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二話から三話やと思う

ここまで読んだら最後までどうぞ

ゼレイロノ話。




 見てきた事、聞いてきた事、嗅いだ事と味わった事に触れた事。

 感じてきた全ての要素を強引にぶち込んで、まさに蟲毒のように作り上げられた人格というものは、過去にこそなりすれ未来にはならない。過去を構成しているのは自分であり、そしてその過去が構成しているのもまた、自分であるからだ。

 時間は不可逆性だとか、線ではなく面で考える構造だとかは、どこそこのスーパーで鶏肉が安いというくらいの吹聴でしかなく、達観したところで巡り合ってくるものは事実ばかり。

 自分の不幸を知らない幸福に沈んでいく生物が一つ     。

 この世に現在が無いなんて、そんなのとっくに分かってる。けれどどうしたって未来に行き着くのならば、過去に意味なんてものはないんじゃないだろうか。

 もし、過去が無かったとするならば。

 それは善良で無垢で、この世でもっとも残酷な生き物がひとつ、出来上がるだけ。

 そうしない為に過去を取り込んで未来を待つのが生きるって事なのか。運命を組み替えるのも紡ぎ上げるのも二の次で、切り開いていくなんてのも夢のまた夢。

 ただ漫然と『待つ』。

 自分で作り出したと錯覚するだけの未来なんていらない。現実主義に傾倒するなら、さらに過去なんていうオカルトも、自分さえも殺してしまうしかない。

 関係するのを恐れるあまり抹消してしまった自分自身という概念が、形而下で暴れ狂う妄想をただ創造するのが、未来を迎える覚悟に他ならない。来てしまったものは遺憾千万。丁重に受け流すしかない。

 逆に言うならばそれぞれが物体化した世界において、未来現在過去の相対性は、見るも無残な泥仕合を繰り広げる篭球試合のような点数を表す野球を凌ぐ紳士の対決だ。雨の中、走り回ってやっと手にした絶対的な価値あるものが、『現在』が無いばかりに無為に天昇する。

 月と太陽に似ている。ロマンを味わうなんて、それこそ反響だ。

 昨日に帰納するだなんて駄洒落も、言葉遊びにすら及ばない未来を見ないなんていうのも、その全てに現在が顕在するなんてのもまやかし。嘘の塊。

 『汚い』や『影』を正しいと認識してしまうのも不健康ではないが、どうせなら万物に侵食されない超常的な『純粋』を愛していたい。

 そんな風にボクは過ごしたい。

ニゼロノ話




1


 春休み明けの学校なんて、学校であって学校じゃないものだ。

 何処かで見た風景を見てもいないのにデジャビュに晒して、九十九桜を横目に校舎の扉を開け放つ。外よりはまだ暖かい。

 時間はまだ朝の七時。寒風吹きすさぶ中庭から見上げて、空を嗜む。今日も腹に溜まる青空で、向上した気分のまま階段を上る。二階、三階。     まだ止まらない。

 四階。ここは一年生の教室が並ぶフロアだ。しかし目的はそんなところには無い。校舎内階段を上がってすぐ右に曲がると一年N組の教室。そこからまっすぐにアルファベットを逆に進む。やがてA組の教室の辿り着き、そこから外の非常階段への扉をくぐってさらに上へ。

 屋上に出ても青空は近くも遠くもない。距離が開きすぎていて、ちょっとやそっとじゃ遠近感に狂いも生じない。遅く、長い雲を見ながらボクは、給水塔に近づく。

「鴫野」

 案の定、鴫野はそこにいた。

「昨日はありがとう」

 もそもそ動く音が聞こえるが、姿は見えず。構わず持って来ていた紙袋を差し出す。中身は昨日、帰りに買っておいた有名店のケーキ詰め合わせ。

「好きかどうかわかんないけど、お礼として」

 正直な気持ちだ。借りを作ると喘息の発作が起こるわけではないが、そのままというのも居心地が悪い。この程度で精神衛生が得られるならば幸いだ。

 それからゆっくり数分。差し出した手が疲労して下がり始めてやっと、動きがあった。こちらから見れない給水塔の向こう側にある梯子を降りる音。

 欠伸を噛み殺して、鴫野は制服に付いた細かい埃や錆を落としていた。

「昨日は何があったかな」

「助けて     あー、まぁ結果、助けてもらったから。細かい事は置いといて……朝飯食った?」

「まだ」

「じゃあ朝からケーキと洒落込もう」

 それも予想していた事なので、これも来るまでに買っておいたホットコーヒーとホットミルクティーを地面に置く。目を動かして、屋上の隅に転がっていた段ボールを持ってきて敷き、そこにケーキの紙箱を載せる。

 よたよたと本当に眠たそうに鴫野が座る。わざわざ地べたに。

「いただきます」

「まだ朝の七時だぞ。いつから学校で寝てたんだ」

「うーん、昨日の夜か……夕方。憶えてないや。モンブランって汚いよね、見た目。やっぱガトーショコラ一択」

 迷わず紅茶とガトーショコラを手に取ってもそもそ食べはじめる。ボクは不遇なモンブランを食べ始めた。

 しばらくそうしているのも何なので、鴫野の観察を始めた。見ていて捉えたのは、鴫野は食べるのが遅いという事。そしてケーキを食べるのにフォークを使わない事。

「これ、全部くれるの?」

「え。あぁ、うん」

 言葉に連れ戻されて、今は機械ではなく人と話しているんだと再確認する。それにしても見れば見る程、不思議だ。食べるのは遅いのに、全体を食べ切るのは速い。どういう事なんだろう。

 早くも二つ目     今度はレアチーズケーキ     を手にとってフィルムをめくる。と、何故かハッと驚いた顔でケーキを口から離す。

「どうしたの?」

「あー、寝惚けてた。どういう事? なんで祝園くんがわたしにケーキをくれるの?」

 どうやらさっきまでは夢の中だったらしい。一つ平らげといてなんという言い草だ。

「昨日、電車でさ、結果的に助けてもらったから」

「そのお礼? 律儀だね。助けたって何かあったっけなぁ」

 昨日の事は憶えてないらしい。少し考えて、思い出せなかったのかまたレアチーズケーキをぱくつき始める。

 これを機にじっくり観察を開始する。顔は、化粧気の無いさっぱりした面持ちだ。特別に可愛いわけでも綺麗なわけでもない。いや、平均よりは少し上ってところか。目立って秀麗なわけでもないが、パーツのバランスが良い。線が細い印象を受けるのは白い肌と短い手足からだろうか。

 レアチーズの次は迷った後にラムレーズンパウンド。

「鴫野さ」

「なにさ」

 消えない疑問をぶつけてみたくなった。そうする事で何かが解決するような気もしたけど、どうしてもその一言目が思いつかなくて、

「いや、やっぱいいや」

 こっちから断ってしまった。

「ふん、変な人だね。というより、朝からケーキはいらないや」

「おいおい三つも食べといて」

「今日はもうご飯、いらないや。わたし、背が小さいから、太ると嫌だもん」

 そんな普通の感性が、貴重に感じる。

 どうして鴫野にこうまでして執着するんだろう。浅く広くの八方理論で生きていくつもりだったのに、どうして嫌われ者に付き纏うのだろう。

 答えは単純明快。

 そっちの方が得そうだからだ。

「じゃあこの残った三つはここに隠しておいて、また食べればいい。この季節なら腐らないと思うし」

「常温で長時間放置したケーキを食べさせようなんて、嫌な人ね。姑みたい」

 人間関係は損得勘定で動く。それはもう歴然と判明した事実であって、学んだ事柄である。得だと思う人間にしか、人間は絡んでいかない。自分が何かしら得る為に、人間は関わり合いを持つ。

 それは雑談で得る笑いや、具体的な知識、イジメによる快感、もしくはカツアゲする事によって得る金銭。

 何かがそこに存在するのだ。そしてギブアンドテイクのテの字も存在しない、そんな鴫野には誰も関係を持とうとしない。当然だ。

 そんな鴫野と仲良くしている人間はどう捉えられるだろうか。

 もしボクが入学当初から手の付けられない不良だったとして、学校の嫌われ者だったとしたら、嫌われ者同士で仲良くなる、何も益の無いグループが出来上がるのだろう。

 が、ここにいるのはボクだ。

「眠い」

「食べてすぐ寝ると牛になるぞ」

 ぐずぐずとその場に倒れこむ鴫野。

 転入生というポジションはデメリットこそあるものの、その分のメリットが大きい。好印象でもなく悪印象でもなく、ただ『転入生』というカテゴライズがそこにある。孤立無援。ボクからすれば四面楚歌なわけだが。

「化粧も崩れるぞ」

「化粧しない。肌はもともと綺麗だから。そういや君も肌はきれいだね。病気のせい? どんな病気だったの?」

 病気。学校にはそういう事になっている。どう答えようにもそれは根本から嘘なので、否定もできない。

「病気のことは君に関係ないだろ」

 焦ったボクの答えはどうしようもなく、ついつっけんどんな言い方になってしまった。無言で重い空気が流れる。

 どうしたものか。敵とみなしてはいるものの、敵対を億度してはいないのに。失策だ。

「そだね」

 短く鴫野はそう答えた。それっきり、寝息ともため息ともつかぬ息を繰り返す。動こうにも音を立てる事すら躊躇われる。

 ここは折れた方がいいだろうか。

「ごめん。思い出したくないだけで」

「いや、いいさね。あ、ケーキご馳走様」

 これでとにかく空気を引き戻す事には成功したわけだ。まだ引きずってはいるけれど、さっきほどじゃない。適当に誤魔化せば、どうにかなるだろう。

 いや、言い訳だ。正当化だ。沸いてくる疑問に気付きたくないだけ。

 ボクはどうしてこうまでして鴫野と関係を持とうとする。気にしないって決めたのに。言い難い感情が心から、泡のように。

「鴫野、聞きたいんだけど」

「どーぞ」

「鴫野はどうしてあんなに、なんていうか、昨日みたいに」

 言葉が出てこない。さっきと同じ、堂々巡り。頭の中で概念だけが回って、それが確固とした形で出てこない。感覚を言い表すだけのボキャブラリーが無い。そもそもこの世にそんなものが存在するのか。

