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慶喜の弟  作者: ガリ
7/11

慶喜の弟7

「兄上……」

「ん?」

「先ほどは申し訳ございませんでした…」

「はて何かあったかのう」

「爺…いいえ、手代木弥兵衛が…」

「おお、そなたの守役のことかー」

慶喜は櫂を漕ぐ手を止めて、うなだれた余九麿に向き直った。細身の体に似合わず意外と力が強い。湖に漕ぎ出した船は慶喜と余九麿の2人を乗せてあっという間に沖まで出てしまった。

「守役とはいえ手代木はそなたが赤子の頃より慈しんで育てたと聞いている。もはや我が子に等しいのであろう。だからこそこの慶喜にも噛みつくのは当然のこと」

ニッと笑った慶喜を見て、余九麿は顔を赤らめ再び俯いてしまった。

「それにー手代木の言うことがまったくの杞憂というわけでもないのが事実だ…」

「……?」

余九麿は驚いて、再び兄へと顔を向ける。慶喜はそんな弟の視線に気づいているのかどうか、じっと空を見上げていた。

千波湖の上には数羽の鷗が舞っている。水戸からほど近い大洗の海辺から飛んで来るのだろうか?

ふいにー鷗を見上げた慶喜の横顔がひどく頼りなげに見え、余九麿は思わず目を擦った。

「どうした?」

だがそれは一瞬のこと。笑いながら余九麿に問うた慶喜はもう先ほどの冷静で自信に満ちた才子の表情であった。湖を行く潔い鷗の姿が慶喜の面影と重なる。

やがて慶喜は余九麿の沈黙をどうとったか、とりなすような口調で語り始めた。

「…会津藩主の松平容保というのは人の良い男での、恐らくそなたを充分慈しんでくれるだろうが、問題は家中の者だ。皆が皆、此度の養子の件を両手を挙げて賛同しているわけではない。御三家である水戸家に、幕府きっての最大の武力を誇る会津藩を乗っ取られるのではないかと危ぶんでおるのじゃ。実は容保にはそなたと同じ年頃の実子が1人あるのだが、これが生憎と(めしい)での。たとえ側室腹でも五体満足な者であれば家中とてこれを強固に推したであろうからこの話は持ち出せなかったであろうが…何せ盲ではの、この先長じても恐らく藩主の座は継げまい。会津の重臣達はその隙を突かれたと思い込み抵抗したくとも出来ずに歯噛みしている状態なのだ。まぁそういう経緯がある所へ赴くのだから余八麿にしろ余九麿にしろ実際養子に入った者に対しては嫌な思いをさせることがあるやもしれぬ…」

その時、一陣の風が吹いて岸から紅葉したもみじの葉を船の中に降らせた。餌と勘違いしたのか、空を舞っていた鷗が1羽、急降下で船の縁に降りてきた。

それを眺めながら慶喜は言葉を続けた。

「仮にーそのような所へ余八麿を送ればどのようなことになるか…考えてもみるがよいわ。そなた容易に想像がつくであろう?」

「そう…ですねー」

うんざりした表情でため息をつく慶喜を見て、余九麿はクスリと笑った。慶喜の言った通り、余八麿が会津に行った時のことが容易く想像出来たからである。

余八麿は斉昭の18男。兄とはいっても余九麿とはわずかに数カ月違いの腹違いの兄弟である。

公家出身の母親を持つ子供達の中でもとりわけの麗質で、黙っていれば姫君に見えぬこともなかったが、口を開けばなかなかどうして大人顔負けの毒舌を吐く。納得しないことにはテコでも動かない。既にこの当時、長兄である水戸藩主の名代として京都警備に上京しており、そこで再会を果たした兄慶喜にも見かけによらず気骨のある奴と目をかけられていた。

おとなしい余九麿としては正反対の性格を持つ余八麿は、だがどうしたものか水戸家中では忘れられがちな存在であるじぶんと同年の弟を気に入っているようだった。

まだ京に上る前、水戸で遊び回る毎日を過ごしていた頃は、よく余九麿を目にかけ船遊びだ鷹狩りだと引っ張り出したものである。京へ行ってからも折を見ては京名物だの手紙だのよくまめに送ってきては寂しくなりがちな余九麿の身の上を慰めていた。

