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レイの話、レイイチの話、イチの話、イチゼロの話

読むやつが勝手に決めればいいよ。

レイの話






 何かを隠す嘘よりも、それを悟らせる嘘の方がよっぽど難しい。

 人生で学んだ教訓なんて、そんなちっぽけでどうでもいい事だった。



























レイイチの話




1


 パソコンの画面から発される光だけ。部屋の中で動くのはそれだけ。

 無言で、不動で。画面を睨み続け、その24分間を心に焼き付ける。最終回らしく、キャラクターは最後の強敵を玉砕し、全員が一つになって生命の尊さや仲間がいる事の重要さ、そして何よりも     そんな世界が少なくとも仮想に存在する事を報せてくれる。

 感動が彼の体を包む。その大きく肥満した体は鳥肌に覆われ、皮脂で無理やり撫で付けた前髪を一房ばかり視界に落とさせ、涙腺を極端に刺激し、そして     

 そして、彼がその場にいない事を悲しませる。

 大きく息を吸う。そして吐く。

 やがて画面の中ではハッピーエンド、つまりは大団円が展開される。それに深く共感し、恍惚し、迎合する。

 エンドロール。エンディングテーマ。放送されている二期のものではなく、彼が好きな一期のエンディングテーマでその番組は締めくくられる。スタッフロールを見る事はせず、前髪を整えて目元を拭う。酔いしれる。

 彼を包むのは感動だ。それ以外では無いと断言できる。

 ふと何かに使えそうなアイデアを思いつく。それを傍らに置いてある単語帳に書き込んでいき、また定位置に戻した。使われる事の無い妄想が溜まっていく。

 再生ソフトを終了し、見慣れたデスクトップに戻した。部屋の明かりをつけ、軽く伸びをする。椅子から立って凝り固まった体をほぐす。

 体を支配していた快感は薄れていき、やっと現実の自分に戻りつつあるその最中、不意に置きっ放しにしてあった鏡に自分の姿を見た。

 酷い。

 これはあまりにも醜い。

 肥満、不潔、ひきこもり。まさかのトリプルHを達成した奇跡の体現。そこに弱者や社会最先端などの災厄を思いつく限り継ぎ足したモノ。底辺の権化。全ての元凶がそこにある気がした。

昔、自分が超能力者だったと思っていた時期が彼にはあった。自分がどんな人間にも嫌われるという特殊能力を秘めたMPLSなんだと。そう思っていた時期がある。

あながちそれは間違いでもなかったかもしれない。

今年の春からもう学校に行くのはやめてしまった。高校生になったからといって何が変わるわけでもない。彼の学力では彼をいじめていた人間を大きく引き離す事もできなかったし、同じ高校に行くくらいならもういっそ行かない方がいい。向こうだってむかつく奴が来なくてせいせいしていると思う。

メガネ、ハゲ、汚い、生理的に無理、近づかないで、なんで生きてるの、学校来んな、見たく無い、デブ、気持ち悪い、オタク、見るな、しゃべるな、消えろよ、もう嫌、意味分かんない、帰れよ、死ね。

死ね。

頭の中を蠢く数々の罵詈雑言。聞きたくなかった見たくなかった人間の本性。馴れ合いと連れ合い、舐め合いと騙し合い。弾かれたものへの糾弾、罵倒、暴力に疎外。

死ね、と言われて気付いた。

今まで自分が言われてきた愛慕の全てに、意味なんか無かったってこと。それが嘘なんだって事。

愛してくれた祖母は、無口だった祖父は、育ててくれた父は、教えてくれた母は、お年玉をくれた叔父は、可愛がってくれた叔母は、旅行に着いていった従兄弟は。

みんながみんな本音を隠していたんだ。こいつは異端だって思っていたんだ。

やがて思考のループに立ちくらみ、ベッドと呼ぶのもおこがましい糞汚れた布団に彼はその身を預けた。スプリングが軋み、その音でまた「このデブが」と罵られている気分になる。慌てて飛び起きて、毛や埃やゴミが散乱する床に寝そべる。

近づかなければ分からないのに。目を細めれば視界には汚れしかない。自分はこの汚れにも劣るゴミクズ以下のゲロカス野郎だ。

卑下する事で守るほどのプライドも無い。貶める事で守られる自我も無い。自分は生まれる時代を間違った。作り出す事も出来やしない、ただ与えられているだけの、ただ生きているだけ、死んでいないだけ。

頭を支配するどす黒い感情。

そんなのはもうたくさんだ!

自分だって生きている!

自分は人間なんだって自分だけでも信じてやりたい!

時間は深夜の二時。心霊が跋扈する時間だ。小腹が空いた彼は仮初の一大決心をしてコンビニに行く覚悟を決める。自問自答。覚悟は出来てるか。俺は出来てる。

彼は立ち上がってディスプレイの電源だけを落とした。蛍光灯は付けたまま、戸棚に置いてあった(というのも適当ではない。それは投げ捨てられたという)ウルトラマンの小銭入れを掴む。

部屋のドアを少し開けると、熱気が漂ってきた。夏だった事を思い出した。エアコンで24時間管理されている部屋の中から出るのは、もう一週間ぶりになる。トイレ代わりのペットボトルを交換した以来だ。

ましてや外に、コンビニになんて行くのはそれこそ大イベントだ。

そろりと音を立てず、マスターせざるを得なかった消音歩法で廊下を進む。彼の部屋は二階の奥にあった。目の前には夫婦の寝室     もちろん彼の両親の部屋だ     があり、隣には年単位で口をきいていない妹の部屋がある。両親はもう寝ている時間だし、問題はこの妹だ。

