俺はギタリストなんだが、なぜか満腹中枢が変になってるベーシストにメシを奢ったりする#5
おモテ参道ビルズに着いたのは、開場時間の少し前だった。
少し迷ったが……そこまで荷物にもならないし、
ダグからもらった”エロサーファー”Tシャツは紙袋ごと持ってきていた。
ま、邪魔ならパーティ会場内にコインロッカーもあるだろう。
しかし、俺はさっきミナトミライへ向かう電車内で寝てしまっていたので、
結局誰一人としてパーティに誘う事は出来ていなかった。
その後の実家でもおモテ参道に来る電車の中でも、
今更誰かに連絡をして誘ったりドレスコードを説明したりするのが面倒になってしまった。
今夜は一人でもその雰囲気を楽しめばそれでいっか。
という気分に途中でなり、そのつもりで会場に来ていた。
何かの音楽ライブとかDJくらいは出るはずだ。
ドリンクを飲みながらそれを見ているだけでも俺としては退屈はしないし、
何かSorrys!の音楽活動の参考にもなるかもしれない。
俺は紙袋の中からチケット用封筒を取り出し、手に取った。
手に取った紙を見ると、それはバイト先のレストランの紙オシボリだった。
あれ??
なんでだ??
紙袋を引っくり返して、Tシャツもばさばさ振ってみたがチケットはどこにもない。
おーいっっっぅぅっ!!!!どゆことーーー!!???
どっかに置いてきたんか?落としたんか?
もしかして俺が着替えている間、母さんとか佳棲が触ったのか?
いや、ずっと入っているものだとばっかり思っていたが……。
っつーー!………やっちまったーーー………。
俺は入り口前のセキュリティの強面お兄さんがいる前でしゃがみ込み、
どこまであのチケットの入った封筒があったかを記憶の中でスキャンしようとしていた。
っていうか誰が紙オシボリなんか入れたんだ?入ってなかっただろ。絶対。
ところが、全く変な事に今日の昼時から今までの記憶はゆっくりとは思い出す事は出来ず、
ものすごい速さ……多分50倍速くらいで再生されてしまい、
その細部を思い出す事が出来なかった。
「おーい!!麻生田川ーーー!おっまたせー。」
聞き覚えのある声だった。
ハラ宿方面の歩道橋を降りてくる人影、
見た事のあるどかどかとした歩き方、ちんちくりんのシルエット。
なんだ。七九間………?
「え。あれ。どうしたんだよ。七九間?」
「どうしたってなにが??あ。金色のものなら身に着けてきたよー。
ほらほらー。どお?どお?いいだろ?」
七九間は金色の大きなネックレスとブレスレットを見せた。
そのせいかいつもと違いかなりヒップホップ系ノリのファッションをしている。
「ってか七九間。今日のパーティお前も呼ばれてたのか?もしかしてお前もダグに店で会ったの?」
俺はしゃがんだままの体勢で七九間に言った。
あ。
そっか、そうだ!
確か一枚のチケットで4人入れたはずだ!!
「七九間、チケット持ってるの?もしあれなら俺もそれで入れてくれよ。」
「は?なに。その感じ?面白くないぞ?麻生田川。
こないだRッポン木のバーで飲んだ時に麻生田川がパーティに誘ったんだろ!
ほらチケット持ってきてやったぞ。」
七九間がバッグからチケットの封筒を取り出して見せた。
その封筒は俺が持っていた物と全く同じだった。
「???え。それ誰にもらったんだ?あれか、ガタイの良い日系人か?ダグっていう。」
俺は立ち上がって聞き返した。
「はぁー??あのさ、さっきからなーに言ってんの。
私は今日のチケット麻生田川から預かったろ?
