第7話「名前のない評判」
断罪された令嬢が、道を直したらしい。
その噂が辺境に広がり始めたのは、ミリアの耳に届くよりも先だった。
東の集落で街道が復旧し、物資の輸送が二日短縮された。橋が架け替えられ、川向こうの牧草地への道が近くなった。北の街道沿いの集落にも、商人や行商の口を通じてその話が伝わっていた。
「辺境将軍の奥方が地図というものを作って、それで道を直したそうだ」
「橋も架け替えたって」
「王都から来た令嬢が、なんでそんなことを」
噂にミリアの名前はなかった。「辺境将軍の奥方」「断罪された令嬢」。そう呼ばれていた。
ミリアがそれを知ったのは、城に届く相談が増え始めたことによってだった。
南の集落から、道の陥没を見てほしいという依頼が来た。西の山裾の村からは、水路の流れが変わって畑に水が届かなくなったという相談。北西の集落からは、冬になると山道が雪で塞がれるので別の道がないか調べてほしいという要望。
グレンが報告書の形でまとめたものを、ミリアは執務室でハイドと並んで確認した。
「これだけの相談が、この十日で届いています」
グレンが書類の束を机に置いた。ミリアは一枚ずつ目を通した。どれも切実な内容だった。道が悪いから物資が届かない。水路が壊れたから作物が枯れる。雪で孤立するから冬が怖い。
すべてに応じたい。けれど、ミリアは自分の手と足の限界を知っていた。
「すべてに対応することはできません」
ミリアはハイドに向き直った。
「優先順位をつける必要があります。個別の集落の問題を一つずつ解決するのでは、間に合いません」
ハイドは腕を組み、黙って聞いていた。
「辺境全体を見渡したとき、最も効果が大きいのは南北を結ぶ幹線道路の改善です。幹線が整えば、そこから枝分かれする各集落への輸送も自然に改善されます」
ミリアは城周辺の概略図と、北の街道の地図を並べた。
「今ある地図はこの二つです。城の周辺と、北の街道沿い。これをつなげて、辺境全域の幹線地図を作りたいのです」
ハイドの目が地図の上を動いた。二枚の地図の間に、まだ何も描かれていない空白がある。
「どのくらいかかる」
「残りの契約期間では、骨格だけなら」
ミリアの口から出た言葉に、自分で少し驚いた。契約期間。一年の期限。それを基準にして計画を語っている自分がいた。
ハイドの表情が、わずかに動いた。
それは目に見えるほどの変化ではなかった。顎の筋肉がほんの一瞬だけ硬くなり、すぐに元に戻った。ミリアはハイドの顔を見ていたが、その変化には気づかなかった。地図の空白を埋める手順を、頭の中で組み立てていたからだった。
「辺境全域となると、これまでとは規模が違います。城の周囲や街道沿いなら護衛二名と日帰りで済みましたが、幹線地図を作るには各集落を回る必要があります。案内人が要ります」
「兵は出せん」
ハイドの声は平坦だった。事実を述べる口調。遠征と防衛に兵力を割いている状態で、測量の護衛に追加の人員を回す余裕はない。ミリアもそれは承知していた。
「兵をお借りするつもりはありません。ただ、各集落で土地に詳しい住民に案内を頼めれば、護衛二名のままでも進められます」
ハイドは黙った。
それからグレンに目を向けた。
「紙と封蝋を用意しろ」
グレンは一瞬、間を置いた。
「書簡をお出しになるのですか」
「各集落の村長宛てだ。将軍の妻の測量に協力するよう伝える」
グレンは姿勢を正した。
「はっ。すぐに準備いたします」
グレンが退出した後、ミリアはハイドを見た。
将軍の名で各集落に書簡を出す。それは辺境将軍の権限の範囲内ではあるが、ハイドがこれまでそうした書簡を出したことはなかった。軍事に関する命令と報告以外で、将軍の名を使うこと自体が異例だった。
「ハイド様。ご配慮いただき、ありがとうございます」
「配慮ではない。地図は辺境の資産だ。作れる人間がいるなら、協力を取りつけるのは当然のことだ」
ハイドはそう言って、報告書に目を戻した。
ミリアは一礼して執務室を出た。
廊下で、戻ってきたグレンとすれ違った。封蝋と便箋を手にしている。
