最後まであるし安心して
新沼謙治は鳩が好き
ロゼイレの話
時として人を襲う暴風雨。それを頑固一徹でもなく、全てを万全に乗り切れる生物がいる。
どこの世界においてそんな生物が存在しえるのか。それを突き詰めていくと、不思議な国へ迷い込んだアリス以外の全てが感じた異相感を我が身を以って尊ぶ事になる。自分が立っている場所が少しズレた地軸であり、現実はコンプレッサーやミュートではなくディレイとリバーブの混合現象だと理解できる。
さもありなん、この世に幾千億と兆が少しの時間が生まれ、無限連綿なる愛と友情と努力の物語。いずれそれらが一つになって自分としてここに立っているという事。人類がみな兄弟ではなく、一つの生き物としての集合体であると誤認の誤審。
危機一髪、そこから抜け出ていたとしても後の祭り。やがて訪れるであろう本祭を待たずして割腹した道から外れる事も余所見をする事も許されず、自分勝手に走り回ろうものなら賽の鬼がよいこらと重い腰を尻軽にして襲ってくる。周囲にはもはや助けもおらず、頼れるのは見下ろす足元から伸びる唯一だけ。
感じない程に鈍感であれば。こんな思いもせずに人生をそれなりで謳歌し、自分さえ見つけられない程に無欲ならば。人を押しのけてまでやりたい事をせずに済み、幸せと不幸に明確な区別をつけられない程に不断だったならば。どうして生きていくかも迷わなかったのに。
気付いてしまった不幸と幸せ。気付かなかった幸せと不幸。
そのどちらがいいかなんていうのは極論でしか話せないし、筆舌に尽くそうにもニュアンスで物語ってしまう分類になってしまう。
知った人間は知らない人間には戻れない。知らない人間は知った人間に這い上がれない。
感性にまで口を出す流儀は良好なまでに善良な一個人を冒涜する間も無く腐り落ちて、見て見ぬ様まで見様見真似で言語道断な腐敗堕落に臥す。
天邪鬼に見ざる言わざる着飾るのを聞かざる子音を詰め込んで、母体と分母を因数分解して虚数空間に放り込む意味の無い羅列。
腐りきった何かに裁きを。大岡なんかでは物足りない。どうせなら僧の中で行われるダモクレスの剣を葬儀屋の前で開催する。まさにオッカムの剃刀だ。
ともすれば発見すらされない意識の根底に潜む仮想と現実と思い込みと勘違い。それらを秘に中て瑞を薫り、草花と自分以外の全てに後悔と反省を。
さよならユニバース。間違ったまま、ボクは行く。
ヨンゼロの話
1
いつものように屋上でだべっていると、口に咥えたチュッパチャップスを飛行機の操縦バーに見立てて遊んでいた鴫野が突然、こんな事を言い出した。
「祝園くん、飯食いにいこーよ」
甘ったるいイチゴミルクの匂いを撒き散らしながら、小柄な身体を精一杯に大きく見せてそんな提案をした同級生に、ボクは満更でもなく了解の返事をした。
そういえばこうしてぐだぐだとしている内にもう夕方近く。生憎、あの日から有神田さんと私市くんは屋上に来なかったので余計なトラブルと齟齬を背負い込まずに済んだが、いつまでもこのままというわけにもいかないな。
それは置いておこう。今は鴫野とご飯を食べに行くという話だ。
「あー、鴫野。悪いがこの前のドーナツとか、そういうオシャレなところは嫌なんだ」
「ふーん」
どうでもよさそうに教科書の入っていない鞄を給水塔の上に放り投げながら鴫野が相槌を打つ。
「なんか恥ずかしくなるんだよ。だからそういうところ以外がいいんだけど」
危なげに歩く鴫野を見て、口に咥えたプラスチックの管が喉に刺さる妄想を浮かべる。心配になったのでよく切れる鋏で切ってあげた。これで飴玉と同じ。
「ちょっち。これじゃあチュッパチャップスの意味ねーじゃん」
「いいんだよ。こんにゃくすら危ない世の中なんだから」
ぶーたれてもしょうがない。そのまま放置するとストレスに繋がるからな。
珍しく、今日は御陵さんがいない。放課後まで残ってA組は補習だそうで、進学ゾーンに巻き込まれて愛しい先輩はカリカリと炭を消費しているわけだ。
「ま、これから行くのはオシャレなんぞミリ単位な定食屋だかんさ」
「そうか? なら安心だ」
親に夜御飯を遠慮するメールを打ち、鞄を持ち上げるのと鴫野が下から顔を覗き込んでくるのはほぼ同時だった。
「……なんだよ」
丸い目をさらにくりくりとさせて、棒の無くなった飴をころころさせている。
「……おい」
「いんにゃー。祝園くん、なんか気にしてる事、あんでしょ」
「無いよ」
「いーや、あるね。アルカポネ」
「無いって」
「アルカトラズレディオスター」
「お、乗ってんな。無いってば」
「無いなら無いでナイジェリア。映画の作製数世界二位」
そこまで深く聞く気も無かったのか、手ぶらで非常階段まで向かっていく後姿を見送って息を一つ。
実は、ある。
話は今日の昼休みに遡る。
相も変わらずサボり続ける鴫野を心配しつつ、四時限目の授業が終わろうとした時の事。
「祝園、祝園啓はちょっと職員室へ」
担任教師でもある社会科教師に呼び出され、空腹のまま連行される。着いたのは職員室。もう冬服だと汗ばむほどの陽気なのに、まだ全力でガスストーブを焚き続ける根性は賞賛に値するが、何せボクは空腹だ。早く学食なり購買なりに行きたい。
「何ですか」
話を早く終わらせたい一心で会話を切り出す。片付いていない机の上に授業資料を乱暴に叩きつけ、担任は言いにくそうに、
「祝園、お前……、最近だな、やたらと鴫野と仲が良いんだってな」
「そうでもないです」
「そうか? ならいいんだが」
この手の話はもうミニに蛸だ。いや、耳にタコである。クラスにいる人間だかロボットだか分からない生き物も、口を揃えてそれを口にする。痛い進言を繰り返されるボクの身にもなってほしい。
曰く、鴫野に騙されて何か悪い事をさせられてるんじゃないか。
曰く、近寄ると変な目で見られるからやめといた方がいいよ。
曰く、転校生の隙に付け入るなんてまったく卑怯な奴だよ。
他にも異口同意に様々な方向性をもってボクの心配をしてくれるありがたい能無しについて、そろそろ具体的な返しが必要な時期だ。
ボクは君達とも鴫野ともうまくやっていくつもりだ。けれど、そんな強硬な態度で反感を買うのも馬鹿らしい。今まで通り、そちらはそちらで。こちらはこちらで。ボクはどちらにもいる。それでいいはずなのに。
「付き合うな、とは言わん。だが程度を弁えてくれ。もしくは人を選べ」
どうしてだろう。
どうして鴫野の魅力に気付かないんだろう。
あれだけ感応に長けた人物もいないのに。
「そう、ですね。気をつけてみます」
「君はまだ転校生だから知らないだろうけど、鴫野は普通じゃない。怪我をしたくなければ深く関わるな」
礼をして外に出ると、ちょうど食堂に向かうクラスの男子数人と出会う。彼らもどうして呼び出されたかの理由を聞いた後、溜息と教師への同意を表すのだった。
それからまた数時間が去り、いつものように鴫野は教室に現れず、帰りの用意をして屋上へ向かう。その道すがら、考えていた。
鴫野唯一とは、確かに普通ではない。
あれほどまでに自分を、そして他人を見据えている人間に会った事が無い。迷惑や責任も何処吹く風で、それでもきっちりと自分の分別を弁えて行動する。
彼女が必要無いならそれでいい。煙たがるのも勝手だ。でもそれは本当に幸せなんだろうか。彼らは知らないだけなのだ。
鴫野にとって彼らはいないのと同じなんだから。
自分の人生に何の影響も残していかない、ゴミ箱の底の髪の毛よりも小さい小さい存在。
だから彼らの事を鴫野は口にした事も無い。ボクだってそうだ。殊更に彼らを話題にする事が無い。それは話題にすらならない程度の影響しか、与えてこないから。
だから感応したボクに対して鴫野は答えた。
言わば鴫野に選ばれたのだ。
そんな選民意識を持ちながら、少し自分の意気が興奮するのを自覚し、屋上に出た。だが、そんな下らない陶酔なんて微塵も残させない鴫野の「今日はリアル人生ゲームしようぜ」攻撃に屈す。
そして数時間が過ぎてボク達は校門を出た。部活動者の帰る時間でもなく、一般生徒が学校に残っている時間でもない中途半端な夕焼けの道には、ボクと鴫野しか学生がいなかった。
はっ、とした。
これはデートと言わないか。
「し、しぎし、しぎしぎししぎ」
「うーん? まぁ四、五分ってとこ」
あぁ。この世が思っただけで相手に伝わるのなら、本当に善良な人間だけが幸せになれるのに。
歯がゆい気持ちを抑えて、それでも誇りを捨てずに車道側を歩く。赤茶色と白色の煉瓦が市松模様に組み込まれた歩道の隣は、ガードレールも無くすぐに二車線の道路だ。広いわけではない歩道に横並びするのは気が進まないが、今は男の意地を優先させてもらおう。
「祝園くん、後ろ。チャリ」
「え、あ。す、すいません」
並んで歩くなよ、と小声で文句を言って通り過ぎる中年サラリーマンの背中が近い内に、鴫野は目的地で足を止めた。
見れば見るほどにボロい定食屋の前。道路と面しているはずなのに駐車場と脇道が無い故に売れてないらしい。手書きされたメニューを見ていると『カギフライ定食』や『うな重(七味付き)』なんていう期待を削いでくれる文字が並ぶ。
「ここ」
「あ、うん」
割れたガラスをガムテープで補修している扉を開ける。昔懐かしいガラガラ音と、濃厚な鰹出汁の香りがボクを歓迎した。
いらっしゃいもない店内では、おばちゃんが面白くもなさそうにテレビを眺めている。
「座敷、よろしく」
「あいよ」
いかにも酒に焼けた声で返事を返したパーマで割烹着のおばさんを横に、奥まで歩く。二畳ほどの座敷席が二つ並んでいて、片方にはステテコ姿のおじいさんが顔を赤くして寝ていた。
靴を脱いで足を下ろす。ボクの感覚が正常なら、この畳は腐っている。靴下を通して水気が入ってきそうだ。
「親子丼。大盛り二つ。味濃いめで」
「あいよ」
鴫野が目で確認してくるが、ボクがメニューを選ぶ前におばさんが返事をしてしまった。ここはしょうがない。勝手を知ってる鴫野に任せよう。卵アレルギーでもないし。
待ってる間、やけに光っている机に二重三重と布巾をかけて、セルフサービスの水を飲む。
「ここ、すんげーうまいの」
「これでまずかったら詐欺だと思う」
先に運ばれてきた御新香をぽりぽりつまみながら、鼓動の消えた心臓で冷静に頭を働かせる。どうして鴫野が突然、ボクを御飯に誘うのか。その理由を。
最初はただ単にお腹が空いて、たまたまそこにいたボクを誘ったのかと考えたが、違う。いつもの鴫野と違って、何処か、静かだ。
そういえば、二人っていうのが始業式の翌日以来か。
「鴫野、どうしたんだよ。急に御飯だなんて」
座布団の位置を直し、鴫野を見る。目線に揺れる髪の毛の奥から、彼女はボクを見返す。
「話があってさ、あんまり人がいないとこで」
浮かれ気分だ。自覚して更に顔を赤くしていく。愛の告白とか、結婚の申し出とかそんなチャチなもんじゃ断じて無い。もっと崇高なものの片鱗を味わった。
今か今かと一声目を待つが、言いにくそうにとんとん指で机を叩く鴫野に、助け船ではないが、こちらから話かけてみる。
「今日は静かだ。鴫野じゃないみたい」
カウンター席の方から包丁で材料を切る音が聞こえる。何を話しているかまでは聞き取れないテレビと、煮立ったつゆが立てる匂い。
御新香が残り少なくなって、ようやく鴫野は口を開いた。
「その、さ。祝園くんは、なんていうか。好きな人、いるんかい?」
来た。
これぞ正に。
「いや、いない。いない、かな。うん、いないと思う」
「ならさ、いいんだけど」
おいおいおいおい。これはひょっとして本当にそうなるんじゃないか。
「いや、ごめん。ついでの用事に逃げちゃった。今のは忘れてちょ。本題に入るよ」
……?