 どう言えば、伝わるんだろう。

「昨日? 電車の? あーうるさかったからね。ただそれだけ」

「じゃなくて、どうしてああいう事が出来るの?」

「だってうるさいし」

 単純明快。そこには後先とか反撃とか倫理や諦観や憎悪も嫌悪も無く、ただそれだけ。

 ここでボクは鴫野という人格について、見誤っていた。世界にいる自分以外の人間はもっと単純なのだ。その中でも輪をかけて鴫野が単純なだけ。いらない考えを起こして行動できない、そんな自分と同じだと勝手に思い込んでいただけ。

 鴫野はうるさかったのだ。だから静かにした。

 なるほど。そんな性格なら嫌われても当然だ。

 そして、鴫野はそんな状況に耐えうる精神を持っていて、それ故に状況から抜け出す努力なんて無意味に等しいのだろう。自然体と言えば聞こえはいいが、こと現実においてそれは害悪だ。

 いや。

 最悪の象徴。

 もしかすると誠に勝手ながら、ボクは鴫野を助けたいと思っているのかもしれない。一人。ボクはそれを覚悟してきているから、辛いはずの無個性を耐えていける。鴫野はそれを堪えてるようには見えない。恐らく、気付いていないのだ。

 だから気付かせてあげたい。その結果、良い状況になるか悪い状況になるかは別として。

 ボクは切り出した。

「鴫野って友達いるの?」

「いないかな、いや、何人かいるよ。すんげー面白いの」

 そして世界には少数派ながらもそういう人間に追随する者がいる。『感応した』とでも言おうか。受動的に堕するが末に自己保身すら失った人間と、もしくは切磋琢磨から迎合和解まで共にする人間と。

 一種のカリスマなんだろう。そういう人間には量より質の人間がついてくる。

「紹介してあげるよ。君も、今は一人ぼっちってやつなわけでしょ」

「それは     」

 悩む。その提案を受け入れれば確実に、今のフラットな状態から『鴫野の友達』というシフトダウンを成すだろう。量をとるか、それとも質をとるか。

 ここは転入生のメリットを使わせてもらおう。

 無知と、博愛。底を見られなければバレない嘘を吐こう。

「     ありがたいかな」

「おー。じゃあ今日は授業があるし、放課後にでも遊ぼうぜ」

 それっきり、鴫野は眠り込んでしまった。本当に眠かったようだ。その場で地面の誘惑に負けてしまった。仕方ないので段ボール紙をいくつか被せて非常階段を降りる。

 かつかつと金属を鳴らす足音は、あの病院を思い出させる。

 心に留めておくほどの感傷でもなかったので、数秒後には思い描く事もなく、ボクはもう一度、学校を出た。




2


 放課後まで鴫野は教室に姿を見せなかった。心配にもなる。

 朝からもう八時間。時間は三時半を少し過ぎている。しばらく教室で待っていたが、来る様子は無かったのでこちらから出向く事にした。恐らく、まだ屋上にいるだろう。

 初日の授業なのでそれほど何か進むわけでもないが、それにしても丸一日をサボタージュぶっこくなんて、これからのボクには出来そうもない。

 クラスには溶け込めそうだ。まだ気を遣ってもらえる身分にいる。付かず離れずどっちにも行かない、迷っている風にでも見えているんだろうか。

 屋上。珍しく(といってもボク自身、僅かしか来ていないが)先客がいた。フェンスに手をかけて下界を見下ろしている。

 尻まで覆う長い黒髪が屋上の風になびいて、その体を打ち付けている。下界を見下ろす神様のようでもあるし、世間に絶望した愚者のようでもある。後姿を見る分には服装は優等生。

 近付けば背が高いのが分かる。男子平均のボクと同じくらいだから、女性なら高い部類に入るだろう。

「よぅ」

 呼びかけられて声の正体が分かると、自分がどうしてここに来たのかを思い出す。

「鴫野。まさかずっと寝てたのか?」

 給水塔から頭だけ出して鴫野はあくびを一つ。

「やりたい事が多すぎて何もしたくないから」

「授業に出ない言い訳にしてはやけにモラトリアムだな」

「学校の授業じゃ教えてくれない大事な部分でもあるからね」

「知ってるか? 授業じゃそこで習えない事が習えるぞ」

 軽口を交わしていると、フェンスの女の子がこちらに目を向けた。おしゃれな流行の眼鏡ではなく、品のある細い銀縁のそれの奥には、やけに悲しげな瞳がある。異質感があったが、すぐにそれは眼鏡が伊達のせいだと感づいた。

「あ、こいつが祝園くんね」

 あろう事か鴫野の言葉はこの女の子が自分の友達である事を示していた。芯の無さそうな、吹けば消えてしまいそうな、フェンスの女の子。

 悲しげなのは垂れ目のせいだろうか。それとも本当に下界に絶望したか。

「ど、どうも」

 とにかく挨拶はしなければいけないだろう。

「こんにちは」

 と、向こうも眼鏡を外して頭を下げる。名札が見えた。シンボルカラーは黄緑色。上級生だ。

 愛想笑いも無く、女生徒が歩いてくる。足取りはしっかりとしてこそないものの、生まれたてのトムソンガゼルほど弱くもない。いわゆる、普通。

 驚いた。鴫野にこんなに普通の友達がいただなんて。

御陵(みささぎ)です。御陵こより」

「祝園啓です」

 そこから続ける会話も無く、無言が支配した。空間の密度が上がって、意味も無く汗が噴き出して心臓やら部活の声が耳に響く。

 助け舟を求めて鴫野の方を眼球だけ動かして見たが、この状況下で奴はぐっすりと寝ていた。どうしようもないので、ボクは給水塔の下にある隙間から、紙箱を取り出す。

「あの、ケーキ、お好きですか?」

 蓋を開ける。

 が、何も無い。

 こいつ、結局は全部食ったんじゃねぇか。

「す、すいません! もう無くなってました!」

 慌てて謝罪する。みっともない。いかに冷静を取り繕おうと心の底にある危機対応能力に成長が無い。

 どうすればいい。頭で考えても答えを見つける前に思考がストップしてしまう。白い眩い光が脳内で爆発して何を考えているのを見失う。

 そんなボクを見かねたのか、御陵さんとやらは     、

「ごめんなさい」

 謝り、     いや土下座しはじめた。

「何、してるんです?」

「いや、私のせいであなたがそこまで気にする必要は無いんです。いないものとして、空気なんです、私」

 言いながらも、決して平らではない地面に頭を打ち付け続ける。

駆け寄って体を起こすが、それを振り切ってまた土下座。

「気にしないでください放っておいてください見ないでください気付かないでください感応しないでください拒否しないでください聞かないでください考えないでください頭の中に浮かんだ私という記憶の一片たりともを消してくださいいないものとして扱ってください私はここにいません私なんかはいません私というものがここにある事はありません」

はっきりと耳に残る呪詛を吐き出して、ボクの制止も振り切り土下座を続ける。鈍い、嫌な音で自分の記憶もフラッシュバックしそうになったが、それをどうにかして堪える。

いくらなんでも様子がおかしい。

「鴫野!」

呼びかけても返事は無い。

やがて頭突きの数が三桁に上ろうとした頃、ようやく給水塔から降りた鴫野が傍まで来た。そしてまだ「感応しないでください知覚しないでください敵対してないでください賞賛しないでください同情しないでください悲哀しないでください憤怒しないでください虚無しないでください喜悦しないでください」と繰り返す御陵さんの脇腹を、力の限り蹴り上げた。

今度こそボクの頭ではもう理解できなかった。

鴫野の矮躯とはいえ、助走をつけたサッカーボールキックは、土下座する御陵さんの肋骨の下、鳩尾のあたりを的確にヒットして、ごろごろと二回転半して上空を見上げさせた。

うずくまって「ケヒッ」と息すらままならない御陵さんに、

「よりちゃん、この人は何もしないよ」

 鴫野はそう言い放った。

 あんまりだ。自分が今しがたやった事が分かってないんだろうか。場所が場所なら国際戦争だぞ。軍法会議ものだ。

「みさ、さぎさん?」

 恐る々るタイル三つ分を縮める。自分の蹴ったところを撫でる鴫野の背中から、御陵さんを覗き込んで、ボクは嚥下を鳴らした。

「ケヒッケヒ」

 笑っている。

 涙を流して、空気すらまともに循環させる事のできないその身体を折り曲げて、御陵さんは笑っている。血走って瞳孔すら開いた目で、吐瀉物とも涎とも判断できない粘液を口から溢れ出させて。

 い、異常だ。何が起こってる。

「大丈夫、なのか?」

「平気平気。だいたいいっつもこんなんだから」

「いつも、って……。いつもこんな事してんのかよ!」

 と、口走った瞬間。しまった、と思った。

 ボクは何を言った? 一瞬でも義憤にかられるなんて。何を常識ぶっているんだ。いつだって異端なくせに。

 御陵さんは喜んでいるようには見えない事もないが、助けを求めてはいない事は確かだ。そして、さっきはじめて会ったボクは、残念ながらテレパシーじゃない。

 やっと頭が働く。

 あれは御陵さんの処世術なのだ。

 ボクは世界を完全に隔離して、自分を隠し通して捨て去ると決めた人間。

 鴫野はそもそも世界に気付いてすらいない人間。

 この御陵さんは、世界に自分を感応させないように生きているんだ。思い返せば、あれだけ自分の存在を感応しないで欲しいと願ったその言葉の中に死ぬ殺してくれという類の言葉が無い。

 それは生きたいと、受け取っていいんだろうか。

 そうやって生きる事を、覚悟したんだろうか。

「よりちゃん、さっき言ったでしょ。祝園くんはちゃんと接してくれるよ」

「ケヒ……ほ、んと?」

「ほんと。ね?」

 ボクは首肯した。

「その、なんだかとっても遅れた挨拶なんですけど」

 同類項。同属嫌悪も発生しない、空前絶後のカテゴライズ。

 この子も普通じゃない。

「よろしく、お願いします」

 頭をもう一度、下げた。




3


「ゆいちゃんゆいちゃん」

 御陵さんは苦痛から解放されると、その本性を現した。

 幼児退行なのか、要事に対抗してるのか、御陵さんは見た目とは違って非常に幼かった。とても一つ上の学年、もとい同い年とは思えない言動と行動。

 鴫野の傍から離れようとしない。三人が同じ場にいるのに、これじゃあ三者面談だ。

「よりちゃん、ちょっとは祝園くんと話してみんさい」

 話そうとしてもまだこちらをしっかりとは見てくれない。目を合わせるのが恐いのか、いつも伏せ目がちで遠慮深い。

 その分、鴫野にべったりなんだろう。対人関係の絶対値が1とするならば、そのほとんどを鴫野に依存していると見える。あんまり手放しで褒められる事じゃないが、まぁ、何にせよ鴫野にじゃれてる間は幸せそうだ。

