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完成した地図に書き足したのは、あなたの居場所でした。  作者: 月雅


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第1話「辺境の門」

馬車の窓枠が、がたりと跳ねた。


頬を打つ風が変わっていた。王都の乾いた風ではない。土と草と、かすかに獣の匂いが混じる、重たい風だった。


ミリアは窓の外に目をやった。


道と呼べるものは、もうずいぶん前から途切れている。轍の跡が残る地面を、御者が経験だけを頼りに進んでいる。左右には灰色の荒野が広がり、遠くに山の稜線が霞んでいた。


二十日。


王都からここまで、馬車で二十日かかった。


途中で宿場町は三つしかなく、最後の五日間は集落すら見えなかった。ミリアが知っている世界の端に来てしまった、というよりも、知っている世界の外に出た。そんな感覚だった。


馬車がまた大きく揺れ、ミリアは座面に手をついた。荷物は少ない。着替えが数着と、筆記具と、白紙の紙の束。断罪された令嬢に許された持ち物など、その程度だった。


やがて、灰色の荒野の先に石造りの城壁が見えた。


城というには無骨で、装飾のかけらもない。戦のためだけに積み上げられた石の塊だった。門の前に数名の兵が立っている。馬車が近づくと、一人が手を挙げて停止を命じた。


御者が何かを告げ、兵士が馬車の幌を開けた。


ミリアを見る目は、出迎えではなかった。品定めだった。


「降りてください」


ミリアは静かに頷き、差し出された手を借りずに馬車を降りた。


城門の内側に、一人の男が立っていた。三十を過ぎた頃の、日に焼けた顔。鎧は着けていないが、姿勢に軍人特有の硬さがあった。ミリアの姿を認めると、短く一礼した。


「グレン・ハーストです。辺境軍副官を務めております。奥方様のお越しをお待ちしておりました」


言葉は丁寧だった。しかし目が笑っていない。


ミリアは腰を折り、礼を返した。


「ミリア・フォン・アルトシュタインと申します。グレン副官、お手数をおかけいたします」


グレンの目がわずかに動いた。断罪された令嬢が、想像していた姿と違ったのかもしれない。泣き腫らしているか、怯えているか、あるいはふてぶてしく開き直っているか。そのどれでもなかった。


「将軍は現在、遠征中です。帰還は四十日ほど先になります」


「承知いたしました」


ミリアの声は揺れなかった。会ったこともない夫が不在であることに、動揺する理由がなかった。この婚姻は契約であり、一年の期限が過ぎれば終わる。相手の顔すら知らないのは、むしろ都合がよかった。


「侍女を一名つけております。城内のことは彼女に」


グレンがそう言って視線を送ると、城門の陰から若い女が小走りに出てきた。


「エルマと申します。ミリア様のお世話を仰せつかりました」


深く頭を下げる。顔を上げた時の目には、不安が隠しきれていなかった。断罪された令嬢の侍女という役目を、喜んで引き受ける者はいない。


「エルマ。よろしくお願いします」


ミリアがそう言うと、エルマは一瞬きょとんとした顔をして、それからもう一度頭を下げた。


城内は、簡素だった。


石の壁、石の床、石の階段。装飾は軍旗と燭台だけで、王都の屋敷にあったような絵画も絨毯もない。エルマに案内された部屋は城の東棟にあり、寝台と書き物机と衣装棚が置かれていた。窓は一つ。そこから見えるのは、荒野と山だけだった。


すれ違う使用人たちの目を、ミリアは気づかないふりをした。


好奇と侮蔑が混じった視線。ひそひそと交わされる声は聞き取れなかったが、内容は想像がついた。王太子に断罪された女。悪役令嬢。辺境に捨てられた公爵家の恥。


そのどれも、事実とは違う。


けれど否定する手段を、今のミリアは持っていない。


エルマが湯を運んできた。旅の疲れを、と言葉を添える。その手がわずかに震えていることを、ミリアは見て取った。


「ありがとう、エルマ。今日はもう休んでいいですよ」


「いえ、あの、何かご入用でしたら」


「大丈夫。明日から色々と教えてもらいたいことがあるから、今夜はしっかり休んでおいて」


エルマは不思議そうな顔をしたが、深く頭を下げて下がっていった。


一人になった部屋で、ミリアは窓辺に立った。


日が落ちかけている。荒野の向こうに山の稜線が黒く沈み、空だけがまだ薄い橙色を残していた。


この土地の地形が、わからない。


城の位置。周囲の集落までの距離。街道の状態。川の位置。山の高さ。何もわからない。二十日もかけて来たのに、自分が今どこにいるのか、正確に示す手段がない。


地図がない。


その事実が、ミリアの中で一つの形を結んだ。


前の世界で、ミリアは測量会社の事務員だった。測量士ではない。現場には出ない。データを整理し、図面を確認し、役所に届ける書類を揃える。それが仕事だった。けれどその仕事を通じて、地図がどう作られるかは知っていた。距離の測り方。角度の出し方。基準点の定め方。正確な地図が一枚あるだけで、どれほど多くのことが変わるか。


