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青年A  作者: 藤崎 京
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後編

「僕が支えたいと思うのは、お年寄りその人ではなくてお年寄りを介護する側の人だよ」

 コウジが穏やかな口調で諭すのが聞こえた。久しぶりに訪れた事務所の隅でトモオは不要になった本をダンボールに詰めていた。

「なら先生は一人で過ごすお年寄りは見殺しにするんですか」

「だってそれは僕の仕事じゃないでしょう。あのね、ユキちゃん。俺別にスーパーマンじゃないんだから誰も彼も救ったりはできないよ」

 それまで強い口調でコウジへ詰め寄っていたユキが黙った。コウジの主張はもっともだとトモオは思う。ただ、このところコウジはどこか仕事をセーブしているように見えた。また、様々なものを処分している所為で事務所が広く感じ始めていた。ユキが心配しているのは恐らくその点だった。

「そんなのは行政にでも任せればいい」

「その意見は先生らしくありません」

「ユキちゃんが気になるならユキちゃんがやるべき仕事だって言ってるんだ。俺が常日頃から問題にしてるのは、全てを他人任せにする今の社会構造とそこに生じる全ての責任が一人に背負わされる歪みについてであって、行政サービスそのものを否定した覚えはないよ」

 再びユキが黙った。何か言いかけた後、時計を見上げて軽く息をつく。結局彼女はそれ以上コウジに食い下がるのを諦めて荷物を手に取ると、「お先に失礼します」と少し棘のある口調で頭を下げて出て行った。

 もしかしたらコウジはユキのことを切りたがっているのかもしれない、とトモオは思った。事務所を出入りする人間が近頃大きく入れ替わった。リュウジは相変わらずコウジについて回っているようだったが、その気配を匂わせるだけで事務所には来ていない。顔を合わせなくなった彼については、コウジが電話でやりとりをしていたりエリカが話題にするからこそ近くに居ることが分かるだけだった。そもそもトモオ自身、事務所へはあまり通えなくなりつつあった。今日はコウジに個人的な用事で来たものの、以前とは違う雰囲気になかなか切り出せずにいる。

 本を詰め終えたダンボールを持ち上げてエリカのデスクへ置いた。何処かへ寄付するのだろうか、エリカが伝票を既に準備していた。

「……そろそろトモオには話しておいた方がいいかな」

 入り口の受付代わりにしているテーブルに腰掛けたままコウジが言った。エリカがコウジの方を見た。彼女は、既に彼が何を話そうとしているのか知っているようだった。

 トモオも彼の方を見ていたが、一向に口火を切らないコウジの様子に、何となく呼び寄せられるものを感じて近付く。コウジが椅子を引いて座りなおしたので、トモオは向かい側へ腰を下ろした。トモオも彼に話したいことがあったが、他人がいるところで話せる内容ではなかった。

「トモオにはよく考えて選んで欲しい。俺についてくるのか、これっきりにするのか」

「なにその恋人にでも言うようなセリフ」

「選択権を与えたのはトモオだけだよ」

 黒ずんだ指先を見つめながら茶化した言葉を、コウジが意に介した様子もなく切り捨てた。普段ならコウジが言えば「君だけだ」という言葉も相手の心を縛る魔法の言葉だったが、この時のトモオには上から言われた不快感だけが残った。

 居心地の悪さを感じながらトモオは上目勝ちにコウジの様子を伺った。

 そもそも、「よく考えて選択する」など、トモオにとっては一番苦手なことでコウジにはそれを再三に渡って指摘され続けてきた。

「近いうちに老人福祉施設を襲撃する」

 長い沈黙が流れた。

 その間もトモオはコウジの言った言葉を意味が分からないまま深く考えることはしなかった。

 そんな様子を見てか、コウジは微かに溜息をついた。

「今までずっとそのために準備してきたんだ」

 人と資金を集め、そこから更に自分の意見に賛同してくれる人間を選り分ける、漸く準備が整ったとコウジは続けた。選ぶ、と彼は言ったが、中には異なる意見の人間を洗脳的に自分の意見へ同調させた相手も居るだろうとトモオは思った。コウジは無意識かもしれないが。

