終焉
雄叫びを上げるアグディクティスの姿が変容していく。全身から鈍い光を放つ銀色の体毛が生え身体中を覆い、雄叫びを上げる口は大きく裂け、禍々しい牙が生えていく。秀麗な顔は年老いた獣のように醜く歪み、全身の筋肉は膨張を続け、十メートルを超える巨体になる。変容していく中で左腕は失われ、アグディクティスは隻腕の獣になった。
「我が名はバロール。古の時より北の最果ての地を統べるフォモル族の長なり。再び混沌と闇が世界を覆う日が来たのだ。畏怖せよ。そして吾為に血を大地に捧げるのだ」
復活した太古の邪神は恍惚とした表情で、数百年振りの現世の空気を味わっている。
危険を感じ、祭壇の奥へ逃れた五郎丸は自失しているクローバーに声をかけた。
「クローバー。ブリギッドで預かった武器は持っているか」
クローバーから返事はない。アンジェリナが倒れるのを目の当たりにして、気が動転しているのだ。
「クローバー」
五郎丸が両手でクローバーの肩を揺さぶって再び声をかける。
「は、はい。武器はここに二本ありますぅ」
我に返ったクローバーは二本の短剣を懐から取り出すと、五郎丸に差し出す。神聖文字が刻まれた刀身は静謐な輝きを放っていた。
「いや。一本はクローバーが持っていてくれ。狙いは奴の邪眼だ。視線を合わせないように回り込んで、奴の左眼を狙ってくれ。俺が囮になって奴の右側から攻撃する。奴は左腕がないから、左からの攻撃は有効だ。短剣を矢に括り付けて、正確に左眼を狙うのだ」
五郎丸は受け取った短剣を左の腰帯に挿しながらクローバーに作戦を説明した。
「で、でも、たった一回じゃぁ。あたし成功できるかどうか……」
クローバーは自信なさそうに短剣を見つめて呟いた。
「やるんだ。それしかアンジェリナ殿を救う術はない。助けたいのだろう。お主の命の恩人を」
五郎丸の言葉にクローバーは長い瞬きの後、顔を上げた。
「はい。あたし……やります。師匠を助けます」
クローバーはゆっくりと頷くと短剣を握り締め、決心を固めた。
「よし、頼んだぞ。相手はあの巨体だ。俊敏な動きが出来よう筈もない。ましてや覚醒したばかり。倒すなら今しかない」
五郎丸は岩陰からバロールの様子を探りながら、クローバーに告げた。撤退して作戦を立て直す余裕は無い。今ここで再び封印するのが最良であると五郎丸は結論付けた。
「畏まりました。援護します。懐に飛び込んでください」
クローバーは岩陰から飛び出すと素早くバロールの左側に回りこみ矢を速射する。正確に射出された矢がバロールの腕の腱を断つ。……筈であったがバロールの視線を浴びた矢は灰燼となって霧散した。
「ちっ。面倒な邪眼だ」
その様子を見ながら逆方向に回り込んだ五郎丸はバロールの肘の関節目掛けて、身体を回転させながら斧を振り抜いた。バロールは驚くべき反応速度で腕の角度を変えると、関節が粉砕されるのを防いだ。五郎丸の斧は下腕部の筋肉に直撃したが、その筋肉は鋼のように硬く、さしたる損傷を与えられなかった。五郎丸は舌打ちをして素早く体勢を立て直すと、祭壇の柱の陰に移動し、邪眼の範囲から逃れる。
「見えていない筈なのに、何故外される」
口惜しそうに唇を噛みしめた五郎丸は、今度は一気に後ろまで回りこみ、バロールの視界から外れた。しかし、突然バロールの伸ばした後ろ足が五郎丸の体を捉えた。五郎丸は直撃の際に身体を捻り衝撃を分散させ受身をとって着地したので、ダメージは最小限に喰いとめたが、纏っているは物理防御力が皆無のローブだ。今の一撃で肋骨が何本か砕けたのは間違いない。内臓まで損傷はないと思われたが、鈍い痛みが脇腹を襲い、五郎丸は額に汗を滲ませた。
「なんて奴だ。何処に眼が付いてやがる」
五郎丸は物陰に隠れたが、バロールが方向を変え、五郎丸に向かってくる。
「貴様らの攻撃など、手に取るように判るわ。諦めて吾の最初の贄となれ」
バロールはクローバーの矢を打ち落とすため視線はクローバーの居る左側を向いているが五郎丸の居場所を読み取り、右腕を振り下ろしてくる。その攻撃自体は鋭いものではない。但し破壊力は桁違いである。五郎丸は直撃は避けたが、バロールの拳によって砕かれ飛び散った岩の塊や、衝撃波によって吹き飛ばされる。
片膝をついて立ち上がろうとしたときバロールの腕が五郎丸を掴みとろうと伸びてくる。手負いの五郎丸は避けきれずにバロールの右腕に捉えられてしまった。バロールの腕に一気に力が込められ、五郎丸の全身の骨を砕こうとする。己の掌の中で絶叫をあげる五郎丸を見て、バロールは勝利を確信した。
「まず、一人片付いた」
醜い顔に笑みを湛えた時、祭壇に聞き覚えのある声が木霊した。
「オベリスクストーンを外せ。思考を読まれるぞ」
祭壇の瓦礫の奥から一人の男が現れ、軽々とバロールの巨体を乗り越えると、五郎丸を掴んでいる手首の腱を切り裂いた。黒い血が斬り口から噴出されバロールは奇声をあげると、五郎丸を掴んでいた手を放した。圧迫地獄から解放された五郎丸が大きく息を吐き出し顔を上げると、そこには愛剣ワルキューレを手にした戦友の姿があった。