今年で中学三年生になった彼の妹。時たま深夜に大声で電話をする声が聞こえるので、彼は警戒した。万が一にでも感付かれて、姿を見られるわけにはいかない。

 そうやって任務をこなしていく内に、彼は自分が戦場に迷い込んだ特殊兵士であるという錯覚を起こす。その感覚に浸りつつ、独り言を呟いて階段を降り、玄関に向かう。

 玄関こそ最難関である。錠が開く音、ノブを廻す音、スライドした時に擦れる音、その全てが一撃必殺の可能性を秘めている。

 慎重に段階を踏む。ゆっくりと、念入りに、万全に万全を規して。

 外に一歩を踏み出す。慌ててドアを閉めないようこれもゆっくり。先にある門扉も音を立てず、静かに開けて。

 やっと彼は家の外に出る事が出来た。心臓の音が五月蝿い。胃が痛い。粘液を戻しそうになるのを堪えて、家から徒歩数分のコンビニに向かう。その道程も人と顔を合わせさないように顔を下げて、道路の闇に溶け込むように意識する。自分を同化。存在を抹消させるように。

 とはいえ、深夜二時の住宅街に彼が恐れる程、人影はない。実際、コンビニに着くまでに出会ったのは飲み会帰りであろうサラリーマンの二人組と、やたら首をかくかくさせながら歩くステテコ姿の老人だけだった。

 その一帯だけが明々としている。外から見る分には客がいない。今しか無い。彼は意を決して突入した。

 自動ドアが彼を導く。あまりの明るさに目が眩む。

「いらっしゃーせ」

 バックルームから出てきた店員が声をかけた。気だるそうな店員が仕方なしにレジの前に立つ。茶髪にピアス、制服の下から柄シャツがはみ出た深夜のコンビニ店員に、彼は緊張する。

 そうだ、コンビニっていうことは店員と関わらなければいけないんだ。

 怖くなって、何も買わずにすぐ踵を返した。後ろから店員の舌打ちが聞こえた。気にせずに早歩きで離れようとする。

 それはもはや駆け足に近かった。強迫観念が彼を押し、その場からの逃走を命令する。

 そして彼は知らなかった。

 部屋にいるだけでは気にもしなかった危険が、外にはある。

「……あ     」

 コンビニ前の道路に、ちょうど配送のトラックが来ていた。その前に飛び出した彼は、のん気にそのトラックがここのコンビニ系列じゃないからこんなにもスピードを出しているんだな、と感慨も無く思った。

 ブレーキの音が鳴り響く。しかし、その音を彼の耳はもう認識していない。

 奇妙な世界だった。無音で時間の感覚が失われているような、そんな有り得ない状況が彼を包んでいる。

 トラックは急ブレーキをかけるもそれがいけなかった。タイヤは空走距離内で直線上にいた少年を巻き込み、制動距離でそれを轢きながら擦り潰し、停止地点ではもはやオブジェとしか言い様の無い物体を作り出した。

 コンビニから携帯電話を片手に茶髪の店員が飛び出してくる。携帯に備え付けられたカメラでそれを撮影しながら、笑い転げる。もう一人、トラックの運転手は運転席で呆然としていた。

 降りてタイヤの下を見て、吐き気や忌避感や憐憫よりもまず、これから自分がどうなってしまうんだろうかと感じた。会社の処置、自分の人生、慰謝料や刑務所。

 震える手でとりあえず110番を押した。呼び出し音の中で、救急車の方がこの少年を心配したようで裁判の時に優遇されるのではないか、と打算が浮かぶが、その前に向こうから冷静に問いかけが飛んできた。

「はいこちら九隅(くすみ)110センターです。どうしましたか?」

「あの、そ……あー、あの、ちょっと、事故が、あれで、あ。     人、ひ、人が死んで」

 幸運なのはその少年が一命を取り留めたこと。

 不運なのはその少年が一命を取り留めたこと。










イチノ話






彼が最初に見たのは黒。それはすぐに白に変わる。

ただ白い世界が見えた。やがて時間をかけてそれらは形を成し、それぞれの本来の姿がおぼろげながら現われる。だが決して明瞭ではない。

見えにくい。

こんなに自分の視界はぼやけていたか? そう問うて合点する。眼鏡をかけていないからだ。彼はいつものように枕元に置いてある眼鏡に手を伸ばす。しかしあるはずの物がそこにない。そればかりか手は壁らしきものにぶつかるだけで、先には何も無い。それに探る手がぎこちない。動かしにくいのだ。

ここはどこだ。自分の部屋ではない。

ならばどういうことだろうか。

いや、そもそも自分はなぜ、寝ているのか。

あ、そうだ。事故だ。手は、動く。が、動かしにくい。これって後遺症って奴か?

足も、動かしにくい。

ちょっとシャレにならない状況なんじゃないか? 動かないなんてことはないが。

いや、ちょっと寝過ぎて、体がだるいだけか? どっちにしろ動きにくいことに変わりは無い。不自由は換金できる。イエス様だってそう言ってる。

「あ、あ」

しゃがれている。喉は渇いていないのに、どうしてだろう。寝起きよりも、タチが悪い。これじゃあまるでドードーだ。

「あー、あ、うん、あー」

しばらくすると声は元通りになった。視界は相変わらずぼやけてはいるものの、明朗さを取り戻しつつある。明朗? 明朗っていうのはどういう事だ。眼科の視力検査機で最低を叩き出したこの目が、見えるだって?

彼を包む空間は白い。ベッドも、天井も床も壁も、来ている服も。

どうやら病院らしい。自分は車に轢かれて気絶し、ここに搬入されて今まで寝ていた、と。そういえば着ているのはよく映像で見る患者衣だし、見回せば狭くない部屋なのに物が少ない。

病室には点滴と戸棚、そして彼の寝ているベッドと括り付けられているナースコールしか見当たらなかった。

一つ、二つ、咳払い。近くのナースコールを手に取り、押す。感触だけだが、それはしっかりとしたナースコール     のはずだ。彼はそれを祖母の入院時に見た事があった。

短い時間が過ぎた。

 やがて足音が聞こえる。一つ、二つ、     一人分の足音がこちらに近づいてくる。

「     」

 入ってきたのは若い看護婦だった。彼女は頭の後ろをかきながら、さも不真面目そうに音のしないスライドドアを開ける。

 そして。

 そして患者の顔を見る。

「……あ、あぁ!」

 驚愕が彼女の顔を包み、すぐさま病室を出て行く。残された病人はただただ唖然とするばかりで立場がなかった。

 なぜ、彼女は出て行ったのか。

 どうして、彼女は驚いたのか。

 頭の中をぐるぐる地球のように疑問が回る。考えても仕方の無い事だと割り切ることもできず、彼はとりあえず立ち上がる。その頃にはもう視界ははっきりとしていた。体の動きにくさはまだ残っているが、動けないほどじゃない。

