第3話「将軍の帰還」
城門の見張りが角笛を鳴らした。
ミリアが城壁の上からそれを聞いたのは、測量の記録を整理している最中だった。エルマが駆け寄ってくる。
「ミリア様、将軍がお戻りです」
城の中が慌ただしく動き始めた。兵士たちが門の前に整列し、使用人たちが廊下を早足で行き交う。ミリアは紙と筆記具を部屋に置き、身なりを整えて中庭に降りた。
グレンが既に門の前に立っていた。ミリアの姿を認めると、一礼して横に場所を空けた。
「奥方様。将軍は先ほど斥候から到着の報せを受けております。まもなくです」
ミリアは頷き、門の正面に立った。
城門が開いた。
土埃を纏った騎馬の列が入ってくる。先頭の男が馬を降りた。
背が高かった。鎧の上に砂埃が積もり、顔は日に焼けて黒い。髪は短く刈り込まれ、目は切れ長で、表情がない。三十歳という年齢よりも、もう少し歳を重ねて見えた。それは老けているのではなく、風雨に晒された石のような硬さだった。
ハイド・ヴォルフレート。辺境将軍。契約上の、夫。
グレンが進み出た。
「将軍、お帰りなさいませ。四十日の遠征、ご無事で何よりです」
「ああ」
短い返事だった。ハイドはグレンに視線を向け、それから門の前に立つミリアに目を移した。
ミリアは腰を折り、深く礼をした。
「お帰りなさいませ、ハイド様。ミリア・フォン・アルトシュタインです。お初にお目にかかります」
ハイドは数歩の距離を置いたまま、ミリアを見た。視線は品定めではなかった。かといって関心でもない。戦場から戻った人間が、目の前のものを確認する、ただそれだけの目だった。
「長旅だったな」
ミリアに向けた言葉なのか、自分の遠征のことなのか、判然としなかった。ハイドはそれ以上何も言わず、グレンに向き直った。
「報告は後で聞く。先に兵を休ませろ」
「はっ」
ハイドは中庭を横切り、城の奥へ消えた。ミリアは頭を下げたまま、その背中を見送った。
夕刻。グレンがハイドの執務室で報告を行った。
ミリアは同席していない。報告の内容を知ったのは、翌朝グレンから聞かされたときだった。
「将軍にお伝えしました。奥方様が城周辺の地図を作成されたこと。測量の方法。完成した範囲図の内容」
「それで、将軍は何と」
グレンは一瞬、言葉を選ぶような間を置いた。
「『見る』と一言だけ仰いました」
それだけだった。ミリアは特に失望しなかった。四十日の遠征から戻ったばかりの将軍が、見知らぬ妻の作った地図に関心を示すほうが不自然だった。
その日の午後、ミリアはハイドの執務室に呼ばれた。
執務室は城の中央棟にあった。石壁に軍旗が掛けられ、大きな机の上に報告書が積まれている。ハイドは机の向こうに座り、ミリアが入ると顔を上げた。
「座れ」
ミリアは対面の椅子に腰を下ろした。机の上に、ミリアの地図が広げてあった。
ハイドは地図に目を落としたまま、しばらく黙っていた。指が地図の上をゆっくりと辿る。城の位置。東への道。北の迂回路。南の獣道。
「これを一人で作ったのか」
「護衛の方とエルマに同行してもらいましたが、測量と作図は私が行いました」
「道具は」
「歩測と、紐と、目視です」
ハイドの指が止まった。地図を見る目が、わずかに変わった。それは関心とも違う、何かを計算する目だった。
「使えるなら使う」
それがハイドの評価だった。
ミリアは膝の上で手を組んだ。予想通りの反応だった。妨害されないなら、それでいい。
「ハイド様。一つ、お願いがあります」
「言え」
「測量の範囲を広げたいのです。城周辺だけでなく、主要な街道沿いまで。そのための計画書を用意しました」
ミリアは懐から折り畳んだ紙を取り出し、机の上に置いた。街道沿いの測量計画。予定経路、所要日数、必要な護衛人員の概算。
ハイドは計画書に目を通した。速かった。軍事報告を読み慣れた目が、必要な情報だけを拾い上げていく。
その指が、地図の一点で止まった。
「ここは通れない」
東の街道の途中、ミリアが記録から推測で引いた経路の一箇所を指している。
「崖崩れで道が塞がっている。迂回路を使っている」
「いつ頃からですか」
「三年前の雨季だ。それ以来、東の集落への輸送はすべて北回りだ」
ハイドは地図の上に指で迂回路を辿った。北に大きく膨らむ線。ミリアの地図には記載されていない経路だった。
「ここを通って、こう回る。二日余計にかかる」
事務的なやり取りだった。将軍が現場の情報を伝え、地図の誤りを指摘する。それだけのこと。
けれどミリアは、ハイドの指の動きを見逃さなかった。
地図を見ていた。