「ウルフ。無事だったのか」
五郎丸は痛みを忘れて叫んだ。
「話は後だ。奴らはオベリスクストーンを介して相手の思念を読み取るようだ。さっき取り込まれた一瞬で、それが解ったよ」
ウルフはそれだけ告げると、バロールの左側に回り込もうとする。
「小賢しい人間どもめ。この神殿ごと、まとめて始末してくれようぞ」
バロールは全身の毛を逆立たせて、低い唸り声を上げている。辺りの空間が歪み、悪寒がするような闇に呑みこまれていく。
「今だ、クローバー。頼む」
「畏まりましたぁ」
クローバーは持っていたオベリスクストーンを外して踏み潰すと、短剣が括られた矢を弓につがえた。
「師匠。必ず助けてみせます」
クローバーは呟くと迷いなく矢を放った。高い弓弦の音を残して矢は吸い込まれるようにバロールの左眼に命中した。命中と同時に短剣に仕込まれていた特大の神聖魔法が発動し、聖なる力で邪眼を粉砕する。眼球が潰されたバロールの左眼から黄色い体液と黒い血が噴き出した。
「----------」
表現出来ないような奇声をあげてバロールが体勢を崩す。広がっていた闇もその範囲を狭めていくのが見て取れた。
「よくやった。クローバー」
五郎丸はオベリスクストーンを放り捨て、バロールの腕を伝って右肩まで駆け上り跳躍すると、残された邪眼を目掛けて右手一本で斧を振りかざした。片眼を潰され悶絶していたバロールが残された右眼を五郎丸へ向ける。五郎丸の金色の斧は一瞬で灰燼と帰し、仰け反った五郎丸も体勢を崩したかのように見えた。
「かかったな。斧で邪眼を潰せるとは最初から思ってないぜ」
五郎丸は不敵な笑みを浮かべると、左手に握っていた短剣をバロールの右眼に突き刺した。先程と同様、神聖魔法が発動しバロールの邪眼は砕け散った。
「やった」
勝利を確信したウルフが雄叫びを上げる。
「赦さんぞ、貴様ら……」
両目を潰され、なお起き上がろうするバロールの前に光の塊が舞い降りてきた。天から降り注ぐ祝福のような優しい光だ。バロールを除くその場にいた全員が眩しさで視線を逸らした。光が収まると、そこにはカラドボルグを携えたアンジェリナの姿があった。邪眼が潰された事により、先程戒められたアンジェリナとカラドボルグの力が解放されたのだ。
アンジェリナは銀色の糸で意匠の施された、淡い空の色の美しい法衣を纏っていた。それは古の時代に騎士の王のみが着用を赦された衣であった。
「アンジェリナ殿」
「師匠~」
「アンジェリナ殿」
五郎丸がクローバーがウルフが、大切な仲間の名を叫んだ。アンジェリナは三人に一瞬だけ振り向き微笑むとカラドボルグを鞘走らせ、バロールと対峙した。淡い光がカラドボルグを包んでいた。
「くっ。カラドボルグ。またしても我が祈願の前に立ち塞がるか」
両目を潰され力を失いつつあるバロールの声には、明らかな焦りが生まれている。
「吾は数百年待ったのだ。吾は神。貴様ら人の子などに屈する道理などない」
バロールが再び雄叫びを上げ、全身の筋肉を強張らせると体毛に隠されていた額に一本の深い皺が刻まれ、そこから禍々しい黄色い光が溢れ出した。
「いかん。サード・アイ(第三の眼)かっ。世界のどのような神話であれ、神のサード・アイは破壊しか生まん。アンジェリナ殿。奴を止めてくれ」
五郎丸が全身を声にして、アンジェリナに向かって叫ぶ。
五郎丸の声に振り返らずにアンジェリナはカラドボルグをゆっくりと上段に構えた。
「バロールよ、もはやお前がこの地に居る理由は何一つない。疾く帰れ。お前が在るべき闇の彼方に」
口から発せられた言葉が己のものであったか、アンジェリナには判別できなかった。だが、その言葉を待っていたように、バロールの額が割れ第三の眼が開かれた。悪寒がするほどの邪念に満ちた黄色い光が波となってアンジェリナたちに到達しようとする。
--その、半瞬前。
アンジェリナはカラドボルグを一閃した。
カラドボルグの剣先から空間が裂け、バロールの邪眼の光を飲み込むと、バロールの本体も裂けた空間に引きずり込まれていく。
「馬鹿な。カラドボルグに吸い込まれる」
バロールは歪んだ空間の狭間で身体を瓦解させながら声を上げた。
「くくく、だがな。これで終わりではないぞ。再びこの世が闇と混沌に包まれる日を、貴様の剣の中で待っておるぞ。人の心に闇がある限り、吾は何度でも甦り。絶望の世界をいずれ造ってみせる」
第三の眼を光らせたまま、バロールは笑い声を上げて消えた。バロールの居た空間はカラドボルグに吸い込まれ、辺りは元の祭壇へ戻った。
「その時はまた、私たちの意志を継ぐものがお前を滅してやるさ」
アンジェリナは古の邪神に呟くと、カラドボルグを鞘に収め一つ深呼吸した。二十年前に始まった邪神復活の企ては回避されたのだ。
我に返ると、自分の名を呼び駆け寄ってくる仲間の姿が見えた。三人に向かって手を振ろうとした時、アンジェリナは突然意識を失い、その場に倒れ込んだ。
頭の中には、自分の名を呼ぶ仲間の声が響いていた。




