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完成した地図に書き足したのは、あなたの居場所でした。  作者: 月雅


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第6話「遠い背中」

朝靄の中に、馬蹄の音が遠ざかっていった。


城門の前に立つミリアの目の先で、騎馬の列が灰色の荒野に吸い込まれていく。先頭を行く背中は、すぐに靄に紛れて見えなくなった。


二度目の遠征。四十日の予定。


ミリアは城門が閉じられるまでその場に立ち、それから踵を返した。


「ミリア様、お部屋に戻られますか」


エルマが半歩後ろについてくる。ミリアは首を振った。


「部屋に寄って地図を取ってくるわ。今日から北の街道に出る」


ハイドが出発の前夜に頼んだ言葉が、まだ耳に残っていた。北の街道沿いの地図を描いておいてくれ。あれは命令ではなく、依頼だった。遠征軍の進軍路を正確に把握したい。その意味をミリアは理解していた。


これまでの測量は、集落の暮らしを良くするためのものだった。道を直し、橋を架け替え、物資の輸送を短縮した。けれど北の街道の地図は違う。遠征軍が使う道だった。正確な地図があれば、行軍計画の精度が上がる。兵の疲労を減らし、補給の効率を改善できる。


軍事的に意味のある地図。ミリアにとっては初めてだった。


部屋で地図と筆記具を揃え、城門を出たのは朝日が荒野を照らし始めた頃だった。


護衛兵が二名つく。ただし、いつもと顔ぶれが違った。ハイドの遠征に主力が同行しているため、城に残った兵から割り当てられている。


グレンが城門まで見送りに来た。


「奥方様。護衛は二名を維持しますが、城の守備人員が手薄になっております。測量の範囲については、くれぐれもご無理をなさらぬよう」


「承知しています、グレン副官。日帰りで戻れる範囲に留めます」


グレンは頷いた。その顔には、以前のような警戒の色はもうなかった。代わりに、実務上の懸念を率直に伝える副官の表情があった。


「将軍の不在中、城の守備は自分が預かります。何かあればすぐにお戻りください」


「ええ。ご迷惑をおかけします」


ミリアは一礼して歩き出した。


北の街道は、城から北西に伸びていた。


遠征軍が北方の異民族に対処するために使う道であり、東の街道よりも幅が広い。馬と兵が隊列を組んで通るために、ある程度の広さが確保されている。


ただし、整備されているとは言い難かった。


轍の跡が深く刻まれ、雨季のたびに泥濘になる箇所がある。ミリアは歩きながら道の幅と勾配を記録し、歩測で距離を測っていった。


初日は城から北へ半日の地点まで進み、そこで引き返した。二日目はさらにその先へ。三日目、四日目と範囲を広げるうちに、街道の全体像が紙の上に浮かんできた。


五日目の午後、ミリアは足を止めた。


街道が不自然に東へ折れている。


地形を見渡した。東に折れる理由となるような丘や崖は見当たらない。道はそのまま北へ真っ直ぐ進めるはずの平地を、わざわざ東に迂回してから北に戻っている。


「エルマ、この辺りの地形を知っている人はいる?」


「少し先に小さな集落があります。そこの方なら」


ミリアは集落に立ち寄り、年配の男に道のことを尋ねた。


「ああ、この道は昔からこうだよ。なんでかは知らんが、ずっとこう通っている」


昔からこう。それが答えだった。


地形的な理由ではなく、かつて誰かが引いた道をそのまま使い続けた結果の蛇行。ミリアは紙の上に直線の経路を引き、蛇行との距離差を歩測で確認した。


同じような蛇行が、さらに北にもう一箇所あった。


二箇所の蛇行を直線に修正すれば、進軍路の総距離が短くなる。日数にすれば、わずかかもしれない。けれど四十日の遠征において、往路だけでも半日、復路でも半日短縮できれば、それは兵の体力と補給の余裕に直結する。


ミリアは修正経路を地図に書き込んだ。赤い線で、現在の道と並べて描く。比較は一目で明らかだった。


十日が過ぎ、二十日が過ぎた。


北の街道の地図は骨格が出来上がり、修正経路の検証も歩測で裏づけた。あとはハイドの帰還を待つだけだった。


けれど測量を進める中で、ミリアは別の壁にぶつかっていた。


北の街道沿いの集落で、住民が距離を置く場面が増えた。


東の集落では道を直し、橋を架け替えた実績がある。住民たちはミリアを「奥方様」と呼び、測量への協力も自然に得られた。しかし北の集落には、その実績が届いていなかった。