「ユキちゃんは?」

 トモオの問い掛けにコウジはゆっくりと首を横に振った。彼女はこの計画に含まれていない。やはりコウジはユキを切ろうとしていたのだ。

「彼女は正しい人だ」

「……コウジくんは間違ったことなのにやるってこと?」

「間違っていても誰かがやらないといけない。何が正しいことなのか多くの人が気付くために」

 トモオは眉を顰めて黙り込んだ。以前、革命家になりたいと言ったコウジの言葉を思い出していた。

「お年寄りを大切にするって道徳概念なら分かってるつもりだ。ただ、若者の将来を犠牲にして成り立つ老人福祉ってなんだろうな、って思わないか? これからますますこの傾向は強くなる。だって国を動かす政治家は年寄りばかりだ。その上、高齢化社会で老人の人口はますます増える。なら高齢者福祉が選挙の道具になって政策はそちらばかり手厚くなっていくだろう」

「難しいことは分からないけれど。……考えてみるよ」

 まるでユキやリュウジを相手にするような話だ、とトモオはコウジの言葉を遮った。

 コウジの言う理屈は、本当のところ分からないでもなかった。

 けれどコウジも知らないのだ。

 トモオの母親が既に年金受給者であることも、そしてかなり認知症が進んでいることも。老人福祉施設の襲撃によって犠牲になるのは、きっとトモオの母親のような老人なのだろう。

 昼間も生活介助が必要になった母親の為にトモオは自動車整備工場を辞めていた。この日事務所を訪れたのは、以前から誘いのあった此処で働く話が有効か確かめたかったのと、当面の生活費について用立てて貰えないか相談する為だったが、どちらも切り出せなくなりトモオは途方に暮れた。

「よく考えて」

 念を押すようなコウジの言葉に、トモオは曖昧に笑ってみせた。コウジとはやはり住む世界がどこか違う。

 若者の未来や社会について熱心に考えるコウジとは異なり、トモオの頭の中は明日からの自分の生活のことでいっぱいだった。



 トモオの両親が住み馴れた街を離れて上京したのには理由があった。事件が原因で住み辛くなったのは言うまでもないが、被害者の娘が結婚して東京で暮らしていたことが転居先の決め手になっていた。地元の一戸建てを売り、父親の退職金と前倒しで受け取る年金とで両親は暮らしていた。

 被害者の娘の元へ両親と共に赴いた時、トモオは両親がもう何度も彼女を訪ねていたことを知った。

 彼女は戸惑いも露わにトモオを見た後、無表情に「もう来ないで下さい」と告げた。

 当然トモオもそれを覚悟で彼女を訪ねたのだが、その理由については想像もつかないものだった。

「最初に私達を捨てたのはあの人なんです。ですからあの人とは何も関係ありません。あなたから謝罪を受ける理由もない。できれば私達の知らないところで勝手に死んで欲しかった。あなたの所為でいい迷惑です」



 仕事へ行かないというだけで朝は訪れなくなった。布団は一日中敷きっぱなしで、カーテンも閉め切られたままだった。パジャマ代わりのスウェットも着替えない。昼夜問わず母親に手が掛かる為、長時間纏まった睡眠を取ることができずいつでも眠い。洗濯と食べた後の食器を洗うのがとても億劫だった。いつからか掃除などしなくても人は死なない、と思うようになった。決して清潔とは言いがたい部屋の中でトモオは自分が殺したホームレスの老人を思い出す。この世の中には社会から見捨てられた人がなんと多いことだろう。社会に見捨てられないように、人々は必死にそこからはみ出さないようにしがみ付いて生きている。アウトロウなどと格好良い言葉で飾られた時代など遠い昔で、人はしがみついていなければ簡単に社会からはみ出してしまうのだ。

「おなか空いたねえ父さん、何か作ろうか」

「いいよ、俺がやる」

 母親が立ち上がるのを制してトモオは立ち上がる。

 一人でトイレで用を足せない母親が食事など作れるわけがなかった。まだ午前中だったが、トモオがキッチンに立つのは既に四度目だ。

 コツコツ、と扉を叩く音がした。

「トモオ、居るか?」

 キッチンから直接繋がる玄関の扉を開くと、三年前に訪れた時のように小綺麗なスーツに身を包んだコウジが立っていた。家へ上げるつもりはなかったが、コウジはトモオの尋常ならざる恰好に顔を顰めると、トモオの姿の向こうへと視線を向けて中へ押し入った。

