奇声を上げてはしゃぎ出した。
「ヤバいよヤバくない? これ職質ぢゃね?」
「ウケるんだけど、ちょっとまってうち職質初めてされるんだけど」
「ヤバいうちも初めて」
「記念に一枚撮っとこ」
突然テンションの上がった二人組は可愛らしいキャラクターでデコレートされたスマートフォンを取り出し、おもむろに自撮りを始めたのだ。俺は唖然とした表情で西岡の方を向くが、西岡は今にも笑いだしそうにプルプルと震えている。
かわいいと騒ぎながら自撮り撮影を始める二人組。よく見ると画面には俺と西岡もばっちり入っている。しかも四人の顔には髭や鼻などの動物パーツが自動であしらわれている。今時の若い女子たちの流行にはとても付いていけそうもない。
「ヤバイ超かわいい」
「もう一枚もう一枚」
「あとでインスタにのせよ」
一枚と言ったのに既に五枚は撮っている。そろそろ我慢の限界が近いので早めに撮影会を切り上げてもらおう。
「あのね君たち、撮影はその辺にしてちょっとお巡りさんと話そうか」
少女二人組のテンションが露骨に下がった。少しは話しやすくなった事だろう。
「はーちょっと空気読んでよおじさん」
「まぢありえないんだけど」
俺の眉がピクリと動く。
「おじさんじゃなくてお兄さんだ。こう見えてまだ26歳でね」
「17歳のうちらからすれば十分おじさんですー」
「あははヤバイウケる」
「てかケーサツってあれでしょ? 給料泥棒でしょ?」
「おっさん達は誰のおかげで飯食えてるんだっての。ウチらのおかげっしょ」
恐らく税金泥棒と言いたかったのだろう。しかも17歳ってことはやはり高校生だ。高校生だから大して税金を払っている訳ではないのにどうしてこうも偉そうなんだ。いや、働いている可能性もあるにはあるのだが。
イライラが少しずつ積み重なってゆく中、ようやく西岡が口を開いた。
「君たち未成年だね」
「は? 違うし」
「嘘は良くない。さっき17って言ってたのをおじさんはちゃんと聞いてた。高校生?」
「何で言わなきゃいけないの」
「それはお巡りさんの質問には正確に答える義務が君たちにはあるからだ」
黙秘権は無いんですかい、と心の中で突っ込んでおいた。
「まあ……いちおう高校生」
「うちも」
「じゃあ名前は?」
それからは何とかスムーズに話が進んだ。この後すぐに二人の親が迎えに来て無事引き取られる事となった。
「まったく、最近の若いのはけしからんですね」
「言ってる事がすごくおっさん臭いぞ荒木君。それに、若いのがけしからんってのは今も昔も変わらないもんだ」
二人は路肩に停車していたパトカーに乗り込む。運転席は俺が座り、助手席に西岡が座る。
「さて、見回りはあと2時間あるけどどうする」
「いつものルート巡回してれば大丈夫でしょう」
言いながら、俺はポケットから煙草の箱とライターを取り出した。一本を抜き取り、口にくわえて火を点けようとしたとき、西岡が俺の咥える煙草を取り上げる。
「おい給料泥棒」
「ふふっ、やめてくださいよさっきの女子高生思い出したじゃないですか。だいたいそれを言うなら税金泥棒でしょう」
「じゃあ税金泥棒、何度も言わせるな。俺の前は全席禁煙だ。隙を見つけては吸おうとするんじゃない」
「駄目ですか」
「駄目だ」
「あーやだやだ、世の中はどんどん愛煙家に厳しくなってって俺みたいなのはどんどん肩身の狭い思いを――」
「さっさと行け」
俺はパトカーのエンジンをかけ、ヘッドライトを点灯させてからアクセルを踏んだ。
ここはK県M市のとある歓楽街。時々車とすれ違うが歩行者は全くいない。それも深夜一時だから当たり前と言えば当たり前なのだが。いくら公務とはいえこんな街灯も消えた人通りのない道を通ると少し悪い事をしている気分になる。
大した話題もないので車の中はしんとしている。しかし、ふとしたことをきっかけに会話は始まるものだ。信号待ちの途中、目の前を一匹の猫が横切った。それを見た西岡が「そういえば」と言う。
「猫を見て思い出した」
「はい?」
「最近このK県で警察官が殺される事件が相次いでるのは知ってるだろう」
「もちろん。二週間の間に六人も殺されてるというのに、まだ犯人見つかってないんですよね。最初に刺殺された浜口巡査長から奪った拳銃でいきなりズドン、ですよ。俺らもいつ狙われるか分かったもんじゃない。おっと、今は巡査長じゃなくて警部補でしたね」
