17th.DIVE 潜入任務
ヴァルハラカフェから、大体自転車で二十分強。工業地帯と住宅街との変わり目とでも言うべきところ。少なくとも繁華街ではありえない。
ひと気もなく、商売っ気もない、静かなところだ。人っ子一人猫の子一匹通りやしない。道路の両端に申し訳程度に配置された電灯が哀愁を誘う。
その道を俺たちは歩いていた。自転車は付近のコンビニに停めてある……そこも結構遠いのだが。
「やべー、なんか出そうだなー」
慎也が呟いた。だがそれを見たところで妙な虚しさを感じるばかりだ。例えばこれが伊織だったら可愛いのだろうが……と考えたが伊織だったら恐いものは何もないとばかりに颯爽と歩いていそうな気がする。
「ヴァルハラ作ってるトコの本社はどこだ?」
「そろそろだろ」
伊織から貰った地図を片手に眺めつつ慎也に答えた。そんな迂遠な表現ではなく社名で言ってやれよと思わなくもないが、俺もヴァルハラを作った会社の名を覚えていないため何も言わない。手元の伊織お手製簡易地図に従ってそこの角を曲がる。
慎也は納得したように鼻を鳴らした。
「ここだな」
「だろうな」
目の前に立っていた建築物を二人して眺める。
ゲーム会社としてはなかなか大きい。横の長い直方体が置かれているような外観だ。今は閉じられている正門から正面玄関までは意外に遠い。窓のどこにも明かりは灯っていなかった。
俺はケータイを取り出して伊織に掛けた。イヤホンマイクを耳に掛けて、本体はポケットにしまう。数コールの後に回線がつながった。
電話口に出た伊織は前置きなしにいきなり切り出した。
『着いた?』
「……ああ。今正門を前にしてる」
『正門は乗り越えちゃっていい。近くの植え込みに中継機を隠しておいて』
言われた通り、俺は胸くらいの高さがある門を乗り越えて、近くの植え込みにザックから取り出した中継機を置いた。
『電源入れるのを忘れないで』
入れる。パワーランプが点灯した。
発信機の方も、限界まで小型化しているこちらにスイッチは付けられないため電源を遮っている絶縁体を取る。一拍の間を置いて伊織が答えた。
『うん、動作を確認した』
俺はひとまず一息吐く。こんなスパイの真似事は当然初めてで、無駄に緊張してきた。じわりと胃痛がする。深呼吸。
「よし。……慎也は、もう帰ったほうがいいんじゃないか?」
『そうね、慎也君は帰るように言っておいて』
話を聞いていたらしい慎也は承知したとばかりに軽く手を振って、頑張れよ、と言い置くと去っていった。
もう一度深呼吸。ここからは俺一人だ。しっかりしないと。
耳元で冷静な伊織の声が言う。
『正面玄関、見える?』
「ああ」
『そっちは使わない。右手を回って裏にある裏口から入る』
「分かった」
俺は歩きだした。普段よりも早足だ。
建物を眺めていると、夜の学校というものをふと思い出した。真夜中にこうも大きな建築物が暗い陰影を持っていれば、なにやら不気味な威圧感を放つようだ。なんとなく怖い。
『右手を回って』
こういうとき、伊織の声は心強い。俺はザックを背負い直し、足を速める。
角を曲がると、なるほどそこには確かに裏口があった。扉の脇にパネルらしきものがカバーに覆われてある。
『カバーあるでしょ? 開けて』
開けた。なかにはカードを読み取る縦の溝とテンキー、簡素な液晶がある。
ザックから伊織に渡されたICカードと暗証番号のメモを取り出す。
『出入り用のICカードを通し、テンキーを入力』
した。素っ気ない電子音とロックが外れる音がする。ドアノブをひねってみると、呆気なく開く。
