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完成した地図に書き足したのは、あなたの居場所でした。  作者: 月雅


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第8話「王都の気配」

ハイドは書簡を机の上に置いたまま、ミリアを待った。


グレンに呼ばれたミリアが執務室に入ったのは、それから間もなくだった。測量の記録を整理していたのだろう、手にはまだインクの跡が残っていた。


「お呼びですか、ハイド様」


「座れ」


ミリアは対面の椅子に腰を下ろした。ハイドは机の上の書簡をミリアのほうに向けた。


「王都から書簡が届いた。王室書記院からだ」


ミリアの目が書簡に落ちた。封は既に切られており、文面が見えていた。ミリアはそれを手に取らず、ハイドの顔を見た。


「内容は」


「辺境の近況報告を求めるものだ。定期連絡の形式だが、通常の時期より早い」


ハイドの声は平坦だった。事実を並べる口調。けれどその事実が意味するものを、ミリアは即座に理解した。


王室書記院は、王家直属の情報機関だった。貴族の動向を監視し、報告を集める。辺境への直接的な監視は物理的に難しいが、商人の口を通じて断片的な情報を拾い上げることはできる。


道路の補修。橋の架け替え。辺境の住民の暮らしが変わり始めている。その噂が商人の往来に乗って王都に届いた。書記院の官僚がそれを拾い、定期連絡の名目で報告を催促してきた。


ミリアの活動が、王都の耳に届き始めている。


「王都が辺境に関心を持つのは珍しい」


ハイドが言った。珍しい、という言葉の裏に、警戒が滲んでいた。


ミリアは背筋を伸ばしたまま、数秒の間を置いた。頭の中で、いくつかの可能性を整理する。


書記院の官僚が情報を拾い上げた段階であり、王太子アルディスが直接関与しているわけではないだろう。辺境は王都から馬で二十日の距離にある。情報は商人の口伝で届くため、断片的で不正確だ。「断罪された令嬢が辺境で活動している」という程度の噂が、書記院の定期報告の項目に引っかかった。おそらくはその程度のこと。


けれど「その程度」が、次の段階を呼ぶこともある。


ミリアは口を開いた。


「報告書には、事実だけを書けばいいと思います。道を直し、橋を架けた。それだけのことです」


ハイドはミリアの顔を見た。動揺は見当たらなかった。ミリアの声は落ち着いていた。王都の社交界で六年間を過ごした人間の、圧力に慣れた落ち着きだった。


ハイドは頷いた。


「報告書は俺が書く」


ミリアは一瞬、言葉を探した。


「ハイド様が直接お書きになるのですか」


「年次報告は将軍の名で出す。今回も同じだ」


ハイドはそれだけ言って、机の引き出しから白紙の便箋を取り出した。


ハイドが書いた報告書を、ミリアは翌日グレンから見せてもらった。


文面は簡潔だった。辺境領内の道路補修を実施。東の街道の崩落箇所を復旧し、輸送効率を改善。橋の架け替えを一件完了。領内の治安は安定。北方の異民族の動きに特筆すべき変化なし。


ミリアの名前は、どこにもなかった。


「将軍の業績として報告されています」


グレンが言った。その声は淡々としていたが、ミリアに確認させる意図があることは明らかだった。


ミリアは報告書を読み返した。道路補修も橋の架け替えも、辺境将軍の領内裁量権の範囲内で行われた通常業務として記載されている。ミリアが測量し、計画を立て、現場に立った事実は、どこにも書かれていない。


「妻の名前を報告書に記載する義務はありません。辺境の内政は将軍の裁量であり、誰がどの業務を担当したかは報告事項ではない」


グレンの言葉は、制度上の根拠を述べたものだった。けれどその意味するところは、制度の話だけではなかった。


ハイドがミリアの名前を外した。王室書記院の目に、ミリアの名前が触れないように。


それは「将軍の業績」として報告する慣例に従っただけなのか。それとも、意図的にミリアを守ろうとしたのか。


ミリアには、判断がつかなかった。


ハイドの行動はいつも合理的に説明できた。結果が出ているから測量を続けさせる。地図が辺境の資産だから住民に協力を求める。報告書に妻の名を書く義務がないから書かない。どれも筋が通っている。


けれどその合理性の裏に、もう一つの意図があるのかどうか。ミリアはそれを確かめようとしなかった。確かめる必要はない。報告書からミリアの名前が消えていることは、結果として王都の視線からミリアを遠ざける。それだけで十分だった。


