君が恋をするまで
「俺、浮気した」
ある日海晴は、恋人からそう告げられた。
彼とは利害一致の恋人関係だった。海晴もそれを理解していたはずだから、傷つくはずがなかったのだが。
なぜか彼から「別れよう」という言葉を聞きたくなくて、海晴は自身から彼に別れ告げた。
「いいよ、それでも。私のことは気にしないで。それなりに誰か捕まえて、それなりに幸せになるから」
恋愛下手で合理的な海晴と、異性嫌いの彼。
彼の「浮気」から始まる、恋人同士(仮)の関係の変化について。
幼い頃からずっと、自分に可愛げが無いという事には気付いていた。
何もかもに納得の出来る理由を求めて、非科学的な事は一切信じない。自分の目で見た物だけを信じ、自分の考えが一番正しいと思っているような、そんなどうしようもなく世界の狭い子供だった。
だからなのか、ひねくれている、というわけではないものの、全く魅力のない成長を遂げてしまい、感情もあまり表情に出ない。クールと言えば聞こえはいいが、悪く言えばただ笑顔の少ない可愛げのない女である。
だけど今は、自分のそんな性質に救われたのかもしれない。
「海晴、ごめん」
すでに見慣れた、大学の賑わう教室。授業開始を待っていた私の隣にやってきた藤北孝一は、授業の準備をしながらもそこに腰掛け、前置きの謝罪を感じさせない表情で何気なく言葉を続けた。
「俺、浮気した」
藤北くんとは、高校二年の頃からお付き合いを始めた。
きっかけは、同じ学校内に居た特に関わりもないカップルを眺めていた時に漏れた「理解が出来ない」という言葉を、偶然通りかかった彼が拾い上げた事だった。
浮かれた空気を漂わせていたカップル。どうして他人にそこまで心を預けられるのか理解が出来ない、という意味で呟いたのだが、彼はその意味を正しく理解したらしい。
俺もそう思う。
聞こえた言葉に振り向いた先で、カップルを見つめていた藤北くんは、どこか冷めた表情をしていた。
学年一位の頭脳を持つお堅い男、というイメージしかなかった藤北くんはやっぱり無表情で、それでもどういうわけなのか、その時の彼の表情はやけに強く私の中に残っている。
それから少しずつ接する事が増え、やがて彼の母親が異性を取っ替え引っ替えするような人だという込み入った話しをする仲にまで発展した。
彼は言った。
恋愛はしたくない。だけど俺は結婚をしようとは思っているから、恋人が必要になってくる。恋愛の延長線上にある「結婚」をするために、この感情の矛盾をどうにかしないといけない。
とても彼らしい言葉に、これ幸いにと私から解決策を提示した。
それなら結婚前提で私と付き合おう。私も恋愛はよく分からない。目に見えないものって、どうにも信じがたくて。全面的に他人に心を預けるなんて、絶対に出来ない自信があるから。
この日から、私と藤北くんは「恋人同士」になった。
互いに恋愛感情があるわけではない。
だからこそ私たちには自由があり、恋人になって三年にもなるのに手すら繋いだ事はない。休日は互いに「一人では行きにくい所」に行く場合以外には会うことはないし、誰と何をしていても口を出す事もない。
どうして恋人なの? 恋人でいる意味はあるの?
一般的にはそう思われるのだろうけれど、これは利害が一致しただけの関係であるために、そもそも「恋人」という言葉にすら違和感を覚えている。
だからこそ、彼が突然「浮気した」という言葉を吐き出そうとも、私が傷つくなんて事はありえないはずである。
「……へぇ」
思った以上に、思考が回らなかった。
恋愛嫌いの、いや、もはや女嫌いの藤北くんが、どこかの女の子と「浮気」をした。それだけの事実が、思ったよりも深く心に突き刺さっていた。
ズクリとした痛みの後に残る不快感。苛立ちとは違うそれが邪魔をして、次の言葉を探せない。
「後輩に好きだと言われたんだ。好意を寄せられているという状況は不愉快だったけど、経験も必要かと思って触れてみた」
いつもどおりの声音はまるで日常を語るかのように平淡で、何の感情も感じられない。
「だけど結局、異性に対しての『理想』なんてものが自分にもきちんとあったんだと知れただけだった。面白みもない」
それはつまり、何が言いたいのか。
理想を知った。その理想に、私が当てはまらなかった?