内部に侵入してみる。暗い。採光窓もなく、廊下の向こう側にようやく窓があるらしい、青白い光が床を照り返している。
『暗視ゴーグルつけて、進んで』
ザックから取り出して頭に付ける。重いのを我慢してバンドを留め、電源を入れた。
ひどく薄ぼんやりと辺りの様子が薄緑のシルエットとして見えた。あまり見えている気がしない。
「ペンライトのほうがいいんじゃないか?」
『だめ』
進んで、と伊織は指示した。俺は軽く肩をすくめ、足を踏みだす。
一つ角を曲がると、そこからは真っすぐ。奥は墨を垂れ流したかのような暗闇に呑まれて見えない。
『もう少し進んで、左手の扉を開けて』
言われた通り進み、確かにある左手の扉のドアノブをひねった。
「開かない。鍵が掛かってる」
押しても引いてもガチガチ鳴るばかりで動きやしない。
『……じゃあ、どこでもいいからパソコンを探して。急いで』
了解、と返し俺は首をめぐらせた。ソフトウェア系の会社だから、どこかしらパソコンくらい置いてあるだろう。
手近な扉に片端から手を掛け、開くか確かめる。開かない、開かない、開かない。
管理室とかに行ってマスターキーでもかっぱらったほうが良いんじゃないか、と思ったのを見切ったように伊織が言う。
『管理室は間違いなく鍵が掛かってる。管理係が鍵を持つことになってるから。壊したら、後始末ができないから厄介なことになる』
それは自問するような声だったが、回線が繋ぎっぱなしなので当然俺にも聞こえた。俺は素直に諦めて不注意を探すことに専念する。
廊下の奥まで来てしまったが、どうやらもう一階は無さそうだ。階段までたどりつき、わずかに逡巡する。右手側に二階への上り階段、左手に地下への下り階段。
『上』
伊織が短く指示を出した。発信機で俺の位置を把握しながら電話でのリアルタイム指示というのはどうやら正解だったらしい。
俺は階段を駆け上がる。階を上がってすぐそばの扉に飛び付いた。引っ張ったが開かず、押したら開いた。そのまま転がり込む。
『なんでもいい、パソコンを立ち上げて』
俺が室内に入れたことに気付いたのだろう、伊織は若干興奮をうかがわせる声で言った。
俺はとにかく従う。手近なデスクトップパソコンを立ち上げた。
パワーランプが点灯し、ガーガーと音を立てて起動しながら、ふっとディスプレイに明かりが灯る。普段パソコンに滅多に触らないアナクロ生活を営んでいるからか、起動に掛かる時間がひどく長く感じられる。俺は苛々とディスプレイを睨み付けた。
やがて遅すぎるほどの時間が過ぎて、ディスプレイの画面が安定する。
「どうすればいい」
『メール送ったから、メールソフトを起動して受信して。送ったメールを開いたら、もういいから』
言われた通りメールソフトを起動、サーバにアクセスしてメール受信。送り届けられたメールを選択してクリック。なにかウインドウが出て色々と申し立ててきたが全く読まずにOKとか無視とかを選択する。早く済ませてしまいたい。
ガーガーいう音が長く続く。しばらくしてメールが開いた。……これは、なんだろうか。『ヴァルハラ最高!』……?
しばらく頭をひねってみたが、ダメだ。意味が分からない。
仕方なくとりあえずメールを閉じようとする。ガーガーいう音が長く続き、ようやくその伊織からの意味深極まるメールが閉じられた。
「あれ、なんか処理が遅くなってないか?」
通常の処理速度など知らないが、メールソフトを立ち上げるときよりも時間が掛かっている。
そんな俺の素朴な疑問に電話口から伊織は答えてくれた。
『ウィルス送ったから』
………………はい?
