俺はギタリストなんだが、もしかして前髪の辺りが異空間なのか?#1
正午を少し回った頃だった。
俺はバイト前にシャワーを浴びて身支度を整え、
鏡の前に立って今日の洋服の組み合わせを軽くチェックしていた。
前髪の先に何かゴミみたいなものが着いているみたいに見えて、
取り払おうとする。
取れないな。いや、ん...?
今度は前髪をつまんでいる指が少しボヤけて見えた。
見間違えか...?
鏡面にゴミが着いているわけでもない。
顔の位置を鏡の中で移動すると、前髪のゴミのようなものも移動する。
ゴミが着いているように思える前髪の箇所は変わらなかった。
もう一度そのゴミのようなものが着いている部分を触ってみると、
鏡の中に写る指がやっぱりボヤけてしまうようだ。
感触を確かめてみても前髪以外に触れている感じはしない。
どうもこれは変な状況だ。
電話が鳴る。着信音に少しビクンッとなってしまった。
「なあ、アーク」
もう話が始まっている。叉市だ。
「バイトとかさ、出かける用事あるんだったらついでにΩ丘に寄って、
セージの様子を見てから行ってくれよ。
多分コンビニでレジやってんじゃないかと思うから。」
言っている事を飲み込むまでに少し時間がかかる。
セージのバイト先のコンビニまで歩いていって、
最寄のΩ丘駅から電車に乗れば時間的には間に合うはずだ……。
「え。ああ、うん。あの、今から出かけるし。
でもあんまり時間ないからちょっとだったら大丈夫だけど。
セージ、なんかあったの?」
「セージに何かあったって事はないけどな。会ってきてくれ。
もし話せなくてもセージに挨拶だけでもしてきてくれ。」
意味はわからんが、しかしそれはいつもの事だ。
俺としては具体的な用は無いが、
セージのところにちょっと寄って会ってからバイトに行くのは、
それはそれで良いかも知れない…という気はなんとなくした。
「はぁ......?まあ、オッケー。りょーかーい。」
「うん。じゃあな。頼んだ。」
電話は切れた。
セージの様子を見る。ね。
鏡の中の前髪の一点はボヤけたままだった。
視界そのものの中にそういうボヤけた箇所が常にあるとかでもない。
鏡の中でだけだ。しかもその前髪の部分は、
自分の肉眼では決して見えない位置なのでもどかしい。
鏡の中でつまんでみると、やはりその一点に重なる指がボヤける。
右手でも左手でも、どの指でもそうだ。
洗面台の鏡でも手鏡でも同じだった。
試しに鏡の中でそのボヤけた空間にギターピックを持って近づけてみると、
それはボヤけず鏡にクッキリと普通に写っている。
他の物でも同じで、モノだとそのボヤけ現象は起きないようだ。
スマホでその箇所の写真や映像を撮ってもその現象は映らなかった。
現状を整理すると、痛いとか動きにくいとかそういう不都合はないが、
前髪付近の小さなサイコロくらいの大きさの空間が、
鏡で見る限りボヤけ続けているという事だった。
あーあ。わっかんねえ。なにこれ。
他人から見たらどうなって見えるんだろ...。
待てよ。何か霊的な?そういうのなのか?
いや、しかし俺は生まれてこの方そういうのは一回も見えた事ないしな。
それになんだろう...いわゆる幽霊とか、
そういうタイプのものではないんじゃないかって気はする。
ってか、叉市にこれの事訊けば良かったな。
いや、まあ、放っておけばそのうち直るのかな。
気にはなるが、バイトの前にΩ丘に寄る事になったので、
そろそろ家を出なければならない時間だった。
この"ボヤけ空間"が他人からどう見えるかは、
誰か親しい人にでも会ってすぐに確認しておきたかった。
そう考えるとセージと会うと言うのはちょうどいい。
幸い、俺の住んでいる部屋からセージが働いているコンビニまでのルートは、
住宅街を通るので平日のこの時間それほど他人とすれ違う事はない。
まあ、もし他人からもボヤけて見えたとしても、
ほんの少しの部分だから相当近くで見ないと分からないはずだとは思うけど…。
コンビニに着くと、店内はお昼を買う会社員らしき人々や学生で混雑していた。
セージが忙しそうにレジを打っているのは、
店の外から窓越しに見てもうわかっていた。
前髪辺りをちょっと手で隠して覆いながら、
一応パンを一つ選びレジに並んだ。
すぐに順番は回ってきた。
マヨハムパンのバーコードをレジに通しながら、
セージは俺の顔にようやく気がついた。
「お。アークか。どうしたの?」
「おつかれセージ。元気そうだね。
ところでさ、俺のこれ、前髪、なんか着いてるかな。」
と"ボヤけ空間"の辺りを右手でつまんで見せた。
「ああ。その部分だけ金髪にしたんだ?面白いね。いいねえ。」
セージは預かり額を打ち込み、チラッと見て、微笑みながら言う。
「へ?金髪?金髪になってる?」
おつりを差し出すセージに俺は聞き返した。
金髪になってるだと!?