この話の着地点は、後輩の子に触れてやっぱり私との関係は違うなと思った、という所なのだろうか。
(……いや、そもそも)
私が藤北くんの理想じゃなかったから、なんだと言うのか。
普通の恋人だったならまだしも、私たちには「浮気」という報告すらも不要と言える。
彼がどこで誰と何をしようと、彼の中で感情の変化が起ころうと、私には関係が無いはずだ。
だからこそ、彼が何が言いたいのかを気にする必要もない。言葉の裏を考えなくていい。そんな事を考えて、私が傷つくなんておかしい話だ。
「それで分かったんだけど、俺、」
「藤北くんて、はっきりしないよね」
少しだけ、尖った口調になった。それに驚いたのか、彼も目を大きくして言葉を飲み込む。
私たちの距離は遠い。だからこそ、喧嘩をしたこともない。互いの怒りの沸点も知らないから、余計に訳が分からないのだろう。
「私たちの関係って、別に『浮気』なんて言葉が出てくるようなものじゃないでしょ。なのにあえて浮気なんて言葉を出したのは、一般的な恋人が『浮気』をすると別れるって分かってるからじゃないの?」
「……えっと……」
「つまり、藤北くんは別れたいんじゃないのかなって」
ただ動きを止めた彼は、考えが追いつかないのか言葉すらも発しない。
先に言われて驚いたのか、本当にそんなことを考えてもみなかったのか。
だけど藤北くんはもう女の子に触れられた時点で「恋愛嫌い」でも「女嫌い」でもないと分かったのだし、こんな不毛な関係を続けるメリットも無いはずだ。
利害一致の関係なのだから、それが無くなれば解消するのが通常である。
「いいよ、それでも。私のことは気にしないで。それなりに誰か捕まえて、それなりに幸せになるから」
「……いいよって、なにが?」
「だから、別れること」
彼と会話をすることはよくあるけれど、今日に限っては少しだけ理解力が下がっているらしい。
「藤北くんが異性に対して『理想』を見つけるなんてすごいことだと思う。その理想に合う人を見つけて結婚すれば、藤北くんが分からなかった事、分かるかもしれないよ。頑張って」
「いや、頑張るって……何を?」
「……どうしたの? 今日は少し要領を得ないね」
「海晴の思考が飛んでるんだよ。俺はまだ何も言ってないだろ」
「何も……? でも私、浮気したって言われたよ?」
「そこから飛びすぎだって言ってる。俺の言葉を遮って勝手に俺を決めつけて、強引に俺と別れたがってるじゃないか」
ちょっと来て。
そう言って引っ張られて、教室から連れ出された。特に友達が多いわけでもないために私は目立つことも無いけれど、頭脳明晰で有名な彼は視線を集めるのか、ちらほらと視線が寄せられている。
後輩の子、とは、大学の子だろうか。
ほんの一瞬だけ寄せられる視線からそんなことを考えて、もう関係のない話のはずだと首を振った。
胸の痛みもおかしな話。気になるのも、気にするのだって。
(これ、何なんだろう)
ずっとずっと、苦しいままだ。
「海晴は、俺と別れたいの」
暇さえあれば二人で並んで会話を楽しむ構内のベンチに座らされたかと思えば、彼はいつものように隣に腰掛けた。ただし今日は乱暴に、だけれど。
「……別れたいのは藤北くんでしょ?」
「だから、それがおかしいって言ってるだろ。俺がいつ別れたいって言ったんだ」
「浮気したって言うから」
「それがどうして『別れる』ってなる」
「私たちは利害一致の関係じゃない。だから、藤北くんが『理想』を見つけて他の女の子ときちんと恋愛する機会が生まれたのなら、私たちの関係は終わらせるべきだと思う」
深い溜息が、彼の薄い唇から漏れた。
うんざりしているかのような、苛立ちを滲ませた表情。どうしてか見ていたくなくて、そんな顔から目を逸らす。
「海晴はいつだって合理的だ」
