慶喜の弟9
「喜徳様っっ!!」
「何処へ行かれる、若殿っ!」
日頃おとなしい喜徳の行状とは思えない。
「…あ…に…うえー」
「お待ち下され、若殿っ!」
喜徳の足は畳敷きの廊下の上を滑るように走った。
「…兄上…」
城内では他の幕閣の目もある。尋常ならざる喜徳の様子に会津藩の重臣達は肝を冷やしてその後を追った。
「兄上ぇぇーっ!」
どうやって突き止めたのか、江戸城に登城したことなど今日が初めてのはずの喜徳は、誰の案内も請わずに慶喜と容保が今まで話していた将軍の居間である白書院の襖を開け放っていたのである。
「ー!?」
ちょうどその時、容保と会談を終えた慶喜は刀持ちの小姓を従えて上座にしつらえた席から立とうとしていた所だった。
さすがの慶喜も弟の尋常でない顔つきを見て表情を動かした。
「よ…」
その時である。
喜徳の後から飛び出した会津藩の重臣達を認めて、弟の方へ寄ろうとしていた慶喜の足がハタと止まった。
「若殿っ!上様の御前にござりまするぞっ!お控えなされませいっ」
大音声と共に喜徳を羽交い締めにしようとする重臣達を慶喜は目顔で止めて弟に向き直った。
「よいーどうした余九…喜徳。言ってみなさい」
慶喜の静かな口調で、喜徳は我に返ったようだった。思い切った行動を取ったものの、日頃内気過ぎると言われる喜徳である。しばらくの間、瀕死の金魚のように口を開けては閉じ、閉じては開け、その度に言葉を飲み込んでいたが、やがてやはり耐えられなくなったのか、消え入りそうな声で言葉を継いだのだった。
「ー兄上…余九麿はやはり、兄上のご期待に添うような武将にはなれぬようです……」
「ー?」
俯き喋る喜徳の声に合わせて、その前髪が小さく震えていた。慶喜は弟を見つめながら訝しげに目を細めた。
「兄上はー私がいるとを承知しておられながら…会津藩をお見捨てになるとご決断をされたのですね…?兄上にとってこの余九麿は少しも特別な存在ではなかった。私など数ある将棋の駒に過ぎないと…」
「余九麿…」
「そうですね。ご正室を母君に持つ兄上にとって私は、数多いる異母弟の中でも最も身分の低い母を持つ、いわば家臣に等しい者でしたから…兄上がそう思われるのも無理はありません。同じ血を分けた兄弟だなどという意識を持った私が思い上がっていたのです。ただ兄上が幕府と朝廷を結び、共に日の本を守っていこうとおっしゃって下さった時、余九麿はどんなに嬉しかったことか…心底兄上のお心が嬉しかったー兄上にしてみれば駒を動かすための手段にしか過ぎなかったのかもしれませんが…なれど兄上、駒に等しい余九麿とて心はあるのです!兄上のお言葉を信じてこの4年間を過ごした余九麿が愚かだったのですね?」
「余九麿、そうではー」
喜徳の心にはもはや兄の言葉は届かなかった。
「余九麿が兄上を思うほど、兄上は余九麿を思うて下さらなかったーそのことが口惜しゅうござります…」
1度堰を切った激しい思いは留まることを知らない。言葉が感情に追い抜かれた時、喜徳は感極まってその場にうずくまり嗚咽し始めた。
喜徳のこんなにも激しい感情を目の当たりにしたのはその場に居た全員が初めてだった。
会津藩重臣達、そして慶喜さえもが押し黙り困惑の表情を浮かべていたがー。
やがてその中で誰よりも1番早く冷静に戻った慶喜が喜徳に向かって静かに口を開いた。その一見無表情な顔に薄っすらと刷毛で掃いたような僅かな苦悩の影が浮かんだような気がしたのは気のせいだったのだろうか?
「そなたは会津に養子に入った者ーこの上は1日も早く所領へ戻り、義父を助けるがよい。余のことをどのように思うもそなたの勝手ではあるが、二度とそのような女々しきことを口の端に上せるまいぞ。亡き烈公の御名を汚し奉ることは断じて許さぬ!」
「兄…上……」
喜徳は涙に濡れた瞳を張り裂けんばかりに見開いて慶喜を見上げた。それは今にも飼い主に見捨てられそうになっている子犬を彷彿とさせた。重臣達は思わず、慶喜の方に顔を向けたが…。
慶喜の反応は冷たいほど素っ気ないものだった。
「ー退出致すー」
重臣達は慌ててその場に跪いた。その前を慶喜の仙台平の袴が規則正しい衣擦れの音を立てて通り過ぎる。
喜徳はただ1人、幻でも見ているかのように呆然と部屋から出て行く兄を見送った。
その時である。慶喜が出て行った襖と反対側の襖が音もなく開き、心配を隠せぬ様子の容保が駆け込んで来たのは。
「喜徳……」
「これは…殿ー」
恐らく襖の外で聞いていたのだろう。目元を真っ赤に潤ませた容保は、道を開けた家臣達の間に滑るようにして座り込むと喜徳の頭をそっと抱きしめて震える声で囁いた。
「喜徳…会津へ帰ろう…会津は良き所じゃぞ。水は清く山河は青い。大自然の中にあると人の営みのなんと小さく愚かに見ゆることか…会津がそなたの故郷じゃ、のう?喜徳ー」
「…義父上…」
喜徳は容保の温もりを感じてそっと目を閉じた。ポタリと一粒、涙がこぼれ落ちる。
4年前も、喜徳は慶喜の胸の中で同じように温もりを感じていた。あの日の兄の優しさと千波湖の上に広がっていた秋晴れの空はー今の自分には遠すぎて、思い出すことさえかなわない。
「義父上…そして重臣の御方々ー」
やがて喜徳は目を開き、静かに容保の腕をはずした。込み上げてくる涙をこらえて彼は義父を始めとする重臣達の顔を今、初めて見るかのように1人1人食い入るように見つめた。
「有り難き義父上のお言葉、この喜徳一生涯忘れませぬ…皆様には一生かけても償いきれぬ兄の裏切りーふつつか者ではございまするが何卒この若輩の身を兄と思うてお導きくだされ…」
重臣達は皆、一様に押し黙っていた。もう広間でのように陰口を叩く者もいない。自分達が言いたくても言えずにいた不満を喜徳が代弁して慶喜にぶつけてくれたこともあったし、この少年が実の兄から受けた裏切りは、さすがの彼らを黙らせるほど凄まじいものだったのである。
喜徳は両手をついて額を畳に擦り付けながらうわごとのように繰り返した。
「申し訳ありませぬ。何卒…なにとぞ……」
「良いのじゃ喜徳…そなたがそこまで自分を責めなければならぬ理由などどこにもない。さぁ顔を上げなさい。ん?そなたは容保の子じゃ、堂々と若殿らしう国入りをせねばーな?」
容保に抱き起こされた喜徳は、それでもなお俯いたままであった。
「……」
手酷く裏切った慶喜への怒りなのか、或いは優しい容保の言葉が心に沁みたのか?
胸の奥底から湧き上がって来る感情を抑えがたくなった時、畳の縁がふいに再び涙で滲んで見えなくなった。




