慶喜の弟6
「それでは一ツ橋様は余八麿様の御身代わりに余九麿様を差し出せとおっしゃられますのかっ!」
弥兵衛は目の前の相手が一時期将軍候補であったことも忘れて気色ばんだ様子で口を開いた。
「身代わりなどと…私は弟達の性格に合った務めを勧めているつもりだが?余九麿とて年が明ければ12才…そろそろ水戸徳川家に生を受けた者としての自覚に目覚めてもよい頃ではないか…のう?どう思う、余九麿。そなたとて御三家に生まれたからにはもののふの長に連なる家系のこと。民草とは異なる務めがあることは承知しておるな?」
「は……い…」
切れ長の慶喜の瞳にじっと覗き込まれるとまるで魂を吸い込まれるような心地がする。余九麿はどぎまぎと小さな声で答えた。
「しかしお話があまりにも急でございまする…迎えに来られたその足で余九麿様を京にお連れになり、その後直ちに会津松平家へご養子に行け、などとー」
「だから私は命令しているわけではない、と言うたであろうが?こたびの件はただ養子に行けばよいというものではない。水戸と会津という幕府における二大勢力の結びつきをより強固にし、幕府の基盤を固めるための縁組なのじゃ。その懸け橋になる者は生半可な気持ちでは務まらぬ。もし余九麿にその気がないというのであれば無理にとは言わぬ。下手に失敗でもして両藩の間にしこりを残せば、幕府の揚げ足を取ることにもなりかねぬからの」
弥兵衛は不満げに口を開いたが、慶喜の見事な弁舌に二の句が告げず、むっりと黙り込んでしまった。
一方の慶喜は弥兵衛を黙らせたことなどさして問題にもしていないようだった。得意げな表情も見せず、いたって自然に手にした扇子を閉じたり開いたりしている。その視線は相変わらず余九麿1人に注がれていた。
余九麿主従が千波湖畔のこの好文亭に入ってから早一刻が過ぎていた。
長い間憧れていた兄に体面を果たした余九麿だったが、初めて会った兄は思いもかけない話を余九麿に切り出した。
"会津に養子に行って欲しい"
それが慶喜の、余九麿を呼び寄せた用件であった。
幕府、水戸、会津ー。慶喜の口から出てくる言葉はどれも規模が大き過ぎて夢物語を聞いているようだった。ましてや自分がその夢物語の一端を担うなどー。
正直なところ兄の話についていけず、余九麿が多少持て余し気味に兄と弥兵衛の顔を交互に見比べた時ー。
「話が少し難し過ぎたかの?どれ、今日はよい秋晴れだ。久方ぶりに千波湖にでも漕ぎ出してみようか。余九麿、そなた船には乗るのか?」
「…はい。時々ですが、余八麿殿がお誘い下さいますー」
余九麿の心を読んだようにいきなり話題をガラリと変えた慶喜は、席を立って窓辺に拠りながら、久しぶりに見る故郷の湖を満足気に眺めた。その背中を余九麿は戸惑った様子でじっと見上げる。
「船には慣れておけよ、余九麿。これからは世の中が広うなるぞ。あめりか、えげれす、ふらんすにおろしや、異国の者が続々と日本を目指して押し寄せる。日本の者も海を越えて異国へ渡る時代がやってくる…」
「……」
この兄はいったいどうしてこのような途方もなく大きなことを考えられるのだろうー幕府や会津のことだけで自分の頭はいっぱいになっているというのにー余九麿は呆気にとられてしばし言葉を失った。
「とりあえず、さしあたってはこの兄と水戸の湖に出てみぬか?」
「余九麿様…」
心配を隠せぬ様子の弥兵衛を安心させるように余九麿はそっと振り向いた。
「大丈夫だよ、爺ー」
そして彼は緊張を隠せぬ面持ちで再び兄の方へと向き直ったのである。
「御供させていただきまする…兄上」