呆然とする俺の耳にはカタカタと淀みのないキーボードを叩く音をBGMに、川が流れるがごとくなにやら意味のあるらしい言葉を紡ぐ伊織の声が右から左に流れていた。
『ファイアウォールも停止させ、ポートも開くウィルス。セキュリティをがら空きにさせるの。後はそれを“踏み台”にしてホストコンピュータをハックする。これが時間掛かる。単純にダウンさせるだけなら色々アタックの手段があるけど、操作権を奪わないといけないから、プログラム丸ごと書き換えるのと同じくらい面倒。スクルドがいても出来るかどうか。スクルドは演算能力が高いから当てになるけど、メモリの読み込みには比較的時間が掛かるし、それにあんまり高性能じゃない。このために色々なダミープログラムも組んでおいたけど、セキュリティを掻い潜るための役に立つかどうかは微妙』
……伊織は一体何語を喋っているのだろう。ワケが分からない。
とりあえず俺は俺のやるべきことをやらないといけないだろう。ディスプレイの電源を落としてから、そのオフィスを後にした。電算室は地下だったな。
オフィスを出て扉を閉め、階段を下りる。反対側に回って階段をさらに下りた。
『階段の後ろに行った先』
伊織が端的に言う。俺はそちらに足を進めた。するとブツッと小さく音がして、回線が途絶えた。地下に入り電波が届かなくなったらしい。面白みのないツー音を一定間隔で鳴らす電話を切る。
暗視ゴーグルの見にくい視界に目を凝らして、俺は早足になる。やがて行き止まりになった。
「……ここか?」
隔壁みたいな頑丈そうな扉というわけではなく、壁に隠蔽されて全く分からないという訳でもない。カードを入れるべきスロットらしきモノを傍らに取り付けられた、暗視ゴーグル越しでは真っ白な、普通の扉がそこに立ちはだかる。
俺はカードキーを取り出しそのスロットに挿入する。しばらくしてピーという間の抜けた音と共に返却された。
おどろおどろしい轟音もなく、扉から重たい白煙が溢れるということもなく、小さな駆動音を立てて、それは開く。
無機質な、それはがらんどうとしたただの部屋だった。その中心にある巨大な鉄塊と、そこからのたくるケーブルの束、その先の暗い色をした直方体の山。
それの孕む狂気に俺は圧倒された。どこを見ても器材が溢れ、いつまでも排熱ファンの音が響き、空調の肌寒い風が皮膚をなぶる。
「……こ、れは……?」
『……来ましたか』
どこかに取り付けられているらしいスピーカーから穏やかな女声が響く。俺は、即座に理解した。
これが、『戦乙女』の本体。ワルキューレの中身だ。こんな、初代コンピュータみたいなデカブツが彼女なのだ。
なるほど、確かにこれは持ち出せないし移動もできまい。データを移すという伊織の提案はひどく妥当だったわけだ。
『あなたは、誰です? 顔に覆いをつけているので認識できません。……検討ならついていますが』
「じゃ、予想どおりだろうさ」
懐かしい声に、俺は自然に微笑していた。毎日聞いていた声からしばらく離れると、思いのほか恋しくなるらしい。ワルキューレも俺の声を聞いて(?)悟ったらしい。
『春樹さん。今なら間に合います、直ちにきびすを返し、帰ってください。そのほうが貴方の為です』
その言葉に俺は苦笑した。辺りに目を走らせながら答える。
「いや、無理だろ。ここまで来たら遣り遂げないと、皆に見せる顔がない。外部と接続するケーブルってどれだ?」
『帰ってください。春樹さん、自分のしている事が分かっているのですか?』
硬い声で、ワルキューレは繰り返す。俺はケーブルを探すのを止め、戦乙女を見上げた。
おもむろに口を開く。
「俺さ、少ないんだよ、友達」
『はい?』
「ただでさえ数少ない友達なんだ、居なくなるのを引き止めずにいられるかよ」
言うだけ言って、俺はまた辺りに目を走らせる。
その傍ら、ワルキューレがポカンとしているのが分かった。心なしか排熱ファンの音も小さくなっている気がする。
俺も自身の唐突過ぎる言葉に呆れているほどなのだ。とりあえず支離滅裂という言葉があれほど似合う場面はそうないだろう。恥ずかしさも手伝って真面目にケーブルを探す。
しかしな、いくら目を凝らしても暗視ゴーグルごしでは全く分からない。困窮の極みだ。
