第3話 くま①
ノシメハナの篭手を自宅に持ち帰ってから数日間は、クルチアの幸せが続いた。 日中の大部分は篭手をして過ごし、夜には抱いて寝た。
しかし、そんな安寧の日々も長くは続かなかった―
「熊だ! 熊が出たぞー!」
村の穏やかな昼下がりを、男の声が突き破った。 篭手をしたまま転寝していたクルチアも目を覚まし、家の外へ出た。 話し声のするほうへ行くと、村人が野良仕事を中断して集まっていた。 クルチアの父シンジと母ルザの姿もある。
一人の村人が現場の状況を説明している。
「オレと同じほどの背丈がある熊だ。 マサヒロとシンゴが逃げ登った木の下に陣取り、木をゆすってる。 落として食べようとしてやがるんだ! 早くなんとかしねえと、あの2人はもう保たねえぞ」
村の男達は議論を始めた。
「"なんとか" って言ってもな。 人の背丈ほどもある熊なんざ、どうしようもねえぜ」
「矢も竹槍も、まるで刺さらないからな」
「なんとかならないものか」
「まあ... あの2人も運が悪かったってことだ」
クルチアの父は何も言わないが、悼ましそうな表情をしている。 やはりマサヒロとシンゴを助けられないと考えているのだ。
村人の集まりは、助けに行かない雰囲気になっていた。 臆病なわけではない。 どうしようもないのだ。 武器もロクに持たぬ農民に熊を退治できるはずがない。
しかし年若いクルチアは、熊の実物を見たことがなく恐ろしさを知らない。 大人たちの判断に納得がいかない。
(本当に助けられないのかしら? 矢も竹槍も刺さらないなんて信じられない。 他の動物と同じ毛皮と肉でしょう?)
考え込むクルチアのもとへ、マー坊がやってきた。
「クルチアねーちゃん! またその篭手をしてるの?」
マー坊は黒髪黒目の男の子。 12才。 クルチアと同じ拳闘道場に通っている。 拳闘を嗜む者としてノシメハナの篭手に並々ならぬ興味があるが、自分にも篭手を着けさせて欲しいとは頼まない。 一昨日頼んでクルチアに手酷く断られた記憶がまだ新しい。
「当たり前でしょー。 この篭手と私は一心同体なの」
マー坊は漆黒の篭手から視線を引き剥がし本題に入る。
「あのさ、熊を見に行かない?」
マー坊は熊を見たことがなかった。
「いいわよ、行ってみましょ」
クルチアは安請け合いした。 熊は小さいのしか見たことがなかった。 成人男性と背丈が同じという巨大熊を見てみたい。 矢も竹槍も通じないってホントかしら?
こうしてクルチアとマー坊は熊を見に行くことになった。 遠くから見て引き返すつもりだった。 2人は知らなかった。 熊の嗅覚が非常に敏感だとも、熊が人より速く走るとも。
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村の裏手にある雑木林を進んで行くと、ズシンズシンと重い音が聞こえてきた。 さらに進んで音の正体が明らかになった。 マサヒロとシンゴが樹上に避難した巨木を熊が突く音だった。
その熊は本当に、大人の男と同じほどの背丈があった。 巨木を突きながら、時折フガッ、フガッと恐ろしい呼吸音を漏らしている。
マー坊とクルチアは口を半開きにして感心する。
「あれが熊...」「おっきいねえ」
樹上のマサヒロとシンゴの姿は葉に隠れてよく見えないが、声は聞こえず動く様子も無い。 熊に怯え、樹上で幹にしがみついているのだ。
マー坊がマサヒロとシンゴの境遇に同情した。
「木の上の2人をなんとか助けられないかな?」
「助けるって... どうやって?」
「オレたちで熊を誘き寄せるんだ。 そうすればマサヒロさんとシンゴさんは木を降りて逃げるはず」
「それは良い考えね」
またもやクルチアは安請け合いした。 2本足で立って巨木をドスドスと手で突く熊が4足歩行で人より速く走ると思っていない。 なぜマサヒロとシンゴが樹上に避難せざるを得なかったかを完全に失念していた。
✩˖°⌖.꙳✩˖°⌖.꙳✩
クルチアとマー坊がほとんど熊に近づかないうちに、熊は2人に気づいて突進してきた。 鈍重な外見からは想像できない速度で疾駆してくる熊に、2人は慌てて逃げ始める。
「うわ」「ひっ」
しかし熊のほうが遥かに速い。 2人はみるみる熊に距離を詰められる。 逃げ切れないと悟り、クルチアは肚を決める。
「マー坊、ここは私に任せてアンタは先に逃げなさい」
そうして走る足を止め、熊が猛追して来る方に向き直った。
「ねーちゃん!」
マー坊も足を止めようとするのをクルチアは鋭く制する。
「止まっちゃダメ! 走り続けて!」
「ねーちゃーーんっ!!」
絶叫しつつもマー坊はクルチアの言いつけを守り、村を目指して走り続けた。