「藤北くんもそうだよね」
「そうだよ。だから、後輩に触れてみたんだ。実験的に」
「良かったんじゃないかな。それで可能性が生まれたなら」
「俺の話を聞いてくれるかな」
「聞いてるよ」
「聞いてないだろ。可能性が生まれた、なんて言い出してる時点で、俺の言葉を決め付けてる」
言われて、はたと気がついた。
確かに私は、藤北くんの言葉を聞かないようにと遮って、まるで予防線を張るかのように自分から決めつけて完結させている。
直接言われる事を嫌がっているみたいなこんな一方的な会話は、今までの私ではありえなかった。
「……ごめん。そうだね、そんなつもりなかったんだけど……」
「謝罪は要らない。そうなった理由を教えてほしい」
「理由……」
どうして。それを考えても、うまくまとまらない。
「えっと……なんでだろう……。分からない。藤北くんが浮気したって言ったあたりから、あんまり藤北くんと会話したくなくて……」
「なんで」
「なんでって……どうせ別れるんならその先の言葉を待つ必要もないし、それなら私から切り出そうって、」
「それがおかしいだろ。――どうして別れるって思ったの」
「え、藤北くんが、理想を見つけたって言ったから」
「言ってない。理想が分かったって言ったんだ」
――そう、だったっけ。
思い出そうとしてもよく分からない。
「それでも。藤北くんだって、これからは女の子と接する機会だって必要だろうし、理想が分かったなら尚更、私って邪魔じゃない?」
「……ちょっとおかしいくらいに別れたがるね。なに、海晴も理想の男とか見つけたの?」
「私も、ってことは、やっぱり藤北くん、」
「今は海晴の話だろ!」
今までに聞いた事もない大きな声に、ついびくりと肩が跳ねる。
常に冷静な彼には不似合いなその声は、閑散とした周囲に広がり、余韻を残して消えた。耳に張り付いたそれは私の鼓膜からは剥がれる事なく、未だ変わらずこだまする。
怒りを孕んだ瞳。射抜くような熱を見つめ返したけれど、結局耐え切れずに自身の手元に視線を落とした。
「ごめん、大きな声を出した」
「別に……大丈夫」
「――海晴はなんで、そんなにも頑なに俺と別れたがるの。今のところ『浮気した』と『理想が分かった』って伝えただけだろ。俺は未だに女が嫌いなんだけど」
「え? でも、後輩の子が理想だって、」
「そんなこと言ってない」
ふう、と彼は再び、重たく溜息を吐く。
「手を、握ったんだ」
そしてぽつりと、まるで思い出すかのように、自身の手を見ながら口を開いた。
「好きだと言われたから、手に触れてみた。海晴とは一緒に居て楽しいと思えたし、たまに触れてみたいという感情さえ湧くこともある。だから女嫌いが治ったんだと思って、触れてみたんだ」
触れてみた。手を握った。その言葉にようやく、今の会話がどこに繋がるのかを理解した。
「……う、浮気、って……」
「うん? 恋人以外の女に触れた時点で、それは立派に浮気だろ?」
何言ってるんだよ、という目をしている藤北くんはどうやら、浮気に対するハードルが限りなく低いらしい。しかしそれなら、自身の母親に対する異常な嫌悪も理解できる。藤北くんの浮気メーターで測れば、取っ替え引っ替えの人なんて軽蔑の対象なのだろう。あるいは、そんな母親を見ていたからこそ、ハードルがぐんと下がったのか。
「まあ、触れてみて分かった事は、俺はやっぱり女が嫌いということだった。無理だ。俺には向いてない。気持ちが悪い」
「……そ、そっか」
「だけどそれならおかしいだろ? 海晴だって女だ。なのにどうして、海晴とは一緒に居て楽しくて、触れてみたいなんて考えるのか」
「それは藤北くんが、私の事を『異性』として認識してないから……」
「いや、海晴に男が出来たと知って、やっと分かった。俺は海晴に恋をしているんだよ」