 リノリウムの床に足をつけ、点滴台を動かしながらとりあえずカーテンを開ける。

 そのとき、初めて自分が個室にいれられていることに気付く。

(ボクの家はそんなに金持ちってわけじゃなかったと思うんだけど)

 しばらく理由を模索して、保険や慰謝料なんていう単語が彼の脳裏に浮かんできた。事実、ここにこうして自分はいる。どこかからお金が出て、自分はそのおかげでこうして個室にいるのだと。

窓の向こうは晴れていた。晴天、それもとびっきりの良い天気だ。彼は少し気分を良くして、今の自分を見下ろした。

患者衣は白寄りの水色で、それがさらに空をイメージさせ、わけもなく気分を高揚させる。

窓を開ける。

「     さぶっ!」

部屋の温度とのあまりの違いに、体は反射して窓を閉めた。

またしても疑問が浮かぶ。

事故を起こしたのは初夏だったはずだ。いや、もう真夏にさしかかっていたかもしれない。

なのにこの寒さは。

その疑問を解決する間もなく、思考は病室の外の騒音に奪われた。四、五人の足音と何かを話す声が聞こえてくる。やがてドアが開き、顔を見せたのは、『いかにもベテラン』の表現が似合う中年の医者だった。その周りに看護士が数人。

「目を、覚ましたんだね」

 久しぶりに家族以外に話しかけられて、パニックになりかけていたが、その通りだったので頷く。

「どこか、痛いところはないかい?」

 これにも続けて首肯する。

「それは何よりだ。あー……落ち着いて聞いてほしい」

 医者は重く、宣言する。


「キミが入院してから     一年と半年が、経っている」


 今度こそ彼の頭はそのキャパシティをパンクさせ、とりあえずもう一度、眠ろうとベッドに戻り、かけ布団をかけた。夢を夢のままでおいておくなんて、彼には出来なかった。ごくたまにある、夢の中でこれが夢だと醒める感覚とまったく同じだった。

 もし夢ならば、彼は目覚める事ができたであろう。そしてまた、自分の世界を確立する事すらできず、生きていく道を歩んだだろう。

 しかし、夢は現実だった。夢ではないが、夢だったのだ。




 目を覚ましたのはまた黒い世界だった。寝惚けた状態で天井を見ると、電球が自動的に作動する。センサー式の蛍光灯が設置されている病室だなんて、なんとも豪奢な話だ。

 身を起こす。多少の不便はあるものの     体の動きに違和感はあるものの、起きる事が出来る。動く事も出来る。点滴を抜かないように寝返りをし、少し彼は考えた。

 今の状況は、本当らしい。自分はあの事故から一年半の間、ここでこうやって寝ていたのだろう、壮大なドッキリの可能性もあったが、自分がそんなものを仕掛けられる事の方が、可能性が低い。

 とすると、今は高校二年生の冬。何月かまでは知らないが、とにかく高校二年生になってしまっているのだ。

「あのアニメ、どうなったかな」

 一年半も時間が経てば当然、放送は終わっているだろう。最終回だけ見逃してる半端な幕切れは、レンタルショップにでも行って解消する事に決める。

 それよりも不安が彼を襲う。学校は退学になったかもしれない。自分は今、どういった状態で、これからどうすればいいんだろう。だろうや、かもしれないの推測は消えていく。

 眠気はもう無い。いやにはっきりした頭で、彼は自分の感じていた違和感を確かめたいと思った。

 それは昼に起きてすぐに頭をもたげた違和感だ。しかし、ここにはそれを確認する為の道具が無かったし、それよりも状況に押されて考える暇なんて無かった。それが軽やかな重責として押しかかってくる。

 ちらりと窓の外に目をやると、もう外は暗くなっていた。街の情景が見渡せるが、明かりはほとんどない。深夜、と言って差し支えない時間だった。

 点滴台を転がして彼は部屋を出た。音のしないスライドドアに逡巡する事もなく廊下に出て、左右を見る。病室の表示が並んでいて、右向こうにいくつかの部屋を経てナースステーションの明かりが光るが、左方は闇に包まれていて数m先の視認しか出来ない。

 目的の場所は左斜めにあった。男子トイレとなっている扉を開ける。すぐにセンサーが動きを察知して明かりを灯した。

 そして彼はドアを開けてすぐ、目の前にある鏡で自分の姿を見た。


やはり。


 あれだけ厚かった胸板や太腿の肉はごっそりと削げ、腕は三周りも細くなった痩せ型よりも貧弱な姿がそこにあった。

 髪は伸びているが、長髪ほどではない。きっと定期的に切られていたのだろう。病室にずっといた事を表す肌の白さが眩しい。

「あ……」

 身長はそれほど変わってはいない。     いや、少し伸びたか。奥二重で腫れぼったかった瞼ははっきり大きいと言い切れるほど瞳を開いている。頬の肉であるのかどうか分からなかった鼻も自己主張し、顎と首の境目もはっきりとしている。

 違和感の正体。それは筋肉が落ちて動きにくかったのではなく、余分ではない脂肪まで落ちて自分の体ではないような馴染まなさを覚えていたからであった。

 彼はそんな自分の姿を見て、

「……っく、く、は」

 喝采した。



「ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ!」


 叫び声を不審に感じてやって来るだろう人も気にせずに、彼は生まれて初めて心の底から笑った。笑い声とも言えない汚い音が、爆発的な感情を込めて放たれる。

 この姿ならば!

 この境涯ならば!

 この運命ならば普通を生きる事ができる!

「ケタケタケタケタケタケタ!」

 不摂生がたたっただけで直す気も無く、ただ成すがままに流れていた自分を。全て体型や人のせいにして逃げていた自分を。状況に流されて孤立した自分を。生きていない死んでいくだけの自分を。自分が自分である事を放棄する事ができる。

 自分から動き出さなかった。ずっと待っていた待望が今、ここにある!