麻生田川あの日そんなに酔ってなかっただろ?」
七九間は何か変な事を言っているが、あの時の酔っ払いぷりからして推し量るべきだろう。
「いや、まあ、そう言うお前はべろんべろんだったし、
まああれだと記憶が変になるのもわからんではないが……。」
「誰がべろんべろんだったんだよ。
私はいつも通りそこまで飲んではなかったぞ。
記憶もちゃんとしてるし。」
七九間がかなり心外そうに反論してくる。
あれ。変だな。こういう場合照れながら素直に謝ってくるタイプなんだが……。
「お前……あんなに酔っ払ってただろ。
ま、まあ……なにか事情もあるんだろうし。
それは別に詮索しないけどな。」
俺は、七九間が恋だ何だと言ってたのを思い出して口ごもった。
七九間なりにほじくり返されたくない事もあるだろう……。
俺は紙袋からTシャツを取り出して、大きく広げて見せながら言った。
「俺がそれと同じチケットをもらったのは今日の昼で、
このTシャツ着たダグって言うマウヰのサーファーがくれたんだ。
お前もそのチケット、ダグからもらったんだろ?」
「ふはははっ。なんなんだよそのTシャツっ!!”エロサーファー”って!?
いっきなし面っ白いなー!!麻生田川。」
七九間は一通り大笑いして俺の肩を叩いた。
「ったく。真面目な顔してやる事かよ。どこまでがネタなんだよそれ。
もう時間だし外寒いし、こんなとこでギャグかましてないでさっさと中に入ろうぜ。
ドリンクもなんかあるんだろうし。
そのTシャツのギャグは私にしっかり刺さったからさ。安心しろよ。な。ふふっ。」
七九間はまだ笑いが収まらないながら、
俺に構わず入り口の受付にチケットを持っていった。
「いや………そうじゃなくって……。」
「早くこっち来いよー。エロサーファーっ!!」
俺はとりあえず、七九間の持ってきたチケットで一緒に受付を済ませて中に入った。
普段は高級ショッピングモールであるおモテ参道ビルズ。
今日は中央テラス部分に、特設ステージが作られている。
テナントのショップは、大体はそのまま営業していた。
ただ、貸切のパーティなので、招待客のみしか店内に入れない状態になっている。
金色を基調にしたかなり豪華な飾りつけが天井や壁、階段そこかしこに施されており、
シャンパンタワーなんかもいくつか目立つように置いてあった。
俺と七九間は、特設のバーカウンターでビールを注文した。
他の招待客も、ぱっと見ただけで数百人はいるだろう。
みんな綺麗な装いをしている。
わからないけど、ファッション系の業界人が多いのだろうか。
男性も女性も、シャンパングラスを持っている人が多い。
ステージへ近づく為に中央のテラスに下りて行くと、
視界いっぱいに豪勢な雰囲気満載の光景が広がる趣向になっていた。
おあー!すごいなー。
めくるめく上質なパーティの雰囲気にすっかり飲みこまれて、
さっきまでの七九間とのやり取りや気がかりな事は頭から消え去っていった。
ステージ脇では司会が何かを喋っているがそれほど音量が大きくないし、
多くの人でざわざわしているのでなんかあまり聞き取れない。
たぶん、今日のパーティの祝辞みたいな事を言っているようだ。
隣では女性ボーカルのバンドが音を合わせていた。
赤いシックなドレスを着た年配の日本人女性のボーカルと、
他のピアノ、ベース、ドラムはタキシードでドレスアップした白人男性だった。
適当に音合わせをしているが、かなりのテクニックのバンドのようだ。
そうこうしているうちに、司会が掃けて演奏が始まった。
当初は会場の音響がうまくいかなかったのか、
あまり音粒が揃わず、低音もハッキリせずイマイチだったが、
途中から修正され一つ一つの楽器がクリアに聞こえてきた。
スタンダードナンバーを数曲演奏してから、ボーカルが新しくギタリストを呼び込んだ。
「ジェフ!」
と紹介されて出てきたのは、
俺が今日おモテ参道駅前まで一緒に歩いてきた、あのジェフだった。
おー!!ジェフじゃん!!!
ジェフは一人だけかなりラフな格好で、ちょっと助太刀するよ、と言った感じで出てきた。
半袖のレザーシャツを着て、デニムとブーツを履いている。
普段着のような感じに見えるが、昼間会った時とは違っていた。
それから3曲披露し、バンドの演奏は終わった。
ジェフの演奏を生で実際に見るのは初めてだったが、テクニックはさすがだ。
色んな奏法も出来るのだろうが、そうするのではなく、
演奏しているスタンダードナンバーに寄り添いつつ要所要所で自分の色を際立たせていた。
他の演奏者もジェフが混ざってからは、基本的にその演奏をフィーチャーしていた。
いやぁそうか、この演奏の為におモテ参道に来てたのかぁ。
なんかすっごい偶然っ!
