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完成した地図に書き足したのは、あなたの居場所でした。  作者: 月雅


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第9話「三十日の帰路」

「ミリア様、ここからここまでが二十三歩でした」


エルマが城の門から井戸までの距離を歩き終え、振り返った。手にした紙に数字を書きつけ、ミリアのほうに差し出す。


「二十三歩。昨日は二十四歩だったわね」


「すみません、歩幅がまだ安定しなくて」


「誤差は一歩。十分よ。繰り返せば、自分の歩幅の癖がわかるようになる」


ミリアはエルマの記録を受け取り、自分の地図と照合した。城の門から井戸までの距離は、ミリアの歩測では二十一歩。エルマのほうが歩幅が狭いぶん、数字は大きくなる。けれど比率は合っている。


ミリアが辺境に来て、約十ヶ月が経っていた。契約満了まで、残り二ヶ月。


ハイドは三度目の遠征に出ている。出発から既に二十日。ミリアはその間に幹線地図の骨格をほぼ完成させていた。西の山裾と北東の一帯を歩き、集落の案内人の協力を得て地形を記録し、一枚の大きな紙の上に辺境の姿を描き出した。


辺境の主要集落。南北の幹線道路。東西に枝分かれする街道。河川の位置。山の稜線。すべてが一枚の地図に収まっている。


完成間近の地図を部屋の机に広げるたびに、ミリアは同じことを考えた。


この地図を、自分がいなくなった後も更新し続ける人間がいない。


辺境に測量の技術を持つ者はいなかった。ミリアが去れば、地図はそのまま止まる。道が崩れても、川の流れが変わっても、地図には反映されない。やがて現実と地図のずれが広がり、紙の上の線は意味を失う。


だからミリアは、エルマに測量の基本を教え始めた。


歩測の方法。歩幅を一定に保つ練習。方角の確認の仕方。紙の上に距離と方向を記録する手順。ミリアが辺境に来て最初にやったことを、一つずつ、エルマに伝えた。


エルマは熱心だった。毎朝、城の門から井戸まで歩き、歩数を数え、記録をつけた。けれど測量の原理を理解するには、時間が足りなかった。


「影の長さから高さを出す方法は、もう少し練習が必要ね」


「はい。比率というのが、まだうまく頭に入らなくて」


「焦らなくていいわ。まずは歩測と記録だけでも、道の距離を確かめることはできる」


エルマは頷き、紙と筆記具を握り直した。その真剣な横顔を見ながら、ミリアは気づいていた。


自分がいなくなった後のことを考えるたびに、胸の奥に鈍い痛みが走る。


辺境への愛着。そう名づけることはできた。十ヶ月をかけて歩いた土地。地図に記した集落の住民たち。道を直し、橋を架け替え、少しずつ暮らしが変わっていくのを見てきた。この土地を離れることに痛みを感じるのは、自然なことだった。


けれどその痛みの中に、もう一つ別のものが混じっていることを、ミリアは薄々わかっていた。


向き合わないことにした。今は、地図を仕上げ、エルマに教え、自分がいなくなった後も辺境の改善が続く仕組みを作る。それが最後の仕事だった。


契約満了後の身の振り方も、考えなければならなかった。実家への帰還は実質不可能だった。断罪された令嬢が公爵家に戻れば、家に累が及ぶ。修道院入りが現実的な選択肢だった。ミリアはそれを冷静に受け止めていた。


三十日目の朝。


城門の見張りが角笛を鳴らした。


ミリアは部屋で地図の最後の修正を加えていた。筆を止め、顔を上げた。


角笛。遠征軍の帰還を知らせる音だった。


四十日の予定。まだ三十日しか経っていない。


エルマが駆けてきた。


「ミリア様、将軍がお戻りです」


ミリアは立ち上がり、身なりを整えた。インクの染みがないか手を確認し、中庭に降りた。


グレンが門前にいた。その顔には、驚きが隠しきれていなかった。


「十日も早い」


グレンの呟きが聞こえた。


城門が開き、騎馬の列が入ってきた。ハイドが先頭で馬を降りる。砂埃にまみれた姿は前回と変わらない。けれど三度目になると、ミリアにはその姿が見慣れたものになっていた。