 洗濯物の山と、ゴミの袋が散らばる部屋にトモオの方が溜息をついた。

「ごめん、コウジくん。あの話なんだけど、……俺、上手く考えられなくて」

 母親は布団の上に座ったままだ。

「……いつからだ?」

 コウジは背中を向けたままトモオに問い掛ける。コウジが動揺すればするほどトモオは冷静になっていく自分を感じ、腕を組んで壁に背を預けた。トモオはこれまで彼なりに必死で隠してきた母親のことを他人に知られ、全てがようやく終わったような開放感さえ覚えた。

 それは先日、コウジを訪ねた時に得られるはずだったものだ。

「親父が死んだぐらいから」

 コウジは五年の間、徐々に悪くなる母親を一人で見続けたトモオを思い舌打ちをした。彼が初めてここへ訪れた時、そんな素振りは全くなかった。夏の、暑い夜。差し出されたウーロン茶のことを思い出す。

 最初からコウジのことなど彼女は覚えていなかった。そもそもあの頃にはもう、彼女の中でトモオは小学生の息子だった。暑いからと安易にクーラーをつけたがる我儘な子供で、コウジはそんな息子の同級生だ。だからあの夜、二十五歳にもなる息子の客人に、車の運転を問う前からビールではなくウーロン茶が出てきた。

 これから起こす犯罪計画の中で、トモオの反応が今一つ気がかりだったコウジはリュウジを使ってトモオのことを調べさせていた。トモオのことが信じられなかった訳ではなく、これから多くの仲間を巻き添えにする計画で、リーダーとして一つの綻びも見過ごすことはできなかった。

「会社辞めたって聞いて。何かあったのかと思ったんだ」

「うん……」

「……会社の人には?」

 トモオは緩く首を横に振った。理由も言わずに辞めるトモオを、工場長も社長も引き止めたがった。かつてトモオが起こした事件について知った上で自分を使ってくれた二人にトモオはとても感謝していた。だからこそこれ以上の迷惑は掛けられなかった。いつものように怒鳴る工場長にトモオは深く頭を下げるしかできなかった。

「まだたった五年なんだ。いつまで続くか分からないうちの、まだたった五年だ。俺は親には凄く迷惑を掛けた。だから恩返ししなきゃって」

「それでおばさんが死んだ後、どうするの」

 コウジがゆっくりと振り返った。狭いアパートでは母親にまでこの会話が聞こえるからか、コウジは囁くように小さな声で言った。

 コウジの質問はトモオがもう何度も自問自答したものと同じだった。

 いつまで生きるか分からない母親が居なくなった後、その頃にトモオが再び職に就くことは不可能だろう。考えるたびに絶望感が押し寄せ、もう考えないようにしていたことだ。

 コウジの手が伸びてトモオの腕を掴んだ。

「俺と一緒に来い。お前を、俺の親父みたいにしたくない」

 コウジの言葉に思わずトモオは相手の顔を見た。いつものコウジならば、相手の意見を自分の価値観へ添うように誘導して、相手自身の意思で決定させるような巧妙さがあった。こんな風に、直接的な命令をするコウジを見るのは初めてだった。

「……疲れた」

 何も考えたくないぐらい疲れていた。

 口にすること自体が罪悪に感じられて、今まで一度もトモオは疲れたと言ったことがなかった。

 俺が何とかする、と応えたコウジの言葉の意味なら明白だった。

 それでもトモオはまるで夢遊病患者のように首肯したのだった。



 船に乗るなりコウジは窓際のソファへ腰掛けて眠りに落ちた。隣ではトモオの母親がまるで寄り添うように座っていた。いつごろからか母親から「お父さん」と呼ばれるようになり、トモオは自分の存在が母親の中から消されてしまったことを知った。