「だみつきの話なんだけど」
「だみ……有神田さん?」
「そ。ちょっとだみつきから色々と話を聞いてると、やっぱり祝園くんと何かあったんでがしょ? きっしーが何も話さないのはいつもの事なんだけど、だみつきがあんなにやりにくそうなのは初めて見るかんさ」
大して本気で待っていたわけではないが、急に聞かれたくない問題を掘り起こされて言葉に詰まる。何かが出ようとするが、どれもが正しくない思い込みを抱えていて、他の適当を探る。
有神田さんとボクとの間に何があったか。それはこの前の事に違いないし、あれからどう有神田さんと鴫野が絡んだかは分からないが、それでも何かを相談したようだ。鴫野の友達関係者は、その全てがあんまり人と馴染めないタイプである。その全ての中心にいる鴫野に相談が持ちかけられるのは当然の結果だ。
ボクはといえば。
柄にも無く。
「祝園くんとだみつき、といえばこの前のよりちゃんとの喧嘩、かな。その後の事?」
「あ、……あぁ。そうだと、思う」
人間がまた恐くなった、あの邂逅。人と関係するっていう事がどれだけの邪悪で、それを乗り越えていける人間と罪悪感に浸らずにすむ人間を脅威に感じた、あの出来事。
思い出す今もまだ迷っている。自分の正しいと思っていた正義が、自分が楽しいと思っていた楽観が、根底から覆されてそのまま放置されている。
「だみつきはね、すんごい強いの」
「うん、知ってる」
「きっしーがいるからってのもあるけど、だみつはね、自分だけじゃ何も出来ないって事を確信してる。だから他人に依存する。そしてそれがダメだってのも知ってんの」
その様子じゃ、やっぱり私市くんが有神田さんに対して行っていた仕打ちも認識しているんだろう。それもボクなんか比ではないくらい正確に、内面や本質までを鑑みて。
「一人で生きてても意味無いって知ってんだわ。だから死ぬのが恐くない。死んだらね、祝園くん。全部おしまいなの」
おしまい。
「それはね、これからあるかもしれない楽しさとかそういうのを犠牲にして、直面してる今の悲しさとかを持っていってくれんの。だみつきは一人で生きてても意味なんてないって思ってるから、人の為に死ねるんだよ」
ボクだって自殺を考えた事はいくらでもある。
事故前の自分は生きているとは到底、言えなかった。そして鴫野に出会うまで生きているつもりでいた。
「有神田さんは、強かったよ。ボクをもう一回、殺すくらいには強かったんだ」
生きているっていうのは死んでないって事じゃない。そこに意味を求めるから区別しなくちゃならなくなる。『ひとり』で生きていこうと決めた決意に揺らぎが生じて、生きようとする事の方が楽しく思えてくる。
だからボクは鴫野といるのかもしれない。
「だから恐いんだ。鴫野、お前や御陵さんや、有神田さんや私市くんといるのがボクは恐い。生きている人を見ているのが、辛い」
生きる。そこに意味を求めてしまった人間が幸せかどうかなんてボクは分からない。けれど、自分がいて相手がいて、どうしても憐憫や同情が溢れてくるのが止められない。
「聡過ぎるんだ。どうしてそこまで気付いちゃったんだよ」
御陵さんは感応してもらえなかったから生きようとした。有神田さんは感応できないから死ねる。そんな有神田さんに感応したから傍にいる私市くん。
鴫野は?
鴫野はどうして。
「わたしは分かんないさ。ただ人より楽しくなる才能があったんじゃないかな。楽しく楽しくしてたらいつの間にかどうでもいー人はいなくなってて、よりちゃんとかだみつきとかきっしーみたいな人がいっぱいいた」
あとわおん先生もね、と鴫野は付け足した。
「とにかく、祝園くんとだみつきに何かあったんさね。それでいいよ。祝園くんがこれからどうすんのか、だみつきがどうすんのかは見ながら考える。わたしが口出すこっちゃないかんね」
話はこれでお終いとばかりに手を打ちつけ、満面の笑みで一本締めした鴫野。タイミング良く親子丼が運ばれてきた。やけに大きいお盆を持って登場したおばさんは、相変わらず何も言わずに届けたらすぐにテレビの所まで戻っていく。
丼の蓋を外すと色んな要素が自己主張を始めた。
半熟の卵の輝き。添えられた三つ葉の香り。立った米の煌びやかさ。大きい鶏肉に味の染み込んでそうなタマネギ。汁物が味噌汁じゃなくて粕汁なところにこだわりを感じる。
ボクと鴫野はもう何も話さずに御飯を食べだした。
鴫野には悪いが、味は普通だった。
2
鴫野は食べるのがやっぱり速かった。
お箸で運ぶ量はボクより少ないし、スピードも速くはないんだけど、どうしてだかボクが三分の二ほど食べた時には既に完食してチュッパチャップスを舐めていた。
しかし見た目よりも重いな、この親子丼は。かなり胃に強烈なブローをかましてくる。やっつけるのはもうしばらく時間がかかりそうだ。
「あ、忘れてた」
鴫野が言い出す。
「何が」
「ごめん、わおん先生と用事あるんだった。先に帰るべや」
慌てながら来た時と同じく手ぶらのまま店を出ていく。何も考えずに見ていて、ようやくボクが置いてけぼりにされたんだと分かった時には、もう残すところ一口になった親子丼をかきこむ頃だった。
しかし、どうしようか。先に帰られた事については別段、問題じゃないんだが、こんな所に一人というのはあまり居心地のいいもんじゃない。
とっとと帰ろうと靴を履いて伝票を持っていく。
「千百二十円」
「え(゛)」
あの女郎。
まさか奢らせようと思って連れてきたんじゃないだろうな。
渋々ながら支払いを済ませ、扉を開けて歩道に出る。すっかり夕陽になった街並みを見回して、鴫野の利子について考えを巡らせる。
缶コーヒーでも買おうかな。エメラルドマウンテン。
暖かいか冷たいかで少し迷って、しばらく飲んでいなかったゲータレードをチョイスした。広い飲み口のキャップを回し外して、後ろに人が並んでいるのを察する。
そしてその人物が自分の見知った人だという事も。
「御陵さんじゃないですか」
あちらはボクだと分かっていたようで、驚く事も無く手を振ってみせた。右手の小指が真っ黒なので、かなりこってりと勉強していたのだろう。目下にクマがあるのも頷ける。
「祝園くん、これから時間ある?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
「じゃあ御飯食べに行かない?」
む。これは困った。
でも御陵さんのこの楽しそうな顔を曇らせるのはとてもじゃないが出来そうにない。ましてやさっき鴫野と食ってました、なんて言ったらいらぬ嫉妬すら買いかねない。
「いい、ですよ。どこにしますか?」
「じゃあね! じゃあ、おすすめのお店、行こ?」
嫌な予感が走る。しばらく歩いて、「近くだから!」と急かす可愛い先輩を茶化す真似もせずに、ボクは再びあの定食屋の前まで来ていた。
案の定、おばさんは無愛想なままこちらも見ずに画面に首ったけで、御陵さんの「奥の座敷で!」の声にも「あいよ」以外の反応はせずに湯飲みを傾けていた。ステテコのおじいさんはまだ寝ていたので、腐った畳の上に座る。
「おばさん! 親子丼の大盛り、味濃いめで!」
「あいよ」
分かりきっていたデジャビュ。卵アレルギーではないボクに拒否権などは無く、あるがままを受け入れる。さっきからどうにか腹を減らそうと腹筋に力を入れたりしていたんだが、雀の涙程も変わらない。
「ここね、美味しいんだよ? 祝園くん、親子丼でいい?」
「……はい」
決まりきっていた手順のように運ばれてきた御新香をつまんで、御陵さんが取ってきてくれた水を飲む。
眠気なのか失神なのか判別できないが、既に身体が意識を手放し始めている。またあの量を胃袋に詰め込まなくてはいけないのか。
注文を終えた御陵さんは、堰を切るよりも凄まじく怒涛の勢いで話しはじめた。
自分の事、ボクの事。鴫野の事。学校での勉強の事や、中学校時代の事。色んな話をしながら身振り手振りで大仰に騙りかけてくる。
話を聞きながら、ボクは一つの疑問を抱かずにはいられなかった。
どうして御陵さんはこんなにボクに感応してこようとするんだろうか。
もちろん、嫌ではない。さすがは鴫野の関係者と言うべきか、心の間合いの取り方が上手い。こちらが退屈しないように話題を振ってくれるし、合いの手のタイミングが非常に気持ちいい。かと思えば唐突に流れをぶった切って驚かせてくれる。とどのつまり、やっぱり御陵さんは面白い人なのだ。
その天真爛漫さに陰りは見えず。この前の激昂した素振りも成りを潜めている。
良くも悪くも子供なんだろう。
「でね、ゆいちゃんは私の膝の裏が特に好きなんだって。私ね、だったら私の膝の裏でポエム詠んでって言ったらね、すごいの。いきなり『我輩はレオである。ムファサは関係無い』って言い出して あ、来た」
腰を折られても気にせず、箸を割る。嗅ぎ慣れた匂いが運ばれてきたのでまた満腹感がせり上がってきたが、なんとか五臓六腑に力を入れて耐える。
さしものボクでも大盛り味濃いめの親子丼二つはきつい。残しても嫌な気分はされないだろうか、などと懸念していると、御陵さんは口元を手で隠して食べ始めた。
「やっぱり美味しい。ね、ね」
生返事を放り出してやっつけにかかる。まずはお前だ鶏肉め、てかてかと光りやがって。食欲刺激するんじゃないよ。
なかなか箸が進まず、ボクは救世主とばかりに御陵さんに目を向けた。
「どうしたの? 口に合わなかった?」
「いえ、美味しいですよ。御陵さんが黙っちゃったから」
「御飯食べながら喋れないよ。米粒いっぱい飛んでっちゃうもの。お行儀、悪いでしょ」
おぉ、まさかこの赤子先輩にこんな常識的な意識があろうとは。
「御陵さん、良い人ですね」
何気なく褒めたつもりだったが、やたらと喜んでくれた。ばしばしと肩を叩かれて非常に痛い。こんなに喜んでもらえるならもっと普段から褒めておけばよかった。
その時だった。
テーブルからはみ出ていたお盆に手をついてしまった御陵さんが、お盆ごと食器を引っくり返してしまったのだ。豪気に飛び散る親子丼と、響き渡る乾いた音の中で、ボクは真っ先に店のおばさんを見てしまった。
落としたのはそっちだからね、お金は払ってもらうよ、とでも言い出しそうな、いかにもごうつくな表情だった。御陵さんの過失が全てなのだが、料理は九割方残っていた。代金を払わずに、許してもらえるよう事を運べないだろうか。そうすれば御陵さんに頼れる人間だと評価を上げてもらえないだろうか。打算的な考えが閃く。
しかし御陵さんはそんなボクを露知らず、落としてしまった丼からじっと視線を背けない。
「あーあ……、御陵さん。何やってるんですか」
いかにも普通そうに、こんな事は大した事じゃないんだよ、とでもいう風に、ボクが布巾で制服に飛んでしまった御飯粒を取ってあげようとした。
でも御陵さんはその手を掻い潜って、裸足のまま床に下り、
「ごめんなさいっ!」
土下座した。
「作ってもらった御飯をこのようにしてしまったお詫びが出来そうにありません!」
謝っている相手は店のおばさんだった。カウンターの中にいるおばさんに、見えもしないなんて考えもせず、御陵さんの謝罪は続く。
ボクが見た土下座ではない。ボクを知る前の御陵さんの、消失の土下座ではない。誠心誠意の出来うる最上の礼儀だったから。
おばさんは店の奥に消えていき、すぐにビニールの袋を持ってこちらに来た。まだ熱いだろうに、素手で落ちた料理を拾って袋に入れていく。すぐに御陵さんも「ごめんなさい」を繰り返しながら手伝う。
最後に布巾で拭きなおし、地面にはもはや痕跡は無くなってしまった。
「本当にごめんなさい!」
頭を下げる。それしか出来ないから。
「いいよ。新しいの、作ってやるから。代金は今のバイト料から天引きしとくよ」
仏頂面しか表情を持っていないはずのおばさんが見せた笑顔に、ボクは笑い返せさえしなかった。
同時に自分がいかに浅ましく、滑稽で、汚いかを自覚してしまった。綺麗で陽のあたるような世界に、たった一つだけある漆黒を 感応してしまった。
「あの、御陵さん。良かったらボクの分を、食べてください。実は、さっき、食べてきちゃってて」
善良が救われるわけではないなんてのは知っている。それも知っているだけだった。自分の前に本当の善良があって、自分がどれだけ至らないかを悟ってしまった時に、ボクは解脱よりも自滅を選んでしまった。
涙も出ない。悲しいわけでも寂しいわけでもないから。でもこの胸にある感情は涙でしか表せそうにない。
どうしてだろう。どこで外れてしまったんだろう。
いじめにあった時か? 嘘で世界が作られてるのを感じた時か? トラックで轢き潰された時か? 病院で目覚めた時か? 全てを欺くなんて浸っていた時か? それとも、生まれてしまった時からか?
有神田さんは人の為に死ねるから強い。鴫野がそう言った。
御陵さんは人に感応させてしまう。自分を、自分の負を。
「御陵さんは恐いんだ」
善良同士ならそれは強く繋がる黄金の絆になる。けれど、ボクみたいな泥の塊にとって、それはどんな拷問よりも残酷な処刑だ。
だから憧れてしまう。突き抜けた『綺麗』に圧倒されて、感動してしまう。
心の機微に名前をつけるなんて寒い茶番はしたくない。素晴らしい景色の前で、有無も言わせず自分の小ささを認識させられる絶対的な強制力。
自由なはずの、自分の意識下で起こる爆発を 無視できない。
何回もお礼をしながらボクの親子丼を平らげた御陵さんは、最後にもう一度だけおばさんに頭を下げて店を出た。暗くなりはじめている空を見上げて二人並んで駅まで歩く。
「ごめんね、今度は食べた! って言ってくれていいからね」
「いや、こちらこそすいません。気を遣ったのが裏目に出るなんて」
思ってもいない建前を並べるな。最初から打算で動いていたのに。それが露見した途端、純情を気取るな。
放射される好意をどす黒く煮詰まったフィルターを通して受け取る。自分への戒めだ。そうでもしないと、まともに御陵さんの顔が見れない。
自分が恥ずかしい。
「あ、祝園くん。今、何時? 携帯の電源無くなっちゃった」
「今ですか? 今は……あ、携帯、無い」
ポケットにも上着の内ポケットにも無い。念の為に鞄も探したが、見付からない。
記憶を辿っていくと、机の中に入れてそのままにしていたのを思い出した。
「先、帰っててください。ボクは一回、学校に戻ります」
「じゃあ私もついていくよ」
「いいですよ。もう空も暗いですし、早く家に帰ってください」
本当はもう一緒にいるのが嫌なんだろう? 自分の惨めさが浮き彫りになるから。早く一人になって、自分だけの世界に戻りたいんだろう?
内からの声に打ちひしがれながら、どうにか御陵さんを説得して先に帰らせる。本音を隠して一人になろうとして、それで何とかなるだなんて希望に似た絶望にはまっていく。
一人になって。
ボクは救われたか?