「祝園くんもよりちゃんに敬語なんて使わなくていいのに」

「そうもいかないだろ。上級生だ」

「けれど同い年でしょ? なら心配ないさね」

 そうは簡単に言うが、会ってすぐの上級生、しかもあんな場面を見せられた後じゃそんなすぐに気分を転換できるはずもない。おいおい、移行していく事でその場は収まった。

「ゆいちゃん、それそれ」

 鴫野の手にあるメッコールを欲しがる御陵さん。ボクのカツゲンに興味は無いらしい。

 それからは他愛の無い話が続いた。扇風機のリズム風は必要か? とか、プールに飛び込んだ時にゴーグルが外れるのを防止するストッパーは必要だろう? とか、鏡餅の中の小さな餅はありかなしか? など。どれをとっても何かがあるわけでもない。いわゆる世間話。

 まさかこんなに普通の生活がここに存在するだなんて。

 普通ではない人間がする普通の会話。

 未曾有の境地に自分は立っているんじゃないか。

「御陵さんは、三年生なんですよね。もう大学どこいくとか、決めてますか?」

「いや、まだなのです。その、うち、あんまりお金が無いから」

 やがて御陵さんもボクと敬語ながら話してくれるようにはなった。鴫野がしきりに頷いていて嫌な気分だが、こうなってしまえばもう三人という壁も無い。

 そう。

 浮かれていた。

 楽しかったんだ。

「祝園くんは、どうするです?」

「ボクは大学にはいかないですよ。ただでさえ一年のブランクがあるんだから、早く働きたいですね」

「ブランク?」

「あーそうそう。ゆりちゃん、祝園くんはね。病気で一年ほど休学してたんさ」

 病気。

 あの交通事故の事はもう思い出したくない。痛くもなければ恐くもない。記憶として残ってるのは事故にあったというその一点だけ。

 自分が記憶喪失だという非日常の体現なボクは、家庭でも学校でも、今までの自分を隠し通して、そして捨て去らなければいけないと思っていた。

 けれどそれに意味なんて無い。

 ここに過去のボクを知っている人間はいないんだから。

「そう。大変なのです」

 だからこそ、この学校に来た自分を形成するこの数日間は、今までの人生でもっとも楽しかった。自分を自分として、そしてボクがボクでいられる。

 でもそれはボクじゃない。

 本当の自分は、そんな『楽しさ』を味わう資格なんて無い。

 嘘偽りの隔壁で現世を解脱し、心の中で嘲笑を繰り返す。自分がこの世界で自分しか愛せないのを知ってしまっている。

「御陵さん、ゴミがついてますよ」

 だから何をされても傷付かない。

 床を転げまわってた時にくっついたんだろうか、御陵さんの頭頂には細かい埃と砂利が付着していた。

 それを落としてあげようと不用意に手を伸ばす。


 その手が、撥ね退けられた。


 あまりの速さに自分の手を見失ってしまう。所在を掴む前に、原因を探った。

 跳ね除けたのも手だ。それは鴫野の手。腕、肩、首と上っていき、表情が分かる。視点の定まらないボクでもその表情が意味する感情を認識した。

 怒っている。

「鴫野?」

「何も説明しないうちにどうしてそういう事ができるのか、わたしにはさっぱり分かんない」

 睨むなんてもんじゃない。射殺す程に凶悪な視線。

 だってボクの好きなアニメの主人公は、そうしていた。そこから恋が始まる事だってあったし、インターネットで頭を撫でられるのが好きな女の子も多いって書いてあったんだ。

 だからほんの軽い気持ちで、下心に身を任せた。

「見てみな。祝園くん」

 激情と困惑の最中、ボクの前にいたはずの御陵さんがいない。いや、いる。鴫野の後ろ、自分より小さい鴫野の背中にくっついて、震えている。

 笑っていない。

 しかし現象は繰り返す。

「うあ゛」

 込み上げた胃液とメッコールの混合液を、昼に食べたであろう未消化物を、御陵さんは吐き出していた。飛び散る飛沫を避けもせず、溢れ出る中身を抑えようともしない。

 鴫野の足とスカート、背中を汚した御陵さんが、言葉と液体を同時に口から発する。人間は、どうしてその二つを同じ場所から出す構造になっているんだろうか。聞こえない。言葉にすらなっていない。

 聞き取れるのはほんの一言。

 死にたくない。

 立ち往生だ。ボクに出来る事が何一つとしてそこに無い。ただ見ている事しかない。御陵さんが苦しむのを、鴫野の服が汚れていくのを。

「自分のした事を、見てみな」

 言われずとも目が離せない。

 責任の所在を探した。自分なのか、それとも御陵さんなのか。そもそもそんなものがその場にあるのか。疑問に疑問、応答に応答、重ねても生まれるものなんて。

 体の中を空にしてようやく、御陵さんがはっきりと言葉を喋る。同じ。同じ言葉だ。

「ごめんね、祝園くん、ごめんね」

「よりちゃんが謝んないでいいよ」

 その後に続くだろう言葉。御陵さんが悪くなければ、じゃあいったい誰が悪いっていうんだ。明言しなくても感じ取れる糾弾。身を刺す針のような雰囲気。

 だって。でも。だから。そもそも。むしろ。いや。

 浮かんでくる自己保身にどんな回答を続けようとも、決定的に守ってなんてくれない。

「ごめんな、さい」

「謝ってどうするの?」

 作文が得意だったのに。小学生の時だって大人が望む事がだいたい掴めた。悪戯した時だって、どうすれば一番叱られないかが分かったのに。

 今、自分がどうすればいいのかが分からない。

 鴫野はボクにもう一言も続けず、御陵さんを背負って屋上から降りていった。

 まさか帰るわけにもいかず、座っていても落ち着かない事が分かっているから、ボクは考えた。いろいろと考えたんだ。けれど何も、何も考えてない。

 すぐに戻ってきたのは鴫野一人。さっきほど怒ってないようだった。

「祝園くんには期待してたんだけどな」

 そう言ったっきり、給水塔に登って降りてこない。

 期待? こんなボクに何を期待するっていうんだ。人の影を歩いて、自分を一つとして見せないそんな上っ面な人間に何を求めてるんだ。

 もしかすると、鴫野は気付いてるのかもしれない。

 自分に、自分が置かれた世界の状況に。

 ボクが浅慮なせいで、行き届かなかったせいで見えなかっただけで、鴫野は本当は自分の境遇に気付いているのかもしれない。

 だとしたらボクは。

 ボクは道化にも劣る。

 だったらやる事は一つだ。

 足の裏に力を込めて、地面を強く蹴る。体が軋んだようだが、もうそんな事は気にしない。大事の前にそんな瑣末は放っておいていい。くそ、どうして自分の足はこんなに遅いのだ。どうして人間は風より軽やかに、光より速く走れないのだ。

 一人の時間と現状を鑑みて、御陵さんは保健室に運ばれたのが妥当だ。脇目も振らず、ほとんど落ちるようにして一階を目指す。

 非常扉を開けて校舎の中を走る。教師が驚いた顔で道を空ける。今時、廊下を走ったくらいでは止められて怒られる事なんてない。それが幸いしてアクシデントも無く、生徒相談室の隣にある保健室にたどりつく。

 全力疾走で上がった息を整えるなんて時間も惜しい。ノックもおざなりに扉を開け放った。

「御陵さん!」

 白を基調にしたテンプレート、コピーアンドペーストな保健室。目の前の机には教諭がいない。留守にしているんだろうか。そんな瑣末はどうでもいい。

 左右に合計四つあるベッドで、右手前のカーテンだけが閉められている。それがすっと横にスライドした。

「祝園くん」

 御陵さんは予想通り、そこに立っていた。少しやつれてはいるようだが、もう体調に異変は無いらしい。汚れた制服は学年別に色分けされた体操服に変えられており、黄緑が眩い。

 咄嗟に一言目は出なかった。

「ごめんね、祝園くん」

 謝る御陵さん。その謝罪を止めてくれる鴫野がいない。とめどなく溢れる御陵さん本来の意識と卑屈の奔流に、渦巻いた空間が溺れていく。

 きっと何も悪い事なんてなかったんだ。

 誰が悪いとか、タイミングだとか運だとか、何かが悪いわけじゃない。だから謝っても意味なんてないし、許しを得る事もない。鴫野はそう言いたかったんだと思う。いや、そんなの言い訳だ。

 ボクが、そう思うから。

「謝らないで、ほしいです」

 息を吸う。

「御陵さんは、どうしてあんなに……」

「言いたくない。それは卑怯なの」

 一刀両断にされて二の句は告げない。

「あなたは、祝園くんは、私にちゃんと接してくれないの?」

「それは! ……それは、ない、です」

 言葉がボクの心の迷いを受けて濁っていく。表面に施された無表情が崩れていく。

 彼女はカーテンを握り締めて、またその影に隠れるように、

「ゆいちゃんは知ってるよ。自分がどういう人間なのか、それを知ってるの」

「ボクだって、それくらい知ってる。自分がどんな人間なのかなんて」

 知っている。

 知っているだけ。

「知ってるだけじゃ、何もできないよ」

「それも、知ってるんです。感応しなくちゃいけないのも、分かってる」

 分かっているだけ。

「だったらもう帰って欲しい」

 涙が声に混じっていた。


「キミは、そこで終わりだよ」


 終わりの合図としてカーテンを閉め、御陵さんがそう言った。明確な拒絶の意思表示。

 今までボクがやっていた“静”ではなく、はっきりとした“動”の拒絶。そこに隔たりなんてものが見えないのに、存在はしている不思議。

 まただ。

 ボクは何にも成長なんかしていない。

 変わっていない。見る方向を移動しただけで、本質には一つとして変化なんてないじゃないか。

「……」

 自分が立っている場所が違うだけで、物事はまったく別の一面を見せる。精神的にしろ能動的にしろ受動的にしろ、そこにもう本来の真実なんてどこにもない。

 鴫野はボクに期待していると言った。

 どうしてこんなボクに期待なんてものをしたんだろう。

 どうすればこの心を期待させるものに見せる事ができたんだろう。

 人間は公式や定義じゃ動かない。




4


 小説なんか嗜んでいると思う事がある。アニメなぞを見ていると思う事がある。漫画なんてものを読んでいると思う事がある。音楽とかを聴いていると思う事がある。絵画らへんを眺めていると思う事がある。

 結局、これは感応なんかじゃない。これは自分自身との対話であって、どこのどんな奴がこの作品を作ったとしても、その作者なんかじゃなくて、関係者でも考え方でも思想でも哲学でもなくて、それこそこの媒体なんかでもない。

 これは自分との対話だ。

 自分の中にある何かに照らし合わせて、それを想像力や妄想で補い、取り繕い、装飾して作り上げる。完成品は人それぞれによって違うものになるから、結局はそこに真実は無い。

会話をするって聴覚とか相手の表情で終わりを決める。だから食い気味でかぶせていくのも、意図的に無視するのも自由だ。けれど何かを受け取るっていうのは違う。作り手と受け手じゃ、関係(コミュニケーション)は成り立っていない。文字を目で聞く、もどかしいジレンマがある。

 受け取る人間までもがそれを完成させる部品なんだとしたら、この世界に独立なんてものが存在するわけがない。

 でも人間は一人で生きられる。

 本当にそうなのか?