「……その犯人なんだけどな、奇妙な噂があるんだ。荒木はそういうのに疎いから知らないだろうけどな」
「噂……らしいものは聞かないですね。
「なんでもな、一連の事件の犯人なんだがな……」
「……犯人が?」
「犯人は猫らしい」
言葉に詰まる。今のは多分聞き間違いだ。真面目な顔で真面目なトーンで話す話ではない。いや、でも別に話し声がこもっていたとかそういう訳でもない。聞き間違いというのは流石に無さそうだ。だとすれば言い間違いか? きっとそうなのだろう。さっき横切った猫のイメージと混同してしまったのだろう。そういうミスは誰にでもある。
「犯人は猫らしい。一応言っておくとお前の聞き間違いでも俺の言い間違いでもない」
何と言うか、すごく反応に困る。笑っていいのか真面目に受け取ってる風に見せるべきなのか。
「……えっと、猫ってあのニャーって鳴く猫ですか」
「そう、さっき横切ってった猫」
「その……被害者は刺殺、斬殺、銃殺されてるんですよ。それを猫がやったってんですか」
「信号青だぞ」
「あ、はい」
慌ててアクセルを踏んでしまい、急発進してしまう。まあ運転に関しては西岡の方が荒いからこの程度では文句を言って来はしないのだが。
「なんでも目撃者の会社員男性が言うには、フードをかぶってて殆ど顔が見えなかったそうだ」
「それは報告書にあったので知ってます。五月だってのに丈の長いコート着て手袋をして……まるで全身を隠してるようだったとか」
「でもな、一瞬だけちらりと顔が見えたってんだよ」
「それは初耳ですね。なんで報告書に記載されてないんですか」
「なぜなら、一瞬見えたその顔が猫の顔に見えたからだ」
「……事件があったのって深夜三時でしょう。見間違いじゃないんですか?」
「そう。見間違いと判断されて報告書には記載されなかった」
「代わりに噂として広まったと」
「そう」
「ばかばかしい」
「だよなあ。俺もホントそう思う。こんな噂広める奴なんてどこのどいつだ。馬鹿みたいだよな」
「西岡さんもその一人ですけどね」
「はははっ! 違いねえ」
「はははは……」
俺と西岡の笑い声が車内に響いた。だが、その笑いも長くは続かない。すぐにしんとした空気が車の中を流れた。
「もう六人……殺されてるんですよね」
「そうだな」
「俺が七人目になる可能性もあるんですよね」
「……確率的には低くないな」
再びしんとした空気が流れる。正直居心地が悪い。
「まあ、これだけ派手に動いてるんだ。じきに足がつくに違いない」
「そうですね。なんなら俺たちの前に現れたら俺が捕まえてやりますよ」
「はははっ、その意気だ」
「正義は負けないって事を思い知らせてやりましょう!」
「ま、俺としてはそんな危険な奴よそで勝手に自爆してくれる事を期待しておくよ」
「そんなんだから西岡さんずっと昇進できないんですよ」
「ははは、違いねえ」
この時、俺は正直話を楽観的に考えていた。まさか思いもしなかったんだ。事態は俺が思っているよりずっと深刻で、そして俺達警察官だけで対処するには相手は余りにも巨大すぎたって事を。
俺達の今日のパトロールは午前三時まで。その後は交番と交代して午前八時まで交番勤務。その後ようやく帰宅できる。あれからパトロールを続け、今は二時四十分。そろそろ交番に戻らなきゃいけない時間だ。だが、戻ろうとしたところで西岡が「ちょっとすまん」と一言。
「催してきた」
「あー、じゃあコンビニ寄りますか」
まだ交番までは時間がかかるので適当に近くのコンビニに駐車して西岡は一人コンビニのトイレへと向かった。
今のうちに煙草でも吸おうかな、と煙草の箱を取り出す。西岡は間違いなく怒るだろうが多分大丈夫だろう。今まで同じ事何度もやってるし。
煙草を口に咥え、ライターに火を灯す。真っ暗だった車内がほんのり赤い光に照らされる。その瞬間に俺は気が付いてしまった。
運転席の窓の外。何者かが五発入り回転式拳銃を窓に突き付けている。その銃口はしっかり俺の頭を狙って今にも俺の頭を撃ち抜こうとしている。
「あっ……」
