慶喜の弟1
幕末、水戸藩主徳川斉昭の19男として生まれた徳川喜徳は、武家の娘を母に持つため兄弟の中でも目立たぬ存在だった。父母の愛を知らず育った彼が憧れたのは、才気に満ち政の中心に立つ異母兄・慶喜のみである。
やがて慶喜に請われた喜徳は会津藩へ養子に入る。兄の役に立てる唯一の道だと信じて。
しかし明治元年、鳥羽・伏見で新政府軍に敗れた慶喜は会津勢を見放し、喜徳の心は大きく裂けたのだった。
「駒とて心はある」と兄に訴え、2人は決裂した。
後年、喜徳が病でこの世を去った日、その住処を訪れた慶喜は果たしてそこで、かつて自らが喜徳に贈った和歌が破かれた跡が継ぎ直され文箱に大切にしまわれていたのを知り、弟が抱えていた愛憎の深さに後悔の涙を落とすのだった。
1️⃣ あじさい
明治24年(1892年) 6月・東京
朝方から降り続いていた激しい雨がようやく小降りになったある梅雨寒の午後のこと。1人の男がここ墨田の片隅に建つ一軒の家の前で馬車から降り立った。
馬車はそれほど大きくない質素な二頭立てのものだったが、つけられた家の方はそんな馬車でさえも不釣り合いに思えるほどの小さな家であった。
男は年の頃、50才前後。痩型で炯々たる眼差しを持った鷹を思わせるような人物である。この年頃にしては珍しく颯爽と洋装を着こなしているのも道行く人々の目を引いていた。
だが、恐らくこの男の正体を見破れる者は皆無に近かっただろう。御一新以来、文明開化の世の中と騒がれているものの、テレビはおろか、写真入りの新聞でさえまだまだ定着していなかった時代である。ゆえに男はかつて自らが治めていた千代田の城にほど近いこの地にひっそりと足を運ぶことができたのである。
徳川慶喜ーそれがこの男の名であった。大政奉還と江戸城無血開城を行いその手で江戸時代に幕を引いた"最後の将軍"といえばわかりやすいか。
無血開城をして水戸、静岡へと謹慎蟄居した慶喜は後、政府に許されて華族の最高位である公爵の位を受け、現在は巣鴨に小梅邸という住居を構えていた。
若い頃から才子として慣らしたその風貌の上に幕末から明治にかけて吹き荒れた御一新の嵐の影は認めるべくもない。まるで見事に和服を脱いで洋装を着こなしたように、彼はかつての"将軍"の面影をきれいさっぱりと拭い去っていた。
やがて馬車を見送った彼は小さな家の門柱にかかる"松平"の文字にしばし目を留めたものの、無表情を崩すことなく玄関の格子戸を開けて家の中に入っていったのだった。
「兄上っっ!」
玄関に入った慶喜を迎えたのは11番目の弟である昭武の声にならない声だった。元は彼ら兄弟の生家である水戸藩主だったが、現在は長兄の嫡子にその座を譲って普段は江戸川の対岸、松戸の戸定の地に隠居として暮らしていた。弟の危篤を兄、慶喜から知らされ慌てて飛んできたのである。
「兄上、お待ち申し上げておりましたぞっ!手遅れにございました!徳は…喜徳は先刻みまかりましてございまする…」
昭武はそう言ったきり、言葉に詰まり号泣した。幕末に日本の全権大使としてパリの万国博覧会に出席するためにフランスへ渡った昭武は、かの地で"プリンス・トクガワ"と異名をとったほどの優雅で繊細な見かけをしている。慶喜とよく似てはいたが、昭武の方が線の細い顔立ちをしていた。慶喜の生母である登美宮について京より来た公家の娘を母に持つせいかもしれない。
父はかつて開国派でならした老中井伊直弼を向こうに回して戦った、御三家水戸藩主徳川斉昭。烈公という諡を持つ斉昭は早くから諸外国への危機感を持ち、鎖国状態にあった日本の開国の必要性を唱えていた進歩的な大名である。その一方で彼は風雅と数多くの女性達を愛したことでも名高かった。正室登美宮を始めとしその侍女4人、水戸藩家臣の娘を1人、合わせて5人の側室に男子だけでも21人の子供を産ませている。
そんな斉昭の進歩性と理知的な頭脳を一番色濃く受け継いだと言われるのが7男の慶喜だった。慶喜は長じるにつれ18男の異母弟昭武に自らに近い性格を見出し、気が合ったのかよく目をかけるようになった。あるいはいすれ自らの片腕に抜擢しようという考えがあったのかもしれぬ。
一見すると"線の細い貴公子"という印象だけで終わってしまいそうな昭武は、だがその容貌に似合わぬ豪放さを持っているという点で冷静沈着と言われる兄よりもむしろ父に似ていたのであった。
「……」
肩を震わせて泣いている昭武からそっと視線を逸らせた慶喜は、相変わらず無表情なまま玄関の式台の屏風の前に活けてあった紫陽花に目を留めた。
あまり陽の当たりが良くない所で育ったのだろうか。ほとんど色づいていない紫陽花の花は活けた花瓶の色に圧倒されてしまうほど見る者に儚げな印象を与えた。そしてそれはそのまま薄幸であったこの家の主人を彷彿とさせるものだった。
『ー喜徳…』
心の中に浮かんだ面影を振り切るようにそっと瞼を閉じた慶喜は、ふと落とした視線の先に1足の男物の草履が置かれているのに気づいた。昭武は洋装である。さていったい誰の物であるか?