「だってそれ、生きてないじゃん」

 鴫野の声が聞こえた。

 屋上に意識を戻したボクが、何気なく鴫野に発した「どうして御陵さんはボクに終わりだと言ったんだろう」に対する答えだった。

「知ってるだけ分かってるだけで何か出来るんなら、世界中のみんなが幸せさね」

 韜晦した鴫野の笑みは、いつもの薄笑いなのか快笑なのか判別できないそれだった。

「なんだか生きるってさ、『やりたくない事』をどうやって知らずに過ごす事だとかさ、そんな世界になってきてる印象があるんだよねー」

 続けて手を大仰に広げる。

「メリットデメリットっつーの? なんかデメリットを得ずにメリットばかり得ようとするって感じ。なんかね、気持ち悪い」

「だから」

「ん?」

「だからボクに期待したのか?」

 デメリットを受け続けてきた人間だって分かったから、それならメリットを欲しがるだろうとか、それともそれを知っているからこそ御陵さんに感応できると思ったんだろうか。

 期待っていうのは酷い言葉だ。

 それこそメリットだけ得ようとして本来無いはずのデメリットを勝手に作り出す悪循環。

「ちょっと違うけどね、大元はそんな感じかな」

「いくらなんでも勝手すぎるよ。ボクは何かを生み出すなんてタイプじゃない」

「え」

 さも心外そうな顔を見せ、本当に分からなさそうに、心底不思議な顔で鴫野が問い返す。


「じゃあ何の為に生きてるの?」


      。

 答えが出ない。

「何かしたくて生きてるわけじゃないの? え、じゃあどうして生きてるの?」

 あ。

 これ必殺の言葉だ。

「鴫野はどうしてなんだよ。どうして生きてんだよ」

「決まってるじゃない。わたしは楽しい思いをするためさ」

「そりゃあ漠然としすぎてる。それこそ何だっていいじゃないか」

「最初から大事で難解じゃなきゃ駄目なんて言ってないさね。君が勝手に重く考えてるだけだよ」

 返す刀に二度切られ。


「そんな簡単な事すら満足に言えないんでしょ?」


 あえなく殉死。

「少なくとも今の祝園くんにそれは言えないでしょ。それにわたしは楽しいっていう事がどれだけ残酷かを知ってるもの。だから気付いてないフリしてるだけ」

 ボクはどうして生きているんだろうか。これからどうやって生きていくんだろうか。

 本当の自分を隠して、普通を推し進め、悦に入って他人を見下すだけで、それが何を生み出していたんだろうか。そもそもそれが生きているんだろうか。考える葦だなんて、そんなの人間じゃない。

「よりちゃんはね」

 給水塔から飛び降りて、鴫野はスカートにこびりついている乾燥した吐瀉物と埃と錆びを、いつもの要領で払いのける。

「誰にも見られなかった。感応されなかった。初めは親。兄弟姉妹親戚他人なんかもそうだし、友達知り合いクラスメイト人間生き物、とにかく自分がいない事になってたんだよ」

 まるで。

「イジめられもしないからイジめない。褒められもしないから貶さない。話しかけられないから話せない。いるのかいないのかも自分で分からなくなって、本当に自分が透明人間だなんて思ってたんだって」

 名簿に名前が載らなかった事もあったって言ってた、と鴫野が笑う。

「だからよりちゃんを初めて見たわたしは、この屋上に来てよりちゃんを見つけた祝園くんに期待したんだよ」

 まるで御陵さんはボクの夢のようだった。

 罵詈雑言を積み重ねて作られていた昔のボクが望んでいた姿の具現化。

「それでも生きたかったよりちゃんがやったのはね、自殺未遂」

「自殺?」

「そうそう手首じゃなくて飛び降りの方ね」

「飛び降りって……」

「三回くらいかな。最初の一回目はみんなよりちゃんを見てくれた。みんなが自殺した人間だって、そうやって騒いでくれた。だから二回目も何の躊躇いが無かった」

 淡々とした口調。

「二回目までは軽症ですんだんだけどねー。で、最後の三回目で、頭から落ちちゃったんだ。本当に死にかけて、何ヶ月も入院して、けど、誰も見舞いになんて来なかった」

 わたしもいなかったしねー。

「だからもう死ぬフリは止めたんだって。だからよりちゃんは生きる事にしたの。でもただ生きてるだけじゃ、意味なんて無い。けど自分を見てくれる人だっていない。本当に死ぬしかないって時に、わたしがよりちゃんを見つけたんだよ」

「だから頭触るの、嫌がったのか」

「そこ以外なら何しても喜ぶのにね、不思議」

 だってそれは自分を見てくれているという事だから。自分に感応して、自分という存在が相手の中に住む事を許可されたから。

 死んでも自分が生きていたと証明したい、そういうパラドックスを彼女は抱えていただけなんだ。何の事はない、彼女も一人では生きられなかっただけだ。

「ボクとは違う」

「そりゃそうだよ。この世界に自分がもう一人いたら、その人としか付き合えなくなっちゃう」

 やっと、御陵さんが見えてきた。

 勘違いしていた鴫野の本質にも薄々ながら感付きはじめてる。

「ボクのやり方じゃ、誰も認めない」

「やるだけやれば? 絶叫マシン乗る前から危ないっていうより、乗ってから楽しかったかどうか決めた方がいいじゃんね」

「鴫野、お前は御陵さんに感応するだけでよかった。自分の人生を賭してまで得たかったものを御陵さんに与えたんだから。でも二番煎じになるボクは彼女に何も……」

「それこそ考えすぎだと思うけどね。わたしだって祝園くんに期待していたのははっきりしてなくて、ちょっとよりちゃんがもう少しなんとかなるかなってだけだし」

 鴫野もボクと同じだ。

 人に期待する分、その落胆を知っている。自分よりも、自分が望む行動を人がしない事を知っている。だから気付かないフリをして、自分を守った。

 ボクが御陵さんに出来る事なんていくつもない。

 その中に正解があるのかすらも分からないから、ボクは我武者羅に全てを試すか、もしくはいつか来る正解の享受までを漫然と過ごすしかないのか。

「でもね、ほんとは少しびっくりしてる」

「何が? 御陵さんに見限られた事が?」

「それ含めてね」

 どういう事だろう。

「よりちゃんが誰かにそんな事言うなんて初めてだもの。自分を感応こそしてないものの、知覚してくれた人間に対してそんな事言うなんて」

 不思議とその疑問をボクは解消させる返答を持っている。

「それは、たぶんボクだからだと思うよ」

「どういう事?」

「ボクは人の持つ欠点って奴を持ちすぎてるんだよ。生きる才能はあるけど、生きるのを邪魔する才能が多過ぎてまともに人の目すら見れない」

 普通を気取るボクを、御陵さんが見抜いたとしたら。

 自分より恵まれた状況にあるボクが、そんな稚拙な小事に感けて大切な事を疎かにしている事を看破してしまっていたとすると。

 ボクが嫌われるのは分かりきってる。

「なぁ、鴫野」

「なにさ」

「お前の友達ってあと何人いるんだ」

 下唇に指を当てて、夕方の赤い空を見上げた鴫野が笑う。

「あと二人」

 二人分の地獄を考えて辟易した。同時にそれがどう自分と感応するかを想像して吐き気がする。

 おざなりにさよならを言って非常階段を降りて、もう誰の気配も無くなった二年生の教室前廊下を歩く。廊下に設置された生徒用ロッカーの一つに腰掛け、吸った事も無い煙草を求めていた。

 後味が悪い人工甘味料よりも苦々しい。

 そのまま少し眠ろうと目を閉じた。

 自分が人から愛されるなんて信じない。だから最後にはきっと金色の世界が待ってる。





























イロレゼの話




 濡れた花弁から出る樹液に蝕まれた丘陵が、樹海を掻き分け染み出る湧き水のように映る。

 ふとした思い付きに無理矢理を詰め込んで、同意の無い空虚な世界に理を信じる。斜になる頃合を策略計らっては挫折し、崇高な意思表示は無為に帰す。かといって妙義に堕するかと注釈された完全なる不完全が、証明される前にその意識を消していく。

 二つの山脈が押し上げるのは拾遺か、はたまた迎合か。考える間も無く腐れ落ちて、そこに何も無かったかのように別々の道を歩く。

 会えば傷を付け合う事もあったけどもう許せない。君がどうかは関係が無い。街でもしも出会っても手を振るだけで擦れ違う。あれほど必要だったのに『×××』の一人になる。

 切磋琢磨や難攻不落などと戯けた境遇に身を窶し、忌避を霏々するが紅蓮の地獄。三寒四温は繰り返さず、七寒で一巻から一貫の終わり。

 菊が咲き、また閉じては艶やかな象徴として回転する。包摂する危機を抑えきれない。しなやかでいて優美な花魁のよう。簪を抜き突貫したその先に、毒を注入しようといきり立つ。

 眺望するだけで満足できるならば。羞恥するだけで感じ取れるならば。

 所望すれども一寸先は闇。海路は東から西へ、北を南を頭にも出さず、衆知した結果を無残にも散らしていく。無価値な感動に飽和した老獪を気取る似非非人。

 記憶を離愁すればするほど、人間としてその尊厳を、矜持を切り取られていく。斬首に等しき愚考。辿り着けば峠を越えて裃に衣替え。拓く縦一文字に何を見たのか、もう憶えているだけ。