昼間にジェフと会った時にもそう感じたが、
俺もやっぱり早くライブしたいと強く思った。
例えジェフでも負けられないな。
「麻生田川ー。あのさっきのギターの人って時々うちに食べに来てるって人?」
七九間が訊いてくる。
「お、よくわかったなー。うん。ジェフってアメリカ人でさ、
ヱイチャンのバックバンドとかしてる世界的なギタリストなんだよ。」
「あー。やっぱりな。ジェフ・コヲルマンって言ってたよね。
いい演奏するねえ。あの人が麻生田川に今日のチケットくれた人だよね?」
「???違うってば七九間。だから俺はダグってサーファーから……。」
俺は、七九間がまたさっきのように思い違いをしていると思って、
戸惑いながらもちょっと笑って言った。
「え。だって麻生田川が言ってたじゃん。
ジェフってアメリカ人が演奏するパーティに招待してもらったから、暇なら行くか?って。
こないだ飲んだ時。」
真面目な顔で返してくる七九間にちょっと驚いていた。
「いや、言ってないよ。なんだよ。そのはな……………え?」
その記憶………ある。
知ってる。
俺はなぜか、そう俺が言った時の記憶を持っていた。
俺は、騒がしいバーの中で七九間にジェフの事を説明していた。
同時に、同じバーの中でべろんべろんに酔っ払っている七九間に話している自分も思い出せた。
同じ時間の同じ人間に対する、別の状況の記憶がある……。
その時スピーカーから、大ボリュームで女性のシャウトが響いた。
『ハァァァァァァァァ!!!!!!』
すごい声量のシャウトだ。
それに続いて壮大なオーケストラ調のイントロが始まった。
俺と七九間をスポットライトが照らす。
「え?!」
「なにこれ?!」
すっごい眩しい。
俺は持っていた紙袋で、とっさに光を遮る。
視界の中に光が残り、ボヤボヤしている。
後ろの方からすごい歓声が上がっている。
ライトは俺たちを照らしていたのではなくて、
俺たちの後ろの誰か、多分このシャウトの主を照らしていたんだろう。
俺はそのまま後ろを振り返ろうとした。
振り返ろうとした時、隣の七九間の顔が見えた。
七九間は俺より一テンポ早く振り返っており、すでに嬉しそうにその対象を見ている。
それは一瞬だった。
それを視界に収めつつ、俺も振り返った。
あれ???
いや、まだ七九間は振り返っていない。
七九間はスポットライトに照らされ、
それを手で遮りながら怪訝な顔をしているままで、
音のする方には振り返らずステージの方をそのまま見ている。
その両方の光景が見えた。
一瞬の中に両方の状態の七九間が居た...。
そのまま、強いバスドラムの音がズンズンと場を盛り上げていく。
振り返った先で歌っているのはKrystal Keyだった。
そのまま高音のシャウトを続け、ボルテージをドンドン上げていく。
まるでアフリカンミュージックのように打楽器音がミックスされていき、
客もそれに釣られてドンドン乗せられていく。
何か会場全体がそのまま持ち上げられていくような、そんな気さえする。
俺は片手に持っていたビールを反射的にぐいっと飲んだ。
耳の中ではKrystal keyのシャウトが何度もエコーしている。
これはものすごい演出だ。
初めの数十秒で完全に会場の人々の心を別の場所に飛ばしてしまった。
俺は思った。やっぱり音、音楽って言うのはすごい。
ん。
あれ、なんだろう。視界の下のほうで何かが動いた。
スポットライトで一瞬強く照らされた為に視界にライトの光の影が残っていた。
初めそれが視界の中でチラチラしていた。
俺はいつも通り視界の中の光の影が消えていくのに任せていたが、
それはいつからか、途中で別の意味を帯び始めていた。
そして俺は、当たり前のようにこう感じていた。
小さいおっさんがいるな。
前に立っているたくさんの人々の足をすり抜けて、
何人かの小さいおっさんがチョロチョロしている。
おっさんの大きさは一様ではなく、くるぶしくらいまでの大きさ、
もう一回り大きいもの、それに膝より少し低いくらいのおっさんもいる。
……いや、良く見るともっと小さいのもたくさんいる??