善良がいなくなって歯止めがきかなくなったボクの素材が持つ憎悪が、溢れ出て止められない。不可識の原理で起こった出来事全てが責め立ててくる。償いをさせるわけでもなく、陥れようとするわけでもなく、ただそこにあって、ボクを問い詰める。
糾弾する声に耳を傾けずとも、それは染み渡る毛細現象にも似た席巻を始める。外からの声なら耳を塞げる。見たくないなら目を背けられる。
けれど自分の中に初めからあるそれに対して、対抗する手段なんて無い。
御陵が嫌いになっただろ。あんな人間がいるはずがない。どうせ今頃、路地裏で毒づいてるよ。お前がいなくなって清々してるさ。陰で何を言われてるか分かったもんじゃない。自分が愛されてるだなんて勘違いしてるんじゃないか? 一人だよ、一人。人間は一人なんだ。信じたい人がいたからって信じるに足るかどうかを判別する方法が無いよな。よしんば信じられたところで、信じてもらえるはずなんかないんだから。あんまり楽観的に考えんなって。自分を見ろよ。お前を客観視しろよ。上辺だけでへらへら媚びへつらう奴を馬鹿にしてるのか? お前もその中の誰かだよ。たくさんの中の、どこにいるかも分からない誰か。それがお前。なんにもできないし、なんにも生み出せない。出来るって勘違いして迷惑かけるだけだよ。ほら、自分は自分にこれだけ優しい。なのにどうして嫌うのか分かんない。美しいだろ? 綺麗だろ? 自分だけは自分の事を全部、知ってる。信じるか信じないかの判断はすぐ出来るよ。甘えんなよ。縋るなよ。感応するなよ。損するのはお前だし、適当に誤魔化して生きていけばそれなりに幸せになれるって。ノーリスクローリターンって奴だよ。大人になれよ。鴫野だって有神田だって私市だって墨染だってお前を単なる珍しいおもちゃくらいにしか思ってないから。期待すんな。異端は異端らしく、隅っこの日陰でこそこそ自己満足と相互理解に苦しむのがお似合いなんだ。出てくるな、そこから。自滅するのが関の山だって。自分の価値を決めるのは自分だけど、人から見たお前に価値なんか無いよ。むしろ何かされると面倒臭いだけ、マイナスだ。引きこもるのも止した方がいい。そのまま死んでいくのもお薦めしない。養ってもらってるわけだろ? 迷惑、かけてんじゃん。罪悪感を無視しても耐えても、事実だけは変わんないんだから。そうそうそうそう。生きるってそういう事。何もできないの。死ぬ事も出来ないし。止まる事だって許しちゃくれない。生まれてこなきゃよかったね。それが一番なのにね。
お前、生きるのに向いてないよ。
くらくらする。決して満腹感だけじゃない。身体の肉が溶け出して地面に吸い込まれていって、養分にもならずに腐り果てていく錯覚。ここが現実なのか夢なのかを判別する方法が見付からない。
朦朧としながらでも、それでもボクの足は学校に向かう。道の途中に何があったかすら憶えていない。何かを見た記憶はあるが、何を見たのかを憶えていない。そのくせ、落ちていた空き缶の銘柄は鮮明に焼き付いている。
当然、校門は閉まっていた。最終下校時刻をとうに過ぎてるんだから当たり前だ。インターフォンを押して宿直室に駐留している教師に連絡をとる。
「はい、こちら九隅第九高校宿直室です」
「あの、2年B組の祝園です。大事な物を教室に忘れてしまって」
用件を伝えると、電話向こうの女性の口調が急に崩れた。
「あー? 祝園って、あの祝園くんかい?」
「え、あ、はい。たぶん、その祝園ですけど……」
「墨染だよ、墨染。ちょっと待ってな」
墨染先生らしいなげやりな置き言葉だ。話が早く進みそうで少し、気が楽になる。これで厳しい先生なら入れてくれない事態だって想定できた。鴫野が用事あるって言っていたが、学校とは限らないし。
待っていると、あの屋上での初対面とまったく同じ服装で墨染先生が現れた。変わっているのは青縁のバイクゴーグルに似た眼鏡をかけている所くらいだ。
「まったくよ。鴫野といい、お前といい……。学校はお前ん家じゃねーの。友達ん家でもねーの」
ぶつぶつ愚痴を漏らしながらも、大きい門の端に作られている個人用の扉を開いてくれる。
「はい、それは重々承知してます。すいません」
「お、なんか鴫野のあれにしては随分と素直だな」
褒められたのか馬鹿にされたのか分からない。
返事をしないでいると、鍵がたくさんぶら下がったキーホルダーを掲げながら目で中に入れと合図がきた。身を小さくしながら本日二度目の登校。
先を歩く後姿を見ながら、ボクも進みだした。道すがら何を話すべきなのかを考えていると、先に墨染先生が禁煙パイポをポケットに入れて振り向く。
「祝園くん、短い間に何だか顔つきが変わったな」
「そうですか? あんまり自覚はないですけど」
「あぁ。なんかつまらない顔になったな、なんつうのか」
ボクはどれほど酷い顔をしているんだろう。元々がそこまで上等な造りではないのだから、墨染先生が勝手に美化していたのかもしれない。人の顔なんてすぐに忘れそうな人だし。
「つまらない、なんて。前からそうですよ」
そう、一言でボクを表すならつまらないで片付いてしまうんだろう。自分にすら勝てない没個性な人間が、あの自己顕現を一人に詰め込まれるだけ詰め込まれたオリジナリティ溢れる集団にいるのがそもそもおかしいのだ。
鴫野との馴れ初めも、どこか押し付けがあったかもしれない。ボクが打算を押し付けたのか、それとも鴫野が好奇心を押し付けたのかは判別できないが。
「祝園くんさ、戦時だけレディファーストになるタイプだね」
「レ……? レディー、なんですか?」
「だから、戦時中だけレディファーストになるタイプっぽいね」
意味を解釈するが、掴めない。さっき言われた通り、素直に聞いてみる。
「それはいったいどういう意味なんですか?」
だぁかぁらぁ、と墨染先生は頭をかいた。癖なんだろうか。
「車に爆弾とか、地雷とか食べ物に毒とか。そういう危険があるかもしれん状況だけ、相手に先行かせて安全を確保する、っていうか。そういう感じ」
やだやだ、お粗末だね。
怒る事さえ許されない断定的な毀損。君って福耳なんだね、くらいの軽さで横行した悪口。そう感じたから指摘してみた程度の暴言。
「いいんじゃない? そういう人がいても」
「でも、別にボクは 」
「違うと言いたい。そうかもね。あんまり良い人間じゃないからな。でもそう見えるし、現にほら。戦時中じゃないけど、後ろを歩いてる」
それは関係あるのか? 目上の人だから一歩引くっていう、それだけで屑扱いされるのか?
ボクは前に歩き出た。何かがおかしい。けれどまた心の中がざわついて、ようやく寝かしつけた怪獣が起きてしまいそうだったので、他の些事にかまけていられないだけ。
そう、ボクは冷静なんだ。冗談の一つも笑えない礼儀知らずに呆れられるなんて、自分の志向じゃない。
「ときに祝園。お前はあん中の誰かが好きなのか?」
訊く口調ではない。からかって楽しんでやろうって発言だ。
「いないですよ、そんなの」
「嘘吐け。高校生だろ? 思春期なんだろ? だったら一人くらいはいんだろ」
「高校生が全員、恋してなきゃならないなんて悪夢ですよ。それに」
それに、お前を愛してくれる人なんて、この世に存在しないんだから。
「 それに、先生こそどうなんてすか。もういい年そうだし」
「失礼な。まだ四捨五入で二十だ」
軽口の応酬をしている内に教室へとやってきた。未だに南京錠で施錠されたロックを開け、月明かりだけが照らす、昼間とは違う教室に入る。
電気をつけずとも場所くらいは分かるので、机の中をごそごそ手で探る。いらないプリントや、持って帰る必要の無い資料集の間に、目的の物はあった。
「ありました。面倒かけてすいません」
何気無く、メールでも着ているかしらとサブ画面のクイックスタートボタンを押す。
メール:2件。
「おい、早く出ろよ」
「は、はい」
誰からだろう。メールも電話もボクにとっては珍しいものなので、不思議と気分の高揚を抑えきれない。連絡が来るっていうのは、ボクが必要とされているから。
「……?」
何かが聞こえた気がした。
「どうした」
「いや、なんか 聞こえません?」
廊下の非常灯の光量では見通せない、奥の闇を通じて聞こえてくる。反響していて場所までは掴めないが、はっきりと耳に入ってくる。 歌、いや唄か?
「ちょっと見てきます」
「あ、おい」
制止を無かったものとして、音の源を探す。教室に面する廊下の半ばにある階段まできて、上階からの音だというのが分かった。後ろから追いかけてくる先生に捕まらないよう、コンクリートむき出しの石段を上がる。
四階まで来ても音は遠い。さらに上か、と見回す。しかし、四階は最上階だ。これより上には。
「屋、上か?」
「待て、祝園!」
さすがに馬耳東風も決め込めないか。
肩で息をする墨染先生が、途中の踊り場で手摺にもたれかかっている。普段から運動せずにこもりっきりだからですよ、と心の中だけで自嘲気味なおせっかいをしておいた。待つのもやぶさかではないが、どうせなら夜の学校に響く怪奇! 唄の正体の方が興味をそそられる。
かといって無視して置いていくのも気が引ける。しばらく待って、四階までの階段を上がり終えた先生に、
「大丈夫ですか? すいません、走ったりして」
「せ、せっかく、開けてやった、ってのに。恩、知らずめ」
また評価が下がってしまったようだ。悲しみブルー。
「でも気になっちゃって。たぶん、屋上だと思うんですけど……誰かな」
唄は女性のはずだ。屋上に出入りする中で、考えられるのはあの三人。イレギュラーで本物の幽霊かドジな学校生徒ってとこだろう。
呼吸が整うまで立ち止まっていたが、先生も先を促す。この時間帯だ。学校に生徒がいるのは監督上、良くない。使命感か責任感か、宿直というのも辛そうだ。これからはボクも鴫野の学校宿泊について制止の立場をとろうかな。
屋上へ行くには非常階段しか手段が無い。一年のクラスを横切って、当然ながら閉まっている非常扉をマスターキーで開錠する。
「やっぱり。屋上だ」
扉を開けた。注意しなければ聞き取れない程だった微かなメロディーは、大きく力強く柔軟にはっきりと風に乗ってやってきた。いつもより心持ち早く、屋上への入り口を駆け上がる。
大きい青空ワンルームな構造ゆえ、上がり切った正面から一帯が見渡せる。
目的の人物は屋上の中心、ご丁寧にもタイルの数からしてもど真ん中に立っていた。
「し、ぎの?」
こんなに優しく、ふわりとした唄を生み出せるなんて。歌詞が無いのに語りかけてくる饒舌で重厚な感情。影響を与えるのではなく、叩きつけるように人の中に入り込み、それでいて守るような、いや、違う。奮い立たせるような激情を内包している。
鴫野らしくない、か細く美しい鼻歌の旋律だった。
「ん、祝園くんじゃん。わおん先生も」
目を開け、そっと確認する。そこでやっとボクはここが現実だと再認識した。今まで、宙にふわふわ漂っていた気分だった。非現実の権化、方向感覚を狂わせる、拙い歌声。
「何してんの、そんな慌てて」
「何、って。なんか、唄が聞こえるから」
そうじゃない。
魅了されたんだ。あまりの狂気が一巡して、艶やかな光に変わる。闇に紛れて咲いている花より美しい。両手で棘を隠した枯れた香りの甘い罠。見抜いていたのに止められない。何回、傷ついて眩暈を起こしたって、連なっていたいと感じさせる。
不安定なのかすら覚らせない。ここが何処だかを忘れさせる、人を暴走させる麻薬。
でも褒め称える台詞は決して口に出したりしない。
「唄? 唄って何さ。まぁ、いいけど」
「いいわけねーだろ。お前、またこっそり忍び込んだな。何処から毎回毎回よ」
拳骨を落とされてはうはうしている鴫野は、いつもの鴫野だ。さっきまでの仮想ホログラム顔負けな存在感の奇妙さはない。
言い方は悪いが、あれは、 死人だった。
「さっきの唄ってなんていうんだ?」
確かめたくて、問う。
「さっき? 鼻歌? あれね、デイジーフィッツジェラルド」
「洋楽?」
「知んない。そうそう、メール」
指差されて、自分のポケットから携帯電話を取り出す。確かにメールが二通、ボクに届いていたようだが。
開いて、受信フォルダを選択する。てっきり母や妹かと思っていたが、名前欄には登録されてないアドレスが表示されていた。なんだ、これ。x/y? 数式か? 暗号か?