どうして気付いてしまったのだろう。もし気付かなければ、俺は一瞬で何が起きたのか理解することもなく死ねたというのに。たった一瞬でもこんな恐怖を味わう事など無かったというのに。
耳をつんざく銃声が鳴り響いた。気のせいか二発連続で。ダダン、といった感じに。
その瞬間は本当に撃たれたと思った。撃たれたという勘違いからか、頭に激痛が走ったような気がした。でも弾が俺に命中しなかった事にはすぐに気付く。車内には砕け散ったガラス片。コンビニ側から聞こえる女性店員の悲鳴。入ってくる情報を上手く整理できないでいると、コンビニの中から知った声が。
「荒木い!! 無事か!」
その瞬間、初めて状況を理解できた。俺が何者かに撃ち殺されそうになった瞬間、その異変をコンビニの室内から察知した西岡が気付き、咄嗟に窓越しに発砲したのだ。その弾が犯人に当たったのかは知らないが、そのおかげで弾道は大きく逸れた。
「俺は無事です!!」
しかし犯人はどうなった? そう思った瞬間、すぐ傍から三発の発砲音が鳴り響き、同時にコンビニの窓ガラスが砕ける音も聞こえた。。犯人がコンビニ内の西岡に向けて発砲したのだ。直後にまた女性の叫び声。
「伏せてろ! 弾に当たるぞ!!」
女性店員の安全を気遣う西岡の声だ。西岡はまだ無事だ。そう思った瞬間、また発砲音が二発鳴り響く。一発目は距離的に西岡の発砲、そして二発目は犯人の発砲だ。
今、犯人は五発の弾丸全てを撃ち尽くした。
「好機!!!」
一瞬の判断で俺は車外に飛び出す。俺の視線の先には丈の長いフード付きコートで全身を隠した犯人の姿が。報告書で見た通りの見た目。間違いない。
何としても犯人を取り押さえる。俺の頭にあるのはただそれだけ。先程の恐怖心は全て消えていた。こんなにも熱く燃え上がる事なんて初めてだと断言できる程の強い意志。その意思は、犯人を取り押さえた瞬間に大きく揺らいでしまうことになる。
犯人に全体重のタックルをかまし、地面に押さえつけたその瞬間。犯人のフードが外れてその素顔が露わになった。
それは、少なくとも俺が人間と呼べるような姿をしていなかった。顔面すべてを覆いつくす灰色の毛。頭にある三角形の一対の耳。まん丸の顔。少し突き出た口。それは他の何にも例えようのない姿だった。その姿とは。
「ね、猫!?」
一瞬の混乱。それをその猫は見逃さなかった。俺のこめかみを拳銃で殴りつけたのだ。
「ぐがっ!!?」
瞬間、俺の全身から力が抜ける。その一瞬の間に猫はコートを脱ぎ棄てつつスルリと抜け出した。
「クソッ! 痛えなこのっ」
「おいすぐに伏せろ!!」
西岡が叫ぶと同時に、再び先程銃を向けられた時と同じ恐怖の感覚が俺を襲った。コートの下に隠し持っていたのか、あろう事か猫はサブマシンガンを構えていたのだ。
「は?」
考えもしなかった。てっきり殺した警官から奪った拳銃しか持っていないものとばかり考えていた。だが、そんな事を考える暇さえない。
無我夢中で漫画のワンシーンようにパトカーの影に跳ぶ。瞬間、強烈な爆音が連続し、アスファルトの砕ける音、鉄板に穴を空けるような音が耳をつんざく。その音が鳴り止むのと同時にアスファルトの地面に全身を強く打ち付けた。しかし被弾は無い。ほんの一瞬ではあろうが上手く隠れることに成功したのだ。
全身の打撲と擦り傷なんて気にする暇もない。体制を立て直すその一瞬でさえ、サブマシンガンの火を噴く音が聞こえる。それは俺ではなく西岡に向けられたものだ。
「ぐッ!!」
西岡の声だ。まさか被弾したのだろうか。
「くっそおお!!!!」
俺は腰から拳銃を引き抜き、パトカーの陰に隠れながら二発発砲した。当然狙う余裕は無かったので二発ともあらぬ方向へと飛んで行く。だが、威嚇としての効果は十分にあったようだ。流石に二対一では分が悪いと判断したのか、猫は全力のダッシュで逃走を始めたのだ。
それを見た俺はすぐさま飛び出し、ほとんどのガラスが砕け散ったコンビニ内を見まわした。
「何をやってる荒木! はやく奴を追え!!」
西岡は無事だった。足に被弾してしまったようだが、幸いにもかすっただけだ。命に別状はない。それさえ分かれば俺には十分だった。
「あいつは俺は必ず捕まえてやります。任せてください」