俺はドラムの音とボーカルのシャウトだけがズンズン響き渡るのを感じながら、
小さいおっさんが何をしているのかを凝視していた。
おっさん達はそれぞれに干渉することなく、一人一人が群集の足元に
なんらかのパターンを描くようにして歩き回っている。
早歩きしているおっさんも、小走りなおっさんもいる。
もしかすると大きさが小さいほど、素早いかもしれない。いや、はっきりしないが。
おっさん同士は近いルートをぐるぐるしているので衝突しそうになるのだが、
何故か絶対にお互い同士がぶつかってしまうという事はない。
こちらからはわからないなんらかのルールに従っているのかもしれない。
俺は思っていた。
俺はこの小さいおっさんがライブ中こうして、
人々の足元を走り回るのを見るのは初めてではないな。
でもいつこんなのを見たって言うんだ。
思い出せなかった。
俺はもう一度反射的にビールをぐいっと飲もうとしたが、
その時左脇に抱えていた紙袋を下に落としてしまった。
音楽があまりに大音量で鳴っているからか、紙袋が落下した音は全く聞こえなかった。
落とした紙袋を俺が拾おうとした時、二人の小さいおっさん、
くるぶしサイズとそれよりちょっと大きいサイズのがさっとやってきて、
その紙袋から二人して"エロサーファー"Tシャツを手早く取り出し、
それを少し眺めた後、紙袋に戻した。
俺は紙袋を拾っていいものか迷ったが、
くるぶしサイズとくるぶしより大きいサイズの彼らはそれにもう興味を失ったのか、
持ち場に戻っていった。
紙袋は俺が落とした時と全く同じ形状で足元に落ちており、
何事もなかったかのように俺は紙袋を拾い上げ、もう一度小さいおっさん達を見た。
すると、小さいおっさん達全員がそのコスチュームを
"エロサーファー"Tシャツに着替えて、さっきの作業を続行していた。
俺はくすっと笑ってしまった。
おっさんというのはどうしても丸首Tシャツが似合わないものだが、
それにも増して似合っていない感じがした。
っていうか、俺は彼らが似合わなくてそれを笑っているのだろうか。
あれ。
っつうか、俺これ、どうなっちゃってるんだ?
急な腹痛に襲われるあの時のように、もしかしてコレってやばいんじゃね?
という気がしてきていた。
いや……腹痛なんて目じゃない。
なんでだよ。もっとやばいだろ。俺この状況。
やばいはずだろ?
俺は下を向いて考えていたが、なんだ良く見ると一番小さい、
足の親指くらいのおっさんがダグにそっくりなんじゃないかと思い始めた。
いや、ダグは20代半ばくらいだからな。彼をうまい具合におっさん化した感じかな。
"You are so sweet!"
そのおっさんを見ているとそう聞こえた。
分かってるよ。その響きは「やさしい」と同じだって事だろ。
意味も同じだしな。
ちょっと前にようやく気がついたよ。
「ダグのおかげだ。ありがとう。」
大音量でかき消されたが、俺は微笑んでお礼を言った。
ダグに似た小さいおっさんは他のおっさんと同じように、
依然として黙々と自分のルートを回り続けている。
その時、ジャケットの胸ポケットに入れていたスマホが震えた。
ん……?
なんでスマホが震えるんだろう……。
”スマホ”??……………
え。それなんだ?
なんだっけ。
この四角い感じのすべすべした手のひらサイズの機械。綺麗な板状の。
これはなんだっけ……。
その四角い板状のものは震えており、中央に何かが光っている。
ん。なんだろう。
この光っている。記号は……。
コレはなんだ……………?
なんだっけ………。
”着信”という形が記してあり、それが目立つように光っている。
これはなんだ………?なんの意味だろう……。
この板、すごく震えている。何かを必死で伝えるように。
何度も震えている。どうしたらいいんだ。
これ。なんだっけ。
”着信”の下で一際大きく光っている”叉市つくる”と言う形を見た時、何か妙な感じがした。
「またいち……。」
自然と口から突いて言葉が出てきた。
「またいち?」
「ま……た……い……ち……。」
!!!!!
「叉市」
俺はハッキリ言った。
その時、周りに居た小さいおじさんの動きが止まった。
叉市からだ!!!
俺はすぐにタッチパネルをスワイプして電話に出た。
「おーい。お前なあ……そこでなーにをやってんだよ。」
叉市の声だ。
「え。いや、おっさん達がな、、現れてさ、小さいのが。な?