「グレン副官。ありがとうございます」


「自分は報告書をお見せしただけです」


グレンは一礼して去った。


報告書が早馬で王都に送られた日の午後、ミリアは測量の準備をしていた。


幹線地図の残り三割。西の山裾と北東の一帯。契約期間内に骨格を仕上げるには、今日からでも動く必要があった。


執務室を訪ね、出発の報告をした。ハイドは机に向かったまま、ミリアの計画に目を通した。


「西の山裾は足場が悪い。護衛に注意させろ」


「承知しています」


ミリアが一礼して背を向けかけたとき、ハイドの声が追いかけてきた。


「測量を続けろ」


ミリアは足を止めた。振り返ると、ハイドは報告書に目を落としたまま続けた。


「辺境の道が良くなることに、王都の許可は要らん」


その声は、報告書の処理をしながら思い出したように言った、という風情だった。視線はミリアに向けられていない。口調もいつも通りの、短く無駄のないものだった。


けれどミリアの足は、数秒の間動かなかった。


辺境の道が良くなることに、王都の許可は要らない。


それは辺境将軍の裁量権を述べたに過ぎない言葉だった。制度上の事実。ハイドはそれを口にしただけ。


けれどその一言は、王都の書簡が届いた直後に発せられていた。ミリアの活動が王都の耳に届いたことを知った上で、それでも測量を続けろと言った。報告書からミリアの名前を外した上で、活動そのものは止めないと明言した。


制度と事実の組み合わせ。それだけのはずだった。


けれどミリアの胸の奥が、熱かった。


それを何と呼ぶべきか、ミリアは知っていた。安堵。前回もそう名づけた。北の街道の地図をハイドに見せたとき、「助かった」と言われたとき。あのときと同じ熱さだった。


ただし前回よりも、少し深い場所にあった。


安堵という名前は、もう正確ではないかもしれなかった。けれどそれ以上の名前をつけることを、ミリアはまだ自分に許していなかった。


「ありがとうございます、ハイド様」


ミリアは深く一礼し、執務室を出た。


三度目の遠征が近づいていた。


ハイドは出発の準備を進めながら、合間にミリアの幹線地図の進捗を確認した。西の山裾の測量記録をミリアが持ち帰るたびに、ハイドは地図を広げ、自分の記憶にある地形と照合した。修正を入れることもあった。無言で指を差し、ミリアが書き直す。その繰り返しが、二人の間の日常になっていた。


遠征出発の前夜。


ハイドは執務室で遠征の最終確認を終え、グレンを下がらせた。


グレンは扉の前で足を止め、振り返った。


「将軍。一つだけ」


「何だ」


「遠征から早く帰りたがっているようだ、とは申しません。ただ、今回も無事のご帰還をお待ちしております」


ハイドは顔を上げ、グレンを見た。グレンは表情を変えず、一礼して退出した。


八年来の副官は、余計なことは言わなかった。余計なことを言わないまま、正確に核心を突くのがこの男だった。


ハイドは一人になった執務室で、机の上の幹線地図に目を落とした。


七割の骨格。残りの三割を埋める線は、まだ引かれていない。その空白を埋められるのは、一人しかいなかった。


ハイドは地図を巻き、棚に戻した。


翌朝の出発に備えて、自室に向かった。


翌朝、城門から騎馬の列が出発していくのを、ミリアは中庭から見送った。


先頭を行くハイドの背中は、前回と同じように土埃の中に消えていった。四十日の遠征。


エルマがミリアの隣に立っていた。


「ミリア様。今回の遠征中に、地図を仕上げられるのですか」


「骨格だけなら。西の山裾の残りと、北東の一帯。四十日あれば」


ミリアは城門が閉じるのを見届けてから、自分の部屋に向かった。


廊下ですれ違ったグレンが、足を止めた。


「奥方様。将軍は遠征から早く帰りたがっているようだ、と申し上げるつもりはありません」


ミリアは足を止め、グレンを見た。


「ただ、北の街道の修正経路は、片道で半日の短縮になるそうです。往復で一日。前回の遠征では、それとは別に一日早く帰還されました」


グレンは一礼して、そのまま歩き去った。


ミリアは廊下に立ったまま、グレンの言葉を頭の中で繰り返した。


修正経路で一日。前回の一日。合わせれば。


ミリアはその計算を最後まで行わず、歩き出した。


地図を仕上げなければならなかった。

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