 史実が確かならばもう少し踏ん張り所を弁えたものの。

 忌日が夢想ならばもう少し段取りを懐に慮ったものの。

 放出が時に実を結べば、一喜一憂の右往左往。そこにあるのは記号か、はたまた内実か。それを判断できる人間は器に足らず。判断できない人間は轡を噛む。

 遠避けて確保した屍が藪を突き、出でるのは鬼か蛇か。般若にするか食らうか喰らわれるか。無視を携え、墓を参って知らぬ存ぜぬの一点張り。仁の道は人。

 限りなく終わりない。近づいては遠のいていく相対性理論を如実に体験し、切り詰めた滑稽極まる氷魚の行く先が、幸福である夢を願う。

 そこは何処か。

 昇らない太陽に甘んじているだけの、そのボクの背中をボクが見た。

サンゼロの話




1


 二人目を紹介されたのはそれから一週間が過ぎた、春とは思えない暖かさに参っていた放課後だった。

 場所はもはや定位置と化している屋上。クラスメイトの証言で判明したのだが、ここは鴫野の一派が巣食う魔界として有名らしい。鍵もかかっていない絶好のデートスポットに人が来ないのはそういうわけだった。

 と、二人目である。

 あからさまにこっちを睨む三つ編み女子生徒がそうらしい。

「あの」

「あァ!?」

 少し考えてボクは、

「いィ」

 と、返した。

 格好だけ見るとまともだ。その長く、太い三つ編みを垂らしているのが目立つが、制服に改造を施してもいないし、特有の気配も無い。気配というなら後ろから御陵さんと鴫野がわくわくしながら視線を送っているのを感じる。冷や汗を隠し切れないので、暑さのせいにした。袖で額を撫でると、生地の硬さにひりひりした痛みが残る。

 この友人で、目を引くのはその眼光だ。

 まるで鷹。いや虎。見た事は無いが恐竜にすら匹敵する。

 有神田(うかんだ)光月(みつき)とはそういう生徒なのかもしれない。その考えを先読んだのか、鴫野が「生徒会長だよ」と忠告をしてくれた。これが生徒会長ならこの学校はもうそろそろ廃校だ。

 それよりも気になるのは有神田さんの脇に控える眼鏡の男子生徒だ。むしろこっちの方が生徒会長のようなきっちりとした格好で、同じくこっちを睨んでいる。

「これで二人?」

「いんにゃ。きっしーはだみつきの下僕だかんね」

 げぼくとな。

私市(きさいち)です。よろしくお願いします」

「あ、これはご丁寧に」

 握手まで差し伸べられたので反射的に手を伸ばしたが、こちらの手が届く前に引っ込められる。よくよく見れば差し出した手も左手だ。

 これはやけに好戦的なコンビだな。ボクとはまったくベクトルが違う。

 でもからっとしている。蛇蝎の如き、嫌な湿気を感じさせない。気持ちのいい、こう言うのもなんだが天ぷらのようなカラッっとさがある。

「有神田、さん」

「……ッチ」

「祝園、です。この前、転校してきたんですけど」

「敬語はやめなぁ。タメだ」

「あ、はい、うん。え、タメ?」

 水色の名札を摘む。そこには2年A組の文字。この九隅第九高校ではアルファベットEまでが理系クラスで構成されている。よってこの有神田さんも理系に属するのだろう。ついで私市くんとやらの名札を見たが、当然ながらA組である。

 特待生、と揶揄される事もあるA組。理系でも成績上位が集められた、進学専門のいわばエリートコースである。

「祝園くん、祝園くん」

「なんですか、御陵さん」

 嬉々とした顔で御陵さんも名札を摘んでいる。

 A組。

「……すごいですね」

 いやに疲れる絡みをしてくるようになったな、この人。鴫野といいコンビだが、つい一週間前のVTRをここで上映してやろうかしら。

 ともすれ、今はこの有神田さんだ。

「有神田さんは生徒会長なんですね、二年の初めから生徒会長って異例じゃないですか?」

「いんや、あたしは留年組だからよ、ほんとは三年生」

 一人で色々持ってるなぁ。

「きっしーも留年組なんだよ。二人で仲良く留年したんだよね」

「あぁ、生徒会長が忙しかったからな。学業疎かで示しがつかんから、いっそのこと留年してやろうと思った。じゃけ、正確には二年の半ばからの生徒会長だ」

 御陵さんとは違うタイプだが、会話の糸口の見付からなさは同じだ。こっちからどう接していけばいいのか分からない。また安易に踏み込んで溝を作るのはごめんだ。

 見放されたくない。見捨てられたくない。それは違う。

 見くびられたくないという負けず嫌いな性格が、そこで主張する。

 根底には確固とした自分がある。それは汚泥のように心に絡みつき、動きを阻害して醒めさせる。お前には結局、誰もいないんだよ。お前は一人なんだよ、と囁きかけてくる。

 人との間合いの取り方が分からない。入学前の自分が考えていた、他人との距離をとって生活するなんていう牙城は、進撃に崩された。そもそも自分にまだ人と関係する事を億劫としないだけの暖かみがあったから。

「鴫野、お前にゃあ悪いが、この話は無しだ」

「ん? だみつきは祝園くんが嫌い?」

 急に出てきた自分の名前に驚く。

 さっきまで射抜いていた瞳が、不意に緩む。哀れみ? 慈悲? いや、これはボクもよく知っている。けれど今、この状況にそぐわない色。

「あたしは自分から何かしない奴は嫌いだよ」

 言うなりこちらに背を向ける。私市くんはポケットから取り出した手帳に何かを書き込みつつ、その後を追って歩き出す。非常階段を乱暴に降りる音が鳴り、やがてそれが止む頃にはまたやらかしたのかと後悔が襲ってきた。

 鴫野に何かを言われる前に追いかける。階段から見下ろせば、校舎に入る扉が閉まった。

 急ぎ足で歩を進めると、

「てめぇよぉ」

 と、低い声が聞こえた。

「そんな事しろって俺が言ったのか? 俺が言った事、理解してなかったのか?」

 有神田さんの声じゃない。放課後から少し時間が経った今、校舎に人影も無い。じゃあ誰だ? 声は扉の向こうから聞こえる。息を潜めて粉を吹く金属の冷たさを我慢して耳を当てる。

「……ごめんなさい」

「ごめんごめんって謝るならやれよ。どうして? やるって言ったよな? じゃあどうして約束破れんの?」

 謝る方は女の声。

 その疑問の答えは鈍重な音によって遮られる。何か重くて柔らかいものに衝撃が加わる音。次いで倒れこむ音に、追撃がこだまする。

「謝るなら誰にでも出来るだろーが」

 竦んで動けないボクを置いて、校舎内の状況は更に激化していく。声は呻きに変わり、最後にはその声も聞こえなくなる。攻撃の音が止んで、それっきりもう何も聞こえなくなった。

 自分の頭の中に自分が無くなってしまっていて、無音に急かされ立ち直る。いつの間にか開きっぱなしになっていた瞼を閉じて、扉から耳を離す。

 恐れ。身体の芯を揺さぶる悪寒。

 面倒に巻き込まれたくないだとか、自分が介入する方が解決が遅れるとか、そういう建前は純粋じゃない。ただただ危険に近寄りたくない本能的回避。

 屋上までの道を憶えていない。脇目も振らず、何も考えずに自分の足がそこに戻っていた。

「どうだった?」

 鴫野に聞かれても答えられやしない。

「あ、いや、見付からなくて……。また明日、自分から会ってみるよ」

 はっきりとそう告げて給水塔の傍に置いてあった鞄を持ち上げる。帰るという意思表示なのだが、それを無視して御陵さんの猛追及が始まる。

「祝園くんはだみつきの事、どう思う?」

「いや、まだ何も……。そうですね、御陵さんよりは分かりやすいですね」

「酷い事、言うね」

 嘘だ。

 御陵さんが本当の赤ん坊に見えるくらい、あの二人の関係はシビアで難解だ。もしあの争っていた二人が有神田さんと私市くんならば、何がそこで起こっていたのか。

 現象としての行動はどうでもいい。問題は精神の部分、どうしてそうなったのか。どういう流れで、それはどこから始まっていたのか。

 期待に沿えるように頑張るつもりだ。

 けれど経験値が絶対的に足りないボクには、これにはこれ、それにはそれという具体的な反射的解答を持ち合わせていない。

「鴫野、ちょっと聞きたいんだけどいいかな」

「なんさ」

「あの二人、いつから一緒なの?」

「よりちゃん、いつから?」

「入学式にはもう一緒にいたけどなぁ。その前になるともう分かんないや」

 礼を言って屋上を出る。情報としては不足だが、元よりあの二人の間にある『何か』を見つけるのに、他人からの情報は当てにしていない。意味の無い問いに、孤独に安心しただけだ。

 正門を出て駅に向かい、発射時刻に合わせてホームに到着する。環状電車の次はローカル線に乗り換えて数駅。そこがボクの自宅最寄り駅となっている。中途半端に発展した田舎の風景を、これからは毎日歩きながら眺めなくてはいけない。

 事故療養の為、と親を説得して引っ越してもらったのは正解だった。この辺りは駅周辺にしか娯楽やコンビニ、居酒屋などが無い。少し外れればのどかな住宅街に早変わり。平日の夕方には買い物に行く主婦がいくつか。あとは道路で遊ぶ子供、野良猫くらいだ。

 知り合いもいない。誰もボクを知ってる人間なんていない。近所のおばさん方には挨拶くらいするが、深く名前を知っているわけでもない。ここにはボクを知ってる人間がボクしかいない。

 歩くこと十五分。家は新築の一軒家だ。三階建てで車庫付きの目立つ家。実際、越してきた時には評判になったらしい。

 そのお金の出所を知らずして騒ぐ大人達に、侮蔑と冷笑に似た諦念を覚えた。

 鍵などはかかっていないので、玄関をそのまま開ける。靴から妹が帰宅している事を知る。

「ただいま」

 一階には客室と風呂、トイレがあるだけなので二階のリビングへ。二階はまるごと部屋になっていて、キッチンと大中二つのリビングが繋がっている。面積の半分を占めるテーブルが置かれた大きいリビングの方には、椅子に座った人物がいた。

 妹の美海(みう)がこちらを感じ取って「おかえり」と答えた。電話の途中だったらしく、「いや兄ちゃんが帰ってきてさ」と二つに結んだ髪を指でくるくる回しながら通話に戻った。

