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嘘つきと雪を待つ草

作者: 兎島

『嘘つきと雪を待つ草』

                 ツキナミイチ


 なにかが、終わろうとしている。


 そんなことを感じさせるような色だった。

「きれい……」

 がしゃこん、とおもちゃのロボットみたいな可愛らしい電子音を立てて、スマホの画面が空を切り取る。こんなことなら、デジカメを持ってくればよかった。そう独り小さくつぶやきながら、再び歩き出した。

 早朝の空気の独特の重みに頭をもたげたカーブミラーが私を見送る。誰もいない道はひどく静かで、穏やかな暗い赤に染まりつつあった。

 なにかが終わろうとしている。

 どうしてそんな風に思うんだろう。私が見ているのは朝焼けなのに。こうして頬を照らすのは一日の始まりの光であるはずなのに、どうして。

 五月も半ばとはいえ、朝はまだ随分と涼しい。午前五時過ぎの街は人がとても少なくて、そんな中をぼんやりしながら歩くのが私はとても好きだ。友達にはおばあちゃんみたいって笑われるけど、別にいい。このきれいな世界を知っているのは、私だけでいい。

 この道はまだ知りたてほやほやだ。昨日から、一人暮らしのおばあちゃんの家に遊びにきている。ゴールデンウィークを利用して、二つ隣のこの街へ。遠出の少ない家庭で育った私にとっては、小さな旅行みたいなものだ。この街は洋風の建物が多くて、どこも小奇麗でお洒落だから好きだった。

 家から歩いて二十分ほどの小高い丘の上に差し掛かって、私は足を止めた。

 下方に住宅街の広がる東に面したベンチに腰掛けている人がいる。時間からしてお年寄りかなって一瞬思ったけれど、違う。肩につくかつかないかの髪を後ろで結んでいるから女の人かとも思ったけど、それも違った。ちょっと離れた位置からでも分かる、整った横顔。鼻がつんと高くて、まつ毛が優美にのびていた。

 伏せられた目元が陽光に照らされて、きらきらと光る。

 ――きれい。

 がしゃこん。思っていたより大きな音が響いて、私はぎょっとする。

 きれいな男の人が、こっちを見た。

 私はさっとスマホをポケットに入れると、小さくおじぎをして踵を返した。大きめのマフラーからちょっと覗く耳は真っ赤に染まっていたことだろう。も、すっごい、恥ずかしい。私、今何した? こんなの盗撮じゃん、何か言われたらどうしよう、っていろんなことが頭の中をぐるぐるした。

「写真部?」

 柔らかい声が、熱い耳に滑り込む。

 え。私は思わず振り返る。すると彼は立ち上がって、正面から見てもやっぱりきれいな顔で優しく笑った。

「朝から大変だな」

 ええと、私、写真部じゃないです、と、言ったほうがいいのか、かなり迷った。


 家に着くと、六時を回っていた。玄関で靴を脱いでいると、奥から声がする。

「そうなのよ……お兄ちゃんはあんなに勉強を頑張ってたのに、あの子はもう……」

 私はそっとフローリングを踏んで、静かに階段へ向けて歩を進める。

 お母さんだ。ことあるごとに、優秀なお兄ちゃんとそうではない私を比べようとする母の声。それにどこかなだめるような調子で相槌を打つのは、私たち兄妹に分け隔てなく接してくれるおばあちゃんの声。

「この間、あの子なんて言ったと思う? 写真家になりたいって言ったのよ。母さん、考えてもみて。今のご時世、まともに働きたいって言ったって怪しい時代なの。それなのにあの子はふざけてばかりで……」

 自分の足音が、少し大きくなった気がした。

私はふざけてる訳でもなんでもない。私はただ、私が知っているきれいなものを切り取って、他の人たちにも見てもらいたいだけだ。確かに、不安定な道だってことは知っている。必ずしも夢が叶うなんてことはないんだってことだって、ちゃんと考えている。

 一時的に間借りしている部屋に戻る。私やお兄ちゃんが来たときの為にとおばあちゃんが買ってくれた勉強机の前に座って、ひとつ息をついた。

 母は『不安定』を人一倍嫌う。資格を取らなければ必ず先で不幸になる、なんてことを鬼気迫った顔で言うような人だ。確かに間違ってはいないと思う。自分の価値を間違いなく高めてくれる資格は、きっととても大切なものなのだろう。

だけど、じゃあ、私は私自身のことは何一つ信じちゃいけないっていうんだろうか。私の中のきれいなもの、誰かに伝えたいことを、伝えたいと努力しようとすることすら、許されないんだろうか。