グレンが進み出た。


「将軍、お帰りなさいませ。四十日の予定のところ、三十日でのご帰還ですが」


「北の街道の修正経路を使った。進軍が順調だった」


ハイドはグレンに簡潔に答えた。それから中庭に立つミリアに目を向けた。


「地図の修正点を報告したい。時間はあるか」


ミリアは一礼した。


「ございます。ハイド様がお落ち着きになってから、いつでも」


「今でいい」


執務室。


ハイドは鎧を外してもいなかった。机の前に立ち、ミリアが広げた幹線地図を見下ろした。


「ここ」


ハイドの指が、北東の一帯を指した。


「この川の位置がずれている。実際はもう少し東だ。渡河地点が変わる」


ミリアは筆を取り、修正を書き込んだ。


「ここも」


西の山裾の稜線。ミリアが案内人の情報を基に引いた線を、ハイドは自分の記憶で補正した。


「この尾根はもう少し南に伸びている。遠征中に確認した」


三箇所の修正を終えるのに、さほど時間はかからなかった。ハイドの指摘は正確で、迷いがなかった。遠征中に地形を見ながら、地図との差異を記憶していた。そうでなければ、帰還してすぐに三箇所を指し示すことはできない。


遠征の最中に、この地図のことを考えていた。


ミリアはその事実を、測量者としての観察で把握した。それ以上の意味は読み取らなかった。


修正を書き込むミリアの横で、ハイドは黙って地図を見ていた。完成間近の幹線地図。辺境の全体像が一枚の紙に収まっている。十ヶ月前、城周辺の概略図だけだったものが、ここまで広がった。


「これで骨格は、ほぼ完成です」


ミリアが筆を置いた。


ハイドは地図から目を離さなかった。しばらくの沈黙があった。


「いつまでかかる。残りは」


「細部の修正を含めて、あと半月ほどで仕上がります」


ハイドは頷いた。それ以上は何も言わなかった。


廊下に出ると、エルマが待っていた。


「ミリア様。将軍、十日も早くお戻りになったんですね」


「北の街道の修正経路を使ったそうよ。進軍が順調だったと」


「それは、ミリア様の地図のおかげですね」


エルマの声は嬉しそうだった。ミリアは小さく頷いた。


修正経路による短縮は片道で半日。往復で一日。けれどハイドの帰還は十日も早い。経路の短縮だけでは説明がつかなかった。


遠征先の状況が落ち着いていた。前回もそう言っていた。今回も同じ理由なのだろう。


ミリアはそう結論づけた。


エルマは何か言いたそうな顔をしていたが、口にはしなかった。代わりに、自分の記録帳を取り出した。


「ミリア様。今朝の歩測の記録です。門から井戸まで、二十三歩。昨日と同じでした」


「歩幅が安定してきたわね」


「はい。まだ影の計算は難しいですけど、歩測だけなら」


エルマは小さく笑った。ミリアもつられて微笑んだ。


完全な習得には遠い。けれど種は、確かに蒔かれている。


その夜、グレンがハイドの執務室を訪ねた。


遠征の詳細報告を終えた後、グレンは一つだけ付け加えた。


「将軍。奥方様の幹線地図は、ほぼ完成とのことです」


「聞いている」


「契約満了まで、残り二ヶ月です」


ハイドは報告書に目を落としたまま、何も言わなかった。


グレンは黙って待った。八年間この男に仕えてきた経験が、今は待つべきだと告げていた。


沈黙が長く続いた。


「グレン」


「はっ」


「後で話す」


グレンは一礼して退出した。


廊下に出たグレンは、ため息をついた。小さく首を振り、自室に向かった。


将軍は三十日で帰ってきた。地図の修正点を報告したい、と言って、鎧を外す前に執務室に向かった。修正点は三箇所。それを伝えるためだけに、十日を早める理由にはならない。


けれどグレンはそれを報告書に書くつもりはなかった。将軍が「後で話す」と言ったのだから、待つだけだった。


ミリアの部屋では、エルマが城の門から井戸までの距離を自分の地図に書き込んでいた。ミリアの地図と照合し、「合ってます」と小さく呟いた。


ミリアは窓辺に立ち、夜の荒野を見ていた。


契約満了まで、残り二ヶ月。満了後の手続きについて、ハイドに確認しなければならなかった。契約の終了と、その後の身の振り方。修道院への移動の手配が必要なら、早めに伝えるべきだった。


明日、ハイドに話そう。そう決めて、ミリアは窓を離れた。


けれど翌朝、執務室を訪ねたミリアに、ハイドは一言だけ返した。


「後で話す」


そう言って、報告書の束に目を戻した。


ミリアは一礼して退出した。廊下で、自分の胸の中にある感情の名前を探した。


安堵でも失望でもなかった。ただ、「後で」という言葉が、妙に長い距離を持っているように感じた。

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