 なんという僥倖。なんという幸運。神は自分を見捨ててはいなかった。

 神は死んでなどいなかったのだ。

 こうしてただ待つだけで何も行動しなかった自分に、こんなに幸運な状況を与えてくれている。これが神の仕業でなくてなんなのだ。いったい、なんだと言うのだ。

 久しぶりの刺激に、喉が悲鳴を上げる。吐血する勢いで彼は咳き込んだ。それに思考を奪われていて他事が頭に入らない間に、トイレに駆けつけた看護士が彼を取り押さえる。

 抵抗を止めておとなしく自室に戻る。看護士達は落ち着いた様子から医師に判断を仰がず、鎮静剤を打つ事をしなかった。

 レゼイロな物語の始まりはそこだった。

 事の顛末の始まりが、起点の終わりがそこにあった。












イチゼロノ話




1


 ボクは一人で歩き出した。

 温かく新鮮な空気が、今まで続いた無言で冷淡な空を消し去っていく季節。

 九隅第九高校は県内でも珍しく、面接とそれに伴う生徒の個人裁量が入学時に重きを置かれる高校である。『自律自立』を校風に掲げ、百年間もの間、枝が九十九本から増えも減りもしない九十九桜(つくもざくら)を名物にしており、自由で独創性に満ちたこの高校を受験する人数は、過去最高にのぼった。

 と、入学式しおりに書いてある。

 あの事故から既に     半年が過ぎようとしている。

 そんな中、卸したての学生服に身を包んでボクは体育館     いやここは講堂というのだったか     に座っている。安いパイプ椅子が鳴らすギィギィという音が少し、耳についた。

 地獄の日々からの解放だった。そしてそれが報われるかどうかの実地本番の開始。

 病院で目覚めてからというものの、まず記憶喪失を演じなければいけなかった。今までの自分を払拭して消し去るにはそれが適当に思えたし、何よりボク自身が今までの自分から変わったのだという事を自覚したかったからである。

 あとは勉強に勉強を積み重ね、そこそこ偏差値を上げた。そして見事、こうして進学校である九隅第九高校の編入試験に合格した。

 思えば、今までの自分は怠惰に怠惰を重ねていたと思う。欲求に正直過ぎるあまり過食し、動きたくないが故に運動をしなかった。外が怖いから出なかったし、会話をするのが億劫だった。会話をしないから内面を分かってなんかもらえなかったし、分かってもらえたところで何も生み出さない本性に人は嫌悪を示しただろう。

 そういう自分からはもう、離脱だ。

 狂わせたのは自分だった。いつの間にか負いきれないほどに育った必然が、ボクを押し潰しただけだ。

 そんな重圧から何のデメリットも無く抜け出せたのである。これが転機と言わずして何と言うのだろうか。運命が自分だけに与えてくれた最大で最後のチャンスじゃないか。

「皆さんの入学をまず、歓迎したいと思います」

 壇上の校長が始まりの挨拶をしている。以前の自分ならどう思っただろう。何も思わなかったか、早く終わってほしいと願ったか。

 今はそうではない。

 今の自分は、そうではないのだ。

 しおりに目を落とす。今年の編入生は自分しかいないので、一年生の列から離れて一人だけ、座っている。

 目立ってはいないだろうか、いや、この程度の注目は計算に入っている。突出した注目ではなく、それなりに可能性のある異質だ。まだ問題無い。

 いずれ少しの時がそれを解決してくれる。

 あとはこの後に控えるクラスメイトとの出会いを乗り切れば、今日の予想される大まかなイベントは終了だろう。シュミレートは既に済んでいる。

 普通。

 それだけだ。

 存在し得ない平均と普通の象徴。

 いかに普通を装うか。周りに馴染んで、浮世離れせず静かに生きる。自分の本心を表に出さず、均一を目指して生活を全うする。

 少し整髪剤をつけた前髪を触り、何も考えずに指で遊ぶ。変ではないだろうか、いや、あれだけ家で確認しただろう。安心しろ、落ち着け。

 これからの事が分かるほど、自分は万能じゃない。人生に想定外は付き物だし、なんらかのアクシデントでまた道を外れる事も充分に有り得るだろう。

 だが、外的要因を考えると尽きが無い。身構えるだけ身構えても、しょうがないものはしょうがないのである。

“次は     学年主任からのお話です”

 嫌というほど垣間見た人間の本性を、ボクは知っている。人間なんてものは所詮、自分の事しか考えていないという事にすら無意識なほど、自分中心で動いているものだ。

 それに自覚的であるだけ、まだボクは善良と言えるし、それを利用しようと考えるだけ、まだ他人より先に進んでいると言える。

 やがてそうやって意味の無い思考に沈んでいると、肩に手が置かれた。

祝園(ほうその)くん、もうすぐ入学式も終わるから、それが終わればついてきなさい」

 顔を見れば、無精髭の目立つ中年の教師。彼が担任だと今朝方の職員室で紹介されていた。

「はい、よろしくお願いします」

 すらすらと言葉を返し、頭だけで会釈をする。それに満足したのか、彼は視線をまた壇上に向けた。校長が〆の挨拶に入っている。

 人と関わるというのがこんなに簡単だとは思わなかった。人間に溶け込むのがこんなに心地良いとは思わなかった。

 劣等感の塊だった自分に言ってやりたいものだ。




 2-Bの教室の前まで来ると、喧騒を感じる。

 二年生になれば学校にも慣れているだろうし、クラスが変わったとはいえ、一年生で知った顔も並んでいる事がその理由か。

 彼や彼女はそうして見知った知り合いを『友達』と称して上辺だけの付き合いを重ねていく。

「ここで待っててくれ。呼んだら入ってきてくれればいい」

「はい、分かりました」

 教室に入っていく教師を見送り、扉が閉まった。それを確認して窓枠に体重を預ける。

 嘆息を一つ。廊下には誰もいない     ホームルームが始まるからだ     ので、安心して気を抜ける。

「静かに!」

 中から教師の声が聞こえてくる。やや小さくなったざわめきと、着席する時の椅子が床を滑る摩擦音。他のクラスもほぼ同じ、静かでいて『これから』を含む高鳴りに包まれていく。

