第10話「赤い印」
一年が終わる。
ミリアは部屋の寝台の上に、畳んだ着替えを並べていた。辺境に来たときと同じ、数着の衣服。筆記具。そして、白紙の紙の束。来たときよりも少し減っている。白紙の多くは、地図になった。
契約満了の日だった。
机の上には、幹線地図の完成版が巻かれて置かれている。辺境の全体像が一枚に収まった地図。十ヶ月をかけて歩き、測り、描き上げたもの。これをハイドの執務室の机に置いて、城を出る。それが今日の予定だった。
エルマが部屋に入ってきた。手には茶の盆を持っていたが、それを置く手が震えていた。目が赤い。
「ミリア様」
「泣かないで、エルマ」
ミリアは微笑んだ。努めて、いつも通りの声を出した。
「あなたに頼みたいことがあるの」
エルマは唇を噛み、盆を机の端に置いた。
「測量の続きを、あなたに任せたい」
エルマの目が見開かれた。ミリアは机の引き出しから、薄い冊子を取り出した。歩測の方法、記録の仕方、方角の確認手順。ミリアがこの数週間でまとめた、測量の手引きだった。
「完璧でなくていいの。道の距離を測って、記録をつけて、地図と照らし合わせる。それだけでも、この地図を生かし続けることはできる」
エルマは冊子を両手で受け取った。指が白くなるほど握りしめていた。
「ミリア様。私に、できるでしょうか」
「できるわ。門から井戸まで、二十三歩。もう間違えないでしょう」
エルマは泣きそうな顔のまま、小さく笑った。
「合ってます。昨日も今朝も、二十三歩でした」
ミリアは頷いた。
それから、巻いた幹線地図を手に取った。
執務室の前に立った。
扉を叩く手が、わずかに震えていた。
一年間、何度もこの扉を叩いた。地図を広げ、計画を提出し、報告を受け、修正を書き込んだ。そのたびに、扉の向こうにはハイドがいた。無表情の顔。短い言葉。地図の上を辿る指。
今日が最後だった。
契約の終了は最初から決まっていたことだった。一年の期限。それを承知の上で、ミリアはこの城に来た。感情を挟む余地はない。形式的な礼と感謝を述べ、地図を置いて、城を出る。それだけのことだった。
それだけのことなのに、手が震えている。
ミリアは息を整え、扉を叩いた。
「入れ」
ハイドの声が返った。
執務室に入ると、ハイドは机の向こうに立っていた。座っていなかった。ミリアが入ってくるのを、立って待っていた。
ミリアは机の前まで進み、巻いた幹線地図を机の上に置いた。
「ハイド様。本日をもって、契約の期限を迎えます。一年間、お世話になりました」
声は震えなかった。公爵令嬢として六年間培った礼儀作法が、身体を支えていた。腰を折り、深く一礼した。
顔を上げたとき、ハイドの手が机の上にあった。
幹線地図の横に、一通の手紙が置かれていた。
封をされた便箋。ミリアが見たことのない封蝋が押されている。ハイドの私印だった。
「開けろ」
ハイドの声は短かった。いつも通りの、無駄のない口調。けれどその声を発するまでに、ほんの一拍の間があった。
ミリアは手紙を取り上げた。封を切り、便箋を開いた。
文字は書かれていなかった。
便箋の裏を返すと、そこに地図が描かれていた。
ミリアの手が止まった。
城周辺の概略図。ミリアが辺境に来て最初に描いた、あの地図だった。城の塔を中心に、東西南北の地形、道、目印となる岩や丘の位置。ミリアの地図と同じ構図。
けれど筆跡が違った。
線は不揃いで、太さが安定していない。方角の目盛りは少しずれている。距離の縮尺も正確とは言い難い。軍事報告を書き慣れた手が、慣れない作業に挑んだ跡が、そのまま残っていた。
ハイドが描いた地図だった。
ミリアの最初の地図を見て、自分の手で写し取ったもの。いつ描いたのかはわからない。けれどその地図の上に、一箇所だけ、ミリアの原本にはないものがあった。
城の位置を示す小さな四角の上に、赤い印がついていた。
ミリアは便箋を持つ手が震えるのを止められなかった。
「これが修正点だ」
ハイドの声が聞こえた。
ミリアは顔を上げた。ハイドは窓のほうを向いていた。ミリアの目を見ていなかった。
「お前の地図には、一つ抜けている場所がある」
ハイドの声は平坦だった。いつも通りの、事実を述べる口調。けれどその横顔の耳が、わずかに赤かった。
赤い印。城の位置。ここにいる、という印。
ミリアの視界が滲んだ。
涙が便箋の上に落ちた。一滴。紙が小さく波打った。ミリアは慌てて便箋を胸に引き寄せた。地図を濡らすわけにはいかなかった。
「すみません、地図に」
「いい」
ハイドが振り返った。ミリアの涙を見た。その目が、わずかに揺れた。
「正式な手続きは、俺が整える」
ハイドの声は、変わらなかった。短く、無駄がなく、事実を述べる声。けれどその一言が含むものを、ミリアは理解していた。
正式な手続き。契約婚から正式な婚姻への移行。それには王都の制度との接触が必要になる。断罪された令嬢が辺境将軍の正式な妻となることは、王都にとって想定外の事態だった。手続きには障害が伴うだろう。それを承知の上で、ハイドは「俺が整える」と言った。
感情だけではなかった。制度の上にも、ミリアの居場所を作る。その意志だった。
ミリアは涙を拭い、便箋を丁寧に折り畳んだ。
「ハイド様」
「何だ」
「この地図は、私がいただいてもよろしいですか」
ハイドは黙った。それから、窓の外に目を戻した。
「好きにしろ」
ミリアは便箋を胸に抱いたまま、深く一礼した。顔を上げたとき、微笑んでいた。涙の跡が頬に残ったまま。
「では、幹線地図の最終確認をお願いいたします。修正が必要な箇所があれば、直します」
ミリアは机の上の幹線地図を広げた。声はまだ少し震えていたが、手は確かだった。
ハイドは机に歩み寄り、地図を見下ろした。二人の間に、一枚の地図がある。十ヶ月前、白紙の紙に最初の線を引いたところから始まった地図。
ハイドの指が地図の上を辿り始めた。
王都。王宮の一室。
アルディス・レグナスは窓辺に立ち、側近の報告を聞いていた。
「殿下。辺境からの商人が増えております。辺境の道路が整備され、交易の効率が上がったとの噂です」
「辺境の道路」
アルディスは窓の外に目を向けたまま、言葉を繰り返した。
「それと、もう一つ。辺境将軍の妻が道を直し、橋を架け替えたという話が、商人の間で広まっております。民衆の中にも、その噂を聞く者が」
「辺境将軍の妻」
アルディスの眉が、わずかにひそめられた。
辺境に送った令嬢。処分済みの駒。辺境で朽ちるはずだった名前が、商人の口を通じて王都に戻ってきている。
「名前は」
「ミリア・フォン・アルトシュタイン。断罪された、かつての婚約者です」
アルディスは窓枠に手を置いた。指先に、わずかに力が入った。
「下がれ」
側近が一礼して退出した。
一人になった部屋で、アルディスは窓の外を見ていた。王都の街並みが眼下に広がっている。その遥か先に、馬で二十日かかる辺境がある。
不快だった。
理由はまだ、はっきりとは形を結んでいなかった。断罪した令嬢が辺境で何をしようと、王都には関係がない。辺境は辺境だ。何も変わらない。
そのはずだった。
けれどアルディスの眉間の皺は、しばらく消えなかった。
(完)
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