 きれいなものが好きだった。私が見つけたたくさんのきれいなものを、忘れないように切り取っておくのが好きだった。撮って、溜めて、そんなことを繰り返すうちに、いつしかそれを他の人に伝えたいと思うようになった。そのための勉強がしたい。私にはまだまだ、知らなきゃいけないたくさんのことがある。

 スマホのホームボタンを押すと、カメラのアプリが開きっぱなしになっていた。最後にとった写真が表示されている。きれいな横顔が、薄暗がりの中でぼんやりと浮かび上がった。

 そういえば、母に私が撮った写真を見せたことは一度もない。

   *

「おはようございます」

 次の日も、彼は公園にいた。私は昨日の失態について謝るために、彼に声をかける。

 ベンチに座っていた彼はこちらを振り返って、「おはよう」と微笑んだ。

 私がおずおずとベンチに近づくと、彼はひょいと場所を開けてくれた。昨日よりもずっと近いその距離に私はどぎまぎしたが、ちゃっかり彼の隣に座る。

「早起きして、何かしたいことがあるの?」

 昨日と変わらない柔らかい声で彼は問うてくる。私は彼の顔を初めて近くで見た。やっぱり、きれいに整っている。ちょっと長めの髪を首の後ろで結んでいるのも相まって、ちょっと中性的な雰囲気のある人だった。こういうのを『麗人』っていうんだろう。歳は二十四、五って感じかなあ。どうだろう、どこか年齢不詳めいた感じがあってよく分からない。

「いえ、朝の街を歩くのが好きなんです」

 マフラーで顔を隠しながら言うと、その人は大きく頷いて、笑った。「俺と一緒だ」

 暫しの沈黙が降りる。不思議と息苦しさはなかった。彼のほうをちらりと見ると、昨日と同じように、太陽の昇る方向を見つめていた。

「あの」

 私は意を決したように口を開く。と言っても、これまでの彼の態度があまりにも穏やかだったので、初めに比べれば緊張感は随分と薄まっていたのだが。

「昨日はすいませんでした」

 それでもやっぱり、少し心臓が高鳴った。ちょっとむっとした顔をされたらどうしよう、とか、いろんなことが頭を駆け巡る。

 けれど、彼の反応はまったく予想外のものだった。

「え? 昨日って?」

「え……っと」

 何が? というような顔で、彼は私を見ている。

 えーと。つまり、気にしてない、ってことかな。そういえば昨日も、あんまり意に介していない感じだった。

「いえ、何でもないです。すいません」

「ふ、なんだそりゃ」

 きゅっと口角が上がる。形の良い目元がふっと和らいで、優しげな光を宿した。

 ――ああ、

 撮りたいな。

 不意に衝動に掻き立てられる。だけど、やっぱり私はまだまだ駄目だ。こういう時、遠慮してしまう。相手に不快に思われるのが怖いだとか、そういう感情が先にいってしまう。プロならば、最高の瞬間を残すことを最優先する彼らならば、こんな時は真っ先にシャッターを切っているに違いないのに。

 駄目だ。私は、駄目だ。

 彼に会えて嬉しい。けれど、晴れ渡った空に浮かぶ一片の黒い雲のように、それは確かに私の中にあった。


 彼と別れ、四時間ほど経つと、インターホンが鳴った。

 母たちは買い物に出かけている。ドア穴を覗くと、見慣れた青年の姿があった。

「お兄ちゃん! どうしたの?」

 慌ててドアを開けると、彼は微笑み、靴を脱ぎながら言った。

「久しぶりに家に帰ったら誰もいないんだ。びっくりしたよ。仕事や学校でなかなか帰らない父さんとおれについに愛想を尽かして、夜逃げでもしたのかと思った」

 それで母さんに連絡したら、おばあちゃんの家にいるんだって聞いてさ。

 お兄ちゃんは久しぶりのおばあちゃんの家であるにも関わらず、まるで今もずっと住んでいるかのように慣れた足取りでキッチンへと向かう。コップを戸棚から取り出し、お茶を注いでくいっと煽り、ふうと息をつく。