 静かである故に廊下までは漏れていない。

 これでやっと仮初の一人、休息地点の訪れ。

 さて、どうしようか。

 まずは第一印象をいかに薄くするかがポイントであるとボクは睨んでいる。転入生というインパクトはそれなりに強いが、払拭されるのにそれほどの時間は必要としないだろう。

 空気のように、さも当然のように振舞えば、大丈夫。

 自分を鼓舞し、まだ拭いきれない緊張感を隠す。思っていたより、あの引きこもっていた期間は自分を弱くしていたらしい。

 苛立ちついでに窓の外を見る。この学校は、エの字型の校舎を二つ横に並べたような形になっている。ボクは四角く区切られた中庭を見下ろす三階に今、立っていた。一階は職員室や保健室、進路相談室のような特別教室があり、そこから二階は三年生、三階は二年生、四階は一年生と上がっていく。

 マンモス校ほどではないが、それなりに大きな高校である。確かしおりによると、全校生徒数は延べ二千人超。一学年あたり、七百人くらいの計算になる。

 クラス毎に約五十人で分けられているので、総クラス数は十四クラスか。それだけの人数がこの学校には存在する。

 そんな校舎に囲まれた中庭には、名物らしい九十九桜が満開になっていた。

 見下ろしながら他愛無く呟いた。

「桜を見ても、別に何も思う事なんかない」

 思う事なんて無いボクはしかし、急に投げかけられた他意に、


「ほんと?」


「     っ!!」

 心臓が、止まるかと思った。

「ほんと?」

 声は自分の後ろから聞こえてくる。振り向けば、一人の女生徒が立っていた。

「い、いや」

「あんな綺麗な桜を見て何も思わないなんて     」

 女生徒はボクと桜を交互に見る。背は低く、短いながらも綺麗なストレートヘアをボブにした髪は、黒染めしたのかと疑わせるほどに黒い。

 名札の安全ピンが光を反射して目に入った。水色をシンボルカラーとした名札、という事はボクと同じ二年生、そしてクラスはまさに目の前の、Bクラス。


「     普通じゃない」


 腰から下の感覚がすっぽりと抜け落ちたように、無い。

 名前は鴫野唯一、シギノ ユイと読むんだろうか、この同級生の女の子は。

「あ、その」

「ま、いいや。ところで君、誰? 見た事無い顔だけど」

「ボク     はあの、転入してきて」

 鴫野は驚いて、

「あぁ! 君が!」

 と、合点がいった様子だった。恐らく何かしらの説明や噂などで、転入生が来る事を知っていたのだろう。

 とにかく、話題を逸らさないといけない。いきなりファーストコンタクトでしくじるなんて、どうにもついてない。アスファルトに顔から突っ込んだ気分だ。

 でもまだ挽回できる。

「き、君は? 遅刻?」

「なー、初日から遅刻なんてあれなんだけど、まだ冬休み in my headなんだわ」

 自分の頭を抱えてぐるぐる回りだす鴫野を見て、ボクはこいつがけっこう変わっている奴だと分類する。天然なのか、狙っているのかまでは分からないが。

 ……狙っているに決まってる。自分を可愛く見せようとしている。期待なんてしない。

「あ、先に入った方がいいよ。ボクはまだ、待ってろって言われてて     」

「ん? なら一緒に入ろっか。ちょこっと面白そうじゃんね」

 言うなり鴫野は教室の扉に手をかけ、一気に開け放った。目を見開いた教師の顔がまず映り込み、それからクラスメイトがこちらを凝視する様がある。黒板にはボクの名前がもう書かれていて、まさにベストなタイミングだった。

 やがて囃し立てる声が響く。照れたように頭をかく鴫野だったが、教師に名簿で頭を殴られて、

「おい鴫野! 初日からお前は何でそう     」

「すいません! 廊下に立ってます!」

「いいから早く座れ!」

 その一連の流れに静かな笑いが起きた。

 だが、ボクはそれに少し違和感を感じる。何だか空気の層がそこにあるような、良くない何かを含んだ空気の層が。気にしすぎだろうか?

 そのまま済し崩しにボクの紹介が行われる事となり、ボクは教壇に立たされて自己紹介を開始した。

「祝園くんは病気で一年休学していたから二年編入って事になってるが、みんな仲良くするように」

祝園啓(ひらく)です、よろしくお願いします」

 もともと笑いをとる事なんて考えて無い。当たり障り無い社交辞令と定型文でどうにかやり過ごす。心音が大きかったさっきよりも、まだ落ち着いた。

 反応は無い。まぁ、そうだろうと思ったが。

「質問は、まぁ、全員の自己紹介してる時にでもするか。じゃあ出席番号一番の(あい)から前出てこい」

 その間にボクは指定された席に向かった。真ん中二列の窓寄り後ろから二番目。これが一年、ボクの机になる。

 クラスメイトの自己紹介が進んでいき、やがて自分の番が回ってきた。

「先ほども紹介されましたが、祝園啓です。歳はみなさんの一つ上なんですが、気軽に接してください」

 質問を待つ。やがてちらほらと手が上がり、口々にみんなが質問を投げた。

「何処の学校に行ってたの?」「趣味は?」「何処に住んでいるの?」「好きな音楽は?」「病気はもう大丈夫なの?」「この学校どう思う?」「どのクラブに入るの?」「好きな女の子のタイプは?」「何歳で射精した?」「好きなご飯のおかずは?」「好きな動物」「旅行に行くならどこ?」「好きな女の子のタイプは?」「何歳で射精した?」「山科(やましな)、エロにしつこいぞ」「いいじゃんかよ」

