慶喜の弟11
☆
「だがあの時はああするより他に仕方なかった…」
慶喜は紫陽花に向かって言い訳じみた呟きをふと洩らしてみる。
「いくらそなたが私の弟とはいえ、正式な会津松平の養子であることには間違いない、あの時そなたを容保の元から取り戻していたら将軍と会津は朝廷に対して謀反の意図ありとみなされていた…会津に繋がる者は誰であろうと切り捨てなければならなかった。疑いをかけられるような隙を作ることは許されなかったのだ…喜徳、たとえそなたを犠牲にすることがわかっていても…私は徳川宗家を継ぐ者として、たとえ幕府は潰しても"徳川"の家まで潰すわけにはいかなかった…それではあまりに神君以来の将軍家に対して申し訳が立たぬーいや、それより何よりも私は自分の信念が影も形もなくなってしまうことを恐れたのかもしれぬな」
昔、初めて喜徳に会った時に語った信念は決して偽りではない。将軍になったのも、すべては帝と日本を守るためのことだった。しかし武運拙く薩長に帝を奪われて、将軍である自分の立場こそが争いの火種になってしまった時、みすみす日本を2つに引き裂いて諸外国に植民地として乗っ取られる口実を与えるよりは、と大政奉還をしたのである。
しかし薩長の言う通りに徳川家まで滅亡させてしまっては自らが彼らの言うところの"逆賊"だと認めてしまうことになりではないか。それだけは何としてでも避けたかった。
グイッと窓の木枠を掴んだ手に力が入ったその時ー。ザァーッと一陣の風が部屋の中を通り抜けた。
「ー!?」
思わず目を閉じた慶喜は、ガタンという音ですぐに目を開いた。
音の出処はすぐにわかった。窓際にあった喜徳の文机の上に乗っていた文箱が突風に煽られてひっくり返ったのである。
慶喜は慌てて窓を閉めると散らばった紙を集め始めたのだった。
全部集め終わったかに思え、ふと顔を上げた時、彼は喜徳の遺骸に堰き止められた1枚の紙を見つけた。
『もう1枚あったのか…やけに黄ばんだ古い文だの』
ゴワゴワした手触りの紙を拾い上げながら慶喜は何気なしにそれを開いたのだがー」
「……!?」
中に記されていた文字を見て、慶喜は凍りついたように手を止めた。
"同胞に呼びかけん…我…今ぞこそー菊と葵のかけ橋たらむ"
「ーこれはー?」
震える手で確かに見覚えのある筆跡を辿る。覚えがあるはずだった。これは慶喜が喜徳に初めて会った日に詠み、その後喜徳に送ったあの歌だったのだ。見間違うはずもなかった。
『ーどうして喜徳の文箱の中にこんなものがあるのだ?』
慶喜は動悸のするこめかみを押さえながら再度懐紙を見下ろした。
『あれは一生、裏切った私を許さないと…そう心に決めておったはず…私は考えあってのこととはいえ、あれの真っすぐな、責めるような目が恐くてずっと避け続けていたーそれが間違いだったというのか!?』
間違いではなかった。それが証拠に懐紙はくしゃくしゃに丸められて所々に破けた跡がある。今でこそ丹念にしわが伸ばされてはいるが、それは恐らく喜徳が何度か捨てようとしてどうしても捨て切れずにこっそりと文箱の底にしまい込んだものに違いなかった。
『憎んでいただけでは…なかったと…この兄を…?余九麿ー』
結局喜徳は兄を憎んでも憎み切れず、生涯慶喜への夢を捨て切れぬまま逝ったのだ。
彼の心の中には、初めて出会った時そのままの少年が住んでいた。
慶喜は今、初めて視界に表れたように喜徳の遺骸を見つめた。
「ー役目、大儀であった…」
慶喜はぽつりと呟いた。静か過ぎる部屋の中で自らの声のみがやけに響いた。ふいにー弟の顔を覆っていた白い布に手を伸ばしてめくってみる。今はもう冷たい抜け殻となったその頬にそっと触れながら、慶喜はまるで部屋の外にいる者達に聞き取られるのを恐れているかのように、声を押し殺して囁いた。
「…長いこと辛い想いをさせたの…?もうそなたは松平喜徳でいる必要はないのじゃ、余九麿ーそなたは徳川余九麿、我の弟じゃ…」
同じ目的に向かって進んでいた2人なのにどうして互いに分かり合えぬままいたずらに年を重ねてしまったのか?
幕末のあの嵐の中で、自分の取った行動を誤ったとは決して思ってはいない。ただそのことをこの異母弟に伝えてやれなかったことだけが悔やまれた。
「もっと早うこうして抱きしめてやればよかったのう、余九麿…抱きしめてやれたら…」
喜徳の死顔を見てこんな切ない、胸の締めつけられる想いをしないでも済んだのだろうか?
「ー」
日頃整い過ぎて人形のような、と謳われる慶喜の白皙に一筋の涙が音もなく伝わった。
あの日、江戸城で別れて以来、凍りついていた2人の日々が、慶喜の涙と共に流れ溶け出したようだった。
☆
これより後年、慶喜はその弟、昭武との間に3日と置かず書簡を通わせ周囲の人々によくもそんなに話題があるものだと言わしめたほどの仲の良さを見せた。
その他の兄弟達ともまめに交流を続けた慶喜ではあったがその中でただ1人、昭武のすぐ下の弟、喜徳のことに関しては頑ななほど生涯1度として語ろうとはしなかったという。
現在、慶喜が喜徳に送ったひとつの歌と、この兄弟の間を流れていた愛憎の存在を知る者はほとんどーいない。
完
「慶喜の弟」、最後までお読みいたたきまして誠にありがとうございました。
幕末物は自らのライフワークとなっておりますシリーズで、実在した人物からフィクションの人物、色々な視点から書いた話しをまだ数多く溜め込んでおります。折を見てアップいたしたいと思っておりますので、今後見かけました折にはまたどうぞよろしくお願いします。