紙の上の線を目で追い、自分の記憶と照合し、修正点を指し示した。それは地図という道具の価値を理解している人間の動作だった。
「修正いたします。迂回路の正確な経路を教えていただけますか」
「グレンに聞け。あいつのほうが詳しい」
「承知しました」
ミリアは立ち上がり、一礼した。ハイドは既に別の報告書に目を移していた。
「護衛はそのまま継続させる。必要なら人数を増やせ」
振り向かずに言われた言葉を、ミリアは背中で受けた。
廊下に出ると、エルマが壁際に立って待っていた。
「ミリア様、どうでした」
「計画は許可されたわ。護衛も継続してもらえる」
エルマは安堵の表情を見せた。ミリアは歩きながら、頭の中で次の手順を組み立てていた。迂回路の情報を得る。実際に歩いて測量する。三年間使われている迂回路が本当に最適な経路なのか、確認する。
「エルマ。東の街道の崖崩れのこと、知っている?」
「はい。三年ほど前に大雨で崩れたと聞きました。それから東の集落に荷物が届くのが遅くなって、困っていると」
「北回りの迂回路を使っているそうね」
「ええ、ずいぶん遠回りだと皆言っています」
ミリアの足が止まった。
遠回り。どのくらいの遠回りなのか。誰もそれを正確に知らない。地図がないから、比較できない。
「グレン副官に会いたいの。迂回路の経路を詳しく聞かせてもらえるか確認してもらえる?」
「すぐに参ります」
エルマが小走りに去っていく。ミリアは廊下の窓から外を見た。荒野の向こうに、東の街道が続いているはずの方角。見えるのは灰色の丘と空だけだった。
その夜、使用人たちの間で小さな囁きが交わされていた。
将軍が地図を見た。それだけの話だが、城の中では意味が違う。ハイドが関心を示さなかったものは、城の誰にとっても無価値だった。逆に、ハイドが手に取ったものには意味が生まれる。
けれどハイドが地図を「使えるなら使う」と言ったことは、使用人たちには伝わっていなかった。伝わっていたのは、呼び出しが短時間で終わったという事実だけだった。
「やっぱりお飾りでしょう」
「将軍も忙しいのに、面倒な話ですね」
厨房の隅で交わされる声を、エルマは聞いていた。唇を噛んだが、何も言えなかった。ミリアの地図を見たときの感動を、どう言葉にすればいいかわからなかった。
エルマはミリアの部屋に湯を届けに行った。ミリアは机に向かい、ハイドから指摘された迂回路の情報を地図に書き加えていた。
「ミリア様」
「ん?」
「あの、何でもありません。おやすみなさいませ」
ミリアは顔を上げ、少し首をかしげた。それから小さく微笑んだ。
「おやすみ、エルマ」
エルマは部屋を出た。廊下で、自分の手が握りしめられていることに気づいた。
翌朝、ミリアはグレンから迂回路の詳細を聞き取った。
グレンは地図の上に迂回路を指で示しながら、所要日数と経路の特徴を説明した。ミリアはそれを正確に書き写し、自分の地図に重ねた。
北への迂回。東へ戻る。さらに南へ下って集落に至る。地図の上に描かれた迂回路は、大きく膨らんだ弧を描いていた。
ミリアは迂回路の線を見つめた。
この道が、本当に必要な距離なのか。崖崩れの箇所は、本当に通れないのか。三年間、誰もそれを確かめていない。
「グレン副官。この迂回路を、実際に歩いて測量したいのですが」
グレンは腕を組んだ。
「護衛を出します。ただし、崖崩れの現場には近づかないでください。落石の危険があります」
「現場の手前までで構いません。迂回路の正確な距離がわかれば、それだけで十分です」
グレンは頷いた。それから、少し声を落とした。
「奥方様。一つ、お伝えしておくことがあります」
「何でしょう」
「将軍は昨夜、あの地図を自室に持ち帰られました」
ミリアは一瞬、言葉を失った。
「執務室に広げてあった地図ではなく、写しを作られたのですか」
「いえ。奥方様が作られた原本を、そのままです。今朝、執務室に戻されておりましたが」
グレンの声は淡々としていた。報告の形式を崩さない、副官としての口調だった。けれどその目は、ミリアの反応を見ていた。
ミリアは小さく息を吸った。
「そうですか」
それだけ答えて、迂回路の経路に目を戻した。
手の中の筆記具を握る力が、ほんの少しだけ強くなっていた。
無関心の中に、地図を見る目があった。自室に持ち帰るほどの。
それが何を意味するのか、ミリアはまだ深く考えなかった。今は、迂回路を歩くことだけを考えた。
この迂回路が本当に必要なのか。それを測量で証明できれば、東の集落への輸送が変わる。変われば、人の暮らしが変わる。
ミリアは計画書に日程を書き込んだ。明後日、迂回路の測量に出発する。