グレンは足を止め、ミリアに一礼した。
「奥方様。一つ、お耳に入れておきたいことが」
「何でしょう、グレン副官」
グレンは声を落とした。
「将軍が辺境の集落に書簡をお出しになるのは、軍事命令以外では初めてのことです」
ミリアはグレンの顔を見た。その表情は報告の形式を保っていたが、目の奥にかすかな驚きが残っていた。
「将軍は、合理的な判断をされたのだと思います。地図が辺境のためになると」
「ええ。そうでしょう。そうなのだと思います」
グレンは頷き、それ以上は言わずに執務室へ向かった。
ミリアは廊下を歩きながら、グレンの言葉を反芻した。
軍事命令以外では初めて。ハイドが自分の権限を、防衛以外の目的で使った。地図が辺境の資産だから。それがハイドの理由だった。合理的で、筋が通っている。
ミリアはそう理解した。それ以上の意味を読み取る理由はなかった。
書簡は三日で辺境の各集落に届いた。
将軍の名が記された書簡の効力は大きかった。命令ではなく協力の要請という形式だったが、辺境将軍の名は住民にとって絶対に近い重みを持っている。各集落から、土地に詳しい案内人が名乗り出た。
ミリアは護衛二名とエルマを伴い、南の集落から測量を再開した。案内人の先導で集落間の道を歩き、距離を測り、地形を記録していく。一つの集落で三日から五日。次の集落に移動して、また測量。その繰り返しだった。
城周辺だけを測量していた頃とは、規模が違った。毎日歩く距離が増え、記録する情報量が増え、地図の紙が足りなくなることもあった。エルマが城に戻って紙を補充し、追いかけてくる場面が何度もあった。
それでも、幹線地図の骨格は少しずつ形を成していった。
南北の幹線道路。そこから東西に枝分かれする街道。河川の位置。山の稜線。集落の配置。辺境という土地の姿が、一枚の紙の上にまとまっていく。
各集落の案内人たちは、最初は将軍の書簡に応じて義務的に協力していた。けれど測量が進むにつれ、態度が変わった。自分たちの集落が地図に記されるのを見て、東の集落の住民と同じ反応を示した。
「ここがうちの村だ」
「この道、こっちに抜けられるんだが、知っているか」
案内人たちが自分から情報を出すようになった。地図に載せてほしい場所を教え、道の状態を報告し、冬に通れなくなる箇所を指で示す。
ミリアの地図は、ミリアだけが作るものではなくなりつつあった。
城に戻ったのは、二十日近く経った夕方だった。
エルマが荷物を運び、ミリアは測量の記録を部屋に広げた。幹線地図の骨格はおよそ七割。残りは西の山裾と北東の一帯だった。
契約満了まで、あと数ヶ月。骨格を完成させるだけなら、間に合うかもしれない。
「間に合う」という言葉が、ミリアの中で妙な重さを持った。間に合う、ということは、終わりがあるということだった。
ミリアはその考えを振り払い、地図の清書に取りかかった。
感傷に浸っている暇はなかった。
翌朝、城の門に一騎の早馬が到着した。
王都からの書簡だった。
グレンが受け取り、封を確認した。宛先は辺境将軍ハイド・ヴォルフレート。差出人は王室書記院。
グレンはハイドの執務室に書簡を届けた。
「将軍。王都からです。王室書記院の印があります」
ハイドは封を切り、中の文面に目を通した。表情は変わらなかった。
「定期の報告催促だ」
「時期が早いですな」
グレンの声には、わずかな警戒があった。王室書記院からの定期連絡は通常、年に一度の年次報告に合わせて届く。それが予定より早い。
ハイドは書簡を机に置いた。
「辺境の近況を報告せよ、とある。定期連絡の形式だが、通常の時期ではない」
グレンは顎を引いた。
「辺境の変化が、王都に伝わり始めているのかもしれません。道路の補修、橋の架け替え。商人の口を通じて」
ハイドは窓の外に目を向けた。灰色の荒野が広がっている。この景色の向こうに、馬車で二十日かかる王都がある。
「グレン。ミリア殿を呼べ」
グレンは一礼して退出した。
ハイドは机の上の書簡を見下ろした。
王都が辺境に関心を持つ。それ自体は珍しいことだった。そして珍しいことには、理由がある。