で、ぐるぐる走り回ってるわけだから。
ぐるぐる、それ見てて。俺それ、見てた。それで……」
「水を持ってるか?水分。何でも良いが何か近くにあるか?
それをすぐ飲め。いっぱい飲むんだ。」
「え。ああ。」
俺は手に持っていたビールを全部飲み干した。
「飲んだか。」
「ああ。」
「どんな感じだ?」
「あれ、なんだ。音がしない。ライブ……は?」
Krystal keyのライブは、いつのまにかもう終わっていた。
隣を見ると、七九間がバーカウンターまで走っていったのが見えた。
足元にいたおっさん達の姿はもう見えなかった。
「音がしてたのか。まあ、いいや。あのな。そいつらに構うな。
どういうふうに見えたとしてもだ。」
「え。それ、ダグのおっさんの事か?」
「ダグに見えたんだかなんだか知らんが、そいつらはそいつらの仕事をしてるだけだ。
その中に入っていくんじゃないぞ。誘われたとしてもだ。
それは全然当たり前の事じゃない。異常過ぎる事だ。」
「え。なに言ってんだよ。このパーティの事か?ここ来ちゃダメだったのか。」
「違うよ。おモテ参道には行かなきゃしょうがなかったんだ。
そうじゃなくって、そのさっき言ってた走り回ってるって奴らの事だよ。」
「あれはなんだ。悪いものなのか?あんまり俺そういうふうには見えないんだが……。
いや、っていうか、実際あの小さいおっさんみたいなのは……あれ、どういう……なんなんだ?」
「なんだとかどうだと悪いとか良いとか、
そういう事が言えないものだからお前は言葉を喪失していたんだろが。」
「喪失?」
「言葉を失っちゃダメなんだよ。言ったろ。世界は言葉が決めているんだよ。
時間をあやふやにされてお前、言葉がわかんなくなっていただろ。」
俺はさっきの自分の状況を反芻した。
言葉を喪失していた?
文字が記号にしか見えなくて、いや、もっと言えば、記号にさえ見えなかった。
ただ、叉市という文字だけはあの時確かに何か別のものに見えた。
あれが言葉を失っていたって状態なのか。
いったい。
でもあの時、ダグに似た小さいおっさんは俺に、
You are so sweet!と何かの方法で伝えてきていたのだ。
それはつまり、半臓門線の誰もいなくなった、
異世界的電車内で現れたダグも言っていた言葉だった。
言葉、いや響き、フレーズと言ったらいいだろうか。
それを知り、理解する事で俺は逆に言葉を喪失したのか……?
「言葉………なぁ叉市。俺、わかったよ。"You are so sweet!"の意味さ。
だいぶ時間がかかったけどな。
あれはつまり日本語の『やさしい』と響きと意味が同じって事なんだろ。
俺にはそれ以上はよくわからんが、そういう事だろう?
それがきっと世界は言葉が決めてるってのの意味を手繰り寄せるきっかけになるんだろ。」
「アーク。そうか。うん。そこまでわかりゃ上出来だ。でかした。」
叉市は少し黙ってからすぐ独り言のように言った。
「って事は、それであいつら出てきたのか。」
「あいつら?小さいおっさん達の事か。
おっさんも"You are so sweet!"って言っていたと思うんだ。
それに半蔵門線の時のダグもそうだった。」
「…………………」
叉市は黙った。
「なんだ?どうした?叉市。」
「いや、いい。そういう変になってる感じの世界についてはお前は出来るだけ気にするな。」
「え。あぁ。おう。わかった。」
俺も気にしない方がいい感じはしていた。
ただ、もっと知りたいという単純な気持ちもある、変な感じだ。
「でな。そんな事より俺たちにすっごい重要なのは、曲を作る事なんだよ。」
「え???え????なに?叉市??今、今あの、なんて言った?」
あの叉市が曲を作るのが大事だと言ったのか!?
マジか!?
夢なのかこれは??
「曲だよ。音楽。歌。聞こえないのか?」
言ってる。マジにそう言ってる。
ついにこの時が来た!!
「いや、聞こえてるよ!すっごい聞こえてる!