「昭武、これは…?」
醒めた声で尋ねられて昭武は我に返ったらしい。グイッと涙を手で拭うと自らの視線をそれに重ねて答えたのだった。
「ああ…容保殿が駆けつけてくだされたのです。有難いことじゃ。御自身のお体も良くないというのに。わざわざ来ていただけるとは思いませなんだ…これで少しは喜徳も救われましょう。ほんの一時でも薄幸だったあれに親の愛を注いで下された義父上が見送って下さるのだから…」
「そなたが知らせたのか」
「はい。昨日、兄上より喜徳危篤の知らせを受けましてからすぐに。容保殿は今朝方お着きになられ喜徳を看取って下さったのです」
「……」
よく磨き込まれ黒光りのする廊下を滑るように歩き出した慶喜。昭武は兄を案内をする為に慌ててその後姿を追いかけた。
「こちらでござりまする、兄上」
昭武に案内されて入った一室は強い抹香の匂いに満ちていた。わずか10畳ほどの部屋は今朝方までは喜徳の様々な想いに満ちた居住空間だったに違いない。それが今や部屋の主が居なくなった事と凶々しい白さを放ついくつかの調度品によって張り詰めた静けさに満ちた空間に変貌していた。
敷居をまたいだ慶喜の瞳に入ってきたのはー細い煙をくゆらせている白い線香立てと窓から差し込んできた弱々しい薄日に照らされて鈍く光る魔除けの懐剣、白く真新しい布団とその上に続く白い布切れーその下には先ほどまで異母弟だったものがあるはずだった。
「上様…この度は……」
呆然と、と言うには少々醒め過ぎた表情で立ち尽くしていた慶喜の背後から、細くしわがれた声が遠慮がちに響いたのはその時である。
「ー容保か…久しいの」
肩越しに振り返った慶喜はやはり眉ひとつ動かすこともなく声の主に話しかけた。
松平容保ーかつての会津藩主で幕末の京都守護職であった男である。
「息災であったか?権現様(日光東照宮)の宮司となった旨は聞き及んでおるが…」
「は…いたみいりまする。旧家老の山川浩の尽力によりまして…今は代々の将軍家の御魂に日々お仕えさせていただいておりまするー」
それ以上、会話が続かない。無理もなかった。慶喜と容保の間に張り詰めた緊張は、あの幕末の事情を知る者であれば当然納得のいくことである。
24年前、京の二条城で大政奉還した慶喜は恭順の意を表したにも関わらず、朝敵とされて薩長軍と鳥羽・伏見の戦いを繰り広げる羽目に陥った。
結果は幕府軍の大敗。その後、大阪城まで引き上げてきた慶喜は江戸で巻き返しを図るべく、あろうことか側近であった容保やその弟で桑名藩主の松平定敬などのわずかな人数のみを率いてこっそりと船で江戸へ戻ってきてしまったのである。
現実的な物の考え方をする慶喜は大軍を率いていては巻き返しが遅くなり薩長軍に遅れを取ると思ったのであろうが、どんな事情があったにせよそれは将軍自らの敵前逃亡ー即ち幕臣、各藩士への最大の裏切りに他ならなかった。
義に篤いことで先の帝である孝明帝から絶大なる信頼を受けていた容保は"将軍家の意志には絶対服従である"という会津藩の家訓に縛られ泣く泣く慶喜に従って家臣を裏切ったのだった。あまりの苦痛のせいで大阪から江戸までの道中、容保はノイローゼ気味となり現実逃避の為に酒浸りの毎日を送った。
後に藩士達が後を追って品川の港に着いた時、容保は直接出迎えに行って彼ら1人1人の手を取って謝ったという。絶対君主制が罷り通っていた江戸時代にこれだけのことをしたのだ。容保の心痛は察してあまりあるものだった。