「それ、わたしの」
メールを開封する。たった二行の、絵文字も何も無い簡素な文章が並んでいる。
「これ……!」
「ここにいるって事は、選んだんでしょ。どっち選んだかは知りたいけど、邪推すんのもあれだかんね。で、どっち選んだんさ。よりちゃん、可愛いかんさ」
一通目は鴫野と定食屋で分かれてすぐの時刻。
『よりちゃんがきみに言いたい事があるんだって。そのまま待つ事!』
二通目は、ちょうどその十分後。
『学校にいるから、結果を報告しにきてくれると嬉しーぞ』
残酷にも、時は問題を解決してなんてくれなかった。むしろ加速させ、事態をより重くしただけ。焦燥と戸惑いが、壊れたガイガーのように身体を支配する。
「どしたん」
「ボク、学校に、その、携帯 、忘れて」
震える声で答えた。
途端、走り出した鴫野がボクの横を通り抜け、階段を降りていった。あまりのスピードに墨染先生もそのまま見送り、屋上には二人が残された。
心臓が飛び出るなんて嘘だ。本当は心臓が止まるんだ。けれど無音でさっきまでの肌寒さを吹き飛ばし、自分がどうすればいいかを導き出す暇も与えない。
御陵さんと別れてまだそんなに時間は経ってない。今なら間に合うかもしれない。
「墨染先生、ありがとうございました! 帰ります!」
自分の持てる全力を使って、初めて御陵さんと会った時よりも速く、階段を降りる。今度は保健室なんかにはいない。この広い世界の、広い地域のどこかにいるんだ。
御陵さんはボクに会いに来てくれたんだ。
恐らく鴫野の墨染先生との用事は嘘。あれは御陵さんにボクの場所を伝えるのと同時に、邪魔者はさっさと去ろうとしたからだ。偶然にも出会えたのは奇跡としか言い様がないけど、御陵さんの事だから、定食屋にいないボクと会ってしまって混乱したんだ。出鼻をくじかれた。修正を試みたけどそれが裏目に出た。
それで言い出せなくなってしまった。
やっとだったんだろう。
御陵さんは感応されなかった。何時までも今までだって。だからいつも受動だった。相手を見て、相手からの行動を待っているだけだった。
けれど違う。
御陵さんは自分から感応しようとしたんだ。
やっと、自分から何かをしようとしたんだ。
自意識過剰に拍車をかけるだけかけて、鴫野に電話する。しかし相手は出ない。
学校を飛び出て、左右を見回す。一瞬、迷ったが、定食屋がある左の道を選択する。とりあえず、定食屋を拠点に据えて、そこから範囲を広げるしかない。
御陵さんが行きそうなところに見当がつかない。バス停か、それともどこかで休んでいるか。それとも鴫野と合流してこちらに向かっているか。
走り出した足を、とてつもない思考の閉塞が止めてしまった。
自分を卑下して番号を登録していないのが仇となった。今、パイプは鴫野としか繋がっていない。その一本が途切れたなら、もう打つ手なんか
いや、ちょっと待て。
ボクはポケットを調べて、紙を取り出した。くしゃくしゃになってしまっているが、字は読める。
そこに書かれた電話番号を焦点の定まらない水晶体で映し、プッシュする。
『 はい、もしもし』
数コールで相手が出た。
「有神田さん!」
『……? 祝園か?』
頼みの綱はもうこれしかない。
「すいません、大至急で御陵さんの電話番号を教えてください!」
『わ、分かった。ちょっと待て、すぐにかけなおす』
一端、通話が切れる。そのままの姿勢で待っていると、すぐに有神田さんからのコールが入った。画面も見ずに決定を押し込む。
『待たせた。言うぞ 』
言われた数字を暗記し、礼もおざなりに通話を終了する。急いで憶えた数字を打ち、耳に当てて願いを込める。どうにか出てくれ。いつもの幼い声で、ボクに答えてほしい。
通話ボタンを押す。
まさにその瞬間だった。
「 !?」
携帯電話ごと頭を挟み込まれ、驚きに息を呑むのも忘れた。
そっと添えられた手に、後ろを向けない。
分かるのは、背後から聞こえるヴァイブレーションの音と、息遣い。火照った耳に冷たい、細いたおやかな指先。弛緩する間も無く訪れた、緊張と脅迫の波。
「だーれだ」
回せない顔を、前に倒す。
「 本当に、ごめんなさい」
束縛から放たれても頭は上げない。誰もいない前方に、下げたまま。
許されないかもしれない。鴫野が走り去った。それは鴫野がボクを感応しなくなったっていう事だから。そもそも無いものとして扱った、結果だ。それだけ酸鼻を極める意味が、そこにある。
けれど出来るのはこれしかない。
自分が劣っているんじゃない。自分が不向きなんじゃない。そういうスタンスにいるのが心地よくて、達観したフリをして漂って。誰からも後ろ指指されない事こそ、誰からも嫌われる事だなんて韜晦して。
結局、やってるのは昔と変わらないじゃないか。
「謝るなんて、やめてよ」
風前の灯が、最後に大きく瞬く。
「悪くないよ。祝園くんは悪くない」
窘める口調はいつかの時と同じ、幼げで、底抜けに明るい。感応した一人を、二人にする究極の平和で、攻撃で、防御で、保険で。
「祝園くんは、どうしてそんなに……」
「言いたくはないんです。ボクは自分がどれだけ汚いかを知ってる」
状況に対応できないわけじゃない。自分を見失ったわけでもない。
「御陵さんの、話って」
「ぅ……。うぅ」
冷静さを装うのすら難しくなる。人間はいざという時の想定をして備える事なんてできやしないんだから。
ボクはまだ上がったままだった御陵さんの手を握り締めて、今度こそ振り向いた。
「ボクは知ってる。自分がどういう人間なのか、それを知っています」
「私だって知ってるよ。祝園くんの事、知ってる。どんな人間なのか」
知っているだけじゃない。
それは感応のゴーサインだから。
「祝園くん」
呼びかけただけ。
夜の帳が世界をあまねく眩ませた。でもそこだけ、ボクと御陵さんの間のわずかな空間だけは、触らせやしない。誰にだって邪魔させやしない。
「だったら応えて欲しい」
笑顔が声に混じっていた。
「キミが、好きだよ」
圧倒的なタイミングで。
衝動でもなく計画でもなく策謀でもなく。
予め決まっていた予定調和のように。
「私に感応させてください」
きっぱりと行われた。慈母より遥かに尊い笑顔で、御陵さんは怯えている。ボクには分かる。分かっているだけじゃない。そこから何を感応するかを把握している。
少しとはいえ、繋がった。ドラマのように息の合ったダイアログじゃない。テレパシーじゃなくて良かったんだ。どこか遠くにいても伝わるのなら、人間に固体なんて必要無い。コンビニで安く売られている赤い糸を手繰り寄せ、もう離れない二人を見下ろす。
あ。
駄目だ。
ちらついた顔を押し退ける事が出来ない。
「ごめんなさい」
感応が断ち切られた。止まっていた時間が動き出して、ようやく通話しっぱなしにしていた携帯電話の電源を、電源を。
切る。
同時にそれは。
御陵さんとの感応を断ち切る事になっていたとしても。
「……そっか」
ヴァイブレーションの音が消える。
二人の感応が消える。
「今、誰の顔がある?」
分かっているのに、あえて訊かずにはいられない。そういう風に見てとれた。しかしそれを告げるのは、独りよがりの感応よりも遥かに邪悪で、嘘よりもっと汚い正義で、冗談にも劣る礼儀だ。
「分かってるんだけどね」
照れ笑いで誤魔化した御陵さんの手が、足が、肩が揺れている。小刻みに前へ後ろへと。
ボクは涙なんか流さない。楽しいわけじゃないのに、哀しいわけじゃないのに、自分が感じる感応が無い。雲を追う方がよっぽど生産性がある。
「初めて、感応したんだけどなぁ」
勝敗なんか無い。ボクを苦しめていた壁は、思ってたよりずっと脆かった。飛び越えるとか、脇道を探すとか、そんな難しく考えないでも良かった。
壁は、押せば崩れるのだ。
「じゃあね、祝園くん」
彼女は翻って校門を向いた。後ろ手に持った学生鞄が一つ、打ち付けた音を立てる。
「ばいばい」
決別。そのままボクが出てきた個人扉をくぐって学内へ入っていく。
ボクも歩き出した。何処に。家にだ。
もうかける言葉なんか無いし、感応も必要無い。過去が事実を作るのならば、事実は過去を思い出させるのだ。だからボクは明日をどうにかして今にしなくちゃいけない。
いい加減、悪びれるのも疲れたろ。すかしてクール気取るのも飽きたんじゃないのか?
分かっているだけ、知っているだけの自分をボクはそこで捨てた。もう心の声は責めてこない。
襲ってきた酷い眠気も打破して、駅に向かう。
待っていて欲しい。
ボクだって覚悟くらい、決められる。
ごめんさよならだ。
の話
空白。
ぼくはかけら。
イツゼロの話
1
翌朝。食事を済ませて自室に帰り、持ち物の確認をし終えて制服のボタンを閉めていた時だった。
「啓、あんた今日、休みだって」
「……? 祝日だったっけ?」
「なんかあんたの学校の子、昨日の夜に飛び降り自殺しちゃったらしいのよ」
三年の子、と最後に付け足し、いやぁねぇ、と去っていった。
ボクは学校に行く強制力を失ったが、原動力まで道連れにされていない。
鞄は持たずに家を出る。
火蓋はもう、昨夜に切って落とされているんだ。
2
ピカレスクになりたいわけじゃない。観客気取りで見ている人間が大事に持っているそれは、黄金なんかじゃないって知ってしまった ただのモブだ。
嫌味なくらい空が青い。雲も無いから太陽を遮る盾も無い。注ぐ一辺倒なひたむきさに、自分の正しさを揺らがせたり決心を鈍らされる。日陰から出てきた裏切り者を押し戻そうと白い正義がやってくる。
この世でもっとも凶悪で強い兵器は『自覚』だ。根本から存在価値を揺るがし、今まで絶対だと信じていたものを徒労に化す。
判断基準を無くした人間相手に手間をかけるまでもなく、そちらに引きずりこむ。そうして世界の正義は人を洗脳して支配してきた。ボクのように気付いてしまった魂にも、同様の処置を行って塊へと仕立て上げるだろう。必死に抵抗しても無意味だ。その抵抗までもが無駄に変わる。自分を無くして、未来の自分の為に過去の自分を消そうと現在の自分で奔走する。
それでもまだボクの足は学校に向かっている。正すも何もそこに善悪が無い。
あるのは誰も知覚していない欲求だけ。
学校に到着すると、予想よりも多い数のパトカーが停まっており、門の前には数人の警官が何かを話しながら黄色いテープを張り巡らせていた。素直に近づくのも馬鹿らしいので、裏門にまわる。
裏は錠がかかっているだけで警官はおらず、容易く侵入する事ができた。見付かれば大目玉、もしくは停学くらいは覚悟しなければいけないだろうが、そこらの言い訳はどうとでもきくし、正直なところ退学になってしまっても後悔なんてしないだろう。
今の自分にとって何が一番大事で、何をしなければいけないかをボクはやっと手に入れたのだ。それが勘違いだったとしても構わない。パラドックスな『自覚』がやってくる前に覚悟した。それが全てだ。
校舎の扉も閉まっていたので非常階段を上る。一階から四階までは疲れるもののスムーズに進んだが、そこから屋上への階段の前で声が聞こえた。
内容までは聞き取れないが警官らしい。恐らく、そこから飛び降りたんだろう。遺書か何かが残っていると思ったのかもしれないし、殺人の可能性を疑うなら証拠が残っていないかを調べているのかもしれない。推測の域を出ない問答は終わりにして、顔だけ出して伺う。
コーションの文字がおどる向こうに警官は三人。もうほとんど調べた後なのか、捜査に使った道具を片付け始めている。当たり前だ。正真正銘の自殺に、犯罪が関与する余地なんて一つもない。
彼らが整理を終えるまでの数分を息を潜めて待つ。やがて一人、二人と立ち上がってこちらに向かってくるので、階段と非常扉の間に身を隠す。目の前を談笑しながら通過していく青い制服を見送って、充分に時間を空けた後にボクは階段を上った。
テープをくぐる。吹く風は冷たい。また冬がぶり返したようだ。
「鴫野!」
呼びかける。音量をぎりぎりまで抑え、そこにいるだろう彼女に問いかける。
「いるんだろ、鴫野!」
地面に置かれた番号札を蹴飛ばさないよう慎重に歩きながら探し回る。下では教師と警官が調査しているだろうから外側まで行けないが、そもそも屋上にそこまで遮蔽物は無い。隠れているんじゃなくて、寝ていて気付かないか、それとも聞こえていても無視しているかだ。
ここに来ると色んな情景が頭を過ぎた。自分がここにいて、どれだけの経験をしたのかを明哭している。
鴫野に見つかって、そいつが嫌われ者だって知って、でもそれはどうでもいい人間の被害妄想なんだと分かった。御陵さんは可笑しくなるほど子供だったし、鴫野との掛け合いには随分と和んだなぁ。おっと有神田さんの事だって忘れちゃいない。好意を害悪として認定させてくれた貴重な会合だった。私市くんという悪にしか見えない善も付随してボクを悩ませてくれたし、あの口の悪い運動不足な教師と邂逅したのもここだった。
ボクの学校は、ここだ。
授業じゃ教えてもらえない大切な事を教えてくれた教室。
「鴫野、頼むよ」
他の人間は知らない。それが幸せか不幸かはボクに判断できないけど、今のボクが知らないボクに対して思うのは、明確に断言できる。
それなりの人生が駄目だなんて口が裂けても言えない。
けれど、この位置に立つボクには、それなりの人間の言葉なんて届きはしない。
感応してくれない人間なんて、ボクにとっちゃいないのと同じだ。
「鴫野……」
鴫野は給水塔の上に大の字で寝転がっていた。目を開けたまま、空を睨んで口の中で何かを咀嚼している。傍らに開封されたガルボの小袋があるので、それだろう。
制服の上から男物らしき黒いスキーウェアを羽織っていて、膝下まで隠れるそれは、ところどころ破けていて汚れている。他にもドグラ・マグラやナボコフといった著書が乱雑に置かれていて、どこかで出くわした空き缶がいくつか散乱するそこは、なんというか。言い難いが、鴫野らしい。
適当にスペースを開けて、口だけしか動いていない鴫野の横に寝転がる。理由なんて無い、ただ鴫野と同じ風景の中にいたいと感じた。
前髪を除けると、もう空しか見えない。端から端まで見渡す限り一面に広がった色の見えない、昨夜とは違う感応すらさせない絶対で広大な終わりの無い領域。
そういえば給水塔に登ったのはこれが初めてだ。
鴫野はいつもこんな景色を見ていたんだ。
「鴫野、ボクは感応したよ」
ぴくり、と鴫野の肩が揺れた。
「御陵さんと感応した。でも、選べなかった」
自分の意思で選ばないを選んでしまった。
ゆっくり、鴫野が身を起こす。スキーウェアが衣擦れの音を立てた。もう飲み込んでしまったガルボを惜しむ事もせず、無表情を微笑みに変える。
「そ」
それだけだった。ボクが感応した事実が、ボクが選ばなかった真実が、どういう恣意で彼女に理解されたかは分からない。鴫野は返事にも満たない笑いを浮かべただけだ。
ボクも起き上がる。さっきまであんなに広かった空がシフトしていき、町の風景が下から入り込んだ。見下ろせたのは、ここが丘の上に建っている普通よりも大きい校舎だったのと、この街がそれほど発展していなかったからだ。
街は綺麗だ。歩いているだけなら感じなかっただろう。こうして見下ろして、感情と時間とおあつらえ向きな局面があれば、集合が感動を与える。
少し、昔を思い出す。アニメや漫画なんかで泣くなんて気持ち悪いと蔑まれて、ボクが唯一の反抗を見せた事。
感動に上下なんかない。嘘で作られた感動と、現実で出会った感動がどちらがより優れているかなんて、決められてたまるものか。『理解不能』を妄想の方程式に組み込んで、相手に感応しようともせずに決定する。そんな人間としての常識とされる邪悪に、ボクはそのとき既に嫌悪していたのかもしれない。
もちろんはっきりとその意思を伝えられたわけもなく、喉までいかずにごにゃごにゃと戻ってしまった憤怒を飲み込んで、さらに孤立は激化しただけだった。
記憶に顔を少し歪ませて、でも鴫野の笑顔を見てまたほころばせる。
「感応、したんだ」
「うん。御陵さんは、残念そうだったけど」
鴫野が笑っているのは、ボクが感応したからじゃない。
御陵さんが感応したからだ。
それすらも出来ずに死ぬまで生きる人生を捨てる覚悟をして、そしてその結果がどうなろうと自分から感応したからだ。
「幸せだったら、いいんだよ。よりちゃんが幸せだったって、わたしには分かる」
それもこれも感応した鴫野にしか言えない。
他人じゃない。もはや鴫野の周りは、一つの思想なんだ。考える間も無く相手の気持ちを念頭に入れ、動く前にどうすればいいかが分かってしまう。
だから鴫野はすごいんだ。
あれだけの違うベクトルを持つ人間の中で、中心にいるカリスマ。
「どこにも行けないから、どこかに行っちゃったんだろうね。よりちゃん、不器用だから」
「 鴫野」
途中で声を捻じ込ませ、ボクはまだ微笑んだままの鴫野に向き直った。立ち上がって不安定な給水塔の、脆い床を踏みしめ、
「まだ……まだお前に謝りたいと思ってるボクは、御陵さんにも感応できてないって事なんだな」
ぽつぽつ、足元に落ちる涙を止められない。
惜しい人がいなくなってしまった。もっとたくさんたくさん笑いたかったし、馬鹿にして反応を楽しみたかった。有神田さんとの喧嘩も万事解消したわけじゃないだろうし、御飯だって一緒に食べ終えてない。
寂しいんだ。いなくなるって、そういう事だ。そしてそう考えてしまうボクは、まだ御陵さんに感応しきれていなかった。
どれだけの感応を鴫野は張り詰めさせているんだろう。昨夜の数十分でさえ、ボクをここまで変えさせたのに。
「ボクは御陵さんとも感応しきれなかったって、そういう事なんだな」
そんなボクを、鴫野はいつかのように抱きしめてはくれなかった。
ボクと鴫野の時間。ぼくらはここにいて、ぼくらがここにある。緩やかな時間が流れてるこの空間で、冬の気配が消えても残る寒さを憂えてこっちまで負の連鎖。素直さの意味は心のずっとずっと奥の方へ消えていき、素晴らしい日々を弱さと不安の中で知った。だからこそさよならは言わない。
「昨日の夜ね、よりちゃんは笑ってたよ」
今の鴫野と同じように?