俺は走った。体の痛みだとか、相手が凶悪な銃器を持っているだとか、そんな事一切関係ない。六人もの警察官を殺し、そして西岡さんまで殺そうとした。たったそれだけの理由で、俺の身体からは疲れ、痛み、恐怖はかき消されてゆく。
あの猫男が何者かは知らない、猫なのか人間なのかは正直よくわからない。だが、ただ一つ言える事。それは、絶対に許されてはならない事をあの男はやったという事。
爆発的に湧き上がる俺の精神力は、奴のそれを上回った。少しづつ奴との距離が縮まってゆく。
「クソッ!! しつけえな!!」
猫は走りながら後ろ向きにサブマシンガンを撃つ。だがそれでは当然狙いは定まらない。弾は全てあらぬ方向へと飛んでゆく。
奴との距離はおよそ二十メートル。可能だ。いける。
「うぉぉぉぉぉぉぉおおお!!!!」
死んでいった者たちの思い。西岡さんに託された思い。その全てが一つになる。
……………………
………………
……
猫は突然立ち止まった。立ち止まって振り返る。その表情から俺は感じ取った。
奴は俺よりずっと巨大なものを背負っている。
ああ、これはまずい。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!!!!!」
腹の底からひねり出されたであろう奴の雄叫びと共に、サブマシンガンから弾がばらまかれた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!」
咄嗟に俺は地面に身を投げ出した。前面から襲い来る弾丸のシャワーは右肩の肉を引き裂き、右前腕の肉を引き裂き、左こめかみの肉を引き裂いた。強烈な痛みと共にアスファルトの地面に肉体が叩き付けられる。
「クソっ! 弾が」
その言葉が聞こえた瞬間。全身から滝のような汗が噴き出した。
うおおおおお!!? 生きてる!? 信じられねえ!
言葉にならぬ叫びと共に自分が生きている事を確認する。
被弾した三発は全てかすっただけだった。だがこめかみにかすった弾丸。もしそれがあと数センチずれていたら?
想像してしまった。心の底から恐怖してしまった。そして……
その瞬間に俺の敗北が確定した。
猫は逃げてゆく。どんどん遠くへ。それをただ見ている俺。悔しさに涙が出てくる。
そう、俺は想像もしなかった。猫が交差点に差し掛かったその瞬間。
弾痕だらけのパトカーが左から突然現れ、猫を豪快に跳ね飛ばしたのだ。
「よっしゃぁぁぁぁああ!!!!」
パトカーには西岡が。そこにはまるで企んでいた悪事が成功でもしたかのような笑顔で叫ぶ姿があったのだ。
「に、西岡さん!!」
何という事だ。俺が諦めて涙を流していた所に西岡さんは再び勝利の希望を引き連れてやって来たのだ。
あの人だって泣きたいほどに怖かった筈。それなのに笑って再登場なんてどうかしている。
だが。どうやら俺もどうかしているらしい。恐怖心。痛み。涙。その全てを彼のように笑顔で塗りつぶし、両足に力を込めて立ち上がった。
「あっ……が!」
猫は頭から血を流しながら地を這おうともがいている。だが、脳を揺らしたせいか上手く動けていない。
そこへ俺と西岡が立ちはだかる。
「おう、どうした猫ちゃん。さすがにもう打つ手なしのようだな」
西岡が意地悪な笑みを作って言い放つ。それに俺も続く。
「お前は一生かけても償えない大きな罪を犯した。お前が何者かは知らないが、残りの人生は刑務所で過ごすことになるだろう」
「さあ、やっちまえ荒木。これは俺たちの手柄だ」
「今ここで、お前を現行犯で逮捕する」
遠くから沢山のパトカーのサイレンが近付く。その音を聞きながら、もはや観念した猫男の、毛におおわれた両腕にしっかりと手錠をかけた。
◆
「これは……一体何なんだ」
「猫なのか?」
「こんな生き物がこの地球にいたなんて俄かには信じられん」
「もしかしたら地球外生命体なんじゃないか?」
「いや、異世界人とかそんなんだろう」
「お前らは漫画の読み過ぎだ」
「でもこれを見ろよ。漫画みたいなことが現実に起きてるんだぞ」
増援に来た十数名の警察官は皆猫男の存在に驚きを隠せないでいる。こんなにもざわついた犯人確保の現場なんて初めてだ。
「終わったな。これでまた俺たちは暗殺の心配をすることなく安心して公務に当たれるわけだ」