「うんうん。なってるよ。良いんじゃない?
あ、そうだ。動画見たよ。あれも良いんじゃないかな。」
動画の感想もすごく聞きたかったが、
金髪についての事が頭から離れなかった。
「え。あ、ありがとう。いや、あの金髪になって・・・」
「あの、アークちょっとごめん。
今はちょっと、、他のお客さんが待ってるから。」
「あ。あ、うん...じゃあ。」
押し出されるようにして店を出た。
はぁ?
セージにはこの前髪の箇所が金髪に見えるっていうのか?
かなり意外だった。
何か変なことになっているみたいだとは思ったが、他人には金髪に見えるのか?
俺は、Ω丘駅の改札内のトイレの鏡でもう一度確認してみた。
俺の目にはその"ボヤけ空間"は特に金髪には見えない。
ボヤけているという状態のままで部屋で確認した時と変わらなかった。
なんにしても、俺だけが見えている幻覚のようなものではないみたいだ。
今日は昼過ぎから閉店までバイトのシフトが入っていた。
AKA坂の複合商業ビル:
ゴッサムバークスビルディング内にあるレストラン兼バーだ。
俺は、Ω丘からAKA坂に向かう途中の電車の中で、
前髪の"ボヤけ空間"について色々考えてみた。
とにかく知り合いにその人から見てどう見えるかを聞いて回り、
客観的な情報を出来るだけ集めてみるしかない。
バイト先には個性的な人が多いが、スタッフ同士は基本仲が良い。
出勤したら、すぐにでもそこにいる同僚の誰かに、
前髪の"ボヤけ空間"の見た目についてそれとなーく探ってみようと思っていた……
が、実際に着いてみると、
状況的に落ち着いて訊いてられるようなチャンスはなかった。
いつもなら、平日のランチのピークタイム後は夕方まである程度暇な時間がある。
しかしそんな日に限って、
団体客や予約と言うわけでもないのになぜか次から次へとお客さんがやってきて、
ほとんど席が埋まり続けていた。
とりあえず、だ。
スタッフも客も"ボヤけ空間"の事に気がついてる素振りはない。
俺の方でも現状、
「ちょっと今日の髪型変かもしれないけど、そんなに変でもないでしょ?」
くらいの自意識レベルで行こう。
手でその"ボヤけ空間”をガードしたりする必要もなさそうだ。
……にしても忙しい。
もう無理という程ではないが、ディナーの仕込みもあり、
厨房もフロアも全員が常に動きっぱなしだった。
俺は適度に忙しい時も、暇でまったりムードの時も好きだが、
やたら忙しい時は忙しい時で誰より燃える。
そう。そんな俺の始まりはSorrys!のライブを初めて見に行った大学生の時だ。ジャンボでベースラインをじっくりしっとり弾いていたかと思ったら、次のONE2Peopleではキーボードに飛び掛らんとする勢いでジャンプしまくりながら鍵盤を叩き、ボコーダーに咆えるムチャなプレイヤーが一際俺の目を引いた。その男セージの、その人情ではギリ理解出来るものの人間としてはどうしても理解し難いというパフォーマンスを見た経験と衝撃は、俺のその当時のアオハライディングな柔軟さと危うい感性をして「どうやったらこれ巧く生活に取り入れられるかな。」と止せばいいのにワクワクして変なスイッチが入り、しばらくの間思い悩んだ。
当時の俺はどんな体験でもそこにグッとくる何かがあれば、
どうにか吸収して自分のものにしたいという欲望と意欲で、
パンパンに膨れた伸び盛りのアイツだったからだ。
数週間悩んだ末、あぁ!そうか!全部楽しめばいいじゃんか!
そうじゃんか!レッツあおいエイル!と言う結論に辿り着いたが、
いざやろうとするとそんなもんは全然簡単なわけはなかった。
そういうアイデアが生まれはしたものの、
当時ライトでレッドブレイブルな人間とはあまり言えなかった俺には、
それがなかなかうまく活かせなかった。そのトライは、
俺の学生時代に様々なほろ苦い思い出を残しながらフェードアウトして行った。
アイデアと人間性が一致していないという事を、
イヤと言うほど思い知らされた数年を経て、
忘れていた頃に思いもかけずそれが身についてきたようだ...。
と、はたと気がついたのは、因縁と言うべきか。
Sorrys!のオーディションに落ちまくりボロクソになって、
それでもハイになって受けまくっていた辺りだった。
あのもう思い出したくないような経験は、
結果俺をハイパーでエアリーなジャージャーMENに変えた。
説明が長くなったが、ま、
なので忙しい事自体はそんなにキライじゃない。
あとジャージャーMENって言うのはふわっと聞き流してください。
俺はこの忙しい業務の中でマッシヴにハイになって、
"ボヤけ空間"の事を忘れてしまうのも良いかも知れないな...