届いていたのは、別の話だった。


「王都で断罪された令嬢が来ているらしい」


集落の井戸端で交わされる噂を、護衛兵の一人がミリアに伝えた。悪意からではなく、注意を促す口調だった。


「奥方様。あまり気になさらぬほうが」


「ありがとう。気にしていません」


ミリアはそう答えた。嘘ではなかった。断罪の噂は、ミリアにとって今さらのことだった。王都の社交界で浴びた視線に比べれば、遠巻きにされる程度は軽い。


ただ、北の集落での測量に協力を求めることが難しくなったのは事実だった。案内を頼んでも、住民たちは曖昧に言葉を濁す。ミリアは無理強いせず、自分の足で歩ける範囲だけを測量した。


護衛が二名しかいない状況で、慣れない土地を深入りするのは危険だった。ミリアは測量範囲を街道沿いに限定し、脇道や集落への寄り道を控えた。安全を優先する判断だった。


三十九日目の朝。


城門の見張りが角笛を鳴らした。


ミリアは部屋で地図の清書をしていた手を止めた。エルマが廊下を走る足音が聞こえ、扉を叩く。


「ミリア様、将軍がお戻りです」


四十日の予定が、一日早い。


ミリアは筆記具を置き、身なりを整えて中庭に降りた。グレンが既に門前に立っている。


城門が開き、土埃を纏った騎馬の列が入ってきた。先頭の馬から降りたハイドは、前回と同じように砂埃をかぶり、表情のない顔をしていた。


グレンが進み出る。


「将軍、お帰りなさいませ。予定より一日早いご帰還ですが」


「遠征先の状況が落ち着いていた。長居する理由がなかった」


ハイドはグレンに簡潔に答え、それからミリアに目を向けた。


ミリアは深く一礼した。


「お帰りなさいませ、ハイド様。ご無事で何よりです」


ハイドは頷いた。それから、短く言った。


「地図は」


「完成しております。ご確認いただけますか」


「今すぐでいい」


執務室。


ミリアは机の上に北の街道の地図を広げた。ハイドは鎧を外す間も惜しむように地図の前に立ち、目を落とした。


指が街道の線を辿る。城から北へ。最初の蛇行。二つ目の蛇行。ミリアが赤い線で引いた修正経路。


「ここと、ここか」


「はい。二箇所とも地形的な制約はありません。古い道をそのまま使い続けた結果の蛇行です。修正経路であれば、片道で半日ほどの短縮が見込めます」


ハイドの指が修正経路の上を往復した。距離を測るように、ゆっくりと。


「次はこの経路を使う」


即決だった。地図を見て、数値を確認し、判断を下すまでに迷いがない。ミリアの測量結果を、そのまま軍の行軍計画に反映する。


ハイドは地図から目を上げ、ミリアを見た。


「助かった」


一言だった。


ハイドにとっては事実の報告に過ぎなかっただろう。地図が有用だった。だから助かった。それだけのこと。


けれどミリアの胸の奥で、その一言が想定よりも深い場所に落ちた。


道を直したとき、住民から「ありがたい」と言われた。橋を架け替えたとき、老人が黙って頷いた。それらはすべて成果への評価だった。ミリアはそう受け取り、次の仕事に向かった。


ハイドの「助かった」も同じはずだった。成果への評価。それ以上の意味はない。


けれど同じ重さではなかった。


ミリアはその差の正体を考えかけて、やめた。今は考えない。考える必要がない。


「お役に立てたなら幸いです、ハイド様」


ミリアは一礼して、執務室を出た。


廊下を歩きながら、自分の鼓動がわずかに速いことに気づいた。それを「安堵」と名づけた。遠征が無事に終わり、地図が役に立った。安堵するのは当然だった。


当然のことだと、自分に言い聞かせた。


その夜、グレンがハイドの執務室を訪ねた。


「将軍。北の村で、奥方様の噂が広がっています」


ハイドは報告書に目を落としたまま聞いていた。


「道を直し、橋を架け替えた令嬢がいると。東の集落から北へ伝わったようです」


グレンは一拍置いた。


「断罪された、という枕詞つきですが」


ハイドの筆が止まった。


しばらくの沈黙の後、ハイドは顔を上げずに言った。


「枕詞は、そのうち変わる」


グレンは一瞬、目を瞬いた。それから姿勢を正し、一礼して退出した。


廊下に出たグレンは、小さく息を吐いた。


八年間、この将軍に仕えてきた。辺境の防衛と兵の安全以外に関心を示さなかった男が、噂の枕詞について意見を述べた。それも、未来の変化を予測する形で。


グレンは首を振り、自室へ向かった。


将軍は一日早く帰ってきた。遠征先が落ち着いていたから。それが理由だと、将軍は言った。


グレンはそれを、そのまま報告書に書くつもりだった。

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