そう。ったり前だよな!そりゃそうだ。
俺たちはSorrys!なんだからな!」
「なんだ元気になったな。そう。んでな。
さっきの要領で歌詞を書く事がすごい大事なんだよ。」
「なに?歌詞?うん。さっきの要領。。?何のことだ?」
「いやだからさ、"You are so sweet!"と『やさしい』ってのの要領だよ。」
「え?なに?"You are so sweet!"と『やさしい』の要領………ってなんだよ。
そんなんで、どやって歌詞作るんだよ?」
「まあ、それをこれから考えんだけどさ、難しいよな。だからよろしくな。
でもとにかく今日はそれでオーケーだ。アーク、お前よくやったよ。
そのパーティ楽しんでいけよ。じゃあな。」
「おおぁ。さんきゅー」
プツッ。
電話が切れた。
「麻生田川ーっ。だーれと電話してたんだよぉっ。うりうりぃ。もしかして女か?」
ビールの紙コップを両手に持った七九間が、肘で俺を小突いている。
「なーに言ってんだよ。うちのボーカルだよ。」
俺は七九間からビールを受け取った。
「えー、ほんとぉ?あやしいぃなぁ。」
七九間はおおげさに疑ってくる。
「嘘ついてどうすんだ。変な顔で変な事言ってると、変じゃないとこがなくなるぞ。七九間。」
「うっわ。ひっどー。まー、誰と話しても良っけどねぇ。
ところでさKrystal Keyもかなり良かったねえ。
今日は来て良かったよ。ライブはすごいしドリンクも飲み放題だしさ。
ほんと感謝してるぞ。麻生田川!」
「え……まあ……そうか。うん。」
俺は実際には七九間の事を誘ってはいないはずだった。
関係性としては誘っても別にいいわけだったが、状況的に俺は誘えなかったはずなのだ。
うん……?
さっき二つあると思っていたRッポン木のバーの記憶が、今は一つだけになっている。
七九間がベロンベロンになっている方だけしか、今は思い出せない。
さっき「二つあった」という記憶まではあるが、もう一つの記憶そのものはない。
しかし七九間は俺に、このパーティにバーで二人で飲んだ日に誘われたと主張しており、
実際に七九間は会場前に俺に預かったというチケットを持って現れ、
しかも俺の方はなぜか紙袋に入れていたチケットが消えて、
紙オシボリになっていたのだ。
うーむ。
会場は開場当初よりも人がぐっと増えて混みあい、熱気に包まれ始めていた。
しかし、そもそも有名な香水のアニバーサリーパーティなので、
人の体温でむわっとすればするほどその香りは際立ち、存在感を放っていく。
照明が暗転した。
次のライブステージが始まるようだ。
暗がりの中で重いドラムのリズムが響き出した。
ドラマーは既にそこで叩いているようだ。
ステージ上が一際明るく照らされると同時に、
ぶっといリフを奏でて超絶技巧派ギタリストのミャービが袖から登場した。
会場は大盛り上がりになっている。
俺は叉市が、パーティを楽しめと言っていたのを思い出した。
隣ではすでに七九間が踊り出している。
俺はビールを飲んだ。
ギターとドラムだけというソリッドな構成だったが、
ツボを押さえたさすがのライブ運びで終始飽きる事のない演出だった。
やはり海外で何度もツアー経験があるだけあって貫禄もあり、
俺はまた、そういうワールドワイドに活躍をしているアーティストを目の前にし強く刺激を受けた。
いや、もっと正直に言えば、単に嫉妬していたって事だ。
それにしてもギタリストとしてのテクニックも目を見張るものがあるが、
それ以上になんとなく俺が気になったのは、ミャービ氏の腕や肩。
そこかしこに入ったタトゥーだった。
ミャービ氏が入れているタトゥーが特別気になるというよりも、
タトゥーという文化全体が気になると言う感じだろうか。
会場の客の中にもタトゥーを入れている人がたくさんいたが、
ちょっと前からいちいち気になって見てしまう。
翻って考えると俺の中学高校の頃のアイドル、
グッショアーのビリーそれにベンズィーの腕にも凝ったタトゥーがあったと、
今更ながら思い出していた。
タトゥー……か。うーむ。
さっき、叉市から電話がかかってきた時、
俺は”言葉を喪失していた”状態だったと叉市は言った。
その時俺は、実際一時的に文字が読み取れなくなってしまっていた。
あの不思議な感覚と、肌に文字や図柄、絵を描く“タトゥーを彫る、入れる”という行為は、
直感的に何か繋がっているように感じられて仕方がなかった。
こんなにもタトゥーというものが気になるのは初めてであり、自分でも不思議な感覚だった。
いきなり後ろから誰かにがっちり肩を掴まれた。
“Hey, Takashi! Thank you for coming! Are you having a GOOD time tonight?”