 けれど今日は違う。あの時、母親は確かに自分を「トモちゃん」と呼んだのだ。

「コウジくんかな」

 デッキではヒロトが身を乗り出して海を覗いていた。

 傍らでエリカの長い金色交じりの茶髪が強風で乱れていた。

「ん? 先生がなに?」

 トモオは思わず頬を緩める。

「ソレ。ウチの父親、学校の先生だったんだよ。エリカちゃんがコウジくんのこと、先生って呼ぶからさ。母さんきっとコウジくんのこと、親父だと思ってんだ」

「じゃあアタシ、生徒さんだ?」

「だね。昔の教え子が子供をつれて遊びに来たんだよ」

 ヒロトは海を覗くのをやめて、デッキの反対側へとおぼつかない足取りで歩いていった。それをエリカが後から見守るように追いかけ、トモオもそれにならう。

 船が揺れるたびにヒロトの小さな身体が危なっかしく揺らぎ、トモオはハラハラした。

「ママ! 赤いの!」

 ヒロトが指差した先には赤い半円の欄干が見える。港と人工島を結ぶ赤いその橋が尚のことトモオを懐かしい気持ちにさせた。

 再び柵に張り付いて海を眺めるヒロトの背をエリカがそっと支えた。

「アタシね、この子連れて死んじゃおうって思ってたんだ」

 遠く、大橋へと視線を向けたままエリカが言った。

「先生と初めて会ったのそんな頃だったよ。……先生がさ、親は子供を育てる義務があるなんて言うから最初ホント殴ってやろうかって思ったんだよね。子供育てる義務があるったって金無いし、明日どうしていいかもわかんないし、ヒロはめっちゃ泣くし、アタシにどうしろって」

「うん」

「そしたらね、先生が考えろって。考えて分からなかったら調べろ、それでダメならいろんな人に聞かないとダメだよ、って言ったんだ」

 コウジが言いそうなことだ、とトモオは思った。大橋はだんだんと近付いてくる。あの下をくぐるコースなのだろう。

「普通はさ、育てられないなら産むな、って言うの、みんな。でも先生は違ったんだ。子供は親の持ち物じゃなくて、社会みんなのものだから、そんな風に自己責任みたく言うのは間違ってる、って。親が子供育てる義務あんのって、自分の持ち物だから自分で管理しなさい、って意味じゃなくて、社会から預かってる大切な財産だから大切に育てなさいってことなんだって」

 エリカは手首を飾っていたシュシュで髪を後ろで一纏めに括った。すると彼女の横顔は急に母親らしい顔つきになった。

「難しいことは分かんないんだけどね。あー神様から授かるってそういうことなのかなあってアタシ思ったわけ」

 それからエリカは、コウジが母子家庭に係る手当てや助成金の手続きを手伝った話や、コウジの事務所で働きながら介護の資格を取った話などをした。いつも事務所にいるように見えたエリカだが、今の本職はヘルパーだった。トモオが母親を連れて旅行したい言った時、コウジが彼女を同行させたのにはそういう理由があった。

「だから先生と出会ってなかったら、きっとアタシもヒロも今頃生きてない」

 赤い橋が船に影を落とし始めた。ヒロトが頭上を見上げながらうわぁと素直な歓声を上げた。トモオも、エリカも上を見た。トモオは子供の頃よく父親の運転で通った橋が二階建てになっていたことを思い出した。

 コウジの周りには恐らくエリカと似たような境遇の者がたくさんいる。昔からコウジは自分の信念を曲げない代わりに、誰が相手でも真っ直ぐに接する人間だった。コウジの元に集まる者はみな、そんな彼に魅せられて信者のようになっていくのだろう。

「……先生がエリカはついてきちゃダメだって言うんだ。エリカはヒロを育てなきゃいけないから、一緒に来ちゃダメだよって」

 橋の影で暗くなったのはほんの僅かな時間だった。エリカの声は船のエンジン音でとても聞き取りづらかったが、再び陽の光が当たると綺麗にマスカラで伸ばされた睫毛の間で涙の雫が反射した。橋は背後にあった。