「だってお兄ちゃん、ここ一ヶ月全然連絡くれなかったじゃん」

「そう言われるとぐうの音も出ない」

 くしゃっと顔をゆがめて笑う彼を見て、私も自然と笑顔になる。私はお兄ちゃんが好きだった。母の対応はさておき、私たち兄妹はなかなかうまくいっている方だと思う。

「ねえ、お母さんから私について、なにか聞いてる?」

 ふっと気になって尋ねると、お兄ちゃんはきょとんとした顔つきで「何を?」と言った。

 それを聞いて、私はほっと安堵する。写真家になりたいということについて、お兄ちゃんに告げ口されていたらどうしようかと思った。もちろん兄はこんな風な飄々とした人だから、母みたいに頭ごなしに否定するようなことはしないだろう。それでも、なんだか怖かった。これ以上ない素晴らしい道に進んだお兄ちゃんから見たら、私の選ぼうとしている道はとても下らないものに見えるんじゃないかって、そう思うと怖くてたまらなかった。

「何でもない。……あのさ、大学での勉強ってどんな感じ?」

 私はちょっと作った笑顔を浮かべると、お兄ちゃんの座る向かいのソファに腰掛けた。

   *

 その日の夕飯後、私は小さな小さな事故に遭った。

「いったあ……」

 顔をしかめて、足の小指をさする。思いっきりぶつけた。最悪。

 目を細めて、私の足を痛めつけた物体を睨む。ちょっと色あせた、ピンクのプラスチックの箱だった。大きさはティッシュの箱くらいで、持ち上げてみるとしゃらしゃら、だとか、ごとごと、とかいう音がする。

 ああ、思い出した。これ、私が小さい時遊んでたおもちゃだ。こんなとこにもあったんだ。

 ちょっと気になって、開けてみる。随分幼い頃のもののようで、もう今は見かけないような少女向けのキャラクターのおもちゃなんかが入っていた。

「……あれ?」

 その中のひとつを見て、私は声をあげた。

   *

「おはようございます」

「おはよう」

 私と彼の会話は、いつもこのやり取りから始まる。彼は私を見ると、いつもまず微笑んでくれる。その優しい笑顔が、私は大好きだった。

 彼はいつも穏やかで、時折静かに笑った。色々なことを話した。好きな本の話、映画の話、芸能人のゴシップ、音楽。私は学校で起こった愉快なことについて話したりもしたが、彼はあまり自分のことについては語らなかった。

「写真を撮ることが好きなの?」

 私が朝焼けを撮っていると、不意に彼が言った。そういえば、私が初めて彼と会った日もそんなことを言っていた。「写真部?」と。

「はい。うちの高校には写真部はないんで、ほんとに趣味だけ、って感じですけど」

「ふうん。ね、ちょっと見せてよ」

 彼が思いがけず食いついてきて、私は少し迷った。友人には何度か見せたことがある程度で、ほとんど他人に見せたことがなかったからだ。

「えっと、でも、へたくそですよ」

「そんなの君の主観だけじゃ分からないだろ」

 私がそろそろとデジカメを差し出すと、彼は上機嫌な様子でファイルを開いていく。

「俺、写真が好きなんだよ。写真は嘘をつかないだろ」

「嘘?」

「うん。俺は、よく嘘をつかれるんだ。嘘をつかれてもそれが嘘だと気づけないから、結局俺まで嘘をつくはめになってしまう。それが本当のことなんだと俺は思っているからね」

「……誰に、嘘をつかれるんですか?」

「うーん、誰に、っていうと難しいんだけど」

彼は写真を送っていく。

「でも、どれもいいじゃん。なんか、俺は好きだよ。この、雛が羽ばたくとこなんかさ、よく撮れたね」

「あ、それは、家の近くに燕の巣があって。大分前から目をつけてたんですよ」

「へえ……、」

 ふ、と言葉をとめて、彼が瞬く。

「――これ、すごいね」

 どき、と胸が鳴る。私はデジカメを覗き込んだ。

 夕焼けをバックにして、ふたつのシルエットが浮かび上がっている。

 一人は青年で、一人は子供だ。

「好きだな。優しい感じが伝わってくる。それに」

 彼は、私を見て微笑んだ。

「とても、きれいだ」

 ――きれいだ。

 私はその言葉を抱えていられるなら、どんな苦しいところにだって行ける気がした。私が見つけたきれいなものを、感じ取ってくれた人がいる。それは、どんなことよりも私を満たした。

 彼が褒めてくれた写真を、私は改めて見直す。

 我ながら気に入っていて、新しいメモリに変える時にわざわざコピーして入れた、一年ほど前のものだ。

 写真に写っていたのは、兄と、家族旅行で行った先で出会った見知らぬ男の子だった。

    *

 からんからん、と、音がする。香ばしいコーヒーの香りが広がった。

「いらっしゃいませ」

 ショートボブの美人な店員さんが、ほのかな笑みを浮かべて迎えてくれた。歳は私より一つか二つ上かなってくらいで、猫みたいなつり気味の大きな目が印象的だった。

「テラス席もございますが、いかがでしょう?」

 私は少しどぎまぎしながら、テラス席で、と答える。いつも彼と話す公園の近くにある喫茶店。白い地中海風の建物で、すごく雰囲気がよさそうだから気になっていたのだ。一人で来るのは気が引けるかなと思ったけれど、割におひとり様の女の人なんかもいて安心する。

