吐露
重い沈黙が広間を支配していた。
「なんて事だ。呑み込まれるなんて」
リキュールが両膝を着いて両の拳を硬く握り締め低く呻く。
「ウルフさんを助け出す方法はないのでしょうか」
クローバーは瞳に涙を浮かべながら五郎丸とアンジェリナに視線を向けた。
「解らん。あの魔法を喰らったのは、ウルフが初めてだからな。呑み込まれた際に術士も絶命したとすれば、術が不完全なままかも知れない。そうすれば、術から解放され、どこか別の空間に飛ばされただけと言う可能性もある」
五郎丸の話は推測の域を出ていない。
「じゃあ、助かるかも知れないんですね」
クローバーの声と顔に明るさが戻る。
「だが、不完全だった故に、どこかの空間の狭間に取り込まれてしまっているかも知れない」
アンジェリナが別の可能性を提示する。術式の法則が異なる魔法の事は五郎丸にも属性魔法が行使できるアンジェリナでも解らない。
「いずれにせよ、これで残っている術士はあと一人だ。そいつを倒せばウルフを取り戻す機会も生まれるかも知れん。まずは、残り一人の討伐に全力を傾けよう」
五郎丸は自分に言い聞かせるように力強く宣言した。その気持ちを全員が理解していたので、異議を唱えるものは誰も居なかった。
「待ってろよ。必ず助け出してやるからな」
五郎丸は誰にも聞こえない声で古い戦友に誓いを立てた。
その時、広間に乾いた音が響き渡った。音がした方向にアンジェリナが視線を向けると、エンプレスが槍と盾を落とし、口から血を吐いて座り込んでいるのが見えた。魔力が込められた金色の糸で美しい意匠が施されているエンプレスの蒼いローブが血で紅く染まっていく。
「どうした。何があった」
五郎丸が駆け寄って助け起こそうとする。今日一日の連戦で病に冒されていたエンプレスの身体が悲鳴を上げたのだ。
「労咳かも知れん」
元軍人で、医学の心得もあるリキュールが血を吐きながら咳き込むエンプレスの様子を見て告げる。
「す、少し肺を傷めているだけじゃ。このくらい何ともない」
無理に笑ってみせたが、エンプレスの顔から血の気が引いていくのがはっきりと判る。
「馬鹿。何を言ってるんだ。こんなに血を吐いて何とも無いわけないだろう。エンプレス。お前をこれ以上先に連れて行く訳にはいかん」
ギルド長の五郎丸がきっぱりと宣言する。吐血の量から判断すれば、これ以上の戦闘は誰が見ても不可能である事は間違いなかった。
「馬鹿はお主じゃ。ここまで来てわらわだけ帰れと言うのか。そんな事出来るわけなかろう。ウルフも取り返せない。術士も倒していない。何も得ぬまま退く事はできぬ」
エンプレスは蒼白な顔で叫ぶと、落とした槍を拾い上げ、立ち上がろうとする。しかし、また肺の奥から血の塊が咳と共に吐き出されエンプレスは口元を押さえ座り込んだ。指の間から鮮血が滴り落ち、大量の血が地面に不気味な紅い染みを作っていく。
五郎丸はエンプレス正面に座り肩に自分の手を当てると、今度は優しく諭すように告げる。
「エンプレス。俺はもう誰も失いたくないのだ。ウルフも必ず助ける。お前の病を直す方法も見つけてみせる」
「そんな子供騙しの気休めはごめんじゃ。自分の死ぬ場所くらい、自分で決めさせてもらうぞ。お主らには解らんじゃろう。自分一人で暗い部屋で皆の帰りを待つのがどれほど苦しい事か。また皆、わらわを置いて行ってしまうのか。残されるわらわの気持ちも知らないで」
声を荒げて叫ぶと、エンプレスの両目から涙が溢れてくる。
「お願いじゃ。一緒に行かせてくれ。わらわはこれで最期でも構わん。皆と一緒にいたいのじゃ。もう帰りを待つだけの身に戻りたくないのじゃ」
病と闘う誇り高き女帝の胸の奥には、孤独に押しつぶされそうな一人の女性の心が固く封印されていたのだ。彼女がこれほど自分の弱みを見せ、心情を吐露したことは今までなかっただろう。エンプレスの嗚咽が壁に反響して、静かな広間に響き渡る。
「誰もお前を置いていくとは言っていないぞ。リキュール、悪いがこの我が侭お嬢さんを入り口まで送ってやってくれ。エンプレス、帰りは一緒だ。必ず迎えに行く。お前が待っていてくれるから、俺たちは帰ろうと強く思うことができるのだ」
正面から真摯な眼差しをエンプレスに向け、五郎丸は説得する。
「必ず、皆無事に帰ってきてくれるのか」
涙を流しながら、五郎丸のローブの裾を握り、エンプレスは見つめ返す。いつも凛々しいエンプレスの顔が、この時は幼子のように見えた。
「俺が嘘をついた事が今まで一度でもあったか」
五郎丸は手を伸ばすと、エンプレスの頬を伝う涙を優しく拭い、笑って答える。五郎丸の確かな体温がエンプレスの心の氷をそっと溶かしていく。共に戦うだけが仲間ではない。互いを信じ支えあう事こそが仲間の証であるとの想いがエンプレスの心の中で結実した。
「いや、確か十回や二十回ではなかったような……」
エンプレスは頬に当てられた五郎丸の手に自分の手を重ねると、泣きながら笑って、皮肉で返した。
「入り口まで敵が襲ってくるかも知れんが、俺が必ず守ってやる。安心しろ」
リキュールがいつに無く紳士的な声でエンプレスに手を差し伸べる。
「なんじゃ、お主安い酒でも飲んで、悪酔いでもしておるのか。気色悪い」
リキュールの手を取り立ち上がるといつものエンプレスに戻っていた。
「先に入り口で待っておるぞ。三人とも必ず戻ってくるのじゃぞ」
リキュールに肩を預けて、エンプレスが三人を見つめる。
「大丈夫。私たちなら、きっと出来ます」
アンジェリナはエンプレスの視線を受け止め一つ頷くと、広間のさらに先に進んで行った。
走り去る三人の後ろ姿を、エンプレスは見えなくなるまで見つめていた。