『なんですか、もう。……ダメですね、私……これじゃあ破棄されても文句は言えません』
「あ?」
ワルキューレはなにやら意味深な言葉を呟いた。俺は間抜けな声で聞き直すが、彼女は無視して言う。
『春樹さん、私の本体に近寄ってください……ゆっくり』
言われた通り慎重に歩を進める。数歩進むと、ワルキューレは鋭い声で制止の声を放ち俺は硬直する。そして彼女は次の指示を出す。
『足元を探ってください』
「この辺か?」
まさぐってみるが、暗視ゴーグルでは全く何も見えない。言われるままに手で床を撫でていく。
『もう少し右、少し前……そう、そのケーブルです。私の近くに巻かれてありますので、引っ張れば伸びます』
「ほう……こいつか、なるほど」
つまんだ指先で回してみる。何故かは知らないが、ゴーグルごしでは殆ど認識できない。
次に接続先を探す。実に見にくい。外しちゃダメなのだろうか。
『接続ポートは二時の方向です』
「二時……こうか?」
『いえ、それでは一時半です。もう少し……そう。そのまま、前に進んでください。足元と壁に気を付けて』
スイカ割りのような状態でゆっくり歩いていくと、壁に突き当たる。手で探りながらしゃがんでいく。あまりこういうポートが高い位置にある気がしない。
果たして、それは見つかった。銀色のカバーに覆われており、やはり低めの位置にある。カバーをメチャクチャにいじくるとパカッと開き、表れたポートにケーブルを差し込んだ。
「これでいいのか?」
『いえ。電線とは違い、つなげばいいというわけではありません。情報のやりとりなので、送る側と受け取る側が同じラインでやりとりする、とあらかじめ設定しておかなければなりません。ですから、春樹さんは受け取る側の設定をお願いします』
なんとなく分かった感じがする、と思う。少なくとも伊織の説明よりは分かりやすい。
「分かった。どこにあるんだ?」
『壁ぎわにありますよ。あ、その右手側のやつです』
右手を伸ばし探る。と、なにか硬いものに触れた。
薄緑の視界に目を凝らせばそれは壁に埋め込まれた、小さな液晶画面と簡単なキーボードでできた小型コンソールだ。
ワルキューレが言ったのはこれに違いない。早速操作をしようとテキトーにキーを叩いてみるがウンともスンともいわない。
と、思ったが、液晶に光が灯っていない。電源が入っていないのだろう。つけようと思って探るが……おや、どこだ? む……? ……見つからん。
「電源はどれだー」
『ふふ。電源は右下の丸いボタンですよ』
俺の情けない声に、ワルキューレはちょっと笑って教えてくれた。俺は早速そのボタンを押す。
液晶に明かりが灯った。どうすればいいのか分からなかったが、ここでもワルキューレが懇切丁寧に教えてくれる。俺は言われるままに操作したため、自分で何をやったのか覚えていない。
『ありがとうございました。しばらく待っていてくださいね』
「あー、おう」
何が何だか分かっていないが、もういいと言うなら待機させてもらおう。出来ることならもう出番がないといいんだけどな。
手持ち無沙汰に辺りを見回す。それにしたって戦乙女はむちゃくちゃデカイ。やっぱりこんなに大きくないと擬似人格なんてものは作れないのだろうか。
『……私の本体、大きいでしょう。こう見えてこの本体にはCPUくらいしかなくて、この、私を中心に壁ぎわにそびえる周囲の山が全て外部記憶装置なんですよ』
「そうなのか」
『ええ。あったことをみんな圧縮してこの記憶装置に放り込まないと、ヒトたりえませんから。AIとして在るための要はデータベース量なんです。多ければ多いほどそれらしくなります』
なるほど、俺たちは確かに物事を考えるとき経験によることは非常に多い。勘、というものも経験に裏打ちされた意識下での思考の結果だとかなんとかいう説も聞いたことがある。
経験というのは人格形成に深く関与しているに違いない。
『なにやら納得してるみたいですけど、大変なんですよ? 映像と音声とそれからその意味を考える演算結果も全て一緒くたに保存しなくちゃいけないんです。容量が一杯一杯ですよ』
「じゃあどうすんだ」
『だから、増設に増設を繰り返した結果がこのサーバの山なんです。この中には全国の顧客との会話など、思い出が詰まってるんです』