(よ!来てくれたのか。貴士!ありがとう。楽しんでるかい?)
振り返ると、ジェフが俺の肩に手を置いて微笑んでる。
“Whoa, Jeff!! Sure! What a great party. ”
(お、おー、ジェフ!!うん。楽しんでるよ。)
来てくれたのか、とジェフは言った。
それは、自分が誘ったと言う言い回しだった。
俺の記憶では、俺がここに来たのはダグにチケットを貰ったからであり、
なおかつ今日の昼間にアオ山墓地でジェフとばったり会い、
おモテ参道まで案内した時にはこのパーティの話は全く出ていなかったのだ。
どうも、その俺の記憶とジェフの記憶とにも齟齬がありそうだ。
とりあえず俺は、ジェフに話を合わせる事にした。
さっきの演奏を褒め、隣にいた七九間を紹介した。
二人はゴッサムバークスで客とスタッフとして何度かは顔をあわせているので、
すぐに打ち解けている。
俺は考えていた。
アオ山墓地で再会した時のジェフは、
俺が金髪にしたせいですぐには俺が誰だかわからなかったのだ。
もし今日アオ山墓地で俺たちは会っていないのに今、
後姿だけで俺だとわかったのだとすると、
ジェフはその前に金髪になった俺と会っているという事になる。
“Jeff,do you remember the last time you visited our restaurant?”
(なあ、ジェフ。こないだうちのレストランに来てくれたのはいつ頃だったかな。)
“What? Umm…I think it was about 3 or 4 days ago…No, wait.
Maybe less than a week but, let me check.I think my manager knows it. ”
(え?3、4日前、、ん。あれ?一週間以内だとは思うけどいつだっけ。
マネージャーに確認すれば分かると思うけど。)
“Alright, you don’t have to do it. Thank you.”
(あ、いや、そこまでしなくて良いよ。ありがとう。)
“Okay. I didn’t feel like it was the very first time we talked.
Like you are already my friend.It was a strange feeling but anyway,
I’m so happy to have a friend like you. ”
(そう。でもこないだその日初めてちゃんと話したってのに、
貴士とは全然他人という気がしなかった。こういうのって不思議だよね。
今日もこうして来てくれたし、貴士と知り合えて俺は嬉しいよ。)
……?こないだ初めて話した?
いや、俺がジェフと初めて見たのは、
レストランでバイトを始めて間もなくだったはずだ。
そして最低でも一年以上前からスタッフと客として、
お互いに名前を認識して毎回会う度に話をしている。
それをお互いに忘れるはずはない。
しかし、ジェフは冗談を言ってる感じは全然ない。
俺は戦慄していた。
このパーティのチケットを俺が誰から貰ったか。
七九間を誰が誘い、チケットを渡したか。
そういう、ここ数日の話が食い違っているってだけの話かと思っていた……。
違うんだ。
ジェフとの出会いや仲良くなるタイミングが違うとすれば、
つまり一年以上前から色々な記憶が違っているって事になる………のか……。
俺と七九間の出会いでさえ、違う可能性さえある……とか。
いやいやいや、そんな事でさえ………大した事じゃあないぞ。
俺の人生全体の事だ。
そこからして、何を本当とすればいいかわからないじゃないか……。
体は変な風に奮えだし、膝はガクガクして定まらなかった。
その時、叉市の言葉が脳内で自動再生された。
『ソクラテスの時代は終わろうとしてるんだ。』
脳?いや、脳っていうか、なんだろう。
首の後ろ頚椎の部分から、直線で頭蓋骨を斜め上におでこまで、
その言葉が射抜いていったみたいな感じだ。
まさに撃たれたと言った感じだった。
痛くはない、でももしかして血でも出てるのか?意識が変だ。
俺は前方にそのまま倒れていく。
視界の中で地面が急激に近づいてくる。
七九間の悲鳴が聞こえた気がした。
「なあ、不可知論ってのがあるだろう。
それはずっと真実だった。
その時代がずっと続いてきたんだよ。
でもな、色んな意味でもうそれが崩れていく。
その時が今なんだ。」
俺は思い出していた。
叉市はソクラテスの時代が終わると言った当時、そんな注釈を付けていたんだった。
ん。
なんだ。
なんだろう。
このマークは?