 その他諸々の質問をこなしていく。上がる手がもう無くなった時には五分が過ぎており、一人あたりの持ち時間をオーバーしていた。

 席に戻ってまた次から始まる自己紹介を眺めた。色んな人間がいる。前と同じクラスだった人間に茶化されるもの、何を言ってるのか聞こえないもの、自分がいかにすごいかを主張するものや、これからみんなよろしくだなんて上辺だけの交友を強要するもの、中にはお前らと自分は違うだなんて教室を出て行くものもいた。

 ボクはいかにも初日で固くなってる風を装っているので、あまり感情は出さない。少しにやけたフリをする程度だ。これくらいが恐らく、ちょうどいいだろう。

 そうこうしている内に授業終了のチャイムが鳴った。音に紛れながら担任教師が連絡事項を矢継ぎ早に伝えていく。メモを取るほどでもなかったので頭に留めて、帰る準備を始める人の群れを見つめる。

 彼らは本当に、生きていると言えるんだろうか。

 見下して、その中に自分もいた過去を消す。

「配布された教科書は一度、全部家に持って帰れよー」

 クラス中からの非難を受けながら教師は退室して行った。残された生徒は、口々に文句を言いながらも鞄に教科書を詰めていく。

 ボクは入学式に出席していたのでまだ教科書を貰っていなかった。一人だけ薄い学生鞄に筆箱やルーズリーフをしまっていく。

 そうこうしていると、帰り際にクラスメイトの男子生徒達がボクを囲む。

「祝園くん、もう少し喋っていい?」

 話しかけられても答える事なんて出来やしないのに。心の中だけで嘲笑に似た謝罪を繰り返す。君らが期待している事をしてあげているんだけど、それは嘘にしかならない。それは、果てしなく愚かで歪んでいて、そして果てしなく     優しいはずだ。

 聞かれるのはとりとめもない事。さっきの質問の延長線上だ。物珍しいから話しかけているだけで、ボクにも彼達にも得るものなんて無いんだけれど、こういう普通の会話をそつ無くこなす事が、ボクのこれから生きていく上で最も大事なんだろう。

 そういえば、あの彼女は何をしているだろうか。

「へー、病気って大変なんだね、大丈夫だった?」

「うん、大丈夫だよ、もう。     ところでさ、鴫野さんってどういう人?」

 これくらいの話題転換なら不自然じゃないだろうだろう。ああいうキャラクター性のある人物を見れば、知りたくなるのが普通の心理だろうから。これは自分の本音とも少なからず合致するわけだし。

 答えようとしてくれた男子生徒が一度、教室を見回す。だが、鴫野さんとやらはもう帰ってしまった後のようだった。姿は見つからない。

「鴫野? あぁ、あいつ? あいつはまぁ、なんだろ、変な奴だよ」

「だろうね。面白い人だね」

 違和感を感じた事さえ忘れて、口だけで無防備に繰り返す。

 その時、ボクは油断していた。スムーズに自分をクラスに溶け込ませたという自負もあったし、これまでの半年が報われた過信もしていたから。


「面白い? まぁ、そうかもね」


      一言で、ボクは現実に引き戻される。

 そこには明らかな嫌悪が含まれていた。侮蔑や阻害を含んだ、憐憫ともとれる思考感情。道端に誰かの足跡が残ってた犬の糞を見つけた時のような、その視線。

 それは。

 それはボクが見ていた目。

 それはボクを見ていた目。

「そ、そうだね」

 汗が噴き出すのを抑えきれない。後頭部がぴりぴり痺れだして、嫌な記憶が掘り起こされる。それをボクは止める事ができない。鼻の奥にツンと痛みが走る。手の親指が内側に収束する。息をしにくい。頭に靄がかかる。

 気分が、悪い。

「     じゃあ、ボクは、これで」

「あぁ、うん。また明日」

 吐き気を抑えて、見送ってくれる男子生徒に手を振る。意識したわけでもないのに足が前へ前へと進んでいき、歩く速度が上がっていく。

 少しばかりホームルーム終了から時間が過ぎているようで、帰ってしまったのか廊下に人は少ない。好都合だ。ともかく、どこか、人のいないところへ。どこか、一人になれるところへ。

     非常階段、そうだ非常階段なら誰もいないはず。そこに行きさえすれば     、

 人にぶつからないように、足早に去る。見えてきたのは校舎の外に備え付けられた金属の階段。錆びて赤くなった手摺りを握って一心不乱に登る。

 四階到達、しかし足は止まらない。

 もう一階分を登る。そこはやはり、屋上に繋がっていた。水色の空には雲が無い。貯水塔の裏まで行って息を静める。荒く、熱い息が食道を焼く。

 ずりずりと壁を背に落ちていく。しばらくここで休んでいこうと決めた。

 トラウマのぶり返し。ストレスによる心身の殴打。自分が二人いる事への禁忌感に、嘘を吐き続けると決めた覚悟の揺らぎ。

 一日目からこれじゃあどう頑張ったって生きていけそうにない。

 それも嘘を吐き続ければ慣れるのだろうか。

「あーしんど」


「大丈夫か!?」


 まただ。この声。

「そこにいるのは転入生じゃないかジャカルタ百人一首。どしたい、病気でもぶり返したかい?」

 鴫野は貯水塔の上にいた。青空を背に寝転びながらこっちを覗き込んでいる。逆光で表情は見えないが、本気で心配している風でもなさそうだ。

「大丈夫だよ」

「だろうね。馬鹿の考え休むに似たりっていうしね」

 その諺は今、まったく関係無いがな。

「よくここを見つけたな! ここはこのわたしの秘密基地だぞ!」

 秘密も何も、非常階段を登れば来れるじゃないか。どこまで頭が幼稚に出来てるんだよ。

 吹き出しそうになって、堪えた。吹き出しそうに? 自分は今、この鴫野という女の子を面白いと感じたのか? まさか、それはない。鴫野だって人間だ。自分本位で動く、他と同じ、ボクの敵だ。