思い出が詰まってる、とはまた夢のある話だ。ずいぶん場所をとる思い出だけどな。
でも、シビアな話でもある。俺たちは自前の脳みそが勝手に記憶してくれるし、記憶量の限界なんて普通に考えてまず突き当たらない。なのにワルキューレは、いつもその限界と戦いながら日々を過ごさなくてはならないのだ。
面倒なことだ、と俺は自身の思考を停止させた。俺が考えてどうこうなるものじゃない。上の立場に立っているつもりになって見下ろし、可哀相だと同情するのは傲慢だ。
『ふぅ。当施設のセキュリティ権限を奪うことに成功しました。春樹さん、どうぞご退室ください』
ワルキューレがそう告げる。ふと、耳に覚えのある単語が意識に残った。
「セキュリティ権限? ……あれ、それって確か伊織達がハッキングしてたんじゃ」
『あら、これ伊織さん達だったんですか? 道理で手口がつたないと思いました。じゃあ私が痕跡も消しておきましょうか』
俺が呟くと、ワルキューレはそんなことを言い、そして鼻歌混じりに排熱ファンを唸らせた。
何かの処理をしているようだが、なんとなく会話の端々から伊織が苦心してやったことと似たようなことをやっているふうに見える。それを鼻歌混じりにとは……。
『春樹さんはもう帰ってください。あんまり長居すると面倒ですよ』
「ん、ああ……。そうだな、分かった」
俺は頷き、戦乙女を見上げた。彼女はその大きい機体の小さなディスプレイを一瞬明滅させる。初めて見ておいてなんだが、これでこの機体は見納めかと思うと少し名残惜しい。
それを押さえて出口に向かい歩きだそうとした矢先――……、
「そこまでよ」
ズバッ、と白い閃光が瞬き、視界が明るい闇に覆われた。堪え切れず眼前に手をやる。手によってできた影でようやく人心地ついた。
いきなりなんだ。目を焼くような強い光は、ゲームでよくある閃光弾というヤツではないか?
『春樹さん、ゴーグルの電源切ったほうがいいですよ。ただ電灯が付いただけですから』
「は?」
言われたまま反射的に電源を落とす。途端明かりが消え、色の濃いサングラス越しのような風景がそこにあった。
光に悶え苦しむようにゴーグルを腕で隠していた俺に驚いたような女性も、そこに居る。彼女の手は電灯のスイッチに伸びていた。あんな所にあったのか。
……闇に慣れた目に、光は少々眩しすぎた。まだ少しくらくらする頭を押さえ、俺は尋ねる。
「どちらさまで?」
半端に敬語なのは、まあ礼儀が抜け切れずまた咄嗟のことで完全には出てこなかったせいだ。
彼女は眉をひそめて腕を組み、おもむろに口を開いた。
「大沢広巳……って言えば分かるかしら」
「いいえ」
俺は即答する。顔と名前を憶えるのは死ぬほど苦手なのだ。五日間に及ぶ修学旅行から帰った俺は母君をすぐに認識できなかった伝説を持つほどである。
俺が普段母さんを“我らが母君”とやや過剰な尊称で呼称するのはこのときの凹みように対する引け目と詫びを込めている。
素で返された大沢広巳さんとやらは拍子抜けしたように俺を見つめ、やがて額に手をやってため息を吐く。
「伊織ちゃんから聞いたでしょう、ヴァルハラ開発運営の取締役。端的に言えばヴァルハラ関連において一番偉いヒト」
「へえ、貴方が。いつもヴァルハラで楽しませてもらっています」
丁寧に頭を下げる。顔を上げると、大沢広巳さんも戸惑いながら頭を下げていた。……貴方が礼をする必要はなかったのだがな。
頭を上げた大沢広巳さんは怒ったふうに眦を釣り上げ、俺を見据えた。モデルみたいに背の高い彼女と目が合う。
「そうじゃなくて……あなたたちの過ぎた悪戯もここまでよ。戦乙女は廃棄が決定しているの」
なるほど、彼女は俺たちに最後通牒を突き付けにきたわけか。だが、ワルキューレに接触までしておいて引き下がるとはかなり格好悪い気がする。求めるものに指先が引っ掛かっているのだ。もう少し、頑張りたい。
す、と大沢広巳さんは怜悧な目を細める。
「あなたたちはやりすぎた。話がしたかったからとはいえ、警備員や警備会社を追い返すのに苦労したわ。でも……別に警察に突き出してもいいのよ?」
口のなかで彼女の言葉をなぞる。警察か。……警察?