 メニュー表を開くと、お洒落な装丁のページの上に、ずらりといろんなものの名前が並んでいた。

 とりあえず、ホットケーキとココアのセットを頼む。

「ココアに生クリームとチョコソースのトッピングができますが、どうしますか?」

 うへえ、と私は内心驚愕する。ココアに生クリームとチョコ。あまあまコンビだなあと思いながらも、「お願いします」と好奇心から言ってしまっている私がいた。

 かしこまりました、と美人な店員さんが去っていく。

 店内はそんなに広くない。テーブル席が三つと、カウンター席が七つ。でもなかなか繁盛している様子で、店内には彼女ともう一人店員さんがいた。こっちは若い男の人。彼女と同じく大学生くらいに見えた。

 ところどころに絵が飾られている。それはどこか異国の街並みであったり、ブラウンがかった髪の女の子の絵だったりした。どれもすごく上手で、プロが描いてるのかな、とひそかに思う。

「お待たせいたしました」

 ちょっとかわいい顔をした男の人がホットケーキとココアを持ってくる。ココアにはホイップとチョコソースがかかっていて、軽く胸やけしちゃいそうだった。

 恐る恐る飲んでみて、びっくりする。思ったよりあっさりしていて、美味しかった。ホットケーキは夢みたいに蜂蜜できらきらしていて、なんだか胸がわくわくした。

 くす、と、笑い声が聞こえた。

 驚いて顔を上げると、美人の店員さんが口元に拳を当てるような感じで笑いをこらえていた。

「ああ、ごめんなさい。なんだかとても幸せそうだったから」

 にこっと笑うと、どこかいたずらっぽい感じの愛嬌がある。悪意の感じられないそれに私は親しげな気持ちになって、聞いた。

「バイトされてるんですか?」

「はい……あ、まぁいっか。うん。ゴールデンウィークの間だけね。大学が休みだから」

「そうなんですか……。あ。あの、この絵は誰が?」

 ちょっと気になっていたので聞いてみると、彼女は、ああ、と頷いて、言った。

「せっちゃんね。店長の親戚が描いてるの。ここに居候してんだけどね。アトリエがほら、そこに」

 彼女は私の背後を指差す。振り返ると、なんとそこにはドアがあった。窓ガラスがはめ込まれた木製のドア。

『アトリエ SEPPEI』

 せっぺい……?

 すごくお洒落な筆記体で書かれた謎の言語に、私は首をかしげる。丸い窓ガラスの向こうに、何人かの人がいた。

「ほんと、まだ始めて一年弱しか経っていないとか言う割に妬ましいほどのセンスよね。まあせっちゃんだから仕方ないけど。こちとら十二年もかけてやってるっていうのに」

「あ、店員さんも絵を描かれるんですか?」

「まあ、一応。美大に行ったはいいけど、時々自信なくすわ、こういうの目の当たりにしちゃうと」

 そう言われてみると、彼女は芸術家という言葉があまりにもしっくりきすぎるような雰囲気をもつ人のように思えた。細く白い指先がもつ絵筆は、一体どんな世界を描きだすんだろう。

「おい、アキ。チーフが睨んでるぞ」

 男の店員さんが彼女をつっつく。彼女はちろっと舌を出すと、彼にひらりと手のひらを翻した。

「ご忠告どうも、笹野くん」

 アキと呼ばれた彼女が私に微笑みかけて去っていくと、私はとにかく信じられないくらい美味しいホットケーキとココアをお腹に収めることに集中した。

 会計を済ませると、アトリエにつま先を向ける。あの絵の数々を描いた人がいるところ。もちろんいないことだってあるだろうけれど、会えたらいいな、と思う。

 扉を開けると、絵の具の匂いがした。

 たくさんの絵が飾られている。何人かの人たちが、思い思いの場所に立って鑑賞していた。

 ひとつだけ、描きかけの絵があった。

 私はそれを見て、あれ、と思う。未完成なその世界の姿には、見覚えがあった。

 広くはない部屋の、奥。衝立の向こうから、白いシャツの裾が覗いていた。

 ゆっくりと歩を進めると、二人の男の人の姿があった。一人はこちらに背を向けるかたちで、キャンバスに向かい合っている。もう一人はその傍らに立って、彼が絵を描く様子を見守っていた。