この土地には、それがない。


窓の外の景色が、暗さを増していく。ミリアは窓枠に手を置いたまま、しばらく動かなかった。


断罪の前日のことを思い出していた。


父の書斎。レオーネ・フォン・アルトシュタインは、机の向こうに座ったまま、長い沈黙の後にこう言った。


「身体に気をつけなさい」


許してくれ、とは言わなかった。頑張れ、とも。まして、助けてやる、などとは。


公爵家の当主は、王家の決定に逆らえなかった。娘を差し出すことでしか家を守れなかった。そしてそれを、ミリアは理解していた。理解した上で、失望していた。


あの沈黙を、ミリアは繰り返すつもりはなかった。


声を上げる力はない。王都に戻る道もない。名誉を回復する方法もない。


けれど、手は動く。


ミリアは窓辺を離れ、荷物の中から白紙の紙と筆記具を取り出した。寝台の上に紙を広げ、しばらくそれを見つめた。


白い紙。何も描かれていない紙。


ミリアは立ち上がった。部屋を出て、石の廊下を歩く。途中ですれ違った使用人が驚いた顔をしたが、ミリアは会釈だけして通り過ぎた。


城の書庫は、東棟の階段を降りた先にあった。到着時にエルマが建物の案内をしてくれた際、書庫の位置だけは確認しておいた。


書庫の前に、見張りの兵士が一人立っていた。


「あの、書庫を使わせていただきたいのですが」


兵士は怪訝な顔をした。将軍の妻とはいえ、到着初日の夜に書庫を訪ねる人間がいるとは思わなかったのだろう。


「少々お待ちを。副官に確認いたします」


しばらくして、グレンが来た。就寝前だったのか、鎧を外した姿だった。


「奥方様。書庫に何かご用で」


「この土地のことを知りたいのです。記録や報告書があれば、目を通させていただけませんか」


グレンは一瞬、眉を寄せた。王都から来た令嬢が辺境の記録に興味を持つ。その意味を測りかねている顔だった。


「閲覧の許可は将軍の権限ですが、軍事機密に関わるもの以外であれば、自分の判断でお出しできます」


「軍事機密には触れません。土地の記録、物資の輸送経路、集落の位置。そういったものがあれば」


グレンはしばらく黙った。それから短く頷いた。


「案内します」


将軍の妻の申し出を、無碍にはできない。それが許可の理由だろう。ミリアの言葉を本気で受け取ったわけではない。表情がそう語っていた。


書庫は埃っぽく、棚に並ぶ文書の大半は軍事報告だった。グレンが選り分けて出してくれた数冊の記録帳を、ミリアは燭台の灯りの下で読み始めた。


辺境の記録は、断片的だった。


東の集落への物資輸送に五日を要する。だが五日の根拠となる距離が書かれていない。道の状態も、途中の地形も記録がない。「いつもそうだから」という慣習だけで運用されている。


別の記録には、北の街道で荷馬車が立ち往生したとあった。道が崩れたらしい。しかし崩れた場所の正確な位置も、迂回路の情報もない。「兵を出して引き上げた」と、それだけ。


ミリアはページを繰る手を止めた。


道がわからないから、遠回りをしている。遠回りをしているから、物資が届くのに時間がかかる。時間がかかるから、集落は貧しくなる。集落が貧しいから、人が減る。人が減るから、道はさらに荒れる。


原因は一つだった。


正確な地図がない。


ミリアは記録帳を閉じ、部屋に戻った。机の上に白紙の紙を広げ、筆記具を手に取った。


最初の線を引く。


城の位置を示す小さな四角。そこから東へ伸ばした一本の線。距離も角度も、まだ正確ではない。記録に書かれた断片をつなぎ合わせただけの、頼りない線だった。


けれどこれは、始まりだった。


父のように沈黙するのではなく。


誰にも期待されていないこの場所で、自分の手を動かす。


ミリアはもう一本、線を引いた。


翌朝。


城門の前にミリアが立っていた。


護衛の兵士が怪訝そうに見ている。エルマが半歩後ろで不安そうな顔をしている。


「城の周囲を歩かせていただきたいのです」


ミリアの手には、白紙の紙と筆記具が握られていた。

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