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完成した地図に書き足したのは、あなたの居場所でした。  作者: 月雅


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第2話「最初の一歩」

「ミリア様、そちらは足場が悪いので、もう少し右を」


エルマの声が背中から聞こえた。ミリアは足元を確かめ、半歩右にずれた。靴底の下で小石が崩れ、乾いた斜面を転がり落ちていく。


城を出て三日目の朝だった。


ミリアは護衛兵二名とエルマを伴い、城の周囲を歩いていた。手には白紙の紙を挟んだ板と、筆記具。腰には紐を巻きつけた短い棒をぶら下げている。紐の長さは、自分の歩幅を基に測って結び目をつけたものだった。


護衛兵たちは、最初の日から困惑していた。


将軍の妻が城の外を歩き回る。立ち止まっては地面を見つめ、紐を伸ばし、空を仰ぎ、紙に何かを書きつける。その繰り返しを、朝から日暮れまで続ける。


「何をなさっているのですか」


初日に護衛兵の一人が尋ねた。ミリアは「地図を作っています」と答えた。護衛兵は首をかしげ、それ以上は聞かなかった。聞いても理解できないと判断したのだろう。


ミリアはそれで構わなかった。理解は後からついてくる。今はただ、歩くことだった。


最初に定めたのは基準点だった。


城の東棟の塔。辺境の城で最も高い構造物であり、周囲のどこからでも見える。ミリアはこの塔を地図の起点に決めた。


塔の高さを測る方法は、前の世界の知識にあった。


晴れた日の正午、塔の影の長さを歩測で測る。同じ時刻に、自分の身長の影の長さを測る。二つの比率から、塔のおおよその高さが割り出せる。


精密な器具はない。角度を正確に測る道具もない。あるのは自分の足と、目と、紐と、紙だけだった。


それでも、何もないよりはずっといい。


ミリアは塔の高さと、塔から見える地形の目印との角度を、腕を伸ばした拳の幅で概算した。拳一つ分がおよそ十度。粗い近似だが、何もない地図に最初の点を打つには十分だった。


城を中心にして、半日で歩ける範囲。それが最初の地図の対象だった。


四日目の昼、ミリアは東に向かう道の途中で足を止めた。


道と呼ばれている地面の窪みが、不自然に北へ折れている。エルマに尋ねた。


「この先に何かあるの」


「えっと、この道はずっと先で東の集落に繋がっているはずです。でも私はいつも南の道を使うので、こちらはあまり」


「南の道」


「はい。猟師さんたちが使う道があって、そちらのほうが近いと聞いたことがあります」


ミリアは紙の上に目を落とした。今歩いている道を、記録した通りに辿ると、北へ大きく迂回してから東に向かっている。もし南にもっと直線に近い道があるなら、距離はかなり違うはずだった。


「その猟師の道を歩けるかしら」


エルマは護衛兵たちに目をやった。護衛兵の一人が渋い顔をした。


「奥方様、獣道は馬車が通れません。軍の輸送には使えませんので」


「わかっています。ただ、位置を確認したいだけです」


護衛兵は顔を見合わせた。将軍の妻の申し出を断る権限は彼らにはない。結局、先導する形で獣道に入った。


獣道は確かに狭く、馬車は通れなかった。しかし方角は東を真っ直ぐに向いていた。ミリアは歩数を数えながら進み、紙に経路を書き加えていった。


公式の道が北へ迂回する距離と、獣道が東へ直進する距離。その差を、ミリアの足は正確に記録した。


七日目の夕方、ミリアは部屋の机に向かっていた。


七日間の歩測と目視の記録を、一枚の紙の上に集約する。城の塔を中心に、東西南北の地形、道、目印となる岩や丘の位置。縮尺は歩数から割り出した概算だが、今まで辺境に存在しなかったものがそこにあった。


城を中心とした半日行程の範囲図。


線は荒い。距離には誤差がある。けれどこの紙の上には、城の東に丘があり、南に小川が流れ、北の道が不自然に迂回していて、西に岩場が広がっていることが、一目でわかるように描かれていた。


エルマが夕食を運んできた。盆を机に置こうとして、広げられた紙に目が止まった。


「ミリア様、これは」


「城の周りの地図よ。エルマの故郷の村は、東のほうだったわね」


エルマは盆を持ったまま、紙の上に目を走らせた。城の印。東に伸びる道。その先に小さく書き込まれた集落の印。


「ここ」


エルマの指が、地図の一点を示した。


「ここです。ここが、私の村です」


声が震えていた。エルマは盆を机の端に置き、両手を膝の上で握った。


「すみません、あの、つい指で触ってしまって」


「構わないわ。合っている?」


「はい。この丘を越えたところに川があって、その向こうが村で……合ってます。こんなに小さいのに、全部合ってます」


エルマの目が潤んでいた。ミリアは少し驚いた。地図は単なる道具であり、距離と方角を記録した図に過ぎない。けれどエルマの顔には、道具を見る表情とは違うものがあった。


「私の村が、こんなふうに描かれたのは初めてです」


自分の暮らす場所が、紙の上に記される。それだけのことが、これほどの意味を持つのか。


ミリアは前の世界を思い出した。地図は当たり前にあった。自分の家の位置も、最寄りの駅も、通勤経路も、すべてが正確に記録され、誰でも見ることができた。その当たり前が、ここにはない。


地図は道具だと思っていた。


けれど今、エルマの震える指を見て、ミリアは思い直した。


これは居場所だ。


自分がここにいるということを、目に見える形にするもの。道を記録しているのではない。人がいることを記録している。


「エルマ、明日も付き合ってくれる?」


「はい。もちろんです、ミリア様」


エルマの返事は、ミリアが辺境に来てから聞いた中で、いちばん迷いのない声だった。


翌朝、ミリアが朝食を終えて部屋を出ると、廊下でグレンとすれ違った。


グレンは足を止め、ミリアに一礼した。


「奥方様。一つ、お伺いしてもよろしいですか」


「何でしょう、グレン副官」


「昨日、エルマから聞きました。地図を作られたと」


ミリアは頷いた。グレンは少し間を置いてから、言った。


「見せていただけますか」


部屋に戻り、机の上の地図をグレンに示した。グレンは地図の前に立ち、しばらく無言で見下ろしていた。


指が地図の上を辿る。城から東の道を追い、北への迂回を確認し、南の獣道の経路に目を留めた。


「この南の道は」


「猟師が使っている道です。公式の道より直線に近く、東の集落への距離が大幅に短い。ただし幅が狭く、馬車は通れません」


「……幅を広げれば使える、ということですか」


「地形次第ですが、可能性はあります」


グレンは地図から目を離さなかった。その表情が、変わっていた。到着初日の夜、書庫の前で見せた「王都の令嬢の気まぐれ」を見る目ではなかった。


「奥方様」


グレンが顔を上げた。


「これは、将軍に見せなければなりません」

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