 ボクの中のメーターは0からプラスにはもう行かないんだよ。マイナスになるだけなんだから。

「悪かったね。息が落ち着いたら帰るよ」

「そうしておくんなまし。わたしはこれから昼寝すっかんね」

 その言葉を最後に、鴫野は寝息を立てはじめた。本当に昼寝していただけらしい。

 プラスに傾きかけたメーターは、マイナスを無理矢理に掛け合わせたせいで振り切ってしまった。こうまでして世界はボクに何をしたいんだろうか。もうそれは分からない。

 沸々と沸いてくる怒りにも似た思考回路。自分の事で言明できないのは情けないが、ボクはこの鴫野という人間について、あまりいい感情は抱いていないらしい。

 いや、それは戯だ。

 ボクは信じてしまいそうになったからだ。もしアニメやマンガの世界に住んでいるような人格を持った、本物の善人がいたならば。そう考えてしまったからだ。

 それがこの鴫野だったとして。そんな鴫野の前に存在したボクの価値は。与えられたチャンスを絶対のものだとして捉え、乗っかってしまった自分の意義は。

 ゼロなんてもんじゃない。レイなんてもんじゃない。

 ……もうやめよう。自分を虐めても何もいい事なんか無い。せめて自分だけでも本当の自分を褒めてやろう。

 自分を知ってるのは自分だけなんだから、正確に自分を判断できるのも自分だけなんだから。

 さよならも言わずに立ち去る。深くは関わらないように。相手を個人ではなく他人という集団で捕らえる。そうしなければ、生きていけない。

 帰る道すがら、町並みを観察する。

 学校が大きいのも、ここらはあまり栄えているわけでもないからだ。都心には電車で三十分ほどかかるし、住宅街と言えるほど居住区があるわけでもない。大手の支社や、場所が商業的に重要ではない会社の事務所、あとは自然を残したと体の良い言い訳をする為の樹木。

 駅までは徒歩で移動する。それほど時間もかからない。

 コンビニやファーストフードチェーン、本屋や娯楽施設。駅に近づけば次第にその数は多くなり、街と言っても語弊が無い程に成長する。

 自動販売機を見つけた。ラインナップとしては不満だが、仕方ない。スコールかネクターで迷って、結局はセーフガードで落ち着いた。

 商店街が見えてきた。九隅駅商店街と大きな文字が書かれた門を頭に、そこから数百mの店が立ち並ぶ。何の気は無しに入って、三軒目の熱帯魚屋さんを覗く。

 見るのは魚ではなく、申し訳程度に置いてある爬虫類や両生類だ。

「いらっしゃいませ」

 歩きながら店を回る。生き物は好きだ。人間以外の生き物は、言葉を喋れないから。好きなだけこちらを押し付ける事だってできる。

 そして最後には殺すという最終手段まである。まさに至れり尽くせりな鑑賞動物達よ。感傷動物? そこまで詩人じゃない。

 店を出て、駅に向かう。駅内のコンビニの前まで来て、買い物をしているクラスメイト数人に発見されてしまった。

「あ、祝園くん」

「祝園くんだ」

「帰るの?」

 相槌を打ちながら話を進めていく。いくらか会話を重ねると、流れがボクの登場の話題になった。

「そういや、鴫野。あいつ遅刻してきたな」

「まぁなー、祝園くん、何かされなかった?」

「狙ってやってんだよ、キャラ作り」

 特に何もされた憶えは無いから正直にされていないと答えた。彼らはいたくそれに安心したようで、胸を撫で下ろしている。ボクに顔を近づけ、声を潜めて、

「あんま鴫野と関わらん方がいいよ」

「どうして?」

「あいつ、空気読めないんだよ。それになんか気持ち悪いしさ。気に入らない事あったらすぐキレるし、人の迷惑とか気にしないし」

「だよな。だいぶ前もさ、落ちた消しゴム拾ってやったらいらないとか言われてさ」

「そういやほら、あの学校の自動販売機壊したのさ、鴫野らしいよ」

「マジか。やっぱやべーな、あいつ」

 ふむ。なるほど。

 鴫野が教室に入った時のあの反応は、そういう下地があったからなのか。

 これはいよいよ鴫野とは関わらない方が良さそうだ。わざわざ自分から嫌われ者についていくほど、マゾヒストじゃない。彼女とは距離をとって、ボクはボクでこういう普通な奴らと接すればいいだろう。

 そこから鴫野の悪口大会が始まる。聞いていてもしょうがないので、手短に別れを切り出して定期を改札に通した。階段を上がってホームに出る。

 かれこれ学校を出てからもう一時間近く経っている。早く帰らなければいけないわけでもないが、少しのんびりし過ぎたかもしれない。

 吹き抜ける風はまだまだ冷たい。真冬ほどではないが、ほのかな温かさを孕んだ風が、学制服の裾を揺らしていく。ボクはベルトの位置を正して電車を待った。

 鈍行しか停車しない駅なので、二本の快速電車を見送った。電光掲示板を見つめていると、ふとした空白に体がホームを降りて、線路に立つイメージが浮かぶ。戯れた妄想だ。と、目当ての普通ダイヤが来た。

電車に乗って、乗換駅まで三駅。

鴫野の事が頭から離れない。

そのループを押し込めて、明日から始まる通常授業について脳を巡らせる。ついていけないなんて事は無いと思うが、平均点にできるだけ近づける為に気を抜けない。

昼前で乗客の少ない電車の中は、ほどよく暖かく、座席の下から吹きだす温風がふくらはぎに当たって肌が少しかゆい。さて、ポケットにあるさっき買ったメーテルリンクでも読んで時間を潰そうか。

感触だけでポケットを探る。

     視線を感じた。

きょろきょろと辺りを見回す。

「     ?」

ボクの座っている車両の端の座席から、ちょうど正中線で反対の座席にいた大学生風の青年と目が合う。車両一つ分の距離が開いているものの、ばっちりと確かに目が合った。

視線をずらすようにして、すぐに目を逸らす。

気を取り直して文庫本をポケットから出そうとした。

 寸暇を置いて、手が止まる。


「     おい!!」


 突然の怒声。十数人の乗客が一斉に顔を動かす。

 もちろん、ボクも顔を上げた。人の目線の辿る。すると、先ほどの大学生が座席から立ち上がって     

「お前よぉ! 今、馬鹿にしただろ!? なぁ、馬鹿にしただろ!!」

 声は裏返って正確には聞き取れないが、彼は怒っているようだ。だが、何に?