「だめだたー、って。泣いてなかったよ。でも最初じゃなくて、最後だったから。ただそれだけなんだけど」
祝園くんには分かってもらえないかな。
鴫野の最後の呟きは消え入る。尻すぼみに小さくなった。彼女にとっては御陵さんがいなくなった消失よりも、ボクが感応できなかった後悔の方が悲しいのだ。
「飛び降りる時ってね、地面に着くまで空飛べるんだな、だって。それが最後。止めるなんて出来やしないよ。だって分かっちゃってるもん。よりちゃんは希望だとか、これから先だとか、そんなちっちゃい覚悟、してないんだ」
自分の範囲でしか何も出来ないボクは、今までの自身ですら何も出来ないボクに比べて、格段に前を歩いていた。自分の領域以外を不用意に干渉していたボクを、はっきり悪だと蔑んでいた。
「笑ってたかんさ。さよならも言えないのがわたしとよりちゃんの最後。わたしは何でも分かるけど、だから何にも出来なかったの。しなかった、かな」
どうにかするのは鴫野じゃない。けれど、どうにもできないのはボクだ。
結局、ぼくらの時間はすぐに終わった。給水塔の上なんかに立ったせいで下に集まる教師に発見され、ボクと鴫野は良識ある大人達に学校から追い出される。しっかりと怒ってくれはしたが、心の底で自殺が響いているからそれも簡単に終わってしまう。涙がばれなかっただけでも幸運か。
叱られたいわけじゃない。押し上げて欲しかった。
二人で裏門から伸びる下り坂を何も交わさず、並んで歩いていた。ボクには考える時間がまだ必要だったし、落ち着くまでもう少しかかりそうだ。
やらなければいけない義務があった。果たせそうにない、また現れた壁がボクの行く手を防ぐ。命をかけて壊さねばならない壁だ。
電子音が鳴った。隣で鴫野が携帯電話をスキーウェアの下に手を入れて取り出す。今の気分を意に介しそうな昨日の美しい旋律とは違い、けたたましく明るいハウスエレクトロニック音楽だった。ボクにはそれがなんだか厳しい激励のように聞こえる。
しばらく相槌を打っていた鴫野だったが、急にその顔に苦痛が滲んだ。
あの鴫野が苦痛を感じるだって?
隣の家に爆弾が落ちたって平然と笑い転げるような奴が? 驚愕に包まれたボクは黙ったままの鴫野に、
「どうした?」
と、馬鹿みたいに訊いてしまった。
「どうしたんだよ、その顔」
まるで、御陵さんだ。感応されなかった御陵さんが乗り移って、それでもまだ感応されずに永久の彷徨いを余儀なくされたような。
想定外の事態に狼狽を隠せないボクが次に見たのは、崩れ落ちる鴫野だった。地面にへたり込んで、少し開いたままの口、乾いた唇が裂けて血が出ているのにそれでも表情をわななかせる鴫野だ。
「ど、どうしたんだよ!」
応えない。その手から携帯電話をひったくって画面を見る。通話相手は私市くんだった。まだ回線は繋がっており、向こうから冷静に呼びかける声が漏れている。
「すいません、祝園です! どうしたんですか!?」
何を告げたのか、何を知らせたのか。
苦痛の福音が知らない人間を、知る人間へと変える。
『祝園くん? あぁ、良かった。祝園くん、そこで鴫野をおさえてくれませんか』
口調自体は沈着だが、気配は風雲急を告げていた。焦りがこっちにまで伝わってきて、何もされていないのに身体の表面がちくちく総毛立っている
『早く、すぐにでも鴫野を柱にでも繋ぐか何かして動けないようにしてください』
言われるままに、当惑しながら動かない鴫野の腕を組む形で絡ませる。どういう事だ? 鴫野は走り出す様子なんかない。いや、様子はおかしいが、突発的に行動する気配なんか
その疑念は、次の報告で確信に変わった、
『有神田が襲われて、意識不明です』
転瞬で鴫野の腕と繋がっていたボクごと、弾き飛んだ。足が浮くほどの速さで前に引っ張られ、慣性に忠実な携帯電話が地面に落ちて鋭い破壊音が響く。
こういう事、かァ !!
「しぎ、の! 落ち着け、落ち着け!!」
全力で踏ん張るも、ここは坂道だ。重力が鴫野に味方して、少しづつ引っ張られる。
御陵さんは笑って見送ったのに、どうして有神田さんの凶報にここまで激動するんだ。女の子の力なんてもんじゃない。現に今もボクの学生服が悲鳴を上げている。
右手の腱が延びきりそうなほど我武者羅に前へ目指す鴫野の肩を、ボクはもう一本の手で引き戻した。それで辛うじてバランスを崩した鴫野を仰向けに寝かせられた。このチャンスを逃すまい、と足も使って体ごと組み敷く。
「鴫野!」
形相が変わっていない。まばたきもしない。そうであっても鴫野は前へ前へと、その小さい肢体からは想像できないほどの力で身を起こそうとする。
こっちは目に入ってない。ボクを感応よりも前に見てすらいない。
「鴫野、鴫野!」
もがきもがいて引っ掻かれ、赤い色が見え隠れする。何か無いか見回す視野に、さっき落とした携帯電話が映った。神の救いか、壊れておらず私市くんの名前を表示したままだ。
手を伸ばすとぎりぎりで届いた。ノイズが混じった音景に叫ぶ。
「私市くん! 鴫野が暴れてっ! 止められないんです!」
『今、そっちに向かっています。あと二分、いや一分半耐えてください』
やっと通話は途切れる。私市くんも全力で走っている。もう後少し、鴫野を。
「もうすぐ私市くんが来るから、来るから!」
制止にならないとしても呼びかけるしかない。路上だなんて気にもせず、女子生徒を襲っているなんて濡れ衣に逡巡もせず、ボクは行かせまいと力を込める。
次第に鴫野の抵抗が弱くなっていく。疲労の為か、ばたつく足も最初ほどは暴れない。
「鴫野……」
目尻に涙が浮かぶ。さっきのボクと同じなのに、その中身の違いが重さを具現化していた。感応しているからこそ笑った鴫野が、感応しているからこそ泣いたのだ。
子供に見えた。
でも御陵さんのように無垢じゃない。生まれてから地獄を出た事の無い、壊滅した厭世の鬼子。
「 どうして!?」
喚き、問う。
どうにかしてほしいのはボクだけじゃない。救いを求められた鴫野ですら、時に運命を憎む。自分じゃどうしようもない情動を、何かにぶつける。
私市くんが来るまで、ボクは頷き続けた。
それ以外に、何も出来なかった。
歯痒いなんてもんじゃない。あったのは己の不備を嘆く呪詛めいた自問自答だけ。
世界はそんなボクらを置いて、移り気に廻りだしている。
3
私市くんが来て すすり泣く鴫野を抱え上げて、呼び出したタクシーに乗せたのはもう二時間も前だ。三十分ほどで駆けつけた病院の集中治療室の前で、ボクらは待合椅子に腰かけたまま無言でいる。
鴫野は病院に着くなりすぐに病室を看護士から聞きだして、ミサイルを思わせる速さで階段を上がり、手術室の前まで走っていく。ボクらが追いつく頃には手術中のランプが赤々と点灯する扉の前で、壁に頭を打ちつけ続けていた。
それから一時間後、手術は終わったものの意識を取り戻さない有神田さんは、集中治療室に移された。そこでボクは「今夜が山」の本旨を知った。
柔らかい質感が逆にボクを不安にさせるソファの上、私市くんは手を前で組んだまま微動だにしない。一言も喋らないし、行動を起こす事もない。
鴫野は対照的に、十数分に一度は発作的な暴動を見せた。集中治療室のガラス窓に張りついて叫んでみたり、ソファの下に潜って背中で持ち上げてみたり、通り過ぎる看護士に殴りかかってみたり。錯乱を如実に体言している。
ボクは鴫野を止めたり、有神田さんの呼吸器にできる結露で、生命の確認を馬鹿の一つ覚えに反復していた。心電図が波を表示するっていうのは、まだ生きているっていう証明だなんて当たり前の現象を自分に納得させる。
有神田さんの両親はまだ来ていない。連絡すらつかないという。
今日の早朝、有神田さんはいつものように自宅で就寝していたらしい。共働きの上、ほとんど家に帰らない両親は当然ながらその日も家にいなかった。
寝ていた有神田さんは階下からの物音に目を覚まして降りていき、そしてそこで空き巣に出会ってしまった。混乱して逆上した空き巣は、キッチンにあった包丁で有神田さんを刺す強盗にジョブチェンジし、あえなく彼女は数十回の攻撃を受けた。
以上が警察から聞かされた事情聴取内でのおおまかなまとめだ。せっかく勢揃いしてくれた友人にも話を聞いておこうという警察の時間潰しに付き合う代わりに、ボクは情報を得た。
未だにどういうシステムかは知らないが、有神田さんの異常を私市くんが感知して病院へ連絡。応急措置や救命行動を続け、病院への搬送まで延命させた。そのおかげで失血死を免れ、手術を受け得る段階まで持っていけたのだ。
あとは祈るしかなかった。
警官が最後に残した「今日は高校生がよく死ぬな」という、ただの小さな苛立ちに成り果てた大切な人格を繰り返しながら。
「鴫野、こらえろ」
自分の指の爪を剥がそうとやっきになる鴫野を止める。しばらくして収まったのを確認し、ボクはまた無言の瞑想に戻った。
私市くんを見る。顔からは何も窺い知れないが、見られた事に気付かれたのだろう、私市くんがこちらを向いた。
「祝園くんはどうして死ぬのが辛いか、分かります?」
投げかけられた内憂外患。
「死ぬのは辛いんですよ、俺。けっこうこれでも」
少し微笑んだようにも受け取れる顔つきのまま、組んでいた手の左右を入れ替えた。
まだ有神田さんは死んではいない。けれど、これからその最悪な予想を迎えなければいけないと仮定するなら、それほど残酷な質問はない。ボクにとっても、私市くんにとっても。
「死ぬって、恐いじゃないですか。ボクは死ぬのが恐いです。だって自分がいなくなった世界の事なんて想像もつかないし、それよりも何より、もう何も出来なくなるだなんて」
本当の意味で他人と感応できなくなるだなんて。
事故にあう前の自分は死ぬのなんて恐くなかった。自分がいなくても世界は変わらないと達観しつつ分かりきった答えだとして受け止めていた。むしろいない方がいいとさえ、考えていた。
今のボクにはとてもできない。死ぬのは恐い。
無意識に出た本音に、私市君は冷笑を返した。
「祝園くんはだから感応しきれないんでしょうね」
「え?」
突然の見限り。
唖然とするボクを見る私市くんの眼は、有神田さんを見る時よりも冷たい。
「それは結局のところ、自分の事なんですよ。だから君は人と関わり合うなんて出来ない。出来るはずない。なぜなら自分の事しか考えてないからです」
「ちょ、ちょっと 」
「何か? 間違ってはないと思いますよ。自分が恐怖を受ける、自分の想像がままならない、自分で何も出来なくなる」
確かに。
確かにそうだけれど。
「人が死ぬってね、完全無欠に無謬な、納得できない事なんですよ。人にとって、それは自分の中にある根本的な柱を無視して横切っていく。まぁ、納得できればそれは『死んだ』っていう過去になってしまいますから」
鴫野が横で低く唸った。
「君みたいに生きる意味を見つけてすらいない人間には関係無い話なんですけどね。俺とか有神田とか、鴫野みたいに、自分がどうやって生きるのかを、自分と感応してしまった人間にとって、意味の無い死は耐えられない」
言うだけ言い切って、彼はまた手の左右を元に戻して集中治療室に向き直る。これで話はお終い、もうこれ以上の会話をしないと示唆した。
ボクが自分にすら感応していないって?