面倒見がいい反面、奔放で活発な余八麿が、腹に一物ある会津藩の重臣達に当て擦りでも言われたらどうなるか?たぶん余八麿は黙ってはいられまい。正面切って対立し、家臣達との仲は決定的に決裂するだろう。

今、京の都では外様である長州藩の藩士達による天誅続きで相当治安が乱れているのだという。それを収めなくてはならない幕府としては内部分裂している場合ではないのだった。遠く、将軍継嗣問題と開国政策に端を発する一ツ橋派の水戸徳川家と紀伊派よりだった会津松平家の争いはこの辺りで収めておかなくてはならなかった。

「余八麿をパリの万国博覧会に特使として派遣するように推したのは、決して手代木の言うようにあれを困難より遠ざけようとしてのことではない。闊達で物怖じしない余八麿なら異国人と交わっても充分に新しき知識を吸収し持ち帰るだろうと踏んでのことだ。そして日本に残って余八麿が持ち帰るであろう知識を花開かせる土壌を用意できるのはー余九麿、そなた以外にない」

「私が…ですか…?」

何を言われたのか理解できないという表情で余九麿は兄の言葉を口の中で反芻した。ようやく言葉の意味を掴んだ時、この滅多に感情を表に出すことのない少年の頬は薄っすらと紅潮していた。

"自分を必要としてくれている誰かがいる"

それは余九麿が生まれてから初めて味わうこの上もない幸福感であった。

「そなたの穏やかな性格は必ずや会津藩士達の心を開くに違いあるまい。私はそう、信じているー」

「…余九麿は兄上のお役に立てるのでしょうか?兄上はー私が会津に行くことをお望みなのですね」

「立つーぜひとも行って欲しい…水戸と会津の懸け橋になって欲しいのだ。幕府の基盤を固めてこそ帝を長州の奴腹めからもお守りできる。今こそ我ら兄弟が偉大なる烈公(斉昭)の志を継ぎ、幕府を建て直し、帝とこの日の本をお守りしようぞ!」

知らず力の籠った慶喜の声に驚いたか、鷗がバサッと飛び立った。

余九麿は小首をかしげてじっと慶喜の言葉に聞き入っていたが、やがて顔を上げると兄の顔を見ながらゆっくりと大きく息を吸って頷いた。

「ー兄上の…御為になるのでしたらー」

ぜひとも養子に行きましょう、とは言わない。真綿にくるまれたような、僅かに笑みめいたものをそっと口の端に上らせるのみであった。だが、その瞳には初めて誰かに必要とされた誇らしさが、はち切れんばかりに滲み溢れている。

おとなしい余九麿にしてみれば、それが精一杯の感情表現であった。

「余九麿、よくぞ決心をしてくれた…兄はそなたを誇りに思うぞ。会津に参って何か辛いことがあった時は必ず知らせるのだぞ?そなたにはこの兄がついておる、その時は何をおいても必ずそなたの元に飛んで行く」

「はい」

素直に頷く余九麿を慶喜は愛おしげに見つめていたが、ふと思いついたようにその懐から携帯用の筆と懐紙を取り出してさらさらとその上に書きつけた。

慶喜の手許を余九麿は息を詰めて見つめている。やがてー。

「ー同胞(はらから)に…呼びかけん我今ぞこそ菊と葵の…懸け橋たらむーどうじゃ?」

「菊と葵の…懸け橋たらむ…兄上の御心を詠まれたのですね?」

「うむ」

慶喜の手から歌を受け取った余九麿は、水茎麗しいその筆跡に視線を落とした。

「余九麿も…兄上の御心に叶いますよう会津と水戸の、そして朝廷との懸け橋になるべく精進いたしまするー」

「……」

「兄う…えっー?」

突然抱きすくめられて余九麿は言葉を失った。とっさに身じろぎをしたものの慶喜の広い胸に心地よさを覚えた。

『父上とはこんな感じなのだろうか?』

実の父である斉昭に親しく抱きしめられた覚えもない余九麿は、兄の胸の温もりに今まで感じたことのない安らぎを見出していた。

「……」

こつん、と頭を慶喜の胸に押しつけ、この上もなく幸せな気持ちで余九麿はそっと空を見上げる。

時代の不穏などどこにも感じさせない晩秋の空は、どこまでも澄んで青かった。

徳川余九麿11才。この千波湖のほとりから運命に翻弄される彼の数奇な人生が幕を開けたのだった。

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