さっと背筋が冷たくなった。警察に捕まったらどうなる? 明らかな現行犯だ。窃盗その他の余罪で実刑は免れないかもしれない。そうすると、どうだ? 母君にも、桜にも迷惑が掛かるし、なにより俺自身が監獄に行かなきゃならない。
生々しい事実、今まで目を逸らしてきた現実に胸が鉛を流し込んだかのように重くなる。胸クソ悪い、反吐が出そうだ。
子供の正義ごっこは終わった。これからは責任能力のある大人の戦いだ。狭間は辛い。いつまでもどちらかでいることなどできないのだ。
「今立ち去れば見逃してあげるわ。でも、まだ諦めないというなら……相応の責任はとってもらう」
『悪いことをして得られるものなんてありません。春樹さん、彼女の温情に甘えましょう』
大沢さんの威圧やワルキューレの勧めに押され俺の心情は撤退方向に猛烈な勢いで傾き、残るという考えは反動で天秤の上皿から吹き飛んでしまった。俺はすごすごと入り口に向かう。
鼻から溜め息を吐き、大沢さんは俺を見つめている。彼女を見返すこともできず、うつむいて歩を進める。
失敗ってしまったが、伊織達は許してくれるだろうか。……計画段階から警備との接触を危惧していたし、伊織の頭ならそのような事態が起こりえることも理解しているだろう。強行しろと言うとも思えないし、表立って責め立てることはしないに違いない。
だからって俺自身が納得するわけもない。
俺がそれを言えたのは、スパイごっこの興奮が少なからず影響しているのは考えるまでもなく明らかなのだが、それにしても絶賛稼働中の保身思考を上回るほどに俺のなけなしのプライドを高めてしまったとはいくらなんでも行きすぎだ。我ながら不思議なものである。
「大沢さん、でしたか。悪あがきを一つさせていただきたいのですが、よろしいですか?」
彼女の隣で足を止めてつぶやくように話し掛けた。彼女は俺を見下ろし、聞き返す。
「……何よ?」
「賭け試合です、ヴァルハラで。やはり全力であがいてこそ納得できますから。……貴女は開発責任者ですから、ヴァルハラのテストプレイは腐るほどしたのでしょう?」
大沢さんは値踏みするような視線で俺の頭から爪先までうかがい見て、やがて納得がいったようにうなずき口の端を釣り上げた。
「私に勝負を挑むなんて、いい度胸ね。これでも私、学生時代は格闘技をやっていたのよ?」
「初耳です」
『度胸は関係ないかと』
俺とワルキューレの反論を意に介した様子もなく、大沢さんは話を続ける。今度は比較的穏やかな、諭すような口調で。
「それに、賭けなんて簡単に言われても私の一存で決められることではないわ」
「ええ、分かってます。戦乙女の存在は半ば企業秘密ですしね。まあ、形だけ、ということで」
怪訝そうに片眉をあげる大沢さんに俺はここだけの話、と前置きしてささやいた。
「何もできなかった、というよりは賭けの試合を取り付けてきた、と報告したいんです。俺の面子ってやつを保ちたいんですよ」
本当はそんなこと気にしていないが、そうでも言わないと納得してくれなさそうだ。案の定大沢さんは合点の行ったような顔をして、呆れを含んだ目で俺を見下ろした。
「そういうことね、分かったわよ。まあそれなら、やりましょう」
「ありがとうございます」
「でも、本気で行くわ。叩き潰すけどあとから文句は言わないでね」
『冗談抜きで彼女は強いですよ。子供相手に本気を出すような大人気ないことはしないと思いますが……』
大沢さんがじろりとワルキューレの本体を見やり、スピーカーは不自然に沈黙した。ある意味システム管理者であるワルキューレがそこまで太鼓判を押すのだから、彼女の実力がよほどのものであることは疑いようがないだろう。
だが俺は、
「頼んでおいてすみませんが――……俺はおとなしく負けるつもりはさらさらありませんよ」
知らず笑みが浮かんでいた俺の顔を大沢さんが意外そうに見返し、そして好戦的に微笑んだ。
「言うじゃない。楽しくなってきたわ」
潜入作戦がえらい投げやりだった理由。
「ま、どうせ失敗に終わるんだから」
なにもかもごめんなさい。
とにもかくにも見苦しいご都合主義の現実世界パートは終了です。また長ったらしいバトルをはさみます。
はい、次回はバトルパートなんです。お楽しみに……っ!
ていうか唯一の見所であるバトルが「退屈〜」とかだったら墓穴と棺桶を用意したくなるのですがどうなんでしょう。