「なんかもう、今日一日で何回も死んだ気分ですよ。いやホント、西岡さんがいなければ俺は今頃どうなってたかって考えると……本当に何て礼を言えば良いか分かりません」
「何言ってんだお前は。俺の方だって荒木がいなけりゃヤバかったんだ。これは俺達二人揃ってたからこその快挙なんだ」
西岡はすれ違いざまに俺の肩に手を置いた。
「なあ荒木」
「はい?」
「俺達って最高のコンビだと思わないか?」
「な、何言ってるんですか。そんなはっきり言わないでくださいよ恥ずかしい!」
「はははっ! 照れんな照れんな」
ついこんなことを言ってしまったが、西岡さんのその言葉は今まで誰かに言われたどんな言葉よりも最高に嬉しい一言だった。もちろん心の底から「はい」と言いたいのだが、俺は恥ずかしくなってつい照れ隠しをしてしまった。
俺たちはなんだかおかしくなり、急に二人で笑い始めてしまう。他の警官たちから針のような視線が突き刺さるが、俺達は気にしない。しかし、緊張のほぐれからか俺の身体がぐらりと傾いたのだ。
「おっと危ねえ!」
咄嗟に西岡さんが服を掴んだので倒れずに済んだ。
「す、すいません。急に頭がくらっと……」
「こめかみの傷ちとヤバいんじゃないのか? 今すぐにでも診てもらえ」
「はい、そうします」
それから俺はその場を離れ、パトカーと一緒に来た救急隊員に傷を診てもらうことになった。
◇
「それで? お前は一体何者なんだ」
多くの警官が見守る中の畑中警部の質問。だが猫は答えない。
こんな事異例中の異例だ。普通確保された犯人は警察署の取り調べ室まで連行された後、取り調べを受ける。だが、こいつは見るからに人間ではない。下手に警察署に連れて行って大きな騒ぎとなっても困る。とりあえずは逃げられないよう拘束したうえでブルーシートで現場を隠し、屋外での取り調べを行う事となった。
「君の目的は一体何なんだ。何故警察官だけを狙った」
しかし、当の猫男は警部の目を見ながら黙秘している。
「西岡くん。こいつ喋ってた?」
「はい。私は見てませんが、荒木は日本語を喋ったと」」
「じゃあ何でも良いから喋ってくれないか? 言葉は分かるんだろう」
猫は少し目を反らす。だが、すぐに警部へと視線を戻した。
「俺を捕まえて無事事件を解決したと思ってるのか」
言葉を発するとともに、周囲の警官たちはざわめいた。
「それは……君はただの実行犯であり、首謀者は別にいると?」
「俺は己の意志では動かない。これまでも、これからも。俺はあのお方の意志に従うまで」
「あのお方とは」
「話すことなど何もない。どうせここで全部終わるんだからな」
「一体何を言っている」
「我が肉体は己の為にあらず。我が肉体は、祖国日本の為にある」
瞬間。西岡はただならぬ悪い予感を感じた。根拠はない。とにかく、西岡の本能がただならぬ危険信号を発している。余りにも異常な事態。これは……まずい。
「全員走れぇぇぇぇええ!!!! すぐにこいつから離れろぉお!!!」
しかし、それはあまりにも遅すぎた。
「我が日本国に栄光あれ」
その衝撃はすぐに日本中に広がった。警察官殺害の犯人、自爆。爆発により周囲にいた警察官七名死亡、九名が重軽傷。
荒木裕二の最高のコンビである西岡明。彼もまた、爆発に巻き込まれて死亡した七名のうちの一人となった。
――つづく
初めまして、ヤシロという者です。
今回は第一話を読んでいただき本当にありがとうございます。第一話、楽しめましたでしょうか?
さていきなり血みどろな一話となってしまいましたが、私の書く物語では誰であれ死ぬ可能性がある、という事を読者さんの頭に叩き込まねば、という思いからこんなラストにしました。つまりまだまだこんなの序の口という事です。
本当であれば後書きを長々と書きたいものなのですが、このような場で何を書けばいいのかが私にはさっぱり分かりません。という事で、今回はここまで。最後までお付き合いいただきありがとうございました。
最後に。もしも少しでも面白いと思っていただけたなら、是非感想をお願いします! ほんの一言でも感想をいただければ私としては最高のモチベーションの上昇の薬となりますので、遠慮せずにバシバシ書いてってください!
それではまた二話でお会いしましょう。