 事故前にはこんな当たり前の会話も無かった。顔を見合わせれば舌打ちをされ、萎縮するこちらを尻目に自分の部屋に戻る。そんな関係が長年、続いた。

 三階にいた母親も「おかえり」と声だけで返事をする。もう一度ただいま、と返して階段を上がる。

「あら、早いのね。いつももう少し遅いのに」

「今日は父さんが帰ってくるからさ、だから早めに帰ってご飯の支度でも手伝おうと思って」

「まぁ。それじゃあもう少ししたらね」

 路傍の石を見るようだった目が、今は自慢の息子を褒めている。

 まるで家族のようだった。

 母親も、父親も、妹も。みんな、今やボクが前のようにならない事を心から信じている。いい子になって得をしたと思っているかもしれないし、あの事故で家庭内に活気が戻った事も事実だった。

 見舞いにも来ず、ボクの保険が手に入ると喜んでいた人間とは思えないほど、母親はボクにかまってくれるようになった。仕事の都合で二日に一度しか帰らない父親はもうすぐ一緒に酒が飲めると顔を赤らめていた。ボクをストレス発散のぬいぐるみだと思っていたくせに。

 まるで家族のようだった。

 ボク一人が知っているだけ。過去のボクが作り出した本物よりも、嘘偽りに塗り固められた架空の方が、彼らは幸せなのだった。

 それでいいと思う。幾年と与えてきた不幸を巻き返してあげるのも、悪い気分じゃない。

 けれど彼らは騙されているだけだ。ボクと同じ、運良くデメリットを全て失った。慰謝料や保険などの莫大な収入だけならまだしも、死んでいるのと変わらなかった性質の悪い長男がいい子になったのだから。

 嘘は汚い。正直とは比較にならないほど不誠実で、存在してはならない。でも、嘘を吐かない人間を、ボクは人間だと思えない。

 だから人間なんて信用できない。

 自分の部屋に入り、音がしないように改造した鍵をかける。

 カーペットに埃の一つも落ちていない。掃除してくれているから。

 だからボクは部屋の壁と箪笥の間にある本棚を取り外し、ぽっかり空いた薄汚れた隙間に体を捻じ込ませて、椅子で蓋をする。体育座りで顔を膝にうずめて最後に毛布をかぶる。

 ボクしか知らないボクを守る為に、ボクしか出来ない行為を繰り返す。

「自己犠牲なんかじゃない」

 呟く声は誰も知らない。

 うとうとしてきたので目を閉じる。闇が包んだ。わざと洗わず押し入れに詰め込んである毛布から発される臭いだけが、ボクを落ち着かせている。

 ふと鴫野に会いたいだなんて思ってしまった。

 彼女ならボクを、本当のボクを見てくれるだろうか。馬鹿馬鹿しいとぶん殴ってくれるんだろうか。

 どうにかしてくれ、どうにかなっちゃいそうなんだ。

 涙が零れる。いや違う。それはこの暖かい中に毛布をかぶったせいで流れ出た汗だった。

 まどろみよりも浅い眠りを繰り返し、母親が食卓の準備を始める音で意識を覚醒させる。部屋着に着替えて階下に出向けば、母親が手伝いをしない妹に小言を押し付けていた。

 約束通りに料理を手伝って完成させ、父親が帰ってきたのを迎えて四人の晩餐が始まる。豪華な料理が並んでいる。早速、ビールを片手に父親はそれらをつまみ始めた。

「啓、学校はどうだ? 楽しいか?」

 楽しいわけない。

「楽しいよ、ひとつ年上だけど誰も気にしなくて」

 気にしなくてもいい。

「そうかそうか。ほら、お前ももう高校生なら飲め」

「あなた、高校生はまだお酒、飲めないんですよ」

「はは、そうだったな」

「お父さん、わたしにちょうだいよ!」

「美海! あなたも何を言ってるの!」

 仮初に形作られた活気の絶えない家族。それが全て、ボクの嘘によって作られている。やっぱり嘘は偉大なんだ。嘘を吐くだけで、こんなに幸せが訪れる。

 笑う門に福なんて来ない。そこには何かしらの嘘があるから、幸せはそれを餌に寄ってくる。

「美海、お前の彼氏はどうしたんだ。たしか、悟くんだとか」

「仲良しだよー。悟くん、かわいいから」

「今度、つれてきなさい。挨拶もしたい事だしな」

「やだ、お父さん恐いー」

 幸せはやっぱり幸せなんだ。嘘っていう悪いものを食べて、代わりに幸福という代えがたいものを残していく。

 でもボクを連れ去っていく。代替に甘んじた自分が憎い。聖人ではない事を実感して、その原因を幸せに求める。悪循環を蒸留した濃厚な粘土質の底無し沼。

 生まれた日の歌をもう一度、世界を揺らすような大きな声で伝えるのは、並大抵じゃできない。

「ごちそうさま」

「もういいのか? あんまり食べてないぞ」

 食器を流し台に持っていってリビングの戸を開けたまま呼び止められた声に答える。。

「そう? たくさん食べたつもりなんだけど」

「若い内に食べないと大きくならないぞ」

 笑って誤魔化して、もう暗くなった階段の電気をつけずに登る。それを合図に自分がどんどん真顔になっていくのが分かる。

 部屋に戻って毛布を被り、隙間に埋まって持ち込んだポータブルDVDプレイヤーを起動させ、再生する。

 家族の幸せの代償に失ったパソコンでもっとも使用頻度の高い事柄。

 アニメ。嘘だけで作られている真実の世界。裏や表も無い、自分だけに与えられた幸せの極地。

「人間は面倒なんだよ」

 画面に話しかけても返事は無い。けれど、一方通行の愛情に似た憎悪が、尊敬を騙った嫉妬が、羨望を模した蔑落があった。何よりも自分本位な会話。キャッチボールを地球の裏側でやるが如き愚行。

「こんなに汚い本当のボクを愛してなんかもらえない」

 だから愛されようだなんて思わない。感応してもらうなんて以っての他だ。

 楽しい事と正しい事が違う自分なんかに、幸せを求める権利なんて無い。苦痛を義務に存在だけを許されている。

 足の親指の爪間にこびりついた垢の臭いが好きだ。踝の角皮を刮ぐのも好きだし、固まりかけた瘡蓋を剥がして口の中で転がすのも好き。怪我の治療のせいで無くなってしまったが、臍のごまも好きだった。虫がいれば一本一本足を外して蠢く姿を見たいと思うし、自分が傷つく事を絶対的に避ける癖に他人ならば愉悦だとすら感じる。だから迷惑なんてかけないように今の自分を演じているだけ。

 脂が混じってそれぞれが結合した頭皮のフケを、指で伸ばして広げる。鼻の頭にそれを塗りたくって安堵しながら、鼻の下を伸ばして息を吸う。口の中の薄い皮膚を歯で噛み切って感触を楽しみ、唇の逆向けた部分を形が無くなるまで咀嚼する。画面の中の女の子の指を見て、自分のそれと見比べる。あまりに汚い手だ。生々しくて見てられない。仮想の女の子はニキビを潰して出た膿を弄ぶ事なんてしないし、自分の髪の毛を食べたりもしない。

 倒錯した精神で蒸れた下着内に手を入れると、じっとりした摩擦係数の高い皮膚が手に吸い付く。嗚咽を繰り返しながら自分を慰める夢の時間は、無防備な事を知っている。

 手に付いた粘液を見つめ、嘆息する。自分がどれだけ矮小で馬鹿らしいかを再確認する。どんなに高みに行ったって、この喪失感だけは拭えない。まともな思考能力が一気に戻ってきて、残るのは自己嫌悪と脳内補完。

 ウェットティッシュを探そうとして、勉強机の上に置きっぱなしになっていた携帯電話が不在着信を点滅させている事を知った。

 着信履歴に残された発信者名は“鴫野”。

 留守番電話を聞いてボクは部屋着のまま上着だけをひったくって部屋を飛び出した。




2


“よりちゃんとだみつきちゃんがめんどっちー事になったから今から来れる?”

 めんどっちー事とは何かなんて野暮な質問はせず、ボクは謎の使命感に突き動かされて学校の屋上にいた。数時間前とはまったく違う情景に多少の動揺を覚えるも、すぐに取り直す。

 屋上には既に鴫野と御陵さん、有神田さんがいた。

 だがその三人を見ても状況は分からない。

「おい、鴫野」

「なんだよバザールでゴザール」

「状況を説明してくれ」

 暗くて何も見えないかと思いきや、屋上に設置された心許ない電灯が意外な効力を発揮して目視に困る事は無かった。そのせいかもしれないが、余計に事態が混乱して脳に入ってくる。

 まず御陵さんだ。縄張り争いの最中に連れてこられた猫のように髪を逆立てて血管が浮いた目を剥いている。威嚇しながら息を荒げ、クラウチングスタートのポーズでずっと一点を見つめている。

 そして見つめる先には有神田さんが正座していた。顔中を腫れ上がらせていて、ボクから見て左、片方の瞼が青黒く着色されている。恐らく見えていない右目を含めて、両目が宙を泳いでいた。制服もボロボロで裂けたスカートから太ももが露出しているが、今はそんなところどうでもいい。