そんな馬鹿で失礼な事があるか。自分にしか感応できないって知ってるからこそ、ボクは自分だけで生きようとしたのに。鴫野に会うまではそうやって生きてきたのに。
鴫野に会うまで。
「鴫野さ、鴫野」
それってつまり。
「御陵さんと有神田さんの違いは、そこにあったのか?」
結局は最後の最後で。
「『死んだ』と『死ぬ』の違いって、そういう事なのか?」
ボクはボクに感応しきれていなかったって事なのか。
なら私市くんの結論は真理だ。的を射るどころか最初から的なんて無かった。
ボクはボクにすら感応していないのに、人と感応しようとしていただけ。
自分が掴んだ『邪悪』に、自分がどっぷりはまっていた。自分は今まで邪悪なものを善良だとして自分を貶め、あまつさえそれを絶対として人との感応に使おうとしていた。そもそも根底が正反対に軋んでいたのに。
有神田さんが私市くんに暴行されていた時に感じた違和感。自分の善が人の悪だと、スタート地点から後ろに逆走していた『自覚』。
有神田さんは言った。
誰にとって正しいのかを考えてほしい、と。
世間の常識だとか、模範だとか、規定だとか、テンプレートだとか、定石だとか。そういうものじゃなくて、人と感応するっていうのは、自分とその人との間に何があって、そして何を働きかけられるかを見定める事。
嘘だろ。それはもはや超能力だ。
「ちょっと、外の空気を吸ってきます」
ソファを立ち、ちょうどその階で止まっていたエレベーターに乗り込んだ。一階まで一度も邪魔されずに帰着し、ロビーを通って表へ出る。外はまだ太陽が燦々と照っていて、今日も春らしくない暖かさになりそうだった。
今まで自覚していなかったけど、ボクは太陽アレルギーなのかもしれない。
太陽を見上げて、止まりそうにない涙を拭いた。
4
病院の目の前にある駅から電車に乗って数分。下車して歩いて十数分。ボクはやけに眠い頭を揺すって、自分の通っている九隅第九高校の正門前にいた。
もうパトカーは無い。立ち入り禁止の札は出ているけれど、教師の姿も見えない。再度、裏門からの侵入を試みて、危なげなく成功。朝と同じく非常階段を 非常階段を、昇ろうとした。
登ろうとしたけれど。
足が上がらない。
最初の一歩も踏み出せない。
「どうしたんだよ……」
それは襲ってきた『自覚』。
無為に帰す最悪の最終兵器の攻撃だ。
「どうして動かねぇんだよ!」
前へ前への命令は、頭の中だけで身体にまで下りていかない。片隅で行くなと自分が囁いている。行っても意味なんてないんだと。もう、そこで出来る事なんてたかが我田引水にも満たない曖昧な贖罪だと。
どうにか一歩を奮い立たせる。階段に足をかけ、またそこで止まる。歯軋りをしても、身震いをしても、そこから先へはどうしても行けない。御陵さんが覚悟を決めた場所まで登りつめるなんて出来やしない。ビバーグすら許されない、アドバイスも受け入れられやしない。
「くそ、くそ」
悔しさが身を貫いていく。後になっての無念は嫌いだ。取り返しがつかないからこその美徳だが、それはどうにもならないからこそ、それしか出来ないってだけ。反省なら次に生かせるだろうけど、自分一人で完結する世界に人を動かせる力は無い。
そういや鴫野はそういうのが上手かったんだろうなぁ。自分の世界を人に浸透させて、それなのに相手の世界を自分に迎合できる。そういった唯一無二の非凡な、唯々させる心酔性。ボクに真似できない所業。
ふと、鴫野を頼ってしまった。
背中に応援がほしい。そのままでいいよって認めてほしい。一緒に行こうって誘ってほしい。わたしがいるからって付き添ってほしい。君が必要だよって感応してほしい。
けれど鴫野は死んでもそんな驕らせる言葉を言わないだろう。
隔靴掻痒のボクを見て、鼻で笑う事すらせずに。ただただそこに人間が一人いるんだな、以上の感情を持ちやしない。
だから鴫野に嫌われたくない。見捨てられたくない。人間が持ちうる最高の防御だ。『自覚』が兵器ならば、『感応』は要塞なんだ。
感応すらさせてもらえなかったボクに、少しの希望を見せて緊縛する。さながらそれは繭だ。一生、繭のままでいるか、それとも幼虫のまま土の中にいるか。カフカを思い出して少し頭痛を強くした。
「もう鴫野に会えない。ボクは鴫野に嫌われてしまった」
嫌ってすらもらえていないかもしれないというのに。
まだそんなところで甘えているのか。
「こうなるならもっと早く 」
「青春は手遅れになった辺りが食べ頃なんだよ」
声を聞く。
「少年、そんなとこでうだうだと耳っちいなぁ。やっぱり祝園くんは会議中だけスターリングラードになるタイプだ」
大人びた、静かな中音域の声に似合わない乱暴な口調。墨染先生はいつもの白衣で、ポケットに手を突っ込んだ姿勢のまま、校舎の壁に背をもたれさせていた。
「さっきから見てれば、何か面白い事でもしてくれるのかという期待をことごとく打ち砕いてくれるね。そこで白鳥の湖でも踊ってくれれば笑ってあげんのに」
「先生、先生にはもう、関係無いですから」
そんなお調子事に乗れるほど、今のボクに余裕は無い。持ち上がる情緒、業腹を抱えて足を階段から下ろす。
「あら、下ろしちゃうのかい。せっかく一段だけでも登れてんのに」
初めて面白いとでも言わんばかりに眼を開く。拍子に、掛けた眼鏡の奥から爛々とした瞳を介して、好奇の傾注が流れてくる。
いよいよボクの我慢にも頂点がある。面白がられる、それ自体には別に何も感じない。しかし、この状況で、人の不幸を喜ぶなんて、そんなのボクからすれば単に神経を逆撫でしているだけだ。
鴫野はどんなにこっちが不幸でも、それをひっくるめて幸せにしてくれる。
「むかついてんね。やっぱ人ごと信用できない手合いかい」
「さっきから人の事を悪し様に謗ってますけど、ボクはもう鴫野との感応に終りを見てます。ですから、墨染先生とも私市くんとも有神田さんとも、関係は白紙になります」
もう無視しよう。接すれば接するだけ、磨り減っていくだけなんだ。
先生は禁煙パイポを取り出して、すぐにそれを引っ込めて本物の煙草を取り出した。
「あー、そうなのかい。別にいいけど。少なくとも先生はいなくなんよ」
「え?」
「大人には色々あってね。監督責任だとか管理能力だとか、そういう捌け口をどっかに作らんといけんのよ。御陵に免じて黙って従うけどさ、墨染先生は先生じゃなくなっちゃうわけだ、これが」
金属のライターを逆側のポケットから取り出して、蓋を開けては閉めるを繰り返す。
「準備室に篭れるから宿直なんてかったるいもんを引き受けてたけど、まーしゃあないね。元からそこまで教師に興味なんて無かったし。鴫野に会えただけでも収穫として、大学の研究室にでも戻るよ」
「それって、つまりクビって事ですか?」
「歯に衣着せないならそうなるね。この首一つでこの学校の体面が保てるならそれでよしでしょ。身に余る光栄だね」
カチリカチリ、手の中で弄んでいたライターを今度は回し始める。器用に指を一周して戻ってくるそれを、墨染先生はまた送り出していく。
隙間も無く。
「あ、御陵のせいじゃないけどね。そもそもあんたらを見逃してたツケが来ただけ。いつクビになってもいいように算段はつけてあったし、飛ばされる腹つもりもしてたし。意味のある退場、英霊ここに眠るってやつ」
カチン。
ライターは掌に納まって、動かなくなってしまった。
「その会議が終わったから外に出てみれば、まーうじうじと下らん迷走してる蛆虫みたいなのを見つけたんで、眺めてたんだけど」
流した眼を送り、一瞥される。
急に居心地が悪くなった気がした。墨染先生の進退を聞かされて誤認した、理由の無い優越感からじゃない。先生の目の中に、鴫野と同じ光を見たからだ。
「ボクね、要するに鴫野の友達にはなれなかったんですよ。あっちはそうしてくれようとしてたかもしれないですけど、ボクがそれをどっかで拒んでた。自分一人っていう慰めを垣間見て、一人で生きるのが正しいって」
狂ってしまった歯車を戻す作業を、放棄してしまった。
「鴫野の事、最初はすごい嫌いだったんです。自分勝手で、大人気なくて。信じられやしなかった」
信用に足る命題を提示もしなかった。影を知って、それが正しいと高慢になっていた。
「先生は、どうすればいいと思いますか?」
こんな素直なファズは、無い。
「どうすれば、鴫野に感応できますか?」
心奥で弾け飛んだ願望は、凄まじく単純なものだった。こんな簡単な問題に、どこでつまづいたんだろう。あまりに簡単過ぎて疑ってしまい、遠回りして苦労しなきゃそれが正解だって分からなかった。
ボクのこの数週間を箇条書きにすれば、大学ノートの半分も埋まらずに終わるんだろう。それだけの空白をボクは無駄にしていた。楽をして手に入るものに価値なんてないんだって、決め付けてかかってた。
「鴫野は知ってた。最初っから簡単な道に行けばいいって」
鴫野は世界に気付いてなかったわけでもない。無視していたわけでもない。
鴫野は一番、良い近道がすぐに分かるだけだ。
「祝園くんは自分で解いた答えを人に確認しないと満足できないのかい?」
今度こそ、墨染先生はライターで火を付けた。
「お膳立ては上の人がやってくれるから、後は適当に外国でも行って博士号でもとろうかね」
深く息と共に煙を吸って、吐き出す。
紫の煙で周辺はおぼろげになってしまった。上だか下だか分からない。鴫野はボクに呪文をかけていったのかもしれないし、突き放してマシンガンを撃ちこんだのかもしれない。
ボクの生きるって、鴫野の前では何の価値も無い。生きるっていう手段を、目的と勘違いしてしまった。最低限のラインを最高だと思って、何かをする以上の行動を自分から起こさなかった。それが鴫野とボクの間にある決して埋まらなかった溝。ボクが渡る前に向こうへ渡ってしまった鴫野を、こっち側の安全な場所から見下してただけ。
自分から死地に飛び入って危険を買う無謀さが生きるって事じゃない。自分が何をして、何を残せるかが生きたって事なんだ。
今更ながらにそんな単純な回答に行き着くなんて。いや、気付いてはいたけど無視してたんだ。そんなの、子供のわがままと同じだって。人に迷惑をかけるだけで、自分だけが達成した高揚だって。それなのに人から馬鹿にされて、ただただストレスが溜まるだけだって。
自分の内側から自分を持ち出さないと。恥ずかしくて滑稽で、人に迷惑をかけて見下されて、それでもとりあえずはそれをしなきゃ自分が自分でいる意味なんて、無い。
「そうやって真理に辿り着いた気になっているのも構わないけど、それを知ってんのは今んとこ、ここにいる二人だけなんだわ」
先生の目はもうボクを見ていない。
前へ、その方向には大きくて赤い十字架が聳え立っている。
「で、何をすんの。で、何が出来たの。そこで終わっちゃそれこそ意味なんて無いよ、祝園くん。人様にかけた迷惑は後でいくらでも賠償なり無視できるけど、君が本当に迷惑をかけたいのはそこらへんの『人間みたい』なんじゃないでしょ」
「ボクは、まだ迷ってます。今がそういう状況じゃないって知ってる」
「だからって先送りにしてても問題が解決するわけじゃないよ。なら面倒は一気に片付けた方が楽だと思うけどね」
半分も吸っていない煙草を、墨染先生は携帯灰皿に突っ込んだ。真新しいパッケージと中の銀色が黒くなっていく。外側から二回、三回と握りつぶして、執着しない笑みを浮かべた。
「煙草、吸っちゃった。いいか、祝園くん。煙草を吸う罪っていうのはけっこう重いんだ。即刻、退場もんくらい」
そうしてまた、ボクの人生劇場から一人の人間が上座にはけていった。
「あたしはもう行かなくちゃ。さようならだ」
裏門を目指し、しっかりとした足取りで。
サンダルが足の裏を叩く乾いた音を、その時ボクは一度だけ聞いた。他の人なら聞き鳴れた雑音なのに、墨染先生のそれはひどく寂しい。でもそれほど悲しくはない。これが感応したって、そういうんだろうか。
ボクは頭を下げていた。感謝が理由でもあったし、別離を送る為でもあった。これくらいは、してもいい。でもそれ以上、声をかけたりだとか追いかけたりだとかはしちゃいけない。それが感応、それが相手を思って自分の成す状況を弁える事。
やっとここまでやってきた。真意が伝わってきさえしなかった鴫野の振る舞いが、もうボクにとっては当然で普通な日常になっていた。
やがて頭を上げて、携帯電話をゆっくりと開いた。もうそろそろだと確信があった。別れを告げた最期を潤色する閉幕が、もうそろそろボクにやってくる。
託宣は整った。鳴動した端末からの入電を、ボクは受け入れる。
「はい、はい。……そうですか、はい。今は学校です。そっちにはもう戻りません。はい。あ、鴫野は? そう、そうですか。伝言を 伝言を、頼んでいいですか? ありがとうございます。なら伝えてください」
臭いと嘆く心の抑制を跳ね返し、もしどうせたらればを突っぱねて、ここぞという具合を見極めもせず、率直に自分の中身だけを取り出して。
「明日、屋上で待ってるから」