 一心にキャンバスに向かうその姿に、見覚えがあった。

 今朝はなぜだか公園にいなかったから会えなかったけど、まさかこんなところで会えるなんて。

「あの、こんにちは」

 声をかける。彼は振り返らなかった。傍らに立っていた男の人が私に気づいて、「おい、せっぺい」と彼の肩を叩く。

 せっぺい、と呼ばれた彼は、ゆっくりとこちらを見た。

 つんと高い鼻、優美に伸びたまつ毛。きれいな顔をした彼は、頬に絵の具をつけていた。

「こんなところで会うなんて、思ってもみませんでした」

 私は笑みを浮かべて、彼に言う。

 さっきの描きかけの絵、あれは、私が彼に見せた写真とよく似ていた。少しずつ構図は違うけれど、シルエットになった男の子がいて、その男の子の頭に手を置いている、誰か――その手のひらの持ち主が、まだ描かれていなかった。逆に言えばその部分だけが真っ白で、なんだか少し不思議だった。

 そんなに私の写真を気に入ってくれたんだな、と、嬉しくなる。

「せっぺいさん、っていうんですね。すごくきれいな絵を描かれるんですね。感動しました」

 せっぺいさんは、アーモンド型の目を瞬いた。

突然私が現れてびっくりしてるのかな、と思った。でもきっと、微笑んでくれるだろう、とも思った。いつもみたいに、優しく。


「…………えっと、……誰?」


 だからその言葉は、きっと私の聞き間違いなんだって思った。

 そう信じたかった。

 だって彼は、初めて私の写真を「きれいだ」と言ってくれた人だったから。

     *

『お前、泣いてるのか?』

 スマホから洩れる、ワントーン低くなったお兄ちゃんの声に、私は何も言えなくなった。涙がばかみたいにたくさん頬を流れ落ちる。

 あの後、私は耐え切れなくなって喫茶店を飛び出した。走って、走って、忘れようとした。せっぺいさんのことも、いつのまにか彼に抱いていた淡い想いも、写真を褒められたことも、全部、なかったことにしようとした。だって私は、彼に覚えられていなかった。五月の朝は、ちゃんと相手の顔だって見える。何度も会って話をしたのに、少しも。

 後ろから大声で呼び止められた。私は、立ち止まる。

もしかしたらせっぺいさんかも知れないって、ばかみたいにほんの少し期待した。ごめんね、さっきのは冗談だったんだよ、って笑っているかも知れないって、期待した。

 膝に手をついて息を荒げていたのは、せっぺいさんの傍らに立っていた男の人だった。

   *

 家に帰ると、お兄ちゃんから電話がかかってきた。

『あのさ、母さんから聞いた。お前、写真家になりたいんだってな』

 ああ、と、思った。だけど今は、お兄ちゃんの言葉なら何でも受け入れようと思った。やめろって言われたなら、やめればいい。どうせ私の写真を必要としてくれる人なんて、もう世界のどこにもいないんだから。

 お兄ちゃんは、明瞭な口調で、言った。

『いいと思うよ。おれさ、はっきり言ったことないけど、お前の撮る写真が好きなんだ。なんか、おれなんかが撮るのよりずっと……きれいっていうか、そう、きれいなんだよ。なんていうか、見た目だけじゃなくて、伝わってくるものとかさ。お前ならきっと成功出来るって、そう思う』

 ――きれいだ。

 お兄ちゃんの言葉と、ゆきのように溶けて消えてしまったいつかのせっぺいさんの優しい声が、重なる。

 あ、と思った瞬間、頬を熱いものが滑り落ちた。私の夢より何より、今私の胸の中を占めているつらく苦しいもの。その全てを、お兄ちゃんに打ち明けようと思った。

お兄ちゃんなら、助けてくれるような気がした。私を、そして、せっぺいさんを。

 彼は、自分をせっぺいさんの従兄弟だと言った。そうして私たちは、いつもせっぺいさんと会っていた公園のベンチに腰掛ける。話をした。もちろん、せっぺいさんについて。せっぺいさんが抱えているものについて。それは無知な私にはあまりにも重たくて、恐ろしいものだった。