「よりちゃんがね、だみつきにブチギレた」

「なんでまた」

「そこらへんは当人に聞いてちょ。わたしも家の部屋にいたかんね」

 大よそ予測がつかない。あんなにおとなしい、もしくは無垢な御陵さんが怒るなんて。それも尋常じゃない。

 近寄ろうにもどちらから話を聞くか一瞬、迷った。加害者であろう御陵さんは冷静じゃないのが見て取れるし、被害者であろう有神田さんは夕方に嫌われたばかりだ。

「鴫野」

 右にいた鴫野の肩に手を置こうとすると、鴫野が無言で睨んだ。気圧されたので、手を下ろして懇願の目線を送る。

 応えは。

「自分で聞け」

 ふぅ、仕方ないか。

息を吸う。気合を入れなおしてまずは御陵さんを落ち着かせようと声をかけた。

「御陵さん」

「シャァ!」

「ひぃ」

 ダメだ。まともじゃない。目が完全に狩人になってる。殺気を纏って誰彼構わず夕方の語源ってなもんだ。どうした混乱してんのかボク。

 そもそもどうしてボクが仲介なんてしなければいけないんだ。こういうのはもっと冷静で二人を良く知る人物が適任なんじゃないのか。拗れるのも巻き込まれるのも御免だぞ。

「そういえば私市くんは? 適任だと思うんだけど」

「さぁ? まだ家じゃない? わたしもきっしーから聞いたからさ」

 鴫野の話では、私市くんは有神田さんに何かがあればすぐに連絡が来るように手配しているらしい。どこまでも有能な補佐で感心したが、それなら未然に防いでほしかった。

 そうなるといよいよ有神田さんに何とか話をしなければいけない。当事者で、ボクが嫌われているという難問に目を瞑れば会話は出来そうだ。

「その、有神田さん」

「……」

 無言。肯定も拒否も無い。

「どうしてこうなったんですか?」

「……それは     」

 その重い口が開かれようとしたその時。


「喋んなぁッ!」


 怒号が空気を切り裂いてボクの動きを、そして有神田さんの口を止める。発したのは紛れも無く御陵さんであり、あまりの迫力に身動きが取れない。

 立ち上がって有神田さんを見下ろす彼女の目が、狼に似ている。瞳孔が細くなった昼間の猫のようでもある。

「     お前が、喋んな!」

 咆哮恫喝畏怖萎縮。念が込められた轟音にたじろぐ。

 どうしたんだ。いったい、この二人に何があった。

「よりちゃん」

 そんな御陵さんを鴫野が後ろから抱きしめた。背の低い鴫野は、御陵さんの背中の真ん中あたりに顔を埋めて優しく囁く。

「分かってるよ、分かってる。よりちゃんの言いたい事は分かる」

 分かる、と。鴫野はそう言った。

 ボクは反射的に声を出しそうになってやっと飲み込む。

「     ゆいちゃぁん」

「泣かない」

 涙声の御陵さんが崩れ落ちる。緊張の糸をプツリと切ったように、腰から力が抜けていく。へなへなと地面にぶつかりそうだった身体を、鴫野が支えながらゆっくりと座らせた。泣くなと言われてすぐに出かけた涙が止まるわけもなく、鴫野の胸に顔を隠して静かに泣く。

 ボクは動けないフリをしていた。

 叫びたかった。この世に他人を分かる人間なんていない。正答率十割で固定された嘘発見器が無い限り、どうしてもそこに空白と疑念が付きまとって離れない。

 なのに鴫野の『分かる』には説得力があった。だから御陵さんは鴫野に心を開いているし、ボクの堅固な心に入り込めたりもしたんだろう。

 抱き合う二人に、言葉を中断された有神田さんが言い放つ。

「あたしが悪かったよ、御陵」

 素直に自分の非を認める。何も理解していないボクには解決したのかそれとも中途なのかすらも分からない。

「だみつきちゃん、もう大丈夫?」

 鴫野が聞く。

「あぁ」

 答える有神田さん。

 置いてけぼりなボクだけが眼球だけをぐるぐるさせて必死についていこうともがき続けた。

「よりちゃんも、大丈夫?」

 今度は御陵さんだ。

「うん、うん」

 たった三人で行われた解決劇に出る幕も無いボクは、カーテンコールフリーズを願い出るしかない。そもそもボクを呼び出した意味は? 何も出来ないって事はとうに分かっているはずなのに。またしても期待したんだろうか。それとも当て馬にでもしようとしたか。

 そんな独白はどこ吹く風で、二人と一人を見ていると、第三者が屋上に到着した。

「おいそこ。こんな夜に学校で何やってんだ」

 すわ警備員か日直の教師か。身を固めたボクと対照に、鴫野は嬉しそうにその人物に笑いかけた。

「わおん先生じゃん。どしたーの」

「どうしたもこうしたも無いっつーの。鴫野、学校には夜入るな。居座るな」

 めんどくさそうに顔をしかめるわおん先生とやらは、まだボクが見た事の無い教師だった。禁煙パイポを咥えた白衣の佳人、とでも評そうか。野暮ったい雰囲気ではあるが、意思の強そうな瞳。

 ボクが苦手な瞳。

 鴫野が立ち上がって珍入者のもとまで走り寄る。

「それとその名前で呼ぶな。何回言ったら分かるんだ、お前は」

「つってもわおん先生はわおん先生じゃんね。あ、そうそう紹介すんね。あっこでぼさっと突っ立って居場所無さそうなの」

「新顔だな」

「そうそう。祝園くんっつーの。ほら転入生」

 それで合点がいったとばかりに手を打つ。

「あー、お前が。それならおざなりにはできねーな。どうもこれからよろしく。鴫野の友達だ」

 まさかの番狂わせ。その教師は生徒と友達だと名乗った。それもどこか誇らしげに。

「数学? 数学だっけ、わおん先生。たぶん数学の先生だったと思うんだけどなー」

「数学は片手間だよ。本職は物理と科学だ。教鞭は化学だけど。理系ならお目にかかる事もあんだろーよ。だいたいは化学準備室とかにいっから」

 いきなり大量の情報が入ってきて頭が働かないが、この人は鴫野の友達という事らしいというのは分かった。この話の噛み合わなさがそれを証明してる。

「あの」

「なんだ祝園少年」

「失礼ですが名前とかを先に教えてもらえると」

 すると鴫野が会話に割って入った。

「わおん先生は墨染(すみぞめ)ってんの。下はうる     」

 と、その鴫野の頭を容赦無く重いチョップが襲った。

「下の名前は言うなっつーの。これも何回言ってんだ」

「いいじゃんよー」

 じゃれる二人は置いといて、視線を後ろに戻す。どうやら本当に諍いは収まったようで、御陵さんと有神田さんは互いに頭を下げていた。ボクが安心する筋合いでも無いが、ひとまず終戦は滞りないようだ。

 で、目下の事件はシフトチェンジしてこの墨染先生になるわけだが、ボクとしてはあまり教師に良い印象は無い。体面や世間体や保身を考えるだけでボクに何の救いの手も差し伸べなかった愚鈍な大人の象徴。

 彼らの悪は、それを隠すからだ。それも生きる上での障害なのだからしょうがないのは分かる。けれど、子供はそれを見ている。理解している人間だっている。

 だから教師は嫌いだ。現実をまざまざと見せ付けられる二番目に近い大人。

「お、その顔はどうも教師に楯突くタイプだね」

 墨染先生はそう言って距離を縮めた。足音が聞こえないのは、磨り減ったサンダルのせいだ。よく履き込まれていて靴底もほとんど無い。雰囲気にもマッチしていてボクはどことなく親近感を覚える。

 顔前まで来ると、コーヒーの強烈な臭気が鼻をついた。好奇心旺盛な眼差しはらんらんと輝いて、いかにも適当に後ろで結んだ赤茶けた色のソバージュが靡く。

「嫌いじゃないねぇ、嫌いじゃないけどさぁ」

「なん、ですか。そんな事、ないです」

「いいやぁ、見れば分かるよ。それとも何かい? 教師どころか人も信用してないってか?」

 それなら先生にゃあ解決できないね。

「ま、いずれ分かるだろうからさ、人に何言われたってその性根じゃ何も効かないよ。分かるまでしばらく待ちな」

 ずけずけと。彼女はボクの心の中に土足で入ってきて。

 ぬけぬけと、彼女はボクの心の中を土足で踏み荒らし。

 上る血の気も失せたまま、墨染先生が顔を離す。その後ろで鴫野が落ち着かなさそうにこっちを様子見してるから、そっちまでは今の会話が聞こえてないらしい。

 図星なんかじゃない。ただ闇雲に反抗するほど、ボクは不真面目じゃないってだけだ。

「あ、いつもの馬鹿共にあいつがいねーな。鴫野、目付きの悪いクソメガネ」

「きっしー? ならまだ家だともーよ。しばらくしてから行くって言ってた」

「ならちょうどいいや。あいつに連絡してもう来んなっつっとけ。運良かったな、他の先生なら反省文ものなんだからよ」

 まだぶーたれてる鴫野は、それでも携帯電話を取り出して私市くんに電話しはじめた。しかし出ないらしく、

「来るまで許可してよーぅ」

 駄々をこねる。

「あー?」

 難色を示す墨染先生だったが、条件付きでもう一時間の滞在許可をしてくれた。

 それは屋上に残る人数が二人である事。他の人間は校内から立ち去る事。そして物音を立てず、一時間は静かにしておく事。そして帰る前に墨染先生のいる化学準備室に帰りの挨拶をしにくる事。

 残る人間の一人は有神田さんで文句無しだった。問題はあとの一人である。

 御陵さんを置いていってまた何かあれば面倒だし、残るは鴫野とボク。丁重に、しかし頑固に辞退を申し出たが、肝心の有神田さんからの願いでボクが残る事になった。考えてみれば御陵さんのアフターフォローが出来るのもまた、鴫野のみなのだから。

 だが不思議だ。あんなにボクを嫌悪したはずなのに、どうしてボクを推薦したんだろうか。

 数分して、屋上にはボクと有神田さんの二人が取り残される事になった。

「その、有神田さん」

 昼間は暖かかったが、その反動で夜になるほど気温は下がっていった。そして有神田さんは穴だらけ裂けまくりのかなりスルーな制服事情だったので、ボクが羽織ってきたダウンジャケットを手渡すところから会話を試みようとボクは声をかける。

「寒くないですか?」

「……」

 無視ですよ。

 仕方なくいつでも着られるようにと脱いだジャケットを有神田さんの脇に置いて、ボクは有神田さんの前に段ボール敷いた。その上に座る。

「おい、祝園」

 有神田さんがやっと口を開いたのは、鴫野から「駅前のミスドにいるよ、ミスリルメイルドラゴン」という謎の電話を受け取った後だった。

 何が飛び出すのかと若干の心構えをしたが、出てきたのは、

「お前が着ろ。あたしは寒くない」

 という控え目な不承知だった。拍子抜けしたものの、この機会を逃してなるものかと追撃をかける。

「いえ、いいです。有神田さんが着てください。そういえば、今日の喧嘩の原因はなんだったんですか?」

 正直、返事してくれるとは思ってなかったが、意外にも有神田さんは「優しいな」と微笑んでボクのジャケットを羽織ってくれた。

「ん、なんか変に臭いけど暖かいな」

「余計ですよ、それは」

「どっかで嗅いだ事がある気がする。街路樹とかで……、銀杏の匂いかな?」

 あの事故からこっち、一日たりとも風呂は欠かしてないはずなんだけど。そういえば昨今の女性はなんであんないい匂いがするんだろう。それに比べればかすかにも程がある洗剤の匂いしかしないボクの服は、違和感があるのかもしれない。