暗闇の中、目の前に見たことのない記号、シンボルのようなものが見えた。
「おい!!麻生田川ー。あーくたーがわー。おーい。」
七九間の声だ。
それと一緒に軽快なビートが聞こえる。
俺はゆっくり目を開けた。
「おーい。なんだよー。疲れてるのはわかるけどさー。
パーティ中に立ったまま寝るかなあー。麻生田川ー。
よく出来るな。そんな器用な事。」
「ん………ん。おう。七九間……。」
俺は……どうしてたんだ?
「大丈夫かぁ。ほら、見ろよ。もう“ででんMOUSE”が始まってるぞ。
寝てる場合じゃないぞっ。麻生田川!」
ステージはDJセットに変わり、ででんMOUSEがパフォーマンスをしていた。
音量は抑え目で、会場のまったりとした雰囲気に沿ったプレイをしていた。
「さっきジェフが言ってたけど、これがトリみたいだよ。
チルアウトって感じの良いプレイだな。良いパーティだった。
これさ、アマノガワトリップって曲。好きなんだ私。」
「ギンガね。」
「は?なに?」
「いや、なんだ。ごめん。なんでもない。」
俺は“ギンガ”と口走っていた。
いや、なんだそれ?
さっき見えたシンボルマークが頭に浮かんだ。
これの名前なのか?
このシンボルマーク。
俺は今、自分の記憶と他の周りの人たちの体験した記憶とが食い違う事があってしまう事を、
なんとなく理解していた。
でも、いいんだと思った。
それはこの世界ではあり得る事なんだ。
俺はわかっていなかった。
記憶は、俺という存在の足場とか基礎とかそういうものじゃないんだ。全然違うんだ。
いや、今の俺がそれを足場としていないだけかもしれない。
でもそうだとしてもいいんだよ。それで。
俺は何か別の事で規定されている。
だから俺は怖くない。
例え記憶が俺を規定してくれなくても、例え誰かが俺を規定してくれなくってもさ。
なあ、そうだろう。
『そゆこと』
このシンボルマークはそれを俺が見つけたって印なんだろう。
うん。
きっとそうだ。
七九間は隣で静かに体を揺らせて踊っていた。
ドレスアップした会場の人々もそんなふうにくつろいだり、
それぞれに次の行き先を思案したりしている。
ででんMOUSEの音楽はずっと続くように思えた。
たぶんそうじゃないが、そんな気がしてるくらいはいいかもしれない。
俺はシャンパンを取りに行って、それを飲みながらチルアウトを楽しんでいた。
さっき俺が立ったまま眠っていたと七九間に言われた辺りに、
Tシャツの入った紙袋が落ちているのに気がついた。
それは音楽の振動を受けて細かく揺れているように見えた。
俺は会場いっぱいの空気が見えるような気がした。
それは実際には窒素とか酸素とか、他にも色んな元素の混合物なんだろう。
でもそうでもそうじゃなくても、
その空気は今この空間隅々に至るまで俺と響きあっていると思う。
そうに違いないんだ。
そんな開放された気分なのに、今日一日の事が何一つ俺の頭に巡る事はなかった。
その音楽は今を軸にした時間を燻らせていた。
そう。俺も音楽を創っていくんだ。
今日も俺はいつもと変わらずそう思っていた。
俺と七九間はハラ宿駅で別れた。
俺はそのまま、なんとなくと代ヨ木公園の横を通って代ヨ木8マン駅まで歩いた。
寒くなってきたので、俺はジャケットの下に“エロサーファー”Tシャツを着た。
Tシャツの襟元から金のネクタイが見えている。
小田Q線の窓には、そんなアナーキーなコーディネートの俺が映っていた。
へへ。思いもよらずキッチュなフィーリングに仕上がったぜぇ。
“このパーティが終わっても、パーティは続いていく”
そう書かれた電車の広告が目に入った。
俺はその通り!と思った。