 突然見知らぬ人についての話を聞かされて、お兄ちゃんはひどく驚いているようだった。どういうわけか、私に、ではなく、その人のことに対して。

「その人ね、病気なの。最近に起きたことから、順番に忘れていっちゃう病気。お兄ちゃんなら、知ってるよね」

『え……、ああ』

 少し沈黙があってから、お兄ちゃんは相槌を打つ。

「今は、従兄弟の人と一緒に暮らしてるんだって。前は高校で化学の先生をしてたんだって言ってた。最後にいたところはね、私たちのいた高校だよ」

 なんだか、悪い夢みたいだった。

 あの人は、せっぺいさんは、少しずつ記憶を失ってゆく。砂糖菓子が崩れていくみたいに、少しずつ。

 彼はきっと、毎日私を初対面の人間だと思って接していた。おはよう。彼は挨拶をしてきた人間に挨拶を返す

。今まで気付かなかったこと自体が奇跡だったのだ。

「時々ね、正気に返るんだって。そんな時に決まって言うらしいの。会って文句を言いたいやつがいる、って。誰のことなのかな。……もう、遠くにいる人なのかも知れないけど」

 俺はよく嘘をつかれる、と彼は言っていた。誰に? と私は聞いた。

――誰にって訳じゃないけど。

 彼に嘘をついていたのは、彼から見た世界そのものだったのだ。

 お兄ちゃんは黙っていた。

「ねえお兄ちゃん、アルツハイマーって、治らないのかな。お兄ちゃんたちでも、治せない?」

 お兄ちゃんは、国公立の大学の医学部に通っている。高校三年の夏ごろまでのらりくらりと進路を言わずにいたのに、ある日突然医者になるなんて言い出した時には家族全員が驚いた。元からかなり頭が良かったから洒落にならなくて、だけど、模試ではずっと医学部ばかりを志望校に入れていたみたいだ。三番目か四番目あたりに、だけど。

 そして去年の冬、あっさりと現役で第一希望に受かった。

『分からない』

 お兄ちゃんは、感情の読めない声で言った。

『アルツハイマーは難しい病気だ。絵を描いてるって言ってたよな? それはいいことだよ。芸術みたいな、自分を表現することに向かわせることは、病気の進行を食い止めることにも繋がる』

 そうして、彼は黙り込む。次に彼の声を聞いた時、それはかすかに緊張を帯びているように思えた。でも同時に、すごく優しいものも含まれているみたいだった。

七花(ななか)、お前、確か明日帰るんだったよな。お母さんはお昼過ぎに帰るだろうけど、お前、六時までおばあちゃん家で待てる?』

 言っている意味が、最初はよく分からなかった。そりゃあ、心強い。私は確実にせっぺいさんに忘れられていて、でももう一度挨拶に行きたいと思っていた。でもそれに、本当に初対面のお兄ちゃんがついてくるだなんて。

『あ、さっきの話に戻るんだけど。おれ、母さんに言っておいたから。七花が本当に写真家を目指したいと思っているんなら、専門の大学に行かせてやることも考えてやったらどうだ、って』

「えっ、……お兄ちゃん、どうしてそこまで、」

『七花。欲しいものを欲しいって口に出来るうちは、周りの人間はそれを手に入れさせてやる努力をするべきなんだ。おれは、そう思うことにしたんだよ』

 お兄ちゃんの言っていることは、私にはよく分からなかった。それはお兄ちゃんの声で紡がれる言葉であるはずなのに、いつかずっと昔に聞いた誰かの言葉であるような気がしていた。

「……ねえお兄ちゃん、どうしてせっぺいさんに会おうと思ったの?」

 さっき聞こうか迷ったことを、私は思い切って聞いてみる。

 すると彼は、どこか照れくさそうな声で返した。

『その人、絵が上手いんだろ。一度見てみたいって、そう思ったんだよ』

     *

 机の上に、ペンダントが置かれている。

 この間足をぶつけた、ピンクのおもちゃ箱に入っていたものだ。クリアタイプの、ラメが入ったピンクの貝殻に、小さなイルカが入ったもの。

 あんまり覚えていないけれど、母が買ってくれたものではない。見知らぬ人が出会い頭に私に買ってくれたのだと、後でお兄ちゃんが教えてくれた。たくさんの種類があるうちの一種がランダムに入っていて、その人が買ってくれたそれは私が最初に一番欲しいと思っていたものとは違っていた。でも、とてもきれいなものだと思ったから、私は今度はそれが一番になった。単純だなとは思うけれど、私なんてそんなものだ。

 多分その頃から、私はきれいなものに心惹かれるようになった。

 私にセボンスターを買ってくれた人とよく似た行動を取った人物を、私はもうひとり知っている。

 兄だ。

 ちょうどあの、せっぺいさんがきれいだと言ってくれた写真を撮った時のことだ。

何かの祭り。そこで男の子が一人で泣いていた。お面が欲しくて母親にねだったのだけれど、許してもらえず、だだをこねて居座っている内に母親がどこかへ行ってしまったというのだ。