ボクは勝負をしよう。決着をそこで決めよう。
決戦は日曜日じゃないけれど、どうせ学校には誰も入れやしない。よしんば入ったところでボクと鴫野の感応にはついていけないだろうし、そもそも屋上になんて来やしない。
絶好だ。根が不謹慎でできているボクをもって、ボクは鴫野との関係を昇華する。
意気揚々とボクは非常階段を上った。あれだけ重かった足取りが羽のように軽い。疲労も講釈も必要ない。上へ、上へと後は登るだけ。
不意に頬を刺した冷たい刺激に、足を止めた。触れると瞬く間に解けてしまったそれは、水滴となって指を滴り落ちる。
満天の水色の中、点々と自己主張する四月に降る雪。
もっと近くで見たくて、もっと誰よりも早く出会いたくて、一気に速めた足を踏み出す。踊り場、非常扉、三年、二年、一年教室の窓。遮るものなんて何も無い屋上への出口と入り口。右手にある給水塔の梯子を引っつかんで、自分の身体を持ち上げる。
見上げた空は、朝と変わりない空。けれど風が無く、流されない雪は綺麗に直下を描く。春の暖かい陽気の中で降り注ぐのに、嫌悪感も無い謙虚でいて雄弁な雪は、まさしく偶像の中で感じた偽りの無い存在。嘘で塗り固められた世界に入り込んだ欺瞞の無い真実。
雪が消えるまで、ボクは空を仰ぎ続けた。首の骨や筋肉が悲鳴を上げて、少し笑った。
今日はこのままここにいよう。明日が来るまでここでいよう。
自分以外に無い、自分だけの有様を見届ける為に。
5
一秒はこんなに長いのに、一日はこんなにも短い。
人生なんてどうでもいいけど、覚悟はたぶんとても大切だ。
ボーイズビーアンビシャス。
ぼくは今日に満足できたんだろうか。
あれから地平線に沈んでいく太陽を見て物思いに耽ったり、入れ替わりで右方から訪れた月に感慨を覚えたり、夜の時間になれば星を数えて自分の星座を作ったりもした。そういった人に知られたくない、自分だけの純粋な部分を愛でていた。自慰と同じ、肉体か精神のどちらかに特化した快感を貪った。
朝になるまで考えた。これからの事、これまでの事。そのどちらもがボクに何かを語りかけてくる。時に迎え入れ、時に反旗を翻し、時に聞こうとしなかった。でも一つだけ、空洞を通る一本の意思だけは貫かれていた。
さっぱりした気分だ。
あんなに憎かったのに、どんどん世界はボクにとってえもいわれぬものになっていく。愛が全てだなんて吐き気を催す明言を、今なら理解できる。
自分の中で、自分の愛するものだけを愛す。それが自分の世界を埋め尽くしたならば、その中だけで満喫する。それこそ、愛が全て。格言に楯突きたい年頃のボクにとって、こんな歪曲理論の展開はもうお手のものだ。模範解答の出来栄えに慢心する。
眼前の風光明媚。
夕方とはまた違った朝の色。左に沈んでいく夜の帳と、右から昇ってくる黎明のさえずり。ネオンライトは見る見る内に消えていき、気の早い店や民家に明かりが灯る。
透き通った匂い。昨日に降った雪が溶け込んだ、湿気を含む冷たい夜明けの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。長い長い時間を中身も無く、快感に埋もれて過ごした今日を、ボクは忘れないだろう。
急ぎ過ぎたままぐるぐる同じ所を廻っていたボクとは違う。ゆっくりとマイペースに真っ直ぐ目的地に向かっている実感があった。
こうしてボクは『明日』を『今』にする事が出来た。
その『今』を始める汽笛が轟く。
「祝園くん」
やっと来たか。ボクはずっとここで半日ほど待ってたっていうのに。いや、もしかしたらあの出会った四月から待たせていたのかもしれない。
追憶を重ねて顧みる。鴫野は昨日と変わらない、薄汚れた黒いスキーウェアに身を包んで立っていた。まさか鴫野の到着を給水塔の上から迎えることになるだなんて。こうして見ると、いつもと違うその姿は、脳内に熱を帯びさせる。
鴫野は傷だらけだった。額にはぐるりと頭を一周する包帯が巻かれていて、手も絆創膏とテーピングでボロボロだ。それでも眼光は一切の衰えを感じさせず、ボクを見抜いている。
感応できなかったボクの内面を探るように、深く深くボクに潜ってくる。
「やぁ、鴫野」
鴫野が浮かべていた笑みの意味。それは自分の中の世界だけで完結している上に、御陵さんや有神田さん、私市くんや墨染先生の世界にもリンクしていたからだ。統合されつつも個体としての尊厳を残した集団、組織に属しているばかりか、自分がそこのリーダーだという自覚があったから。
ボクを襲った無慈悲な自覚ではない、人を導く聖なる自覚が。
そしてボクはそれにやっと逢着して、同じ笑みを浮かべている。
まだ感応を維持していないまでも、その到達点に向かっている自分の前に躍り出た。
鴫野の中で、昨日はもう過去になったんだろうか。ボクの昨日はまだ続いている。だから笑って鴫野に挨拶をする。それに応えて、鴫野の口角もいつもより吊り上り、唇が緩んだ。
「なんだよ、祝園くん。こんな朝から呼び出して」
「朝早くに来たのはお前だろ」
「そうだけどさ。呼ばれたとなっちゃ、ハックショイてなもんで」
「まぁ、いいんだけど。予想できてたから」
いつもと違う状況で。
いつもと違う二人で。
いつもと同じ冗談を。
いつもと同じように。
「で、何さ」
正直なんてすぐに狂い果て消え、生きてる意味も無くなって死んでいく。「何がしたいの?」なんて何もした事ないくせに、ボクを見てよく言えたもんだね。太陽に憧れるフリはもう止めたんだ。
鴫野に憧れるフリは。
終わりにする。
「……昨日さ、色々あって。それで色々な事が一気にボクを殺していったんだけど、こうやって生き返れた」
「じゃあネオ祝園くんだ。新生ってやつ。そう言われると後光が差してて神々しいね」
苦笑して給水塔を下りる。鴫野なりの冗談をそっくりそのまま笑える余裕を、思ったより遠くまで来た自分自身を、興がる。何もかも全て、好きな色に塗れた。それは幻想かもしれないけど、ずっと胸の奥を騒がせている。
「これでちゃんとボクが見えるか?」
相対したボクと鴫野。お世辞にも美しい夢には似合わない二人だけど、この瞬間においてボクらはボクらの世界を共有している。
回想する悪戯も、これで終わりだ。
一つずつ、慎重に。
爆弾を解体するように。
「鴫野さ、ずっと聞いてみたい事があったんだ」
なにさ、とあの時のように反問される。
ボクは出なかった言葉をようやく述懐できた。
「どうして鴫野はそんなにかっこいいんだ?」
電車の事件も、御陵さんを守るのも、有神田さんを強くしたのも、私市くんを発起させたのも、墨染先生を加速させたのも。
鴫野はいつだって輝いていた。
虚構で作られた創造物に登場するどんなヒロインよりも、鴫野は憧れさせた。
「かっこいい、かなぁ。わたしは別にかっこつけてないけど」
知ってる。鴫野は誇張したりしない。お菓子を食べ過ぎて太るのを気にするけれど、大勢の人間に疎まれるのに懸念なんて感じないんだ。
ボクとは違う。
垣根をまた一つ、突破する。
「鴫野と出会えてよかったと思うよ。ボクは色んな事を発見できた。夢が夢じゃないって、人間が生きるってどういうものなのかを理解できた」
顔から火が出そうな恥ずかしい台詞だけど、禁止なんかさせない。
「大袈裟だね。なんだか今日の祝園くんは祝園くんじゃないみたい」
「昨日までの、と言ってほしいな。さっきもあれしたけど、今日のボクはネオだから」
反吐が出る純愛も、決して嘘なんかじゃなかった。当然、世の中には色んな汚い恋愛があって、それがどれだけボクを不幸にしたかは筆舌に代えがたい。けれど、そんなに影があるならば、どこかに光があったって別にいいじゃないか。
何度も繰り返した失敗とか大きく食い違った考えとか、ボクらの基準はいつも不確かだ。酷い目にあってきた人生の先輩を軽んじるつもりなんてないけど、夢だけ見て生きているボクを邪魔する権利は彼らに無い。どうやったって勝ち誇らせやしない。
「じゃあそのネオ祝園くんはわたしに何か用があんのかい?」
何もかもそれなりで。
「そうそう。すんごい簡単で、なんていうかな。すんごい簡単なのに、すんごい難しくて」
割り切ってしまえるほど、ボクはまだ大人になんかなれない。
「でも劇的に変えてしまう、そういう用事」
前置きはいい。すぐにでもこの胸の内を曝け出したい。世間話で盛り上げるのなんて、ボクらには今更過ぎる。
「祝園くん、その前にちょっとだけ、いい?」
「ん、いいよ」
なんだろうか。
ポップでメロディアスな音楽が、急に変拍子になるテンポの改変。
「昨日、色々あったかんさ、わたしも色々と思うところがあるわけ。ほら、わたしこれでも女の子だから」
女の子って便利な言葉だね、と鴫野ははにかんだ。同意を含めて頷き返し、話の先を促す。
「やっぱりショックだった。知ってる人がいなくなるって、残酷なんだよ。自分自身はどうにもなっちゃいないのに、わたしは人間だから」
人間って不便な生物だね、と鴫野は哀歓した。同意も首肯もせず、瞳をうろうろさせる。
「残ったのはきっしーと祝園くんだけ。わおん先生もいなくなっちゃったし、わたし達三人だけ」
「墨染先生の事、聞いたのか?」
「昨日の夕方ね。病院に来たから。わおん先生はモナコに行くんだって。もう帰ってこれないかもしれないって」
遠く離れていってしまう。自分が普通だと思っていた事が、非日常になる経過。
「一緒に行くか、って言われた。でも、わおん先生は返事する前にもういなくなってた。わたしも答えようなんてしなかった」
鴫野は鴫野で、ボクが変わるのとは違う方向に変わっていたのだろう。それはこうやって会ってはっきりと確認できた。弱くなったともとれるし、乗り越えたともとれる。どちらなのかはまだ、感応していないボクには分からない。
「これからどうしようってきっしーと話したんだ。きっしーは言ってた。自分はだみつきより強くなるつもりだって。それ聞いて、わたしもやっぱり強くならないと、って思った。もっとしっかりしないとって 」
「ボクが!」
弁を遮り、ボクは声を張り上げた。
「ボクが 鴫野を支えるよ」
感応に、一歩を踏み出す。
「三人だけ、じゃない。ボクが、いるんだよ」
その先の世界は、まだ見た事もない世界。鴫野の街の地図に無い景色で、ボクの為に花を咲かせようと錯綜する。
そんな詩的で素敵な御伽噺じゃない。もっと下劣で分かりやすい感性で言い伝えられる、普遍で変哲の無い噂。あるのかどうかはボクが身をもって体験している。
「そう、だね。祝園くんがいるもん」
目の端に涙が浮かんで、それを指で払いのける。包帯に染み込んで、そこだけ半透明な環形を作り出した。
喪失は補填で補える。だったらボクは忘れ去るくらいに大きい存在として、鴫野に与え続けるしかない。ボクはもう充分に与えてもらった。恩返しをするのは、当たり前だ。
「祝園くんはすんげーね。ちょっと救われたよ」
そしてボクは。
ボクは打ち明けた。
「やっぱり鴫野はかっこいいんだよ」
かっこよくて素敵で、輝いていて煌々しい。誰よりも正直で、誰よりも素直。間違っても間違えないで、正しいけど正しくない。楽しい生き方をしているのが似合っている。傲岸不遜で温厚篤実。徹頭徹尾に竜頭蛇尾だけど、最後はやっぱり鴫野は鴫野になってしまう。
鴫野に関わると、どれだけ惨めになるかを実感する。それを乗り越えたところに人間の向上があって、頂点で折り返して初めて、鴫野にもう一度、会える。
ボクは普通と離別しよう。これから、鴫野の隣で多くの障害を潜り抜けていこう。
「鴫野さ、頼みたいんだけど」
口達者じゃないボクに言える事なんてそんなに無い。
「なにさ」
酸いも甘いも噛み分けすらしてないボクに出来る事なんてそんなに無い。
「頼むっていうか、なんていうか 」
だから一言だけ、ボクが感応するのはそれだけ。
ボクは鴫野が。
「鴫野がさ、好きだよ」
明滅する混沌の螺旋を、やっと賛美できた。終わりの無いこれからを始めるんだって、もう何も恐くなんてない。
内臓が今になって位置を変えて動いているようだ。吐きそうなのに拒否できない。喉まで来た苦い味を、強引に飲み込んだ。
鴫野は。
鴫野はどんな顔をしてるんだろう。
「わたしが?」
「そ、鴫野が」
きょとんとしていた。
感動の最頂点にいるっていうのに。こんな浮かれ放題なボクを差し置いてどうしてそんなに。まぁ、それが鴫野なのかもしれない。
真剣な表情から一転、ボクは白い歯をこぼした。つられて鴫野も微笑んだ。
「そうなんだ。祝園くんはわたしが好きなのか」
「そうなんだ。ボクは鴫野が好きになっちゃったんだよ」
やっとだ。
ボクはやっとこうしてここにいる。
御陵さん。有神田さん。私市くんに墨染先生と。
鴫野のお陰で。
「鴫野に会えてよかったんだ」
三思巡らせて、ここに帰ってきた。一ヶ月前では想像すらしていなかった幸せと不幸のハイブリッド。停止したままだったボクは動き出してしまった。
停止したままの方が楽だったかもしれない。前のように閉鎖した一人のままで生きていくっていうのも悪くなかったかもしれない。