という気になっていた。
俺自身がすっかり忘れてしまうと、
なんかの加減で直ってしまうとかあるかも知んないしな。
とか思いつきで考えながら、
一瞬気を抜いてフロアをゆっくり見回してみた。
いつでも外国人は多いが、今日はいつにも増して多く来店しているようだった。
このレストラン兼バーが入っているゴッサムバークスビルディングには、
港区という地域柄、それにオフィス階に外資企業が多いせいなのだろう、
外国人が多くやって来る。
この店には、ほとんどの客が最初は仕事の合間や帰りにやってくるのだろう。
それで味や雰囲気が気に入り、
日本滞在中に何度も来店してくれるリピーターも結構いて、
バーフロアでは気がつくと客の全員が英語圏の外国人...
という日もわりとよく見る光景だ。
そんなだから、フロアのスタッフは必然的に簡単な英語対応を求められる。
そこまで流暢に話せる必要はないが、
日常英会話くらいは出来ないとなかなか難しい。
俺は働き始めた当初、英語自体は苦手ではなかった。
でもすごく喋れるという感じというわけでもなかったが、
バーで接客をして客とジョークを言い合ったり、
日々英語圏の人々と空間を共有するうちに、
自分でも驚くほど英語が上達していた。
外国人の客から英語を褒められる事も増えてきていたし、
そのノリのようなものに自然と体が慣らされて行った感じがしていた。
忙しくオーダーを取ったり会計をする時間の中でふと気がつくと、
幾人かの客が俺の"ボヤけ空間"付近をチラッと見ているような場面があった。
決まってそれは年配で落ち着いている白人女性か、
そういうタイプの人が同席しているテーブルで起こった。
そしてそれを見た後で、ニコっと笑いかけてくれる。
なんとなく、「あら。あなた、それ持ってるのね?」という感じの、
ちょっと予言的でもありイタズラっぽい、
親近感を感じさせる年配女性特有の余裕のある笑顔だった。
そんな事もあり、忙しくしていても結局、
"ボヤけ空間"の事はその度に思い出された。
でも別に不都合もなかったし、
落ち着いて同僚に聞けるような空き時間もないので、
そのまま時間は過ぎていった。
途中休憩に入った時、スマホには叉市からの数十分前の着信履歴があった。
気がついてすぐに折り返したが叉市は出なかった。
ニュースでは、EUとTPPがどちらも限定的なFTAとなるのは必至で、
その驚異的な外交ダメージは結果として、
それらの協定と元々関わりのない地域がもっぱら受けていくだろうと語っていた。
叉市から俺が出られない時に電話がかかってくる事も珍しかったが、
それ以上に、最近の叉市がもたらす情報がはっきりと今役立つかもしれない...
という状態と、かなり叉市を頼りにしている状態がどう考えても異常事態だった。
その日は夕方に結婚式の二次会予約も入っており、
そのままディナーでも客足が途絶える事はなく、
オーダーストップ後も壮絶な後片付けに追われた。
勤務終了の頃には、俺も含めスタッフそれぞれが疲れ切っており、
閉店した店内は野戦病院さながらだった。
そんな状態の中、
俺は一応スタッフ数人に"ボヤけ空間"についてヒヤリングを試みていた。
自分の前髪付近を指差しながら
「俺のこの部分ってどう思う?」とか
「もしかして俺のここの部分なにか見えない?」とか訊いてみた。
しかしお互い非常に疲れている事もあり、そのままの上
滑りテンションでわからない事を言っている人っぽい感じにどうしてもなってしまう。
真面目に訊いているのだが、なぜかうまくいかない。
……ってか、なんかすげえ変態っぽい。
それは、俺自身が俺の前髪の状態をよく理解せず、
手探り状態で質問しているという構造的問題に根ざしていた。
もしかして、閉店後の照明を落とした状態でなければ、
もう少し良い情報が得られたかもしれないが、
その薄暗さと質問の変態っぽさが絶妙にマッチして、
結果、俺の印象をあらぬ方向に変えてしまうのだった。
だからなのか、単に見えないからなのかはわからないが、
誰もそれについてちゃんと答えてはくれなかった。