 ひどい母親だな、と私が思っている横で、お兄ちゃんはしゃがみこんで、言った。

『どれが欲しいの?』

 まさかね、と私は思った。こんな見ず知らずの子供に、ものを買ってあげるっていうんだろうか。確かにお兄ちゃんは優しい性格をしているけれど、それはちょっとどうなの、と私が戸惑っている間に、彼は男の子にヒーローもののお面を買ってあげてしまっていた。

 私はお兄ちゃんを責めようとした。そんなの自己満足のための偽善じゃないのって、言おうとした。子供に我慢をさせることだってしつけのひとつでしょ、って。

 でも、言えなかった。男の子はすごく嬉しそうな顔をして、お兄ちゃんに微笑みかける。するとお兄ちゃんは今まで見たことがないような優しい笑顔を浮かべて、彼の頭を撫でた。強い西日が彼らを照らしだしていた。その瞬間を、私はほぼ無意識に切り取っていたのだ。

 出店の連なりの入口で待っているとお母さんが走り寄ってきて、お礼を言われ、お金をなぜか頑なに断って彼らと別れた後、お兄ちゃんは私に言った。

「どんな気持ちだったのか、確かめてみようと思ったんだ」

 そう呟いた後、彼は微笑んで「行こう、ナカ」と言った。私は幼い頃呼ばれていたあだ名に顔を赤らめて、少しむくれながらお兄ちゃんを追いかけた。

 私たちが幼い頃、見知らぬ人が私におもちゃを買ってくれたのだということを知ったのはその時だ。

 それでも、お兄ちゃんの言うことが私にはよく分からなかった。

    *

 お兄ちゃんは大遅刻をした。先に喫茶店に入ってて、なんて慌てた声で言ってきた時には、情けなさにため息が出たくらいだ。

 九時に締まるその店に、私は八時四十分を回った頃に行った。さすがにお客さんの数はまばらだったが、私は隅っこのカウンター席に座る。

「いらっしゃい」

 声をかけられて顔を上げる。せっぺいさんの従兄弟だという、この間せっぺいさんについて教えてくれた人だった。名前は確か……、(あずま)さん。

「あの、せっぺいさんって、」

「ああ、アトリエにいるよ。どうせもうすぐ閉店だ。もう少し待ってくれる? せっかく会いに来てくれたんだ、俺たちも一緒に行くよ」

 俺たち、のところで、東さんはフロアの方を見た。そこでは、アキさんが机を拭いている。

「私たちはせっぺいなんて呼んでるけどね、ほんとの名前はゆきひらっていうのよ。粉雪の雪に、平らの平。相川雪平。まったく、変なあだ名をつけるよね、父さんも。いくらせっちゃんが一度死にかけて私たちに心配かけたって罰だって言ったってさあ」

 父さん、と言いながら、東さんの方を顎で示す。なんだかさらっとものすごいことを聞いたような気もするが、今はそっちに神経がいかない。

 お父さん……!? と、私は驚愕の眼差しで東さんを見た。東さんは顎にちょっと無精ひげが生えていて、顔立ちは精悍に整っていて、ワイルドな感じがある。でも、こんな大学生の娘さんがいるような年にはちょっと見えない……。

「ああ、まあこれには色々あるんだ。実の親子ではないんだよ。第一、おれはせっぺいと同い年だしな」

 同い年……! 再び驚く。

「え、せっ……雪平さんって、おいくつなんですか?」

「それ、俺の年齢も言っちゃうことになるんですけど」とちょっといたずらっぽい顔つきで言う東さんは、やっぱり娘さんと親子だな、と思う。

「今年で三十一になるね」

「えっ! 二十代半ばだと思ってました、雪平さん!」

「まー、あいつは若く見られるからなー」

 逆に東さんはもう少しいってそうに見える。とは、口が裂けても言えない。

「お、もう九時だな。お客ももういないし、片付けするぞ」

 気づけば、店内には私たちだけになっていた。笹野くん、と呼ばれていた男の人がモップをかけている。

「すいません、兄が遅くなってて」

「いやあ、いいよ。何度か変な客が来ててさ、こういうのには慣れてるんだ」

「変な客……」

「どうも雪平の生徒だったらしいんだけどさ。なんかワケありげのかわいい女子大生やら、耳つきフードと恐ろしいまでの無表情の男子二人組やら……。一体全体、どこから情報が洩れてるんだかな、瑛久ちゃん?」