 着込んだ有神田さんを見ていると、やがてぽつりぽつりと先輩は語り始めた。

「祝園、夕方は失礼な事を言ったと思ってる」

「いえ、そこまで気にしてませんよ」

 慣れてますから、とは言わなかった。

「出来れば、驚かずに効いてほしい。あたしは弱い。腕っぷしとか勝負とかじゃなくて、本当の意味で、あたしはすごく弱い」

 独白に、言葉を挟めない。

「自分じゃ何も出来やしない。一人じゃ何も。いつも私市が助けてくれたり、鴫野が見守ってくれたり、御陵が励ましてくれたり、墨染先生が押してくれるだけで、あたしには何も無いんだ」

「それは     」

「違う、と言うのは分かる。そういう風に見られないように見せてるからな。でもお前も鴫野と関わるなら、教えてもいい。あたしは一番、弱い」

 それは間違いだ。

 一番、弱い枠は満員。決定的に確保されてる。

「叱ってもらえないと不安だ。褒められると寒気がする。認められれば虫唾が走るし、感応されれば冷や汗が出る。どうしようもない、ただのそこらにいる奴と何も変わらない」

「でも有神田さんはボクからすればすごく強いですよ」

 周りを敵に回す胆力があるだけ、何もしないボクよりも遥かに。

「祝園、喧嘩の原因はあたしが出しゃばったからだよ。御陵に、あろう事か、このあたしが、何もできないこのあたしが、忠告なんてものをしたからだ」

 声すら消えそうな夜の屋上で、有神田さんは顔を手で覆う。

「なぁ、お前もそう思うだろ? 自分より下の、足元にすら見えない小さい小さいゴミが、自分に向かって忠告してくれば、お前も良い気分じゃないだろ?」

 答えられない。

「御陵が怒るのは、分かる。すごい、分かる。言ってしまった後だから後悔しか出来ないけど、まだ後悔が出来る自分がいる。それだけ、今日の揉め事の根本はそこだけだよ」

 問いかける。誰に? 自分にだ。

 確かに有神田さんの言う通り、もし有神田さんがみんなより遥かに下の立場で、今日の夕方のように私市くんに殴られ蹴られて過ごしている状況に甘んじているならば、そうなってもおかしくない。

 けれど、違う。

 まだたったのいくらかしか過ごしてないけど、鴫野と御陵さんはそんな人じゃない。

「有神田さん、違います。有神田さんが何を言ったのかなんて、そこは問題じゃないっていうのは分かります。けれど、鴫野や御陵さんがそんな人じゃない」

「……」

「少なくともボクはそう思いますよ」

「……何が」

「だって鴫野も御陵さんも、やっぱり善い人だからです」

「……」

「確信が持てない、本当かどうかなんて誰にも分からないのに、そういう事を言うのはすっごく悪い     」


 偉そうに能書きを垂れて。

 自分の説法に、ふと自分が殴られる。


 あ、そうか。

「     だからだ」

「……?」

「だから鴫野はあんなに怒ったし、御陵さんは自分を見失ったんだ」

 あの日、鴫野がボクに失望したのは、御陵さんに見限られたのは、全てが全てそこが元凶だったんだ。ボクが何も知らず、何も分からないままに、それでも人と感応なんてしようとしたから。

 『感応』は、そんな生半可なものじゃない。

 それこそ人生至上の罪だ。

 知らないは罪でも無い。無知は凶じゃない。

 でも知らないで、分からないで行動して人と感応するのは。

 絶対的な悪だ。

「有神田さん」

「……なんだ」

「その、こんな事、言われるとすっごく変に思うかもしれないですけど」

「だからなんだ」

 やっとボクは『感応』しよう。

 感謝と、そして自分にしか分からない、自分だけの世界で。

「あの、ありがとうございます」

「……はぁ?」

「有神田さんは何もできないなんてもんじゃない。すごい人です。本当にすごい人だ」

 自分でも意識せずに立ち上がっていた。物音を立てるなという条件も忘れて、声高々に宣言する。

「     だってボクに『生きる』っていう事がどんなに難しいかを教えてくれたんですよ!」

 なんだこの胸の熱さは。未だかつてない軒昂は。

 理解に理解を重ねたつもりだった。自分だけで自分だけの世界を作り上げたつもりだった。

 けれど違う。そんなのは誰からも嫌われないヒーローなんかじゃない。

「だから、ありがとうございます。それしか、ボクには言えないんですよ」

 感極まって有神田さんの肩を掴んでしまい、慌てて離れる。もしこれが、と考えると何も出来なくなる。生きるっていうのは、何もかもが怖くて出来なくなる事。そしてそこから何が出来るかを見つける事。

「す、すいません。でもよかった」

 また立ち上がって、空を見上げる。

「これが『生きる』ってことなん     」


「どいてもらえません?」


 有頂天なボクを、軽く押しのける存在がそこに現れた。

「あ     ?」

 よろけて危うい平衡のボクを尻目に、その人物はつかつかと有神田さんに近付いて、正座していた彼女の顔面を真横から蹴飛ばす。

 頭が破裂したかと思った。でも彼女はすぐに正座のまま前を見据え、鼻血を垂らしながらも目の光を揺らがせない。

「で、何。何何何。なんなのいったい。よっくもまぁここまで面倒起こせるな」

 二度、三度。上等そうな靴底が、有神田さんの顔に蹴り込まれる。その度に膝に置いた指が跳ね上がり、痛みと衝撃を物語っていた。

 私市くんは、息も上げずに、夕方に見せた涼しい表情のまま蹴りを放ち続ける。

「勘弁してほしいの。ほんと、これほんとね。いつまで俺がお前をお守りしなくちゃなんないの?」

「ごめ、ん、な、さい」

「だーかーら。謝るなら誰でもできるでしょ? 再発しないように後悔して反省すんのが人間だって」

 やっと攻撃が収まった頃には、有神田さんの顔は泥と血と足跡で埋め尽くされていた。御陵さんが加えただろう傷は上書きされ、掻き消されていく。

 恐怖よりも速い電撃のような感情が、身体を突き抜ける。

「何……、何して、してん、んだよぉ!」

 腰を曲げてこちらを下から睨む顔を、怖いとも恐いとも思わず、ただそのまま睨み返す。

「何って、何と言いますか。躾? いや教育、ですかね」

「そうじゃねぇよ!」

 悪びれる風も無い。もうまともに何も見えない、ブレた真っ赤な火が弾ける。

 殴りかかっていた。

 自分の拳を見て、それをやっと確認する。スピードに乗った自分の身体が、もう戻りはしない。殴りぬけようと決めた精神が、もう戻りはしない。

 目の前なのか遠いのかも分からない目標に向かって、人生で初めて殴る拳が一直線に飛んでいく。

「     祝園ォ!」

 その前に躍り出たのは長い足。

 まっすぐに伸びた有神田さんのハイキックが顔の前で止まって、そのふくらはぎの部分に鼻っつらを強かに打ちつける。跳ね返って尻餅をつくが、凹んだと錯覚するほどに痛い鼻梁を触って前を見直す。

 蹴り上げられた直線に近い綺麗な足が、そのままの状態で。遅れて太もものスカートが重力に負ける。どうやってあの座った状態からボクより早く動けたのかは分からないが、現況としての行動がここにある。

「う、有神田さん」

 ゆっくりと足が下りる。その向こうには面白くも無さそうに眼鏡の位置を戻す無表情がある。

「どう、して」

「お前、さっき自分で言ってたろ。何も分からずに、知らずに行動するのは、『感応』するのは悪だって」

 口の中まで腫れているんだろう、喋りにくそうに、それでも言葉が出てくる。

「それとおんなじ。私市は、周りから見れば悪だが、『感応』し合ったあたしへは正しい」

 分からなかった。

 どういう事なんだ、これは。

「守ろうとした事は、感謝する。でもそのいわゆる正しいとされる事が、誰にとって正しいのかを考えてほしい」

 それからはもうほとんど憶えていない。

 三人とも無言のままで化学準備室まで行って帰宅を報告し、校門から出たところでボクと二人は逆方向を向く。別れ際に友好の印だろうか、有神田さんが電話番号を書いた紙をボクに渡した。

 しばらく、動かなかった。立ち止まっていた。

 そうしていても仕方ないと駅に向かう歩に行き着いて、そこからはただ繰り返した。右足を前に出して体重をかけて、左足を地面から離して前に出す。その爪先をずっと見ていると、最寄の駅まではすぐだった。

 指定されていたドーナツ店に入るとすぐに甲高い二人の声が聞こえた。

 席に案内されて業務用のお手拭をしつこく何枚も渡される。鴫野にミルクティーをストローで鼻に噴射されたり、御陵さんにやたらとモチモチするドーナツを口に詰め込まれたりしていたが、自分が何をしているのかがよく掴めない。夢中夢のような感覚で、足が地面を踏んでない気すらする。

 暖かい店内のはずなのにやけに寒気がすると思ったら、ダウンジャケットを返してもらっていなかった。そんなどうでもいい事ばかりがリフレインしていく。

 その中でやっと掴んだ藁を、ボクは手放したくなくて。

 震える唇とはっきりしない頭で、ボクは御陵さんにこう言った。

「御陵さん、ごめんなさい」

 何が、とも何を、とも聞かずに御陵さんは笑った。その笑顔がいつもの赤子のような微笑ではなく、突き抜けた天使のように見えたのは、ロマンチシズムに彩られたボクの思い違いだろうか。

 時計を気にするまでもなく、そろそろ遅いからと鴫野が促して店を出た。鴫野は歩き、御陵さんはバスらしい。ボクだけが電車で、人の少なくなった環状線と鈍行を乗り継いで家まで帰ってくる。

「啓、こんな時間まで何してたの? あんまり心配させないで」

 母親がそう叱り、いいじゃないかと父親が止める。妹がそれを見て笑いながらメールを打って、ボクは謝るフリをして自分の部屋へ帰る。

 出た時のまま、部屋の隅の隙間と乱暴に椅子にかけられた毛布が、暗い部屋でボクを待っていた。抵抗する素振りもせずに、吸い込まれていく。

 床に残って乾燥してしまった体液も気にせず、潜り込んだ暗闇。息を吸う度に香るミルクティーと埃の中で、ボクは目を閉じた。

 そう言えば御陵さんは許してくれたかな。

 気になって眠れそうにないな。

 疑念と想像を滾らせながら     ボクは胃液を噛み殺し、落ちていった。


便所のニクジル

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