「コウジくん、若い頃凄く苦労したからさ。ヒロトくんに同じ思いをさせたくないんだよ、きっと」

 トモオはありきたりな言葉でしかコウジの思いを伝えられないことを歯痒く感じた。エリカは小さく頷いてしゃがむと、ヒロトを背後から抱き締めた。

 二人を残し、トモオはコウジとトモオの母親が寄り添う船内へと戻った。



 コウジが最後に全員へ向けて出した指示は「お年寄りには最大の敬意を払ってください」というものだった。いつだったかコウジは祖母を殺したことを今も後悔はしていないが、祖母を恨んでいるわけじゃない、というようなことをトモオに打ち明けた。そのことがトモオに決心させていた。

 誰のことも恨んでいない、とコウジは言った。全てを押し付けて自殺した父親のこともコウジは恨んでいなかった。

「俺はトモオの親父さんに救われたんだ」

 彼は目を細めて嬉しそうにそう言った。

 施設を襲撃するメンバーの殆どはトモオの知らない人間だった。その彼らももう出発して事務所には居ない。今晩引き払うことになっている事務所はがらんとしていた。トモオはコートのポケットへ手を入れて、丁寧に折られた薬包紙の角に指で触れた。

 不意に事務所の扉が開き、トモオは身構えた。注意深く見つめる視線の先で、ユキが身体を滑り込ませると後ろ手に扉を閉めた。

「……どうして来たの?」

 今、こんな時間にここへ来たら、彼女は事件との関りを疑われてしまう。コウジがそれ以前に彼女を遠ざけたことが無駄になってしまうのをトモオは危惧した。

「私、先生たちが今晩何やるか、知ってるんです」

「じゃあ警察に通報する?」

「止めに来ました」

 トモオは少し苦笑いを浮かべた。彼女はいつだって正しい、コウジが言ったように。

「そんなことして、自分が消されるかもしれないって思わなかった?」

 彼女の瞳に動揺が浮かぶのを見て取り、トモオは一歩、彼女に近付く。ユキは後ずさって入り口のドアノブに後ろ手のまま手を掛けた。トモオは普段はつける習慣のない腕時計へと視線を落した。

「何の罪もないお年寄りたちを殺すなんて間違ってる! あなたの両親だって、私の両親だって年老いていつかは高齢者になるのよ。その時にあなたは自分の親を殺せるの?」

 ユキは恐怖からかまるで叫ぶように非難した。聡明な彼女が理論で捻じ伏せようとしないことがトモオには少し可笑しかった。理屈ではなく感情に訴えようと彼女は意図的に選択したのかもしれない、そんな風に感じた。

「父親ならとっくに死んでるし、母親はもうすっかり高齢者でその上認知症だよ」

 ユキが息を飲むのが分かった。

「俺が今夜殺すのは母さんだ」

 トモオは自分自身に言い聞かせるように言うと、ポケットの中の薬包紙に再び指で触れた。もう一度、同じ言葉を口の中で反芻する。

「親を。自分を育ててくれた人を、面倒見切れなくなったから殺すなんて最低よ」

「俺もそう思う。今でもそう思ってる、俺は母さんと一緒に死ぬべきなんじゃないかって」

 トモオはもう一度腕時計を見た。そろそろ出発しなければならない時間だった。コウジが立てた計画を頭の中でシュミレートしながらドアへ向かう。扉を塞ぐユキが身を固くして警戒するのが分かった。

「ユキちゃんは正しいよ。俺も、コウジくんも、きっと、正しく生きたかった」

 ユキの肩を掴むと彼女の緊張は手の平からより一層伝わった。トモオはなんでもないことのように口許を少し引き上げて笑ってみせ、彼女を扉の前から遠ざけるように肩を押した。「じゃあね」と小声で言って、もう一度笑う。ユキが何か言いたそうな表情を浮かべたが、トモオは構わず事務所を出た。

 彼女は警察へ通報するだろうか。

 ふと不安がよぎる。

 だがコウジには申し訳ないが、それならそれで構わないとトモオは思った。



 生きていてくれて良かった。

 そう思ってくれる人が居る限り生き続けなさい。

 私はお前が生きていてくれて本当に良かった。

 おばあさんを殺したあの少年の父親もきっと同じだろう。

 彼に生きていて欲しいと思ったから道連れにできなかったのだろう。

 だから私は一人残された彼を可哀相だと思うよりも、生きていてくれて本当に良かったと思う。



 寒い夜道を歩く時、風邪で熱を出した自分を背におぶって病院まで連れて行ってくれた母親を思い出す。時折「気持ち悪くはないか」と訊ねながら、童謡など口ずさんで病から気を反らして、もう閉まっているはずの病院へ辿りつくとその扉を打ち鳴らして医師を呼ぶのだ。そんなものはドラマや映画の世界で見かけるシーン。だが、トモオの記憶にもそんな母親との思い出はある。おそらく多くの子供たちが同じ思い出を抱えて大人になるのに違いない。それがたとえ、テレビや映画の映像が混ざって多少美化された記憶だとしても。