 東さんは少し大げさにため息をついてみせると、じとっとした目でアキさんを睨んだ。

「瑛久さん、っていうんですか?」

「そうよ。ちょっと母さんが変わった人でね。おまけに苗字まで春藤(しゅんどう)なんてもんだから、性別間違えられまくりよ。迷惑極まりないわ」

「割に楽しんでるくせに」

 椅子を上げながら茶々を入れてきた笹野さんの脇腹を、アキさんがくすぐった。後はまあ、想像通り。二人は仲がいいな、付き合ってるのかな、なんて思っていると、東さんが私に問いかけてきた。

「七花ちゃんは、今何年生だっけか?」

「高二です」

「あー、じゃあその時はまだ中学生だな。雪平は、二年前までそこで働いてたんだよ。受験を控えた三年生の迷惑にならないようにって辞めたんだったかな」

「受験生の……」

 えっ、ちょっと待って。じゃあ、ひょっとして――。

私が口を開きかけた時、奥のドアが開いた。

 どきり、胸が鳴る。

 今日はなぜだか白衣を着ていた。ところどころに付着したカラフルな絵の具。私は強ばった心をどうにかほぐそうとしながら、彼に声をかけた。

「こんばんは」

「ん? ああ、こんばんは」

 彼はにこりと柔らかく笑うと、私の隣の席に腰掛けた。

「あの、あなたの絵を見ました」

「わ、恥ずかしいな」

「一枚、描きかけの絵がありますよね」

「うん。どうも俺が描いたものらしいんだけど、よく分からないんだ。変だよな」

 きゅうっと胸が傷む。事情を知っているらしいアキさんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「……とても、きれいです」

「ほんと? ありがとう。俺もきっと気に入って描いてたんだろうなって思うよ。すごくきれいなものを、描こうと思ったんだ」

 優しくきれいな横顔を、私はそっと見つめる。

 今この時だけは、シャッターを押す必要なんてない。これは、私だけが見られるものだ。私だけの、きれいなもの。

「白衣を着てるんですね」

「ん。汚れても構わないものだっていうから着てるんだ。誰のかは知らないんだけど、サイズも合うからさ」

 それはきっと、彼が教鞭を取っていた時のものなんだろう。

 お兄ちゃんたちに、化学を教えていた時の。

 ねえ相川せんせい、

 嶋千尋のこと、覚えていますか。

 ――私の自慢の兄なんです。

 お兄ちゃんが雪平さんに会いたがった理由が、ようやく分かった。私と彼が出会ったことに驚いていたわけも、照れくさそうに「絵を見たい」と言った時の気持ちも。

 怖くてたまらない。お兄ちゃんは知っているのだ。二年前のように雪平さんに話しかけても、「誰?」と目を瞬かれるかも知れないということ。自分が、深く傷つくのかも知れないということ。

 それでも、会おうと思ったのだとしたら。

 二人はとても仲がよかったんだろうってことは、私にも分かった。

 ――会って、文句を言いたいやつがいる。

 東さんの口から聞いた言葉が脳裏に翻った。

 からんからん、と鈴が鳴る。

「遅くなってしまってすいません」

 息を弾ませたお兄ちゃんの声が響く。

 雪平さんがゆっくりと振り返った。

 私の息が、止まる。

「こんばんは、せっぺいさん」

 お兄ちゃんは穏やかな声で言った。

 こんばんはって、ずるい言葉だ。おはようも一緒。どんな親しさの間柄でも、それは等しく作用する。

私とお兄ちゃんは、確かに兄妹だった。


 雪平さんは、アーモンド型の目を瞬いた。


 ふわり、

 雪が舞うみたいな、今まで見た中でもとびきりきれいな笑顔を、彼は浮かべた。

 お兄ちゃんも私も、東さんもアキさんも、笹野くんも、みんなが見とれるような表情だった。


「お前がその名前で呼ぶなんて生意気だぞ、嶋」

 

 お兄ちゃんが、笑った。声を上げて。

 心待ちにしていた雪が、その冬初めて降った時のような、そんな笑顔だった。


「相変わらずだね、――――先生」


文芸部で最後に書いた話になります。

一応ここに載せてるいくつかの話と登場人物が重複しています。時系列的にもこれが最新になっています。『グレイブオブメモリー』を読んで頂ければわかりやすいかと思われます(いやらしい読促)が、別にそんなの意識してなくても読める……ように作ったつもりです。

記憶を失うなんて悲しい病気にしたことに何だか罪悪感を禁じ得ない今日この頃です。

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