だがそんな血を吐く思いで尽くした容保を江戸に帰った慶喜は手酷いやり方で裏切った。江戸決戦の見込みなしと踏んだ慶喜は覚悟を翻し、一夜のうちに朝廷に恭順を決め込んだのである。恭順という手段を選んだ彼にとって、幕府最大の軍事力を持つ会津藩と容保はもはや邪魔以外の何者でもなかった。
邪魔者は切り捨てるのみー慶喜は容保の江戸城登城を即刻禁じ、自らは上野寛永寺に蟄居した。行き場を失い放り出された容保はその後、治領地会津へ帰国。やがて白虎隊の自決などで知られ凄惨を極めた会津戦争へと突入していく羽目になったのである。
目の前の容保は、その昔御所の女官達に騒がれた美貌はどこへやら、すっかり老け込んで生気のない姿に変わり果てていた。元々蒲柳の質ではあるが、げっそりとやつれた頬、落ち窪んだ眼窩、抜けているのではないかと思えるほど落とされた肩ーそれらのどれを取ってもこの男が慶喜よりたった2つしか年上でないとはどうにも信じがたかった。
『この男にも私にも歳月は同じように流れているというのにな…素直に感情を表せる者は幸せじゃ』
所詮この男と自分はどこまで行っても相容れることはないらしい。
そう思った瞬間、かつてよく容保を前にすると感じていた仄暗い感情の高まりが慶喜の心の中に蘇ったのだった。
「容保は新しき世となっても徳川家の忠臣じゃの。権現様を始め、歴代の将軍家はさぞお喜びのことであろう。余の分までしかと頼んだぞ。何せ余は権現様より続いた260余年あまりの徳川の世を断ち切った大不忠者だからの。申し訳なく顔向けもなく未だ日光の土を踏めぬ。そなたも御歴々にそうお告げされているのであろ?恥も知らずかつての敵達に入り混じるような余と顔を合わせてはならぬと…だから社交の場へも顔を出さぬのじゃ、な?」
「私は生来の口下手ですゆえ……」
「兄上、何ということを申されまするのか!」
言い澱み俯いた容保を残酷な喜びに浸りながら慶喜が眺めていた時ー意外な所から容保に助け舟が出された。
「せっかく容保殿が過去の確執を押してまで喜徳のために来て下されたというのに…喜徳の目の前で左様なことを…あまりにも情けのうございまする。これが泣いておりますぞ」
整った容貌をクシャクシャに崩して昭武は異母弟の枕元に座り込んだ。彼はまるで赤ん坊をあやすかのような口調で異母弟だったものに話しかけた。
「のう、喜徳…?そなたの自慢の義父上はこわっぱだったこの昭武の過ちさえも水に流して下されたのだよな?」
「過ち…などと…すべては弟君を思う兄のお気持ちから出たことでございましょう。昭武殿のお言葉があったなればこそ、この容保も後髪引かれる思いながら喜徳殿を水戸家にお返ししても大丈夫だという確信が持てたのでござりまする……」
「いや…あの時の私は水戸家を継いだばかりで思い上がっていたのです。喜徳がどんな思いで会津戦争を経て斗南藩の再興に尽くそうとしていたかということも考えていなかった…私があれを大事に思っていた気持ちに嘘偽りはない。だが私は、自分の代わりに容保殿の養子となったばかりに数々の不運に見舞われた喜徳に、その償いをしたいが一心で一方的によかれと思ったことを押しつけていただけだった。実家である水戸家へ帰ってくればそれで喜徳は幸せになれるのだ、私が幸せにしてやるのだと…とんだ思い違いをしていた。喜徳が過ごした会津での日々はそんな薄っぺらいものではなかった…そんなことを気づいたのもずいぶんと時が経ってからのことだったー」
容保はそれ以上否定も肯定もせず、ただ黙ってその切れ長の瞳を伏せた。
「……」
昭武の声は自らの想いに沈んでいくにしたがって次第に低くなり、ついに途切れたのだった。