「就職できねぇのがそんなに悪いのかよ、なぁ!!」

 我鳴り立てながらこっちに向かってくる。

 視線は     ボクだ。ボクの方を向いている!

「どいつもこいつもムカつくなぁ!! クソクソクソクソクソクソクソ、イラつく!!」

 何が起きたのか。いったい、何が悪かったのか。

 自問しても答えは出ない。

 固結した空間は、それでも発車した。

 一歩、また一歩と大学生はこちらに近づいてくる     !




2


「死ねって言いたいのかよ、なぁ!? こっちだってこんなに頑張ってんのによぉ!!」

「は、いや」

 これはまずい。面倒な事になっている。

 大学生は途中にいる人を押しのけながらこっちへ歩いてくる。彼の鬱憤を晴らすためなのか、それともただ目が合った事に起因があったのか。

 サラリーマンや他の青年が間に割って入ってくれるが、ことごとく突き飛ばされ、役には立たない。

 とうとう目の前までやってきた大学生が、ボクの胸倉を掴んで強引に立ち上がらせた。血走った目と涎の滲んで白い滓がこびりついた口角が迫る。

 咄嗟の事にどうしていいか分からない。完全に頭がパニックになっている。

「お前みたいなガキに馬鹿にされるほどまだ落ちちゃいねぇよ!」

「別に、馬鹿になんか     」

「うるせぇよ!」

 乱暴に座席に突き返され、反動で肺の空気が抜ける。息が吸い込めなくなってさらに混乱していく。他の乗客が腕や体を抑えているにも関わらず、大学生の目にはボクしか映っていない。

 騒ぎが大きくなって、両隣の車両からも野次馬がやってきた。止めようとする人もいたけど、大部分は離れた場所からこっちを見るだけ。

 中には喧嘩を助長させようとする人間までいる。

 これだ。

 これが、人間。

「おい、お前、やめろ!」

「落ち着け!」

 暴れる人。抑える人。見る人。笑う人。見ない人。

 人。

「離せ! 殺すぞ!」

 安全な位置から、弱者を見る事を好む生き物。自分にさえ被害が及ばなければそれでいい、自分よりも不幸な者を見ると相対的に幸せを感じる、そういう汚い本性。

 嫌という程、見てきた。ボクをイジめる人間と、それを取り巻く人間。三日月を三つ並べて貼り付けた能面みたいな顔面の顔面。

 そうやってボクは沈んでいく。危機的状況で、一人だけ心が沈んでいく。

 ボクもまた、その一員であるから。

「てめぇ何を黙ってんだよ! 何か言ってみろ!」

 何も言えやしない。いや、何を言っても無駄だ。

 どうせ何も聞きやしないし、どうせ何も聞かせられやしない。今のボクは無力だ。何を答えたところで行き着く先は同じで、そこには絶望しか無い。

 断絶された教科書通りの人と、頭の先から足まで人間との交差。

 感覚が死んでいく。

 者が、物に見える。

「そうやって見下しやがって、いつでもいつでもお前らはそうやって安全だよな! 苦労も知らないんだよな! 本気で殺し     」

 目を閉じる事も、歯を食いしばる事もしない。振り上げられた拳を、空ろに見ている。景色に幾重ものフィルターがかかっているようだ。耳元で大量の空気が圧縮されて音を通さないようだ。

明るいのか暗いのかすらも分からないその視覚と。

無音なのか轟音なのかすらも分からないその聴覚の中で。


 やけに彼女だけはしっかりと感じた。


「お兄さん」

 何時の間にか大学生の後ろにいた鴫野は、大学生の二の腕のあたりを優しくノックした。そしてそちらを見たその顔に     、


「うっせー!」


 と、学生鞄を力任せに打ちつけたのだ。

 教科書やら何やらで嵩増しされた結構な重量の物体が、かなりの速度で衝突する。あまりの衝撃にもんどりうった大学生は、ボクの真向かいの座席に吹っ飛んだ。周りで彼を拘束していた二、三人もまとめて倒れ込む。

 角がひしゃげた鞄を背負い直して、鴫野は大学生に指を突きつける。

「うるせー!」

 もう一度、同じ言葉を投げた。

 くるっと振り返ってボクを見る。

「お、祝園くんじゃーん。危ないとこだったね、ちょっち」

「あ     」

 どうした事だろう。

 振り向いたその笑顔に。

 ボクは何もできなかった。

「お、車掌さん社長さん佐藤さんは砂糖三杯。めんどっちーし、わたしは降りるよ」

 ちょうど次の駅に停車した電車から、鴫野は颯爽と降りていった。残されたのはぽかんとした乗客と、開いた口が閉まらないボク。

 車掌らしき人物がやって来て、大学生をどこかへ連れて行った。しかし乗客はまた騒ぎ始めた大学生にはもう目もくれず、それぞれの位置に戻っていく。

 ボクは、何も出来なかった。

 やっと助けられた事に判断が追いついたのは、降りるはずの駅を二つも過ぎてからだった。

 混濁しながら聞き覚えの無い駅で降りても、戻る電車に乗る気がしない。人のいないホームのベンチに座って、買ったセーフガードを飲んだ。しばらくそうしていた。

 例えそこがラッシュ時で、大群の有象無象が跋扈していたとしても、ボクは気にもせずに同じ行動をとっただろう。まばたきが少なくなった表情で、だらりと力を抜いたまま、動かない。

 ふと思い出した好きな歌のように、消そうとも思っても消えないその単語。

 鴫野。

 彼女は、どういった人物なんだろう。

 彼女は、どうしてボクを助けたんだろう。

 彼女は、どうやってあそこまで生きる事ができるようになったんだろう。

 疑問は尽きず、次から次へとまるで湯立った水のごとく湧いてくる。一つ一つを捕らえようとする前に消えては現われ、考えを追いつかせようにも届かない。

 鴫野。

 ボクはどうすればいいのだろうか。

 その疑問にはすぐに答えが出たようだ。


そんなもんあるか。読み終わったら黙って一人で考えろ。

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