いつものように、いつもと変わらず、なんてことない会話をするように。藤北くんはあまりにも平淡に、さらりとそんなことを言った。
恋。恋と。
一瞬聞き間違いかと思える程には、躊躇いも感じられなかった。
「正直ショックだ。海晴があいつみたいに浮気をしていたなんて」
「え! 待って、ちょっと言われてる意味が分からなくて……」
「最悪だとか、最低だとか、やっぱそういうのは思うよ。それでもどうしても俺は海晴と別れたくない。その男を諦めてほしいとも思う。あいつみたいに軽蔑なんて出来ないし、別れるなんて事も考えられないから、妥協点を探す話し合いをしないか」
「いや、そうじゃなくて……え、藤北くんは、私の事が好きなの?」
ぎゅうと絞られていた苦しみが、いつの間にやら消えていた。それどころか今はすっかり軽くなり、まるで踊ってでもいるような心地である。
期待をしている。私は今、藤北くんからの良い返事を、明確に待っている。
「ああ、好きだよ。感情とは不可解なもので、いつの間にやら好きになっていたらしい」
相も変わらず平淡な声。それなのにどうして、特別に深く響くのだろうか。
「う、あ、え、あの……」
「海晴?」
「私、浮気とか、してないから。それだけ、言っておく、けど……」
「……うん? でも、じゃあなんで妙に別れたがってたんだ」
「それは、さっきも言ったけど、浮気したって藤北くんが言ったから、別れ話なら私からした方がいいやって思って」
「なんで」
「……会話、したくないって思ったの」
「だから、それがなんで」
「さっきからなんでなんでって……そればっかりだね」
「聞かないと分からないだろ。会話はコミュニケーションの一つだ。怠ればこじれる」
彼らしい答えであり、とても理にかなっているために、返す言葉も見つからなかった。むう、と言い淀む私を見て、まるで追い打ちのように「海晴だってそう思うだろ」と言われてしまえば、もう答えるよりほかはない。
そもそも、答えても良いことだ。ただ、言難いだけで。
「……藤北くんの口から、別れようって聞きたくなかったから、私が終わらせようって思っただけ。……浮気したって聞いただけでも胸が痛かったのに、これ以上は無理だって。……ごめん、決めつけて」
とても小さく言ってみれば、分かった、とだけ同じように小さく返ってきた。
そして「じゃあ別れなくていいな」とも。
「それならこの話は終わろう。俺と海晴はこれからも恋人だ。それでいいだろ」
「あ、うん。はい」
「結婚前提だからな。今はそれだけが救いだよ。高校生の頃の俺を、よくやったと褒めてやりたい」
脱力したようにベンチに深くもたれかかった藤北くんは、そのまま空を見上げて、珍しく少しだけ口角を持ち上げた。
「海晴の警戒心が強い事も、思考が面倒くさい事もよく理解してる。その上で、俺に心を寄せてくれるまで待つから、ゆっくり俺を意識してくれたら嬉しい」
「私が藤北くんに恋をするのは決定なの?」
「俺が恋人なんだから、俺以外に恋をする可能性なんかないだろ?」
ほんの少し鋭くなった瞳が、するりと空から落ちてくる。その絡め取るような色になんとなく逆らえなくて、自然と首を縦に振っていた。
「――ゆっくりでいいんだ。焦らないから。俺のこと、好きになって」
なんとなく、予感がした。
藤北くんのことを好きになりそうな、そんな予感だ。
遠くない未来には本当の恋人になるんだろうなと、そんなことを思いながらも「結婚前提だからな」という藤北くんの独り言のような言葉に、静かに頷いた。
以前書いた時には続編で本当の恋人同士にしましたが、今思えばこの距離感(自覚藤北→→→←無自覚海晴)を長く続けてほしいので、以前の続編は出さないかもです。(その代わり別の続編が出るかもしれません)