 いつだって自分は愛されて育った。いつも愛され、支えられて生きてきた。人を殺めた時でさえ、そして謝罪に行った時も、仕事を探した時も。

「生きていてくれて良かった」

 そう思ってくれる人が居る限り生き続けろと書かれた手紙を思い出しながらトモオはコートのポケットの中で掌に温められた薬包紙を握る。

「なんで俺は母さんに生きていて欲しくないって思わなきゃいけないんだろう」

 家に帰ったら熱いお茶を煎れよう。



 翌朝のニュースは老人介護施設で起こった集団殺人の話題でもちきりだった。老人たちは皆眠るように死んでいた。その片隅ではアパートで不審死を遂げた老人のニュースが告げられたが、老人介護施設での事件と関連付けられた記事は一つもなかった。

 昼前には動画サイトで犯行声明がアップロードされ、その主犯者がまた世間の脚光を浴びた。

「もしも私たちの行動を非難するのであれば、あなたが意図的に記憶から消している老人を一人でも多く思い出してください。隣に住む人に声を掛けて下さい。遠く離れた親戚に手紙を書いて下さい。そしてまた、彼らを支える人にも声を掛けてください。あなたが忘れ続ける限り、私たちは社会から忘れ去られ消された人たちをこの世から消し続けます。――グリーン・クローバー」

 現在関心のある幾つかの社会問題のうちの一つ、超高齢化社会について取り上げたいと思うようになり、けれど真っ向から書いても読んでる人はきっと楽しくないだろうからキャラ萌や恋愛・友情・仲間・戦い、などのエンタテイメント要素をオブラートにして………と思ってました。

 それには未だ力不足で、まぁ数年ぐらい寝かせて書けるようになったら書こうかな、と。

 けれど「今言いたいこと、今書きたいこと」というのが「今」書けないということに気付いて、ここは何とか勢いだけでもいいから「今書きたいこと」を「今」書いてみようと思い立ち、この話を書いた次第です。

 ん…?エンタテイメントのオブラートどこ行った、といった仕上がりで非常に申し訳ありません(笑)

 書いている時はとにかくとても苦しくて、けれどとても楽しかったです。

 普段はタイトルや人名を考えるのが非常に苦手なのですが、この話はタイトルも人の名前もスラスラと出てきて、初期プロットも全く苦労せずに浮かび(後に捏ね繰り回しましたが:笑)、数年に一度あるかないかの経験でした。


 実はこの話は別に本編のある番外編にあたります。

 本編は上記に触れたとおり、「キャラ萌・恋愛・友情・仲間・戦い」をたくさん詰め込んだ「公安対グリーン・クローバー」みたいなものを構想中です。いつ書けるようになるか分かりませんが。それまでにもっとたくさんのことを勉強したいと思います。現在の中東あたりの反政府デモや、日本のかつての学生運動、現行制度での高齢者福祉や助成金なども勉強しないと扱える気がしていません。何年掛かるんでしょうね(笑)

 後は番外編を幾つか。ユキ→コウジへの恋愛モノだとか、大きくなったヒロトの話だとか、そういうのが何となくおぼろげに私の脳の片隅で主張しています。


 最後までお付き合いくださり有難うございました。



<<改稿履歴>>

2011/02/23

 誤字修正。

 nakonoko様よりご指摘いただいた表現について再考。

 ありがとうございました!

2011/03/05

 誤字修正。

 携帯閲覧に配慮した改ページの挿入。

 前編・後編の切り分け位置の変更。

2011/03/19

 タグ取り外し。

 携帯から閲覧した時に思ったような効果が得られなかった為。

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