でも燻り続けていた心の懸念がとめどなく溢れて、ボクを進ませたんだ。
決してそれは間違いなんかじゃない。
「御陵さんを選ばなかった理由。それが」
嫌われる超能力を自認した昔を蹴飛ばして、坂を走り下りよう。踏み切りで電車が来たって轢かれやしない。面白がって写真を撮る奴に文句を言おう。
地球が爆弾になったって、特異点はここにある。
「有神田さんに教えられたんだ。それを」
ボクはここにいてもいい。その理由を探し出した結果。
「私市くんが持ち上げてくれたんだ。そんで」
自分を信じさせてくれる。
「墨染先生が飾ってくれた。だから」
まだ子供だから、一緒に行こう。
二人で夢の中の夢が、何よりも絢爛だって証明しよう。
「鴫野、感応してほしい」
掃き溜めの鶴なんか目じゃない。皆がみんな、見たくないものを見てしまった現実を受け入れるんだったら、ボクは記憶として残そう。
ボクは天邪鬼だから。
世界で一番、善良なつもり。
「 鴫野」
戯れた諧謔を飛ばそうか。それとも目でも見詰め合おうか。
二人の世界に何もいらない。誰も入ってこれやしない。邪魔なんかさせやしないし、出来やしないんだ。ボクは主人公としての使命を全うし、そして鴫野はそれに応えてくれるだけでいい。
何万回も何億回も何兆回も、それすら数え切れないくらいに繰り返された場面を、今は二人で演じている。大舞台に立った二人がここにいる。
世界を廻らせてきた間違い。
世界を救ってきた過ち。
ここにあるのはそれだ。
ここにあるのは愛そのものだ。
現実なんか知るものか。未来なんて意味も無い。過去にこだわらないで、『今』を生きよう。それだけでいい。
鴫野。
鴫野。
彼女は立ち尽くしたまま、ポケットに手を入れたまま、ボクを見つめ返している。笑っているようにも泣いているようにも怒っているようにも見えるその様。
一度開いた口が閉じ、何かを言わんとして言葉を噤む。
虹色に光る。心臓が痛くない。もう誰にも勝ち誇らせやしない。
「祝園くん」
そうやってボクは乖離したはずの世界に引き戻された。
「そ」
淡白に。
「でもね、わたし嘘吐きが嫌いなの」
簡単に物語は崩壊した。
「祝園くんはわたしを好きなんだ。でも好きと好かれるはどこまでいっても平行線だよ」
当たり前じゃん。
勘違いしちゃったんだね。
「すんごく哀れだよ。池の鯉みたい」
あれだけ鮮やかで色彩豊かだった世界が。
真っ白になる。
「結局、最後まで祝園くんは嘘吐いちゃったんだね。今の自分にも、昔の自分にも。感化されて、一人だけで突っ走って、どこか遠い向こうの方で叫んじゃって」
見当違いも併発して。
「もう一回、こういうのはきっちりしといた方がいいから言うね」
鴫野。
鴫野。
「 わたしは嘘吐きが大嫌い」
どうしよう。
何にも出てこない。
止まってしまった。
なんだかひどく。
なんだかとても。
眠い。
眠いなぁ。
ゼロの話
「あ、また来てくれたんだ」
ボクはスライドしたドアの向こうに見知った顔が並んでいたので、手にしていたメーテルリンクの文庫本を足の上に置いた。が、ちょっと邪魔だったのでテレビ台の方に置きなおす。
「やっほー」
鴫野さんは手に持った有名店のケーキ詰め合わせを顔の前に持ってきた。雪崩れるように後ろの四人も病室に入ってくる。またみんなで来たのか。この前も看護婦さんに怒られたばっかなのに。
どうやらこの五人はボクの友達だという。数日前に目を覚ましたボクを、親の次に駆けつけてくれた程の仲だったので、かなり深い親交があったんだろう。
「ボクはまだ食べられないから、みんなで食べなよ。ちょっと先生のところに行ってくるから、静かに待ってて」
やっと外れた点滴台を押しのけて、ベッドから地面に降りる。しばらく眠ったままだったと聞かされているから、足元が少々おぼつかない。まぁ、これもリハビリの内だ。
松葉杖を頼りに、すり足のように歩いて医師室に向かう。すっかり顔馴染みな看護婦さんに挨拶をしながら、中途半端に伸びた髪を切らないとなぁ、と何とはなしに考える。
幸いにも外に出ていた担当医師に出会い、部屋までサポートされながら共に向かった。ボクの病室より幾分か上等なドアを開けてもらう。室内から鼻を刺激する消毒薬の匂いが染みた。
相対して。
「祝園くん、体調はどうだ?」
「いえ、特には。ケーキが食べられないくらいですかね」
今日は現状と原因の説明だという。
机に並べられた数枚のモノクロ写真は、ボクの頭の中を映し出したものだ。といってもその時のボクは意識を取り戻していなかったので記憶には無いが。
しかしこうして自分の頭の中を見るというのも奇妙なものだ。
「こことここに影があるでしょう。あとここと。祝園くんは憶えてないだろうけど、君は今から三年前に自動車に轢かれているんだよ」
それは聞かされている。
「その時には見付からなかったんだね。小さかった傷が広がって、血が溜まっちゃってる。それで大きくなっていって、それがここ、この大脳辺縁系を あぁ、睡眠を司ってる部分ね を圧迫しちゃってる。それが破裂したのが主な病因、原因かな」
「はぁ」
生返事しかできない。前のボクはあまり保健に強くなかったようだ。
「その事故の時も君は記憶を無くしてるようだね。失血性だったらしいから今回とは関係無いけれど、これからも もしかするとその危険はあるよ」
嫌だなぁ。
今、病室にいる友達を忘れるなんて。
まだ二回か三回しか話していないけれど、ボクには分かる。彼達は本当に生きるっていうのに真っ直ぐで、素直だ。ボクが目覚めてたった数日でここまで元気なのも、それが要因として大きい。
「危険があるといっても僅かだけどね。それと、この血腫を取り除く手術は完璧に成功だから、後遺症は無いよ。安心してくれていい。これもこの天才執刀医のお陰だね」
腕を叩く医者に、苦笑を返す。
「感謝してますよ。その腕で自分のジョークセンスも手術してください」
「はは、言うね。そっちの方はまだまだ修行が足りないよ」
短く談笑して、人を待たせているからとその場を辞する。付き添おうかと言われたのを断って、あまりしっかりと踏み留まってくれない足を叱咤する。
どうにか病室まで辿りついた。中から何やら騒ぎが聞こえる。
それと同時に看護婦さんの高い声。
「もう、あなた達は!」
「すいませーん」
慌てて扉に手をかけて横にどけると、ボクのベッドの上に立っていた五人が怒られていた。どうせ跳ね回って遊んでいたんだろう。すんごくふかふかだからな、あのベッド。
ボクにまで飛び火した看護婦さんのヒステリックをかわし、みんなが下りたベッドに寝転がる。この個室だけ特別に常備された五つのパイプ椅子を持ち出して、各々が座った。
「また怒られちった」
グループのリーダー格である鴫野さんが頭をかいた。こうやって子供っぽく振舞うのがとても似合う女の子だ。
それからしばらく、ボクはさらに友好を取り戻そうとひたすら話をした。自分がどういう人間だったかを聞くのは 何か申し訳無い気がして聞けなかった。けれどあちらから何も言わないという事は、大体のところ今と同じ感じだったんだろう。
記憶を無くす前の自分も自然体で正直な馬鹿だったんだろうなぁ。
「君も屋上からバンジーしてさ」
「そんな事してたのか、ボクは」
「嘘だよ。すぐ騙されちゃうからなぁ」
くそ。悔しいのでいつか寝起きどっきりでもしかけてやろう。
「まったく、祝園はいつもそうだよな」
五人の内の一人、山科備後くんが鴫野さんに同調した。彼は仲間内でのムードメイカーの能力を遺憾無く発揮して、いつでも笑いを運んでくる。
「なぁ、愛もそう思うだろ」
「い、い、いや、ぼぼぼくはそんそんそんな」
このあがり性の坊ちゃんは愛上雄くん。前髪で隠した目線の上からでも、極度の緊張が伺える。背の低い、おっとりした女の子みたいな男の子だ。
備後くんと愛くん、そして鴫野さんはボクと同じクラスだという。さぞかし楽しいクラスなんだろうな。
そして最後の一人は年が上らしく、つまりボクと同い年。とてもそうには見えないほど落ち着いている。物静かなのにみんなを引っ張っていくような不思議な魅力の人だった。
「きっしーはそういや卒業はどうなのさ」
「それが難しいんですよ。もう一年、留年しそうなんです」
こんな面白い友人がいて、幸せだったと思う。惜しい記憶を無くしてしまったんだろうなぁ。
そんな中で一人、鴫野さんだけは他と違って見えた。
「鴫野さん、ちょっと聞いていい?」
なんだか輝いているというか、煌々しいというか。はっきり言うと、ボクは彼女と話す度に胸が呼応する。一目惚れかと思ったが、身体が慣れた痛みのようにそれを受け入れた。
期待と希望を綯い混ぜて、ちょっと冗談に聞こえるように。
「あなたはもしかしてボクの恋人なのかな?」
一瞬、時間が止まった。
なんかマズい事でも聞いたのか?
「ぶふっ」
我慢できなかった笑いを、そこにいる皆が吐き出した。
「ぶははははは!」
何が可笑しいのか分からないので、ぽかんと口を開けて唖然とするしかない。
「そんなわけねぇって!」
「そそそ、そうそうでですよ、ふふ」
かなり的外れな質問だったらしい。
鴫野さんはそんな中、誰よりも人一倍笑い転げていた。椅子から落ちそうな勢いで抱腹絶倒している。なんて失礼な。傷付くぞ。
「はは、ごめんごめん。あんまり変な事、聞くからさ」
と、右にいた私市さんの耳を引っ張る。
「これ。これがわたしの彼氏」
「ども。十五人目です」
無表情でピースサインをした私市さんに一転、照れた仕草で鴫野さんは反論した。
「そんないってない! まだ三人目!」
その波乱に、また笑いが沸いた。備後くんは「鴫野は尻が軽いな!」と発言して顔面にチョップを食らい、愛くんは「き、き、私市ささん、ひひどいです!」と嗜めた。
緊張からの緩和で、ボクも頬を緩める。なんだ、ただの勘違いか。まぁ鴫野さんは可愛いからなぁ。ころころしてて犬みたいっていうか、猫みたいっていうか。
それにこんながりがりに痩せ細った牛蒡よりも、健康的でしなやかそうな私市さんの方が似合ってる。これならもっと愛嬌のある肥満の方が良かったなぁ。
「あ、そうだ」
まだ騒乱が収まらない渦中で、鴫野さんは思いついたように顔を上げる。
「せっかくだからあだ名を付けよう!」
それに皆も賛成の意を唱えた。
あだ名を付けるのか。そういえば鴫野さんはみんなをそれぞれあだ名で呼んでるもんな。前のボクにはどんなのがついてたんだろう。
ボクにはそれが、過去を思い出させないように新しいあだ名をつけようとしてくれいる心遣いに思えた。もちろん、ボクはそれに乗っかって余計な事なんで聞き返さない。
「そうだなぁ。祝園、祝園だから、んー」
楽しかっただろうなぁ。幸せだっただろうなぁ。
「決めた! 君は今日からそのひー!」
いや、くよくよ悩んでも仕方ない。これからはこれから、これまではこれまで。割り切って、前よりも素晴らしい世界を作っていけばいいじゃないか。
彼らから奪ってしまった前のボクよりも、もっと楽しい今のボクを与えよう。
それしか出来ないんだから。
「そのひー。そのひーって良い名前さね!」
「そうかぁ? まんまじゃんか、やっぱ鴫野は頭悪いんだって」
「んだよ、しにゃーまだって幼児向け漫画の主人公みたいな名前じゃんか」
そうやって明日を生きていけばいい。なんだか上手くいえないな。関係、じゃないし。供給もなんか他人行儀だな。なんだろう、感応とでも言おうか。
あぁ、ボクは。
ボクは幸せだ。
記憶を失ったっていうのに、こんなに頼れて面白い友人が毎日来てくれる。多少は迷惑だけど、それはご愛嬌だ。
そのひー。悪くないじゃないか。
面会時間のぎりぎりまで、ボク達は笑い合った。もうすぐみんなは高校を卒業するらしいけれど、ボクはまた二年生からやり直す事になりそうで、そこが少し憂鬱だけど。
でもま、放課後なり休日なり幾らでも遊べるさ。
陽も傾いて、看護婦さんが二回目の時間切れを告げた辺り。みんなは名残惜しげに帰る準備をし始める。ボクは明日までまた暇な時間を過ごさなければいけない。
帰り際、鴫野さんは振り返ってボクにこう言った。
「君にはわたしなんかよりもっと良い人がいるって」
またその話を蒸し返すのか。恥ずかしいからやめてくれ。
「ごめんね。変な事、聞いて」
いいって事よ、と鴫野さんはスカートをはためかせた。
「間違ってもわたしに惚れちゃ駄目だよ」
こうしてボクの一日は過ぎていく。怪我が治ったらどこかこじんまりした定食屋で、大盛りの親子丼でも食べたいな。一人でもいいし、誰かを誘ってもいい。
ずっと続けばいい、幸せな日々。
ボクは自分の幸福を、いるかもしれない神に感謝した。
ありがとうございます。
これから自分だけの物語を始めます。
今はまだ、ゼロの地点。レイにやっと立ったばかりですから。
夢のような現実を生きます。
終わり
最後なんで書こうかとも思ったけど、黙って読んで黙って考えて黙ってまた死んでないだけの人生勝手に歩んでろ。お前ら全員、幸せにしてやるからな。